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「ラビットイヤー」第1話

 ジャックポット博士の噂をポリンが訊いたのは、その晩のことであった。
 イオンから帰ってきたキャメラが濃いアイシャドーをひきながら、ジャックポットで無敗の男がいるというのだ。
「そんなの出鱈目よ」
「でも、博士は無敗なの」
「信じないわ」
「お姉ちゃんもやってみればいいじゃない。ここ数年、ジャックポットで誰も勝っていないんだから」
 キャメラのバアでは、ジャックポットなるゲームが夜な夜なバカみたいに繰りかえされ、客の飲酒量を強引に増やしていった。その客のなかに、神がかっている東洋人がいるというのである。
「ジャックポット博士か」
 キャメラは元から長い髪にさらにウイングをつけて、髪先を巻いている。
 おとぎの国から逃げてきたばかりのペルシャ人形みたいであった。
 自分だけが結婚に失敗し、今はすぐ下の妹たちとここプノンペンで同棲。ご飯も食べさせてもらっている現況がポリンは恥ずかしくて仕方がなかった。
 木材の違法販売で夫が逮捕されたのは、つい先週のことである。
 週の五日以上は家を留守にし、ひたすら地方に木材を仕入れにいく日々を夫は送っていたため、新婚でありながら、ポリンはひとりぼっちであった。電話しても繋がらぬことが増え、気がつけば1日に100件以上も夫の携帯電話に不在着信のマークをつける日もでてくる始末。あきらかに自分の異常さは理解していたものの、かといってどうしてよいかポリン自身にもわからなかった。
 朝から晩まで泣く日々がはじまり、眼をいつも腫らしていた時期が半年続いた。
 離婚の決意をしたのは、地方に女がいると知ったときであった。
 薄々は勘づいていたものの、あえて見ぬふりをしていた日常に、突然、終止符が打たれたのである。朝一番に女が尋ねてきて、夫は自分のものだと主張してきたのだ。いかにも気の強そうな厚化粧の嫌な女であったが、それ以上に目だけを腫らした化粧っ気のない自分が惨めであった。
 そもそも他に女がいることは、結婚する前からわかっていたことではあった。しかし、この国では最初につきあった男と結婚せぬ女は蔑まされてしまう文化が根強く残っている。結婚すれば、夫は変わる。結局、そう信じてきた自分の世間知らずぶりが露呈しただけの年月を過ごしただけであった。
 女がやってきた晩、ポリンは夫を責め、離婚の意思を告げた。
 意外にも夫はサインを拒否し、
「ハニー、違うんだよ」
 とおろおろし、泣き始めた。
 泣きたいのはこっちであったのに。
 結局、夫はそのまま数日間、家を留守にした。
 こんな地獄の生活がいつまでも続くのだと絶望していた矢先、夫が逮捕されたという一報が届いたのだ。女のもとに逃げたとばかり思っていたが、夫はどうも仕事をしようとしていたらしい。
「あのクズ男が出所してきたら、問答無用で離婚してやる」
「は? 逮捕されたんでしょう。今すぐ離婚すればいいじゃん」
「したいけど、あいつ、絶対に離婚届にサインしないって散々言ったでしょう」
「バカね。伴侶が罪を犯した場合、一方のサインだけで離婚はたしか成立するんだよ」
「キャメラ、それ本当?」
「結構、有名な話だとおもうけどな」
「そうなんだ。でも、お金が……」
 夫と別れるということは、収入がなくなるということも意味していた。
 結婚まえまではフットボールの試合を賭ける会社で接客をしており、客が勝ったときなどは気前よくチップをくれたものなのだが、法律が厳しくなり、その会社はとうに倒産している。ギャンブル好きな国民性のため、財を失う者が増え、結局は窃盗が増加してしまうというのが法律改正の理由であった。
「うちの店、紹介しようか。つなぎとしてはよい店だとおもうよ」
 キャメラの仕事先は118通りのリバーサイド近くにある@Officeという外国人向けバアである。キャメラはそこでポールダンサーの仕事をしていた。天井から花びらのようにクルクルと肉体をくねらせて降りてくる姿は、女のポリンから視ても妖艶だ。
「でも、キャメラみたいに踊れないし」
 あの長い脚とクメール人離れした曲線美を見せられては、とても同じ舞台にあがる気になれない。妹に栄養を全部とられたのか、ポリンの身長は155cmにも満たなかった。妹に勝てそうなのは、英語の発音くらいしかない。妹の舌はあまりに長過ぎてしまって、うまく歯茎を押せないのだ。
「あら、ダンサーじゃなくてもいいじゃない」
「接客なんて、もっと嫌よ。西欧人は大き過ぎて怖いもの」
「じゃあ、お姉ちゃんはカウンターのなかで酒をつくっているというのはどう? そりゃあ、バーテンダーだから給料はそこまでじゃないけれど、その分、危険はないわ」
「でも……」
「一日だけ体験してみれば。博士にも会えるかもしれないじゃない」
「それにね」
「それに?」
「万が一、お姉ちゃんが博士にジャックポットで勝つようなことがあったら、博士のあの神がかった運気をごっそりいただけちゃうかも」
 キャメラは無邪気に笑っていた。
 夫の逮捕からはじまり、怒涛の一週間が過ぎた。
 そのあいだに、離婚と就職ができたそうなのは大きかった。
 
