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「ラビットイヤー」第3話

 うさぎ耳だから自分を選んだというのだろうか。
 空を見上げると、離陸直後の飛行機が雨の夜空を点滅させながら、横切っている。いずれあれに乗らなければならないとおもうとゾッとする。鳥が飛べる理由はまだわかる。でも、鉄の塊が飛ぶ理屈はポリンにはまったくわからなかった。
「実は私、飛行機も怖いの」
「君は水が怖い、飛行機が怖いと、怖いものだらけだね」
「あと幽霊も怖いかな」
「本当に怖いものだらけだな」
 博士は爆笑した。
「クメール人だったら、皆そうよ。お化けが怖いから、ひとり暮らししないの」
「すごいな」
「でも、博士のことはなぜか怖くない」
「それはありがとう。しかし、ありとあらゆるものが怖いなんて、赤ん坊みたいだ」
「博士のクメール語の発音の方が、よっぽど赤ん坊っぽいわ」
「え、そうなのかい」
 簡単なクメール語をいくつか必死に発音してみせる博士の真面目さが可笑しかった。日本人は耳が悪いのだろうか。読み書きをさせると素晴らしいが、話すと大概、音を外す。しかしその分、中国人やベトナム人と違ってうるさくなかった。
「ねえ、秘書の仕事って、具体的に何をすればよいのかしら。私、今、自分の身に起こっていることがあまりに幸せ過ぎて、よくわからない」
 胸を高鳴らせてポリンが訊ねると、博士が微笑しながらこたえてくれた。
「超絶だね」
「ちょうぜつ?」
「他の人が一生かかってやることを、一夜でやるということさ」
「おゝ。たしかに今、超絶なのかも」
 飛行機の光が、バースデーケーキの蝋燭のようにフッと消えた。
「もし君の耳がラビットイヤーでなかったなら、ポリンがこうして僕の傍らにいることはなかったよ。耳輪といって耳の上部が綺麗に発達している人は、統計学的に強運だからね」
「そうなんですか、でも」
「10万ドルの借金が怖いかね」
 ポリンは恥ずかしそうにうなずいた。
 ジャックポットで負けた自分がなぜ選ばれたのか。
 その理由の欠片が少しわかっただけでも、ホッとするところがあったが、あとには引き返せない借金をひと晩で背負ってしまった気がする。
「心配することはない。私の茶会を手伝ってくれれば、それこそひと晩で返せる額だよ」
 と博士がつづけてくれた。
 気休めなのだろうか。
 芸術の業界はまったくわからないけれども、たった1回の茶会にそれだけのお金が動くなんて、ポリンにはとても信じられなかった。
 激しいスコール越しにも、トンレサップ川の中洲にあるソカホテルには、相も変わらず客がいないのがわかる。ただ最上階のダンシングフロアだけ、妙に何色ものライトが回転しており、綺麗ににじんでいた。
 博士が注文していたヤマザキが運ばれてきたが、ポリンはそれを横どりし、味見をした。@officeで最初にウイスキーを飲まされた苦い思い出がよみがえった。
 やはり苦手な味であった。
 これのどこが美味しいのだろうか。
 しかしその@officeに明日から行かなくてよいのだとおもうと、さすがに心が踊る。
「赤ワインがきたら、乾杯だな」
「はい」
「あと仕事の話だったね」
「はい」
「よい返事だ。まず僕は来月で五十一歳になる」
「えっ、五十一歳?!」
 ポリンはおもわず立ちあがった。
「そこは『はい』と返事してくれないのか。二十くらい若く見られることが多いからね」
 博士は苦笑しながら、話を続けた。
「最初に言っておくが、他の日本人連中がやっているような国際結婚はしてやれない」
 結婚という言葉に、耳のなかの水が反応した。
 なぜそのようなことを最初に博士は言うのだろうか。
 カンボジア人が日本国籍を取得するのは一筋縄ではいかないけれども、日本人が日本国籍を棄てずにカンボジア国籍も取得するという、いわゆる二重国籍モデルは可能であった。そのスキームを使って、多くの日本人がこちらに土着してきたのも事実である。
