「君たちはどう生きるか」1回目の感想・考察〜宮崎駿が示した二つの生き方〜

宮崎駿監督最新作「君たちはどう生きるか」を一昨日見てきました。

まだ一回見たところで、あの情報量を処理仕切れていないですが色々考えたことを書いていきます。

まだ整理できてないところもあるので、読みにくかったらごめんなさい。

映画見る前に、たまたま見た動画

映画館に行ったとき、時計をあまり見ていなかったため
本来見る予定だった時間の回をうっかり逃してしまいまして

次の回までの3時間、時間が余りました。

その時にYouTubeを覗いたら、見つけたのが以下の動画でした。

吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」についての、解説動画です。

この本は、映画の原作というわけではなく
ただ「この本を主人公が読む」という事前情報があったそうです。

そして、宮崎駿もこの本に感銘を受けており
おそらく今回の映画も、この本に影響を受けているだろうという予想がたっています。

僕は、この本の解説動画をガッツリ見たので、それが宮崎駿からのメッセージを読み解くヒントになりました。

事前情報ゼロでの見方が出来なかったのは
惜しいことをしたと感じていますが
おかげでアニメを見ながらメッセージを読み解く
ゲームをするのは楽しかったですね。

書籍「君たちはどう生きるか」について

本の説明を少ししましょう。

詳しくは上の解説動画を見るか、実際に本を読むかして欲しいところですが、簡単に紹介します。

主人公は、コペルくんという15歳の少年。
コペルくんには叔父さんがいて、
その叔父さんと、友達や家族との出来事について
会話していく中で、コペルくんは精神的に成長していく。

といった物語。

コペルくんは、叔父さんとの会話から様々なことに気づいていく。

  • 客観的に見ること

  • 自分の気持ちに嘘をつかないこと

  • 拡大して考える想像力

  • 勉強の大切さ

  • 生産者の立派さ

  • 実行する勇気

  • 失敗から学べるということ

  • 全ての物事に歴史があること

そして、これらのことは関連して繋がる。

客観的な見方や想像力を働かせると
今残ってる全ての物事には、それを作った人の歴史があることに気づく。
その人は、勉強や色んな失敗をして、最終的に人の役に立つ物事を作った。
それができるのが一番価値がある人だ。

という風に。

つまり「生産ができる人が立派な人間である」という
価値観がこの本のメッセージである。

その上で、「君たちはどう生きるか」と問いてくる本なのだ。

映画の感想

ここからやっと、映画の話。

映画のタイトルを聞くと、宮崎駿の説教かな?と思うところですが

「見てみたら、やっぱり説教だった。」が僕の感想です。

ただ先に書いた本の情報が頭にあったから、そう感じたのかもしれません。

本の情報がなければアニメとして楽しく見れたかもしれないですね。

というのも、私は、主人公が異世界に入ったあたりから
「このキャラは生産者か?」という見方をし始めたからです。

そうやって見ていくと、キャラクターごとに「生産者」「消費者」がはっきりとわかれているように見え、

そして、主人公の眞人くんが最後に「生産者」「消費者」どちらの道に進んだのかを考えていくと、今回の宮崎駿のメッセージが読み解けるような気になりました。

では、キャラクターごとに見ていきましょう

今回、異世界で出てくるサブキャラはこんな感じ

  • アオサギ

  • キリコさん(元おばあちゃん)

