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不倫が嫌いを言語化する

どうも不倫に対する罪の重さの感覚が世間とずれていると感じている。
どうして、殺人を犯したような人がまた平気な顔で社会に復帰しているのか。

殺人と同等だと考える理由は後述するけれど、そんな苛烈な感情を覚えるほどに不倫は嫌いである。

この苛烈な嫌悪感は自分でも異常だと感じ始めた。どうも周囲を見渡せば、不倫に対しての嫌悪感はそこまで強くないようなのだ。

予想としては性欲が、食欲、睡眠欲と並ぶ生物の本能であることだと思っている。
ある程度生きる上では仕方がない。「本能だから」と許されている行為なのだと予想する。
だからこそ、罪は重くない。そこまで苛烈に嫌わない。刑事罰にはならない。


いっぱい寝て働かないから逮捕、いっぱい食べて太って動けないから逮捕はたしかに辛い。
せいぜい働かないなら厳重注意、ひどければ休職やら解雇か。

本当に起こるとしたらおそらく病気的なケースもあるだろうし、これで前科がついてしまうのはたしかに厳しいようには感じる。

さすがに例が適当すぎるだろうか


とはいえ感情は別だ。不倫は本当に嫌いである。
社会的に生きていく上での信頼を、平気な顔をして裏切る行為が本当に強く非難されるべきだと思う。


ある日、ある人物の不倫報道が入った。もう事実確認も済んでいるもので、本人も謝罪をしていた。

そんなときに自分が苛烈に不倫を嫌う理由を軽く考察してプライベートアカウントでポストしたところ、友人に「興味深い」と言われた。

この関連したポスト自体はかなり言葉として人を非難するものだったので、あまり気持ちの良いものでもなく、後に削除しようと思っていたのだけれど、友人は「消さないでくれ」というのである。


というわけで、これは記事にある程度まとめてしまおうと思ったのが今回のきっかけだ。

現在の自分の考えではあるけれど、自分が一年前にも同じように不倫に対して厳しいポストをしており、またその考えもほぼ変わっていなかったので、しばらくこの感覚は変わらないと予想する。

そして、最後はなぜ自分でも異常だと思うほど不倫が嫌いなのか、自分にとって苦しい仮説も書いておく。


最初は乱暴な言葉で書いた方が面白がってくれるかもしれないと考えたけれど、適切な言語化の記事とは言えないだろうと考え、なるべく角の取れた言葉で言及をしようと思い、ある程度は書き直している。

しかしながら、嫌いなものを書くという性質上、言葉としては厳しい記事になることには留意してほしい。


不倫と似たような行為に浮気がある。もちろん同様に嫌いだ。

ただ、不倫ほどではないと先に述べておこうと思う。

本当に愚かで人の信頼を裏切る行為、というのは前提だけれど、本能に従った結果の仕方がなさ、そして社会的契約がないだけまだマシと思えるのである。


ではこの差は何か。

要は社会的な約束も守れない欲深さと自分本位さ、その後の対応で許されようと思っていることが気持ち悪く、非難されるべきだと感じるのである。

自分が不倫を嫌いな大きい理由の一つ「社会的でない」という点である。


社会的でない


どこか自分は人間は理性的であることに美的感覚を覚える。というか、それが他の動物と異なる点だと思うのだ。


性欲は子孫を残すための本能と言えるだろう。

たしかに、一夫多妻制の方が子ども増やす、子孫を増やす。という点だけ見れば動物としては正しいかもしれない。

しかしながら、現代を生きる子どもを作る上で、その方法が健全な人類発展に通じるとはまったく思えない。


LGBTQ+への理解や、「子ども産まなくてもいい」という価値観が生まれたのは、本能だけで子孫繁栄を目指した人間の姿ではなく、その多様性を認めるという理性を働かせた、真に尊く進化した人間文化の一つであると考えているからだ。


少し話が大きくなりそうなので、日本にスケールを落とす。

こと日本においては一夫多妻制ではないので、男一人女性多数という生き方をしている人は多少奇異の目で見られるだろう。

多様性という面で完全に否定する気はないけれど、自分も違和感は覚えてしまう。

一人の恋人と添い遂げることに美的感覚を感じるし、他の人に目移られるよりは、自分だけを見てほしいというのは恋愛の感覚として正常だと思うのである。



結婚というのは日本における社会的な約束ごとのはずだ。

その人と何事もなければ老後まで共に生きようと、そういう約束をするのである。

それは将来を誓い合う相手は前提だけれど、その人と関わるすべての人、友人、家族、仕事関係の人々。
そういう人たちの前で永遠の愛を誓い合う。「そんなのは理想だ」というのは簡単だが、そういう儀式だ。

