「存在」と「不在」
「不在は存在を濃密にする。」
思い返せば、このテーマは、私の20代における思想課題であったように思われる。
最初の不在については20代前半で経験した。
なんてことはない、当時周りが見えなくなるほど没入していた彼女と別れたのである。
ほとんど同じタイミングで異郷へと引っ越した。
異郷は私にとって心機一転の地とはならず、その土地が持つ独特の灰色の景色にますます気は滅入るばかりであった。
煩悶に煩悶を重ねた。
…その彼女は最早近くにいない(不在)。
しかし、不在から解放されようともがけばもがくほど、その存在が強く意識された。
異郷の地で過ごした2年間で私がとった行動のほとんど全てが、存在を想い続けた不在に由来している。
何かとてつもなく重要なことに懊悩しているような気がした(客観的には些事であるように思えるかもしれない)が、当時はそれが何なのかを明確にな認識できなかったため、日記という形で自分の言動を書き留めることにした。
不在は私に言葉への感性を少しだけ与えた。
20代後半には、最愛の祖父が身罷った。
私の我儘な願望を経済的にも精神的にも支援してくれた祖父である。
祖父から与えられた故郷が、空中分解してしまいそうな精神をかろうじて大地へと結びつけてくれた。
話好きな祖父は、いつも隣でたくさんの昔話を聞かせてくれた。
祖父がいなければ、土地に根差した人間が放つ、あの不思議な安定感を知ることはなかっだろう。
おかげでなんとか、浮き足立った軽薄さを身に纏わずに済んだ。
不確かな人生をより確かな方向へと導いてくれる故郷の重要性を、祖父の不在によって学ぶことができた。
…「不在は存在を濃密にする。」
いなくなった存在がなければ、私は、「存在と不在の逆説」とも呼ぶべき人生の秘密に触れることはなかったであろう。
感謝しかない。
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