  • 顔がない帽子の人

  • ペリカン

  • インコ

  • インコの王様

  • ヒミお母さん

  • ナツコお母さん

  • 大おじ様

アオサギの解釈は、いちばん難しかったので後で考えるとして、1番わかりやすいところから行きましょう。

キリコさんと殺生ができない帽子の人

おばあちゃんだったはずが、異世界に落ちて若返ったキリコさん。

キリコさんは、何年もここにいるようで、魚を取り、
白いワタワタを育てる仕事をしている。

白いワタワタは、眞人くんがいた元の世界で、新しい生命になるのだという。

この時点で、キリコさんは間違いなく「生産者」でしょう。

そんなキリコさんには、ワタワタ以外にも
帽子を被った顔のない人々が群がってくる。

そして、キリコさんは、彼らに対して
「殺生ができない」という。

キリコさんに魚のおこぼれをもらおうとしている彼らは
典型的に「消費者」であろう。

しかし、キリコさんは彼らを「消費者」とは呼ばない
「殺生ができない」と呼んだ。

ここで、読み取れるのは
「殺生ができないのが、消費者」
「殺生ができるのが、生産者」

という見方である。

そして、この見方はペリカンとワタワタのシーンにも繋がる。

ペリカンとヒミ母さん

ワタワタが空へと昇っていき、それをペリカンが食べる。

そこに、ヒミ母さんがやってきて、何匹かのワタワタを犠牲にしながら、ペリカンを焼いて、ワタワタを守る。

眞人くんは、犠牲になっているワタワタを見て、ヒミ母さんに「やめろ!」と叫んでしまうが、声は届かない。

ペリカンは、ワタワタの狩りをしているので、
先程の「殺生ができるのが生産者」の見方でいくと
生産者になる。

しかし、ヒミ母さんに焼かれ死にかけているペリカンが
「最近飛べないペリカンが増えている」と言う。

この「飛べないペリカン」、つまり「ワタワタ狩りができないペリカン」は、「消費者」になる。

このペリカンに「消費者」が増えているというのが、非常に現代社会を風刺しているように感じるところでもある。

では、ヒミ母さんは、どうか?

ヒミ母さんは、ペリカンもワタワタも殺しているので、やはり「生産者」になる。
ワタワタという新しい生命の誕生を助けてもいるので、そういう意味でも「生産者」だろう。

そして、ヒミ母さんを止めようとした眞人くんは、
「生産する」ことに殺生が付いてくるという現実を受け入れられていないのだと思う。

まだ子どもの眞人くんなので、まだ「生産」を理解できていないのである。

インコ

インコもペリカンと同じく、「生産者」と「消費者」がいるのだろう。

眞人くんを料理しようとしたコックのインコは、間違いなく生産者だし、
インコの王様もインコ達のために大おじさまに交渉にいくという大仕事を買って出ていき、生産者になるだろう。

インコの中には、ただ食堂でご飯を待っているだけのインコもいて、彼らは消費者かもしれない。

そして、インコたちもペリカンと同じく、消費に生産が間に合っておらず、新天地を探しているようだった。

ナツコお母さん

ナツコお母さんは、わかりにくいが、おそらく生産者だろう。

理由の一つは、「子どもを産む」ということも、生産に含まれるからだ。

理由の二つ目は、「あなたなんていなければ」と眞人くんに言ってしまったことだ。

いつも優しい夏子さんだが、眞人くんが会いに行くと
「あなたなんていなければ」と眞人くんに悪意を漏らしてしまう。

この「悪意を持っていること」が「殺生ができること」にも繋がっていて、それが「生産」にも繋がっていく。

大おじさま

最後にラスボスみたいな雰囲気で登場した大おじさま。

動物タワーバトルのような絶妙なバランスで、積み上げた積木を眞人くんに見せ、この平和な世界を継いでほしいと言います。

しかし、眞人くんは自分の頭の傷に触れながら「自分には悪意があるから継ぐことはできない」と言って、断ります。

大おじさまは、「生産者」「消費者」の枠組みで言えば、「消費者」になるでしょう。

というのも、大おじさまは、作ろうとしていたのは、悪意のない世界だったからです。

悪意のない世界と言うのは、聞こえはいいですが、
悪意がある=殺生ができる=生産ができる
の理論から行くと、何も生産できない世界です。

だからこそ、その世界の維持は綱渡りで、積木は今にもバランスを崩しそうになっていました。

そんな世界を作ったのは、大おじさま自身に悪意がない人だったからでしょう。だからこそ、本ばかり読んでいたし、自分の世界に入り込んでしまった。

そんな大おじさまは、なぜ眞人くんならこの世界を維持していけると思ったのかわからないが、自分の跡継ぎにならないかと持ち掛ける。

眞人くんは、それまでに多くの生産者と出会っています。
つまり、色んな人の生きるための悪意に触れているわけです。

夏子お母さんの悪意、ヒミお母さんの悪意、そして、キリコさんの悪意。

キリコさんにも傷があったように
自分にも頭に傷があり、それはクラスメイトとのケンカをキッカケにして自分で付けた傷。

なぜ眞人くんは、自分に傷をつけ、それを転んだと言い張るのか、私にはよくわからなかった。

自分が大けがをすれば、家族や周りの人が騒いで、ケンカ相手への復讐をしてもらえるということなのでしょうか?