最近は神に誓うのではなく、人前で誓うというのも多い。親族の結婚式がそうだった。


それをすべてまさかの性欲で、ぴょーんと他の人とそういうことをやってしまい。
結婚相手だけでなく、御祝儀を出して祝った人間やスピーチをした人間、忙しい合間を縫って祝った友人、仕事関係の人。そんな人達の信頼を全部裏切る行為なのである。

まったく知性、品性を感じない。本当に〇〇である。

当たり前だけれど離婚をする事情は色々あるだろう、そこは絶対に批判するつもりはない。

けれど、離婚をしてから恋愛はすればいいわけだ。なぜ約束事も守れないまま不倫をしてしまうのか。

よく言う「順序を守れない理由があったんです」という理由を聞いてまともだったことがない。
お前は非難されようが、それが困難でも、ちゃんと離婚を先にするべきだったのである。

その不倫という不貞行為を働いた上に情に訴えて許されようという魂胆が気持ち悪いのだ。

不倫をしたあなたは被害者ではなく、完全に加害者なのだ。

しかもその加害相手は結婚相手だけでなく、あなたと関わってきたすべての人である。



この文言を読んできて、これをガキだと思ったお前。お前が一番性欲を我慢できないガキである。

そしてお前は絶対に反論ができない。

なぜなら不倫をバレないようにしないといけないから言及できないのである。
お前が一番下である。
どんなにお前が社会的に成功していてカーストの上の方にいようが不倫をしていたら全部ひっくり返って一番下で潰れるのである。

お前が一番下です。残念ながら下です。ガキではないです、お前がガキだし、お前が一番下です。


不倫をしている人は何かしらが弱い人だとは思う。

この上記の文言に対して本当に食らってしまう人たちには同情できるかもしれない。

実際、心が不安で仕方がないのだろう。
何かに依存しなければ生きていけない人がたどり着く保険が不倫だとも感じている。
結婚相手に裏切られる自分が怖くてたまらないのだ。一人では生きていけないからだ。

そもそも人は一人で生きていけない、誰かと関わることで人間は繁栄してきたのだ。
逆に言えば、君は一人には決してなれない。とは思うのだけれど、実際に感覚として得られるのは難しいのだろう。

一人になるのは怖いのだ。

そういう人たちが犯した過ちはやり直せばいい。

ただ、やってしまったことに対して許されようと思うべきではないのだ。絶対に。

申し訳ないと思うなら今すぐやめるべきだし、やめたとしても許されると思ってはいけない。

それでも本当に謝罪の気持ちがあるなら謝罪をするべきだ。許されないから謝罪をしないは、もう目的が異なっている。
許されることが目的になってしまっている。

それは自分が申し訳ないと思ってする謝罪ではないのだ。

さて、不倫に双方合意のパターンというのも存在はするけれど、それも基本的にやめるべきだと思うのは、次の章で紹介したい。

子どもは親を選べない、という話である。

自分本位で被害を受ける子ども


自分は本当に心の底から嫌いな有名人がいる。

元々世間からそこそこ嫌われている人ではあるけれど、とりあえずその人は不倫をした。
そのときの対応をテレビ越しで見て、何か気味の悪さを感じ、それについてしばらく考えたら心底嫌いだと思った。

その有名人はすでに結婚相手とのあいだに子どもができていた。

そして不倫相手とも子どもを作ってしまい、それがバレた。といった流れだったと思う。


さて、生放送のテレビ番組で謝罪をする。
テレビの向こう、スタジオで一人立ち、スーツ姿で謝罪を始めるが、最後にその有名人は結婚相手から「とりあえず、子どもは堕ろさなくて正解だ」と言われた。
と言ってその後、涙を拭う仕草をしたのである。

その後、共演者にペコペコ頭を下げていたが、その共演者も普通に「いえいえ」という普通の反応をしていたのが本当に気味が悪かったのを覚えている。

さて、これは美談に聞こえるだろうか。自分は妙な違和感を抱えながら、この対応を考えていた。

考えていくうちに、この違和感の正体に気がついて嫌悪感を明確に覚えた。この美談で片付けて許されようとしているのも気味が悪かったし、これは責任の追及も逃れる非常に狡猾なやり口だと感じて、強烈に嫌うことになった。

