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助詞の分類はそれでいいのか−−「より良く書く」ための文法論という立場から


何のための分類か

前回、助詞の「〜が」について論じた勢いで、今回は助詞全般の分類について考えてみたい。

助詞の分類について考えたい、というのは、一般に行われている分類法には問題を感じるということである。もちろんどのように分類するのが適切かは、何のために分類するのかという目的によって異なりうるから、必ずしも一般的な分類法に誤りがあるというのではない。

では、私が何を目的にして日本語の文法を論じているのかといえば、それは「より良く文を作る」ためには、どのように頭の中を整理しておくのが最も良いのか、ということが知りたいからである。日本語を母語とする我々に日本語の文法論など必要ない、と思う人が多いかもしれないが、むしろ母語話者だからこそ、より高度な使いこなしのための文法論を持ったほうが良いと思うのである。

つまり私の立場は、日本語の実用文法、あるいは生産文法とでも呼ぶべき所にある。この立場から見るとまず、「〜が」は格助詞だが「〜は」は格助詞ではない、というような説明に遭遇して困難を感じる。「〜が」と「〜は」はともに最も主要な助詞であり、同じ位置に入りうることが多い。だからこのどちらを使うかの選択が、文を作ろうとする時、常に念頭に置かれるはずで、それが離れた所に整理されてしまうというのは、非常に不便ではないだろうか。

一般的な助詞の分類

一般に行われている分類法といっても、日本語には広く認められた標準的な文法の典籍のようなものが確立されているわけではなく、いわゆる「学校文法」が、多くの人に国語の授業で教えられるため、事実上の標準というか、一種の社会通念のようになっているだけである。

「学校文法」は、1930年代に橋本進吉らが文部省の依頼を受けて作った教科書がもとになっていて、全くそのままというわけではないにしても、この数十年の間に行われた議論や批判、研究の進展を十分に取り込んだものではない。

就学年齢向けの国語辞典に載っている文法の解説は、学校文法に沿ったものだと思うが、手許にある旺文社『標準国語辞典』の1973年「新訂版」と、2020年「第八版」両所載「国文法の解説」を見比べても、違いはほとんど無いようで、さながら生きた化石という感じがある。

さてその中の「助詞一覧表」の「口語」の欄から、助詞がどのように分類されているかを摘出してみよう。

  • 第一類(格助詞):が、の(ん)、を、に、へ、と、から、より、で、や

  • 第二類(接続詞):ば、と(とも)、ても(でも)、けれど(けれども)、が、のに、ので、から、し、て(で)、ながら、たり(だり)

  • 第三類(副助詞):は、も、こそ、さえ、でも、しか、まで、ばかり、だけ、ほど、くらい(ぐらい)、など、なり、やら、か

  • 第四類(終助詞):か、な、な(なあ)、や、ぞ、とも、よ、ぜ、ね(ねえ)、わ、の、さ

まず一見して、「〜が」が第一類と第二類に分けられているのが私には気になる。これは二種類の「〜が」があるのではなく、同じ「〜が」の派生的用法の違いである。「〜か」は第三類と第四類に、「〜や」は第一類と第四類に分けられているが、これもやはり同語の派生したものではないだろうか。

第一類としている「〜の」と「〜に」「〜で」が複合した「〜のに」「〜ので」を一語と認めて第二類に入れているようなのも分裂的である。これは一種の便宜主義なのかもしれないが、そのわりに便利とも思えず、理解もしにくいのではないだろうか。「〜とも」「〜でも」も同類の例である。

実は橋本進吉自身の著作『国語法体系論』第五章「辞の種類」では、助詞をもっと細かく十種類に分けている。そこでは「〜の」も「準体助詞」と「準副体助詞」に分裂させられている。「〜に」も「並立助詞」と「格助詞」に重出する。これは助詞そのものの分類というより、助詞の用法の分類になっているのだ。

こういった所は、整理したというより、かえって「散らかした」という感じを受ける。

ここで問題とする「〜は」は第三類、「副助詞」だということになっているが、この分類の名付けはどういう意味なのだろうか。「副」というからには、「主」となるものが他にあって、それに対して副次的なもの、という位置付けなのだと考えざるをえない。その「主」とはおそらく第一類「格助詞」なのだろう。