 
 雨季はプノンペンに限らず、客足が遠のく。
 日本のODAがはいり下水整備がかなり改善されたものの、未だプノンペンの排水環境はよいとは言い難い。通りが膝下までの水たまりだらけになるのも、珍しいことではなかった。しかし今のポリンにとっては、その客の少なさがなんともありがたかった。
 博士と初めて会ったときも、外は豪雨であった。
 のんびりとワイングラスの手入れをしていたところに、
「なあ、君。そこのゲームをとってくれないか」
 と声を突然かけられたものだから、ポリンはびっくりしてワイングラスを落としそうになった。いつの間に来店したのだろう。男は紺色の着物のようなもの姿であった。作務衣というらしい。帽子は真っ白なパナマ帽である。
 キャメル曰く、博士はいつもその井出達なのだそうだ。
「え、私?」
「そうだよ、君がポリンだろ」
 微笑する男の背後にキャメラの姿があり、こちらに目配せしている。
「あら、貴方が噂のジャックポット博士なのね」
「どうも、そうみたいだ。しまらない名前だから、あまり好きではないんだがね」
「じゃあ、本名はなんて言うの。私はそっちで呼んであげる」
 博士はゆっくりと微笑し、首を横にふった。
 カウンターの棚からポリンはジャックポットをとりだすと、「グッドラック」と言い添えて、博士にそれを渡した。異様に長い指でそれを受けとると、博士は「オークン」と礼を言い、女たちの群れへと消えていった。
 なんて女性的な指をしているのだろうとポリンはおもった。
 この豪雨だ。他の客はしばらく来ないであろう。
 ポリンは化粧室に寄り、自分の顔を鏡で見た。
 すっかり眼の腫れもひき、一週間まえとは別人の別嬪ぶりだと思う。化粧室をでたら、博士の席に行ってみようとおもった。仕事も暇だろうし、何よりその神がかり的な強さを拝みたい。
 化粧室の扉をあけると、すでに博士のまわりにはすでに二十名近くの女が群がっていた。
 いつもは軽蔑する景色ではあったが、今宵だけはその輪に加わりたかった。
 背伸びして様子をみたが、ジャックポットはまだ始まっていなかった。
 女たちが博士のスマホを見ては、次々と口をおさえて爆笑している。
「な、本当だっただろ?」
 自慢げに話す博士のスマホには、巨大なペニスを神輿でかつぐ日本人の画像があった。
「なんでクドーが神なのよ」
「というより、クドーが人間より大きいなんて」
 あまりに女たちが「クドー」を連発するものだから、博士も気になったようで、
「工藤がどうしたって?」
 と訊ねる始末である。
「クドーはクメール語でペニスのことよ」
 キャメラがこう言って笑うと、
「それはよい話だね。日本は工藤さんだらけだよ」
 と博士は微笑した。
「クレイジー。そんな可哀想な名の人がいるわけない」
「本当だって。誰かググってくれ。ミスター工藤がすぐに見つかるさ」
 勤務中、スマホはママに預ける約束であったから、誰ひとり工藤を検索する者はいなかった。メッセージが届いているかチェックするだけで、一回五ドルを店に支払わなければならない。たしかに勤務中、客を無視してスマホをいじるのはよくないとはおもうが、この店のスマホ管理システムもバカげている。