「次に勤務時間だが、こちらはなるようになるだろう」
「はあ」
「横着が私の経営方針でね。まあ、話がわからなくても『はい』と返事をすることだ」
「はい」
 ポリンが姿勢をただして返事をすると、博士は左腕をおもむろにとってきた。
「あと横着でありながら、時間は厳守だ」
 博士がこう言い終えると、いつの間にかポリンの左手首には紅い腕時計がついていた。
 秒針が鮮やかな色で時を刻んでいるデジタル時計であった。
 何もかもが魔法のようであった。
「なんで時計が用意されているの」
「いつ人生の秒針が進むかわからないから、常に予備のひとつは持っておかないとね」
 赤ワインがやってきて、ヤマザキと乾杯した。
 ポリンが飲む姿を見て、博士が「君と一緒で若いワインだね」とつぶやいた。赤ワインがグラスを流れる様を見るだけで、どうしてその若さがわかるのだろう。 
「お給料は最初800ドルでどうだい?」
 ウイスキーをもうひと口なめた博士が言った。
 今の給料の約5倍である。駄目な理由なんてなかった。
「まずは英語だけでなく、日本語も憶えてもらわなくてはいけないね」
「はい」
「あとは茶も」
「茶ですか」
 ポリンが理解に苦しんでいると、
「そこも間髪いれないで、『はい』と云えるようになるとよいね。茶道は立派な日本の古典芸能だよ。もっともこんなペットボトルばかりの世の中になってしまったから、実に古くさい仕事になってしまったけれどね。こちらも手伝ってもらう予定だ」
 と博士が説明を添えてくれた。
「はい、何でもします」
 本心だった。
 この人のためなら、何だってしよう。
「そもそも茶道は悟るための方法だよね」
「悟る?」
「そう、この夢の世界から目覚めることさ」
「この世は夢なのですか」
「そうだよ。一期は夢さ」
「はい」
 訳も分からず、ただ日本語で返事した。
「しかし、君みたいな女は日本に減ってしまったな」
 博士が小ぶりになった夜空を眺めながら言った。
「えっ、どういうことですか」
「そもそも明治あたりから日本という国は壊れていたのだろうけど、女がまだよかった。ところが今はその女が減ってしまったから、もう国はもたないだろうということだ」
「博士の英語が難しくてよくわかりません」
「ほう。日常会話は比較的、流暢なのにね」
「でも私、何でもすると言ったのは本当です」
 ポリンの覚悟を伝えると、博士はふとこうつぶやいた。
「ではまず僕を消して欲しい」
 最初はワインで自分が酔っぱらってしまって、また英語を聞き間違ええたのかしらとおもった。しかし、そのあとの博士はたしかにこうもつけ加えたのである。
「考えられ得る最も残忍な方法でね」
 ポリンの耳の奥に潜む水がまた激しく揺らいだ。
 今宵のジャックポットの目は、幸運の訪れなのか、はたまたさらなる地獄のはじまりなのか今のポリンにはわからなかった。
 赤ワインを一気に飲み干した。
 なんて不味い酒なのだろう。
 血の味がする。
「おいおい、ワインはビールのように飲むものではないよ」
 博士は苦笑し、
「もっと夜景を愛でられる席に移動しようか」
 と続けた。
 気がつけば、先ほどまでの豪雨が嘘のようにやんでいた。
 店のスタッフが濡れた椅子とテーブルをふいている。
 その先には宝石箱のような夜景があった。
「はい!」
 ポリンは勢いよく日本語で返事をすると、高い椅子から飛びおりた。
 もう自分の人生に思考をはさむのをやめよう。だって、つい10日まえまで夫のことでくよくよしていたのだから。今晩はきっと「ジャックポット!」と夜空に叫んでよい日なのだ。


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