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「ラビットイヤー」第2話

 結局、そのひと晩でポリンは博士の秘書をする羽目になった。
 思い返せば、ポリンが勝てるチャンスは、先ほどの一回限りであった。ポリンが6のゾロ目をだしたあとに、博士はあっさりと5と4の目を出し、「ジャックポット」とつぶやきながら、9を消した。
「君のボスはどこだ? 君をヘッドハンティングすることを伝えなければ」
 博士が席をたったあと、ポリンはたまたま席に残っていたコーラをうつつとなく眺めていた。酒が弱い自分がすこし接客に入らなければならないときなどは、自分もこのコーラで誤魔化してきた。本当にこんな人生から抜け出せるのであろうか。離婚から10日足らずのこの急展開がただ怖い。
 天井から垂直に立っているポールが妙に他人行儀に映った。
 キャメラとも離ればなれになってしまうのだろう。
 いや、もう2ヶ月もすれば、キャメラはスウェーデンに行ってしまうから、別れる時期が早まっただけなのだけれども。
「ポリン」
「はい」
 すぐ背後から声がし、咄嗟に返事をした。
「お、いい返事だ。今すぐ出るぞ」
「えっ、今?」
「今度はすぐに返事しないんだな。ママと話してきて、君は今晩から私の秘書だ」
 きょとんとしているポリンに構わず、博士は続けた。
「ぼーっとしている暇はない。さっさとこの店を出よう」
 ふりかえると、皆がポリンを眺めていた。
 当然、事態が飲みこめていない様子だ。
 バアにくる客のほとんどが出張でくる外国人たちである。
 たとえその客のひとりにたまたま気にいられたとしても、本気で想ってくれる男なんているわけがなかった。しかも、そんな客のとりあいでの、女同士の喧嘩も珍しくない。10日足らず働いただけでこんなくだらない世界から救ってくれる人と出会えたのかとおもうと、逆にそんな幸運が怪しかった。
 キャメラが駆け寄ってきて、ポリンの手を握って言った。
「ねえ、博士にジャックポットで勝ったの?」
「いや、負けちゃったけど」
「そうだよね。じゃあ、なぜ博士はお姉ちゃんを連れて帰ろうとするのかしら」
「よくわからないけれど、秘書になれって」
「秘書?」
「うん。それよりもママは?」
「大金を握って、お姉ちゃんを見ているわよ」
 ママの方に目をやると、たしかに手には100ドル札の札束があった。
「キャメラ、日本人って優しいんだよね?」
 こう訊ねると、怖がりの自分の背中を押してくれるかのように、キャメラはやさしく抱きしめてくれた。ポリンは涙ぐみながら、力強くうなずき、裏の部屋に着替えにいった。
 店を辞しても、外は未だに豪雨であった。
 しかしポリンの目には見慣れた夜景がまったく違って映った。ついこの間まで、夫とそれ違い、ずっとこのような不幸な生活をしていくのだと己の人生を嘆いていた自分が嘘のようである。
 ポリンは雨のなか、道むこうに停車しているトゥクトゥクに向かおうとしたが、博士がそれを制し、傘をポリンの上にかかげた。
「どうせ濡れちゃうのに、なんで」
 と訊ねると、博士が、
「濡れたとしても、今の身体を気遣ってやることは大事だよ」
 と答えてくれた。
 相合傘が意味をなさない大雨であったけれども、ポリンはふたりでびしょ濡れになっていくこの時間が嬉しかった。
 たしかに濡れても、ふたりで傘はさしてゆかなくては。
 トゥクトゥクにポリンが乗りこもうとしたとき、博士専属のドライバーなのだろうか、不安なポリンを察して「この人はたしかな人だから、心配することない」とクメール語でそっと耳打ちをしてくれた。顔に火傷のあとが大きくあるが、やさしい目をしたクメール人であった。
「ここら辺にスカイバアはあるかね?」
「ある」
 とそのドライバーはぶっきらぼうな日本語で博士に返事をしていた。
 数分ロイヤルパレス方向にトゥクトゥクを走らせると、LE MOONというスカイバアがあった。
 一階がホテルのフロントになっており、三階まではエレベーターでのぼれた。
 エレベーターをおりて左に折れると、途中に巨大な鏡があり、そこにポリンと博士の姿が映った。
 凸凹の身長差が恥ずかしかった。
 会うときには毎回ハイヒールをはこう。
 ポリンはそのようなことをうつつとなく考えていた。
 屋上のバアは屋根もしっかりしており、スコール越しにトンレサップ川を眺められた。
 バアの壁には印をくんだような巨大な手が、橙色を背景に緑色で描かれている。
 たしかな幸せの予感はあるものの、実感が追いついてきていない。
 しかし、それも徐々に噛みしめていけるようにおもえた。
 そのまえに、どうしても博士に訊ねておかなければならないことがある。
「あの、なんで私だったのですか」
「なんでって?」
「いや、他にも綺麗な女の子はいたし」
 こうポリンが訊ねると、
「お酒は飲むのかい?」
 と答えをはぐらかされた。
「私は赤ワイン」
「赤ワイン?」
「いつか飲んでみたかったの。こういう場所で」
「初めてか、それはいい。私はヤマザキのシングルオンザロックをいただこうか」
 リバーサイドには、様々な国旗が立てられてあった。
 夜の雨風のためか、今は旗が外され、無数のポールしか立っていなかったが、これから博士と諸外国に仕事へ向かうこともあるのかもしれないと妄想した。キャメラにもスウェーデンで会うのかしら。
 一緒にいて恥ずかしくないように、スーツも妹たちから地味なやつを借りなくては。
 無数に並ぶポールを手前から目で追うと、すこし向こうにロイヤルパレス宮殿のまえで光り輝くタワーが視えた。
 あのタワーの下には、どんなに辛い日でも祈りを奉げつづけてきたパグダがある。
 暗澹たる気持ちで歩いていた先週でさえ、祈りを欠かさなかったちいさなパグダだ。
 ひょっとしたら仏さまが自分を救ってくださったのかしらとポリンは思った。
 今度は博士もつれて、また祈りを奉げにいこう。
 そうおもった矢先、博士に耳をつままれた。
「ラビットイヤー。なかなか君を発見できる男はいないとおもうが、強いてわかりやすく言うならば、これだな」
 と言って博士は微笑している。
「ラビットイヤー?」
 ポリンが訊きかえすと、
「そう、ポリンの耳はうさぎみたいに上に伸びているだろう。そういう耳の女性は賢いんだ。もっとも神門をつまんで、もう少し上に引っぱるクセはつけたほうがよいがね」
 こう博士は答え、耳のツボのひとつをつまんで、さらに上に引っぱった。
「痛い」
 しかしイヤな痛みではなかった。

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