「まあ、しかしアレだな。君たち、クドーの元気がない男に金は貸さないことだ」
「どうして? クドーとお金が関係あるの?」
 とキャメルが楽しそうに聞いている。
「もちろん。どんなに落ちぶれても、クドーさえ元気なら男はどうにかなる」
「そんな話、聞いたことない」
 女たちが盛りあがる。
「あと抱くたびに射精してしまう男もやめときな。中国では有名な話なんだけれども、歴代の皇帝のなかで秦の始皇帝だけがこの教えを守らなかったから、奴は意外と短命だったみたいだね」
 クドーの話題で盛りあがる女たちを尻目に、ポリンは、
「品がないわね。プノンペンでは今夜はロマンチックキスデーなのよ」
 と話題を変えた。
 はやく博士のジャックポットが見たかった。
 これ以上、クドーで盛りあがっても仕方がない。
 しかし女たちの視点がいつの間にか一斉にポリンに集まってしまい、ポリンは自分の発言にハッとした。
「ほう。ロマンチックキスデーなんて、洒落ているじゃないか」
 博士も話に喰いついてきたことで、ポリンはさらに動揺した。
「あ、いえ」
 顔が赤くなっていくのが自分でもよくわかる。
「よし、今晩の私にジャックポットで勝ったご褒美は、キスに決定だな」
「えゝ、いらないし」
 次々に女たちはこう口をそろえて笑った。
 兎にも角にも、話題が変わったのでよしとしよう。
 ポリンはいよいよジャックポットが拝めると胸が高鳴なった。
 結局、ポリンが見た光景はキャメラから聞いていた以上のものであった。
 博士がサイコロをふっているというより、サイコロが博士の身体を道具として目をだしているとしかおもえない景色である。
 ゾロ目で消せるものはほとんどゾロ目をだして消し、7や9のような数字に関してもサイコロに細工がしてあるかのような消え方をしていった。実際、「サイコロがあやしいわ」と言った女がいて、途中、店側がサイコロを変える場面があったが、それでも博士の勢いは変わらなかった。
「なんでそんなに強いの!」
 あっという間に負けた女が嘆くと、
「昔、勝利の女神とキッキルーをしてね」
 などとわけのわからないことを口走り、またサイコロをふりはじめた。
たった二杯のアンコールビールですでに、二十名以上の女が敗れている。負けた女たちのなかには、その神がかり的な強さに飽きはじめ、カウンターにもどってしまう者も少なからずではじめていた。
 そしてもう10分経った頃、気がつけば博士のまわりから女は去り、ポリンしか残っていなかった。ゲームで1勝もできないのでは、チップにも飲み物にもありつけない。女たちの心情もポリンにはよく理解できた。
「お、君もやるかい? アイリンだっけ」
「ポリンよ」
「それは失礼。クメール語は日本人には発音が難しくてね」
 のちにこの晩の積極性をふりかえると、ポリンは自分自身でも不思議であった。
「見ていたからだいたいの流れはわかるけれど、ルールを教えてもらえるかしら?」
「ほう、初めてなのかい?」
「えゝ」
「見ての通り、ふたつのサイコロを転がして1から9までの数字をランダムに消してゆく運だめしのゲームでね。各々のサイコロが出た目、あるいは合計の数を消すことができ、最後の数を消した者が勝ちなわけさ」
「えっと、例えば、
 