名詞の格を標示するものを重視してまず「格助詞」という枠を立て、そこに入らないものを「接続助詞」や「終助詞」と分けていって、最後に残ったものは「副助詞」とでもしておこう、ということなのだろうか。

しかし、上にも述べたように、「〜は」は日本語の文を組み立てる上で、最も主要な働きをする助詞の一つなのである。このことは誰の目にも明らかだろう。それが「副助詞」であるとされ、「〜が」とは別の枠に入れられてしまう。とすると、格助詞であるかどうかが、分類上そんなに重要なことなのかどうか、疑わしくなる。

そこで、もしこれを見直すとれば、現在通行の方法とは根本的に異なる分類法が必要になる。

新たな助詞分類法の提案

ここからは、試みとして助詞の新しい分類法を考えていきたい。分類する目的は、先述の通り「より良く書く」ために文法意識を整理しておくことにある。助詞の機能する原理は単純であり、その派生や組み合わせで複雑な表現ができることが分かるような分類になることが望ましいと思う。また、上にも述べたように、「〜は」と「〜が」とが同じ枠に入るような分類をする必要があると考える。

「〜は」と「〜が」とは、数ある助詞の中でともに基礎的な助詞の一つと言えるので、まず助詞を基礎助詞応用助詞に分ける。これは外形的に行うことができる。つまり原則として、一音節の助詞は基礎助詞、二音節以上の助詞は応用助詞とする。

基礎助詞の中では、それぞれの助詞が持っている用法の内のどれか一つ、最も基本的と言える用法があるという想定を置く。どれが最も基本的とも判断しにくい場合でも、どれか一つがそれと思い切って決めてしまう。これがその助詞が持つ基本的な機能を表すものなので、用法ではなく機能の分類になると考える。

この分類を行うために、まず次のようなごく単純で基本的な文型を考える。

〔主役名詞〕+〔脇役名詞〕+〔動詞〕

これは実際には、「兄が札幌へ行く」とか「私の人生を生きる」のような文になる。同時に、こうした簡単な文が連結して複文になったものを、もう一つの型として想定する。これは「犬が公園を歩けば、猫はそこから逃げた」のような文である。

こうした文の場合に、最も基本的な用法で〔主役名詞〕の後ろに付く助詞を主助詞、〔脇役名詞〕に付く助詞は客助詞、複文の前の文に付いて後の文へ送り、あるいは単語と単語を繋いで句を作るような助詞は共助詞とし、〔動詞〕に付くものは述助詞と呼んで分けることにする。この分類法はもちろん、それぞれの助詞が名詞の格を標示するかどうかには関わらない。もしこの三つのどれにも当たらないと判断される助詞が見出されたときは、一音節であっても例外を認めて応用助詞に振り分けることとする。

こうした原則によって助詞を分類し直すと、次のような結果を得るだろう。

  • 基礎助詞

    • 主助詞:が、は、の、も

    • 客助詞:を、に、へ、で

    • 共助詞:ば、ど、か、や、と、し、て

    • 述助詞:な、な(なあ)、ぞ、よ、ぜ、ね(ねえ)、わ、の(のう)、さ

  • 応用助詞:から、より、ながら、たり、こそ、さえ、しか、まで、ばかり、だけ、ほど、くらい、など、なり、やら、とも

(応用助詞についても基礎助詞と同じような分類をしうるだろうが、とりあえず大括りのまま置く。後に考えるべし)

