『男性における道徳』稲垣足穂 │ 中央公論社
稲垣足穂の道徳觀で目をひくのは、曖昧眼鏡すなわち縁なし眼鏡を認めぬ点ではないだろうか。仮にキリストが曖昧眼鏡を身につけていたならば、ここまでカトリックも拡がらなかったであろうと足穂は視ている。
一方、浅田次郎の『天切り松闇語り』にでてくる目細の安吉親分は曖昧眼鏡をしながらも、男性における道徳の塊のような藝が小説の随所にみられる。
ちなみに私は金子眼鏡でもとめた限りなく曖昧に近い縁あり眼鏡を愛用している。
まあ、男性における道徳という視点で考えれば、眼鏡の奥底に光る眼力があっては話にならない。眼力とはいわば人を操作したい願望の顕れに過ぎず、若いときはそれで結構だが、ある程度、道徳を問われる年齢になっても眼から力が抜けぬのは修羅場をくぐらずに生きてこられたのだなと私などは觀てしまう。
そんな野暮な世界への入門記事はこちらに草しておいた。
兎にも角にも、利き目がわかったなら、その眼力を弱められなければ、男性における道徳ははじまらない。では道徳を感じる眼とはどのようなものであろうか。
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