        ⚂ ⚃
 
 の目がでた場合、消せる数字は3と4、そして合計の7ってことかしら」
「そういうこと。ポリンは賢い子だね。いずれの数字もすでに消えていたのなら、サイコロをふるターンが相手に移るだけだよ。簡単だろう」
 こう言うと博士がポリンにサイコロを渡してきた。
 よく考えたら、サイコロを持つのは生まれて初めてのことであった。
 ナガホテルのカジノでは、今宵もこのちいさな立方体が振られ、法外な額の金が動いているに違いない。先月はひと晩で40万ドルも大勝ちした中国人の女がいて、カジノ側のキャッシュが足りなくなったという噂話をポリンはうつつとなく思い返していた。VIP客には連れの分のエア代もカジノ側が持つという。逆に言えば、足代をだしても充分に利益がでているということなのであろう。
 ポリンの生涯初めての目は、
 
        ⚀ ⚀
 
 であった。ポリンは1を消すと、サイコロを博士に渡した。
 博士は「初めてがゾロ目か」と微笑しながら、アンコールビールをひと口飲んだ。
「ゾロ目って?」
「あゝ、同じ数の目がでることをゾロ目って言うんだよ」
 と言いつゝふった博士の目もまた、
 
        ⚀ ⚀
 
 であった。ポリンが2を消した博士をにらみつけ、
「わざと?」
 と訊ねると、博士は、
「たまたまをわざとにするのが趣味でね」
と答えた。
「嫌なひと」
「そうかい」
「そうよ、だってこんなにも運がよいんですもの」
「でも、運と才能は反比例するからね。それだけ私には才がないということなのかもしれないよ」
「反比例?」
「そう。私の経験上、才能に恵まれている者は等しく運が悪い」
「そういうものかしら」
「だから才がなければないほど他力で生きられる。で、賭けるのかい?」
 博士がアンコールをあげて言った。
 ポリンが敗れたら、ビールをおごれということなのだろう。
「いいわよ。もし私が勝ったら?」
「そんなことはまずないとおもうけれど、ポリンは何が欲しいんだい?」
「やってみなくてはわからないでしょう。私はハサミかな」
「ハサミ?」
「うん。将来の夢なの、美容室をひらくことが」
 と言って、ポリンは2回目のサイコロを投じた。
 サイコロには若干、博士の手のぬくもりが残っている。
 
        ⚂ ⚀
 
 ポリンが3を消したあと、
「おっ、モイ・ピー・バイだね」
 と博士が下手くそなクメール語で、数をかぞえた。
「で、賭けるの?」
「初めてのジャックポットでハサミを賭ける女か」
「クレイジーかしら」
「いや、おもしろいよ」
 サイコロのぶつかる音がジャックポットの木枠のなかでした。
 
