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海と足つぼ

 二十代の頃は「百冊の読書より、一回の飲み会」をモットーとしたNPO法人読書普及協会があったお陰で、全国に飲み友達ができ、各地で二日酔いをしてきた。三十代になると、飲み友達の輪を海外にも広げ、出禁の店も多少各国で増やしながら、やはり基本は二日酔いであった。

ただ表向きは片頭痛ということにしておいたが。

このロクでもなき人生の傍らでいつも寄り添ってくれていたのが、足つぼ屋である。要は、足つぼに通うのが趣味なのだ。

記憶に残っているのが、名古屋で自閉症をお持ちのご亭主がされている激痛足つぼやプノンペンでNO1と名高かった盲目の施術師といったあたりだけれども、最近は千葉県の勝浦で施術されている石岡貢の技に首ったけだ。

物理的にも絶妙な手技に加え、靈氣を流すといった視点でされているものの、かつて酔った勢いで靈氣サードまでとってしまった私の感覚からすると流れてくるのは靈氣ではなく、海そのものである。海氣といったところか(今ふと氣がついたが、レイキのレイを「霊」ではなく「靈」と表すように「海」も実際は言靈豐かな漢字が昔あったのではないかと直觀している)。靈氣よりも海氣の方が粒子が細かく、私には馴染む。

実は石岡のもうひとつの仕事はサーフィンで、文字通り眼前の海で隙あらば波に乗られている。その海帰りの氣が靈氣と相まって足裏から入ってくるのであろう。

 ところで私にはギリシャに書道の弟子がおり、彼女も靈氣を愛してやまない一人である。ただ私は靈氣に敬意を払いつつも、このような姿勢は少々もったいないと感じている。なぜなら、この世は靈氣以外にも高尚な氣が多数あるからだ。無名で透明が故に、人々が氣がついてないだけかもしれない。靈氣に限らず、守破離は節目々々で行っていきたいものだ。

量子物理学の台頭で、万物は等しく氣からできていることも一般化してきた。

万物というくらいだから、その源となる氣も多様であった方がよい。そしてご自身の軀にも万物の氣を流した方が自然であろう。そのうちのひとつに海氣はいかがだろうか。

ではまた。

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