理由はともかく、眞人くんはその行為を自分の悪意であると受け止めて、大おじさまの継承を断ります。

眞人くんの、この大おじさまの継承を断り、元の世界に戻るという選択が
「消費者」の生き方ではなく、「生産者」の生き方をするという選択をしたということなのだと思います。

だからこそ、学校に行って、友達を作るという、ものすごくまともなことを言っているわけです。

きっと眞人くんは、そのあと順調に成長して、戦後の高度成長期にバリバリ稼いでいくんじゃないかと想像します。

映画の主題はなにか?

ここまでの話をまとめると

消費者の多い世界に迷いこんだ眞人くんが
そんな中にいる数少ない生産者とその悪意に触れて
自分も生産者としての道を歩む。

という話になる。

これだけ見ると、「生産できる人が立派」ってだけの話になる。
ある種、書籍の「君たちはどう生きるか」と同じだ。

おそらく、一義的にはそういう作品になるだろう。

しかし、この作品を作っているのは、宮崎駿。
そんな単純な話を書くわけはない。

そもそも、宮崎駿はアニメーションを作り続けてきた人間で、アニメーションを芸術のたぐいであり
これを作ることは、生産ではない。

つまり、「生産者が立派だ」と言っている宮崎駿自身が、生産者ではないのだ。

宮崎駿と眞人くんの境遇は、すごくよく似ている。
互いに父親が飛行機を作る工場の工場長をしていて、大金持ち。
母親は病弱など、大変共通点が多い。

おそらく、眞人くんのモデルは宮崎駿自身だろう。

しかし、眞人くんは生産者としての道を選び
宮崎駿は消費者としての道を選んだ。

大おじさまの誘いに乗った世界線が宮崎駿で
大おじさまの誘いに乗らなかったのが眞人くん
なのかもしれない。

そうやって、考えていくと
宮崎駿は、自分のような消費者を増やしたくはないと考えていながらも
消費者としての生き方をこの映画に忍ばせているのではないか?
と思った。

アオサギとはなんだったのか?

そこまで考えたところで、ようやくアオサギという存在の意味に、私は気づいた。

眞人くんが、大おじさまのところまで、たどり着くことができたのは
色んな人の助けや巡りあわせがあったが、
やはりアオサギの存在はすごく大きかった。

アオサギは、眞人くんとケンカしながらも、ちゃんと眞人くんを助け、大おじさまの所まで案内人をこなしている。

まだ消費者である眞人くんを、大おじさままで案内することは
宮崎駿のような大芸術家への道を歩ませてくれる人のように見える。

先ほど言ったように、そのまま大おじさまの後を継げば、眞人くんも宮崎駿のように、自分の世界を作り上げることができた。つまり芸術家としての成功者になれただろう。

そこまで、たどり着けたのは、アオサギがいたからなのだ。

つまり、眞人くんが宮崎駿なら、アオサギは鈴木敏夫なのではないか?

宮崎駿の作品を世に売り出し、宮崎駿を巨匠にしてきたのは、鈴木敏夫プロデューサーだった。

試しに宮崎駿と鈴木敏夫の出会いを調べてみたら
鈴木敏夫に対して「胡散臭い男が来た」と思ったと語っていた。

まさに、アオサギだ。

芸術家は、自分の世界を作り上げるというのが、最大の目的だろう。

しかし、それが許されるのは、アオサギのような優秀な世渡りができるプロデューサーに出会わなければならない。

眞人くんは、運の良さと勇敢さによって、アオサギのくちばしを射止め、眞人くんなしでは飛べないようにしてしまった。

宮崎駿も、その才能によって、鈴木敏夫の心を射止めている。

そうやって、自分の世界を作り上げるには、それを世に届けてくれる人が必要である。それが消費者・芸術家としての生き方なのだ。

と、宮崎駿は暗に示しているのではないか?