        ⚁ ⚁ 
 
 博士は再びゾロ目をだし、4を消す。噂通り、ゾロ目でできるだけ消す気らしい。余裕の現れなのか、それともそのようにしなければならない小細工を仕込んでいるのか、ポリンにはわからなかった。
「ねえ、プノンペンには何のお仕事で来てるの?」
 バアで働くようになってから、相手のことが気になるというのは初めてであった。
「仕事というよりは、ひどい弟子に騙されて、ここにやってきてね。まあ、職業はと聞かれれば、茶人になるか」
「茶人?」
「そう。抹茶を点てて、人に美味しく喫んでもらうのが仕事だ」
「ふうん。それはお金になるの」
「今日はロマンチックキスデーなんだろう。野暮な質問はなしだ。私が勝ったら、キスもつけ加えるというのが今宵はいいな」
「ロマンチックキスデーは私のただの創作。正しくはビキニデーだから、あなたが勝ったら、ビキニをはいていいわよ」
「あれ嘘だったの? それはやられたね」
 博士の驚きぶりに、ポリンはおもわず爆笑した。
「しかも私がビキニをはくのかね?」
「私はビキニをはかないわ。だって泳げないんだもの。一回だけホテルHimawariのプールに行ったことがあるけれど、プールサイドにつかまって一往復しただけ」
 キャメラが日本人と付きあっているとき、一度だけプールに連れていってもらった。日本にいる嫁と子どもを整理し、プノンペンに来た初老の男で、いつもハンカチを二枚持ち、一枚はバンダナのようにおでこに巻き、もう一枚は常に右手でおでこをふいていた。数年こちらに住んでいるというのに、クメール語はもちろんのこと、英語もからきしだったので、妹がどうやって男とコミュニケーションをとっているのが不思議であったものの、キャメラは無邪気にその日本人のことを「チンちゃん、チンちゃん」と慕っていた。男が何度も「クレヨン、シンちゃんだよ」と教えても、最後まで妹の発音は直らなかった。
 そんな妹も再来月にはスウェーデンに嫁に行く。プノンペンに遊びに来ていたスウェーデン人の富豪と偶然出会い、互いに恋に落ち、そのまま結婚するという文字通りのシンデレラストーリーを歩んでいる。
 ポリンがキャメラのことを考えていると、博士はおもむろにサイコロを渡してきた。
 人生にそう転機というものはないであろう。
 賭けにでるとしたら、今宵だ。
「ねえ、やっぱり私、ハサミだけじゃイヤよ」
 ポリンがこう言うと、博士は嬉しそうに微笑した。
「レートをあげるのかい」
 ポリンは博士の目を見すえて、ひとつうなずいた。
「それは結構」
「そう。もしあなたが勝ったなら、キスしてあげる」
「で、僕が負けたら?」
「私はこんな店を辞めて、自分の店をひらきたいの」
「他の店をひらくというのなら、僕はやらない。この店に失礼だ」
「バアなんかじゃないわ。さっきも言ったけど、私は小さな美容院をひらきたいだけよ」
「ほう」
 眼鏡のすき間から博士がするどい視線を向けてきたので、ポリンは思わず目をそらした。
「で、ジャックポット続けるの?」
 サイコロは博士がだした二のゾロ目のまま、こちらの様子をうかがっているようであった。
「まず、今宵はロマンチックキスデーではなかったのだから、君のキスはいらない」
「失礼しちゃうわね」
 ポリンは苦笑した。
「次に万が一もし僕が敗れたら、小ぶりな美容院を出してやってもよい」
「本当ですか!」
 店の外の音が増した。
 おそらく雨嵐になっている。
 今宵の客は博士ひとりになる可能性が高かった。
 カウンターの女連中は、すでにだらけきった格好で他愛もない話に花を咲かせている。
「あゝ、本当だとも。君が勝った場合は来月からポリンは美容院のオーナーということになるね」
「で、私が負けた場合は?」
「10万ドルの借金を背負ってもらう」
「無理、そんな途方もない額」
「今すぐにはとろうとおもっていない。もしそうなったら、今宵から私の秘書でもやって返してもらおうか」
「でも、10万ドルなんて……」
「悪い話ではないと思うがね。君が一生ここで働いていたって、いつまでも店は持てない。それだけでも今宵に賭けてみる価値はある。加えて、勝とうが負けようがいずれにしても、君はここから出られるわけだ」
 このジャックポットが終わったら、いずれにしろここから羽ばたかなければならないのか。今になって鼓動が早まってきた。
 サイコロを勢いよくつかみ、
「約束よ」
 と言って博士をにらんだ。
「誓うよ。人生を賭けるジャックポットは嫌いじゃない」
 と博士が静かに返答する。
 この晩はポリンも神がかっていた。
 無論、博士のサイコロも最短距離の目を出していく。
 
        ⚃ ⚃
 
 互いにゆずらぬまま、4巡目、博士の賽が4のゾロ目をだす。
 あっという間に人生がかかったゲームは終盤戦に入った。
「残りは9だけだね。君が出せればプノンペンのシンデレラになれる」
 博士は8の数を消しながら、こう言った。
 ポリンは左手でサイコロを握りながら、頭を右に傾げて、左側頭部を幾度か叩いた。
「なんだ、それは?」
「耳のなかにはいった水がとれないだけ」
「可笑しな奴だな。トンレサップ川あたりで泳いだのか」
「ノー。そんなことするわけがないでしょう。水が怖いんだから」
「じゃあ、なんで耳に水がはいるんだい」
 そんな理由は、ポリンが一番知りたかった。
 ストレスなのか、夫が逮捕されてから、ずっとこの有り様である。
 でも、ここで9をだせれば、この訳のわからない体調もよくなるに違いない。
 ポリンの気持ちをよそに、
「そういえば今、彼氏は?」
 と博士が訊ねてきたので、
「先週、離婚したばかりだから、No Money, No Honey」
 とポリンは不愛想に答えた。
「人生を賭ける晩には、もってこいというわけだ」
 と博士は眼鏡をとり、アンコールビールを飲み干した。

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