このとき、被害を受けるのは間違いなく結婚相手であろう。

不倫をされた人、という烙印を押される。なぜか不倫をされる方が悪いという謎の意見に非難される。完全に被害者なのに。

そうだ。たしかに結婚相手に一番謝るべきではあるだろう。それは間違いない。
ただ、その子どもはどう思うのかである。

まず、結婚相手の子ども。
自分のお父さんやお母さんは、他の人が好きなんだ。と思うのは、それはどんなに辛いことだろう。
両親はいつまでも仲良くいてほしいものだ。普通の感覚であれば。

そして、不倫相手は騙されていたか騙されていないかでの状況次第だ。
騙されていた場合は人生の時間を無駄にした他、屈辱でもあるだろう。
もちろん愛していた人が非道というショックも大きいはずだ。

そして不倫相手の子ども。その「堕ろさなくて正解」は子どもが決めることだ。
その子どもは、一生「不倫の間でできた、その血を継いだ子ども」という業を背負うことになるのだ。

一夫多妻制が採用されている国や文化なら、もしかしたらさほど生きにくさはないかもしれない。

けれどここは日本である。不倫は犯罪ではないが、明確な悪である。
その間に生まれた子どもが健全に生きられるかどうか。
自分なら、このハンデを背負って生きていくのは、本当に苦しいだろうと想像する。

この将来の命に対する責任のなさが、本当に気味が悪いと思える。心の底から思える。

そして、この構造はこの有名人を批難するたびに、その子どもへの悪影響を考えなければならない点である。

実際、子どもは今も懸命に、健全に生きているかもしれないのだ。
わざわざ子どもの将来について言及するべきではないという構造を作り、自分への批判を軽減させた。
本当に卑怯者だと感じる。

この狡猾さも本当に気味が悪かった。
これきっかけで、本当に心の底から嫌いになったのを覚えている。


そんなわけで、冒頭で記載した「殺人と同等」というのはこんな理由だ。

配偶者、不倫相手の精神を摩耗させ、将来を殺すのははもちろんのこと、一番重い罪は子どもの将来を殺している場合だと思う。

健全に生きられる、何も考えず健やかに生きられる可能性に対し、わざわざ負の影響を与える行為を、自分本位な一時の性欲で永遠に与えるのがとにかく気持ち悪いのである。

それだけでなく、関わってきた人間の信頼を裏切る。そして平気な顔をして社会で生きる。
申し訳ないと思っているのだろうか。君は関わってきたすべての人の将来を殺す、殺人を犯したというのに。


とはいえ、ここまで苛烈に嫌うのは異常だと感じ始めた。多分殺人は言いすぎだ。

どこか自分の常識的にも殺人まではいかないだろう。と薄々気づいているのだと思う。

冷静になって考えてみると、心理学的自己投影という言葉が一番当てはまるように感じた。

そうだ。自分も本当は、将来に責任を取らず、性欲を撒き散らしたい動物なのかもしれないと思ったのだ。


どうして苛烈に不倫を嫌うのか

少しだけこの仮説に至った流れに触れたい。

調べものの過程の中で、一定数の人はどうも有名人やグループと自己同一化して、自分の足りない部分を補っているように感じていた。

今でこそ「自己同一化」という言葉が自分の中に根付いて納得できるのだけれど、これは調べた結果だ。
こういう言葉があることは調べるまでわからなかった。

この自己同一化という感覚に定義的な言葉はあるだろうと思っていて、調べようとしたときに最初に浮かんだ言葉が「自己投影」だった。

調べてみるとどうやら上記の言葉の意味とは異なる。
なんとなくネット上では「キャラクターを自分のことのように思う」みたいな意味合いで使われていたと思うのだけれど、心理学的自己投影の意味はだいぶ違った。

心理学的自己投影の定義はこうである。

自らの内にあるが認めたくない性質や感情を、自分ではなく他の人あるいは物にあるかのように無意識に感じてしまうこと

ウィキペディアの「投影」から例の中にちょうど不倫があったので引用する。

パートナーがいる人の不倫行為は、自己防衛によってパートナーのほうに問題があるのだと無意識に投影される傾向がある。否認によって、その罪悪感を打ち消した、代わりに相手を責める傾向がある

