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日本語に「主語」はあるのかないのか?

 わたしはここまで、日本語の語順について論じながら、文法論の主要な用語である「主語」という言い方をわざと避けてきた。しかしある意味では語順についてのことと表裏一体でもあろうものとしての「主語」をめぐる問題について、ここで一応まとめておきたい。

 「主語」という用語、概念は学校で教わる国文法にも採用されていて、あるいは確固たるものだと思われているかもしれない。文は主語と述語からなり、「何がどう」という文の「何が」が主語、「どう」が述語であり云々、などと多くの人が憶えさせられたのではないかと思う。
 ところが実は”ネタバレ”をしてしまうと、この「文は主語と述語からなり」というような説明は、近世までの日本の伝統的な文法論から出たものではなく、聞く所によるとどうやら17世紀フランスの輝かしいポール=ロワイヤル文法が”元ネタ”らしい。
 さあ別の言語だといっても、ともに人の考えが作るものである以上、違う所もあれば似た所もある。だから西欧で発達した文法論のなかに、日本語にも妥当するような理論があるなら、それを持ってくるということが悪くはない。
 確かに、
(18)I read a book.
 という英語の文に、
(19)私は本を読む。
 という日本語の文を対照させてみると、なるほど日本語にも主語があり、また主語に呼応するものとしての述部の要素が、語順こそ違えど同じくそろっているように見える。
 参考書や辞典の付録など、学校文法を説明したものをみても、そこ挙げられている例文は「文は主語と述語」で間違いのなさそうなものばかりなので、やはりそれで良いように思える。

 だがしかし、色々な実際の文について見ていくと、日本語の主語とは何か、あるいは日本語に主語はあるのか、といった問題が出てきて、これまで学者によって様々な議論が行われている。
 事は「主語」という用語をどう定義するか、という問題にも及ぶ。世界には実に多様な言語があるのだから、西欧文法に由来する概念ではあれ、いくらか拡張していくというのは良いとしても、あまり広がると意味が無くなってしまうので困る。
 主語とは何か、ということについて、通俗的な用法まで視野に入れる必要はないにもせよ、学者による使い方も様々である。論文をあれこれ渉猟していると、英語の主語のようなものに限る立場もあれば、ずっと広い意味に使うものもある。
 「日本語には主語がある」と文法論的に言おうとすれば、主語を本来の定義から拡張する必要が出てくることは間違いがない。では日本語の主語とは何なのか、これには複雑な議論がある。学校文法が「主語」を採用しながら、この点で実にサラリとしているのは、この複雑さを回避しているからで、そこに大きな問題がある。

 学者による複雑な議論を一々取り上げたり批判することは、わたしの手にははるかに余ることなので、敢えてしようとは思わないが、一つだけ言わせてもらえるならば、日本語の原理はそんなに複雑なものであるはずがないと思うのである。
 主語という観念は、語順の問題と深く関わる。ヨーロッパでは古くから文法論が発達したが、文法用語としての主語=subject の登場は中世のことだという。古代にはヨーロッパの言語は、語順に関する要素が不安定な状態にあり、それを安定させようとする意識の流れが、語順の SVO 型への固定化と、文法論の発達をひときわ促したと言えよう。
 それに比べてみれば、日本の伝統的文法論は、ことに語順に関しては、さほど発展した所がないようである。それは現代においてさえ、遅れていると言わなければならないだろう。そうなったのは日本語の語順が昔からきわめて安定して変化がないからで、変化しないのはその原理が単純であることを示しているはずである。「日本語は非文法的言語」だなどということでは決してないのである。
 日本語の主語についての議論が複雑化せずにはいないということは、その原理が単純なはずだということと矛盾する。少くとも日本語の文法を説く上で、主語という概念を持ち込むことは最適な方法とは言えないようである。

 そうかといって、「日本語に主語はない」と言い切ってしまうことにも問題があろう。上の例文(19)のように「主語が見える」ような構文があることも事実で、それは特に西欧言語との対比において浮かび上がる。今日の我々はたえず英語をはじめとする西欧言語を意識させられる条件に置かれているので、そのために有用なものなら棄てることもない。日本語の文の少なくとも現象面には「主語が見える」ことがあり、それは何なのかという問いはあって良い。
 ただしここでわたしが明らかにしたいことは、日本語の文を為さしめる原理としての文法なのであって、原理によって成された現象としての文ではない。原理としての文法を解き明かすためには、やはり主語という概念の適用は、最適な解法とはなりえないだろうと思える。
 しかしそこに「主語はない」と言っただけでは、何ら積極的に明らかにしたことにはならないので、ではそこで日本語そのものの文法とはどう説きうるものであるか、考えていきたいと思う。

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