こうした上で、これは「格」に使われるとか、「接続」に使われるといったことは、それぞれの助詞に札を付けるようにして整理しておけば良い。

附記:基礎助詞を区別することの考え方

以下は、助詞の腑分けのためのもので、網羅的な説明ではない。

  • 主助詞

    • :「私札幌へ行く(札幌へ行くのは他ならぬ私である)」。古語では「我家」のような具体的所有関係を表すのに使い、「この家は他ならぬ我のもの」と所有者を限定する働きから派生して、現代語での用法が出来てきたものと見ておく。目的語に付いて「私は味噌ラーメン食べたい(私が食べたいのは他ならぬ味噌ラーメンだ)」。下降して複文を接ぐと「私は札幌へ行く、弟は帯広へ向かう」。後文が起こる状況を前文の内容に限定する。言いさしのような表現で文末に付く。「私は札幌で味噌ラーメンを食べる?(弟は帯広で豚丼を食べるのかい?)」。

    • :「私札幌へ行く(弟がどこへ行くかによらず、札幌へ行くのが私だ)」。対比群を想定して、その中でもそうするのはそれ、と取り出す。目的語に付いて「私は味噌ラーメン食べたい(スープカレーを食べるかは別として、必ず味噌ラーメンが食べたい)」。複文を接ぐ。「私が札幌へ行くの、味噌ラーメンを食べるためだ(味噌ラーメンを食べるためにするのが、帯広ではなく札幌へ行くことだ)」。目的語を取り立てて主題にする。「味噌ラーメンを昼食にいただきます」。「札幌に私が行きます」。

    • :「私札幌へ行く(兄が札幌へ行くなら、私は帯広をやめて一緒に行く)」。対比するものを想定して、それと重なる関係を作る。「私は札幌行く(帯広にも行くが、札幌にも寄る)」。「私が札幌へ行くの、味噌ラーメンを食べるためだ(兄と同じく味噌ラーメンが食べたいためにそうする)」。重なる状況を述べる。「兄が小樽まで行って、私は札幌に留まる」。物事を重ねる性質から、「あれかこれか」と思案を重ねる疑いの表現と親和性が高く、「か」「や」と連結して「か」「や」となり、詠嘆へも広がる。

    • :「私目的地へ行く(誰かに従うのではなく、私の行きたい所へ行く)」。対象について別の何かではなく、これのことだという属性や所属を標示する。文というより名詞句を作る性質が強い。「〈私兄〉は札幌へ行く」「私は〈豚丼店〉を訪ねる」。「〜の〜こと」や「〜の〜もの」の形で文を名詞句化する。「私帯広へ行くこと」「私帯広で食べるもの」。「こと」や「もの」を代行して重出を避ける。「私が帯広で食べるは、豚丼という〈もの〉だ」。文末に下降して、文自体を再帰的にその文の属性にする。「私が豚丼を食べる(豚丼を食べる者である私が豚丼を食べるんだよ)」。

  • 客助詞

    • :「私は味噌ラーメン食べる」。動作の対象を示す。

    • :「私は札幌行く」。動作の方向を示す。

    • :「私は札幌着いた」「ラーメン屋の客なる」。動作の着点を示す。

    • :「私は鉄道行く」「私は苫小牧食べる」。本来は助詞の「に」と「て」が連続した「に-て」の縮約形で、さらに意味論的には「に‐より‐て」「に‐おき‐て」などの中の動詞が包含されているものと考えられる。しかし元の形に還元しにくい場合もあるようで、別語として分化したものと見てここに入れておく。動作の方法や場所を示す。

  • 共助詞

    • :「私が札幌へ行け、弟も旅に出る」。順接の「ば」。本来は主助詞「は」と同語。「あらむ」のような推測の助動詞「む」に下接する文脈で縮約されて「あら」と濁音化し、いわゆる「順接の仮定条件」を示す助詞として分化したものと見ておく。仮定と確定とは実際には区別が曖昧になる場合も多いので、本来の文脈から離れて「順接の確定条件」を示す場合にも古くから使われた。「行ったら」のように言うとき、「ば」の機能が「ら」に吸収されて「行った」となることもある。

    • :「私は札幌へ行くけれ、弟は帯広へ行く」。逆接の「ど」。本来は「と」と同語だったかもしれない。現代語で「行け」「白けれ」のように用言に直接付く言い方がしにくいと感じられる場合、古い助動詞「けり」の已然形だった「けれ」を転用して媒介とする。「行く-けれ-」「白い-けれ-」。さらに短縮されて「行く‐け‐」。