そして、この「生産者としての道」「消費者としての道」の二つの示し
「君たちはどう生きるか」と問いかける。

これがこの作品の本当の主題なのではないか?
と私は考える。

現実に引き込んで考えてみる

「生産者」と「消費者」の二つの道を提示した宮崎駿。

今の時代、特に僕らの世代に「消費者」は増えている。

"ニート"という言葉が生まれてしばらく経つが
家にいたままで、動画サイトやSNSにコンテンツを投稿すれば
生きていける世の中になり
「好きなことで生きていく」
というGoogleの広告が話題になったこともあった。

今はメタバースが盛り上がりを見せていて
多くの人が理想の自分になり、おおおじさまのように、理想の世界を作り上げる。

これが、宮崎駿にとっての増えていく消費者であるのかもしれない。

しかし、消費者の多い映画の異世界は、すこしずつバランスを失い始めていたし

最後には、どこからかやってきたインコの王に、ぶち壊された。

宮崎駿は、この世の中の脆さを訴え、警鐘を鳴らしているようにも感じる。
「好きなことで生きていく」ができる世の中は、決して当たり前ではない。と

正直、非常に説教臭い。

とはいえ、アオサギという「幸せの青い鳥」のような存在を示し、
アオサギを捕まえることができた一部の者は、消費者としての成功を収められることも示してくれる宮崎駿。

現代で言えば、アオサギはYoutubeのおすすめアルゴリズムかもしれないし、Vtuber事務所かもしれない。

しかし、それに見つけてもらえるのは、己の才能と運に恵まれた本当に一部の人間だとも言っているようにも感じる。

それを知った上で、「君たちはどう生きるか」と問いかける。

クリエイターを目指す人が非常に多い世の中で
大クリエイターとしての自分の生きざまと
本当に立派なのは、自分のような消費者ではなく、生産者であり
決して自分のような人を増やしたくない宮崎駿の自虐的説教が
この映画なのではないか?

仏教に落とし込んでみる

一応、こう見えてお坊さんなので、仏教の話もしておこう。

初期仏教という釈迦オリジナルの教えでは、
仏教修行者の生き方とその他大勢の生き方
の二つを提示する。

仏教修行者の生き方は
「悟りを目指す」という生きがいに向かって、生活のすべてを捧げ
一切の生産活動を放棄し、他の生産者が残した余りものをもらって生きる。

その他大勢の生き方は
努力によって、己の生活をよりよくしていき、
欲望を満たすための生産活動をして生きる。

そう。これまで話してきた「消費者」「生産者」をそのまま当てはめることができるのだ。

映画の異世界は、生死の境目のような世界で、そこには多くの消費者がいた。誰かはそれを地獄と呼び、天国や極楽とも呼んでいた。

仏教修行者の生き方は、一切の欲望を捨てる。

欲望は生き物の根源であり、生き物が生き物である源だ。

それを捨て、仏になった人は輪廻と言う世界から離れる。
悪意がなくなり、生き物ではなくなる。

だからこそ、生死という生き物のくびきから抜けでた、あのような世界に行きつくのも、どこか納得できる。

もちろん、悪意や欲望のないその人たちは、消費者だ。

消費者の世界・芸術家の世界として、映画での異世界を見てきたが
あれは生死の境にある世界でもあり、
だからこそ、消費者が多い世界でもあると解釈できる。

最後に

ここまで、徒然なるままに、感想や自分としての解釈をつらつら書いてきた。あまりまとまりがなかったので、読みにくかったかもしれない。駄文で申し訳ない。

宮崎駿の「どう生きるか」という大いなる問いを受けて
僕らは考えなくてはならない、自分の生き方を。

私は、坊主としてVtuberを志し、お坊さんもしている。

浄土宗の坊さんなので、初期仏教の修行者ではないが
やはり坊さんも消費者だと思うし
好き勝手やっているVtuberこうどうも消費者になるとだろう。

また、私は大学職員もしており、これは生産者だと思っている。

お茶という名義では、Vtuberのサポート活動をしており
ここでは、アオサギのような存在を目指している。

私は、どれを本業にしたいのか、いずれ選択をしていかねばならない。

若さにかまけて、選択を先延ばしにしてきたが、
どれも捨てきれていない。
立派な選択は、生産者なのかもしれないが。
立派さで選べるほど、私はまだ大人になれない。

もう少し回答は遅くなりそうな気がします。

もう少し時間をください。宮崎先生。

そんなことを言っていたら、インコの王様が全てぶち壊しに来ることもあるのかもしれないが・・・




最後に宣伝させてください。

Clusterで、「君たちはどう生きるか」ネタバレありの感想会をします。
色んな人の解釈を聴きたいので、ぜひ話に来てください。

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