​https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%95%E5%BD%B1

先ほど責任のなさに腹が立っていたのはこれだ。これは不倫をした人の自分自身を守るための否認行動の一部だと理解できる。

自己のとある衝動や資質を認めたくないとき(否認)、自分自身を守るため(防衛機制)それを認める代わりに、他の人間にその悪い面を押し付けてしまう(帰属させる)ような心の働きをいう。

​https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%95%E5%BD%B1


思ったのだ。

この不倫を心の底から憎むのが心理学的自己投影だった場合、自分にも認めたくない性質があると考えてみると妙に辻褄が合うのである。

そう、他ならぬ不倫が憎くて仕方がない自分も「責任を取らず、性欲を撒き散らしたい動物」なのだという性質だ。

ウィキペディアの引用を繰り返すのはあまり記事として褒められたものではないと思うのだけれど、便利すぎるのでまた引用する。

そのひとつに責任転嫁があり、たとえば習慣的に失礼な振る舞いをしている人は、いつも他者を失礼な人だと言って回っているケースがある。

​https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%95%E5%BD%B1

投影は日常生活においてよく起こっている。例えば、なんとなく嫌いだった人物が、実は自分の否定的な、認めたくない面を体現していたなどである。

​https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%95%E5%BD%B1


これを今回の記事のテーマに当てはめてみるとどうだろう。

不倫をする人が嫌いで仕方がないというのは、自分の認めたくない性質を否認したいがための、防衛機能であったとしたら。

そうだ、自分は不倫をしている奴らと同じように「責任を取らずに性欲を撒き散らしたい動物」という性質を否認したくてしょうがないのである。

自分で気がついたときには本当に苦しい仮説だなと思った。

憎すぎるはずの「無責任に性欲を撒き散らす動物」が自分であることを認めなければならなかったからだ。
その胸中をポストしたところ友人が興味深い、と言い出したのである。


ただ、変えようのない事実のようにも思う。

この苛烈な嫌いっぷりは異常だ。
それはおそらく、自分の中でとても認めたくない性質なのだと思う。
改めて思えば、たしかに自分の性欲というのはそういう毛があるかもしれないと思うのだ。


ただ、自分はこれでよいとも思っている。

ユング心理学ではこの心理学的自己投影は自分の理解に繋げられ「大いなる自己」「自己実現」へと成長するきっかけとして活かすことができる。と話しているそうだ。

これもほとんどウィキの引用ではあるけれど「自己投影には自己理解を深められる側面がある」と様々なページで記載されていた。

そんなわけで、自分はそのまま不倫が強烈に嫌いというのは感覚として持っていて損はないと思う。

これが自分の性質だと認めることで、不倫、浮気をしないのであればそれは一般にいいことと言えるだろう。


幸いにも今のところ自分は浮気も不倫もしたことがない。

このまま社会的な信頼を裏切ることなく、子どもの将来を殺すことなく過ごしていきたいとは強く思っている。
その思いに嘘はないとは思う、そう思いたい。


大好きなラジオのパーソナリティが不倫の疑いを投げかけられた。

ファン心理としては信じたいのが本当だった。

けれど、SNS上で悪意が交錯していたとき、真偽はわからなかった。
自分から発信することはやめておこうと思っていたし、発信はしなかったけれど、心の中で多少なりとも疑ってしまった自分も情けなく思う。


けれど不倫をしていた場合、自分はとてもじゃないけれど擁護はしなかったと思う。

本当だったときの想像をして悲しくなった。

あの夜も、あの夜も、あの穏やかな声があったから乗り越えた日々もあったのに。
それが、それが本当だったら、その吐き出していた言葉は、無責任に嘘をつき、人を騙す声だったのだ。

それにまんまと騙されていた。

その声を自分は信じていた。

勝手なこっちの思いだ。けれども、もし本当だったら、裏切られた。と感じていただろう。


それでも、一緒に乗り越えてくれたあの夜に嘘はないと、果たして自分はそう受け止められるのだろうか。


そう思うと、自分のこの考えは揺るがない方がいいと決意を改める。


不倫はどう転んでも嫌いだ。


何もかもひっくり返って嘘になってしまうから。


今回の記事は友人のために残す。

この先考えが変わることもあるのだろうけれど、不倫はずっと嫌いでありたいと思う。

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