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【ショートショート】獣の家

 そういえば、不動産屋のおじさん、何か言いたそうにしていたな。
 リビングでお昼寝中の、生後6ヶ月の娘を見つめたまま、マチコはカウンターキッチンでで立ちすくんだ。
 いるはずのない、白い何かが、すうっと視界の端をかすめたのだ。
 昨夜も、そう、耳元で確かに犬のうなり声を聞いた。くずった娘を寝かしつけた直後だったので、夫のイビキと一緒に舌打ちで流したのだが、多少寝不足でも、覚醒している今は、恐怖が勝っていた。
 秋の夕日がリビングに差し込みはじめた。カーテンを引かないと、と思っているのに動けない。
 そこに、玄関のチャイムが前触れもなく割り込んだ。
 娘の手が持ち上がる。
 まずい。
 マチコは、玄関に飛び込んだ。
 ドアガードだけは確認して、そぉっと開ける。背中から、娘のくずる声が聞こえた。
「何ですか」
「どうもー。〇〇新聞ー」
「いりません」
 ひどい人相になっていることは認識していても、愛想笑いができる状況ではない。娘のぐずり声が大きくなった。
「元気なお子さんー」
「失礼」
 ばたん、がちゃ、(うるせえよ)とドアを閉めたとき、マチコは娘の声が消えていることに気づいた。
 寝た? いや、あれは遊んでやらないとダメなやつのはず。
 思いながら、そっとリビングの様子を窺った。
 そこにはー。
 床にうずくまる半ば透けた白い中型犬、そしてそれに上機嫌でのしかかる娘がいた。
 娘と目が合う。満面の笑み。
 いやそれちがうから。
 犬らしきものがこちらを見る。居心地の悪そうな、助けを求めるような垂れ目。
 あんた何してんの。
 それなりの事情があって「出てきた」のだろう。しかしタイミングと相手がー。
 悪かったのよねと、低い姿勢のまま、マチコは思考した。夕食の準備はまだ終わってない。
 ごめんね。もうちょっとお願い。

 
 

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