    • :「君も札幌へ行く、または帯広に旅する」。選択の「か」。選択を示すことから、疑問、詠嘆へと広がる。文中に入って「私君が札幌へ行く」。文末に出て「君も一緒に行く?」は(または行かない?)を含意する。「な」「も」と連結して、感じを和らげる場合がある。「君も札幌へ行くな」「私も旅に出るも」。

    • :「私が札幌へ向かう、弟も旅に出た」。おそらく「ややっ!」と驚きを表すような声に由来するものと推測しておく。眼前の出来事に驚く意から、前文に続いてすぐ起こることとして後文を導く。驚きから「まことか」という疑念につながり、詠嘆に広がるが、「ありなし」のような用法はすでに古語的で、現代語では少ないだろう。文中に入って「私君が旅に出る」とは、(姉や妹も旅に出るかもしれないが)という曖昧さを含む列挙になることには、疑念からつながるのだろう。文末に出る用法も現代語では少ないが、「おれ稚内のことはあまり分からない」のような表現に遺存している。

    • :「兄が札幌へ向かう、私も旅に出た」。共起の「と」。句中にも入る。「私兄は旅に出た」。「や」よりも明確な列挙になる。文中に入る場合、「観光客して私は帯広へ行く」「味噌ラーメンを食べに行く言って兄は家を出た」。上の句や文を「上記の通り」と括って下に係わらせる。砕けた言い方で「て」に転じる。「ラーメン食べに行くっ出てった」。

    • :「兄は札幌へ行く、私も旅に出よう」。前文を要因や理由として後文を導く。古典文法で「強意の助詞」とか説明される「し」に由来する。「飛び立ちかねつ鳥にあらねば(飛び立てない、鳥ではない)」。現代語では、文中で句に付く用法は、「果てない」などに名残が見られる。

    • :「兄が札幌へ行っ、私も旅に出た」。前提の「て」。前文の出来事に続いて後文が起こることを示す。結果として因果関係になることもある。「ラーメンが熱く食べられない」。言いさしのような表現で文末に出て、命令や依頼の感じを和らげる。「早く豚丼を(出せ、ではなく)出し(‐くれ)」。古い助動詞「つ」の連用形に由来するかもしれない。ある状況で濁音化する。「嗅い(<嗅ぎ)」「噛ん(<嚙み)」。

  • 述助詞

    • :「君は一緒に来る」。制止の「な」。打ち消しの「ない(<なし)」と同源だろう。

    • :「君は帯広に行き」。行動を促す感じ。本来は制止の「な」と同語か。現代語でも「行かない?」のように誘いかけや促しに打ち消しを使うことがある。昔もそういった表現をしたことに由来するかもしれない。

    • な(なあ):「君も旅に出るのだ」。詠嘆。上の「な」とは別語として扱ったほうがいいかどうか。同源かもしれない。

    • :「弟は幕別まで行ったよう」。こういう「な」は、伝聞の「なり」から来ているだろう。

    • の(のう):「君も札幌に来るのだ」。古語「なむ」に由来するだろう。なむ>なん>なう>のう>の。主助詞の「の」が文末に出る場合と紛れ、重なることがある。

    • :「私は札幌に行く」。柔らかく念を押す感じ。

    • :「僕は帯広に行く」。念押しして少し離れる感じ。

    • :「私は小樽まで行く」。強めに念押しする感じ。

    • わ(わい)、ぜ、さ‥‥:述助詞は制止の「な」のように明確な機能を持つことは少なく、多く言葉の感じを調整するために用いられる。これは人間関係に影響するので、時々方言から共通語に流入したり、新たに作り出されたりする。「東京さ行く」「博多に来る?」「*夢の島へ行くっ」。等々。

附記:助詞と助動詞の境界領域

助詞は用言(動詞や形容詞)の下に付くと、いわゆる助動詞の位置に近接することになり、助動詞に近い性質を持ちうる。また、「て」のように助動詞から転成したかもしれないものもある。「で」などはある種の動詞の働きを吸収している。

形態的に区別する場合、活用のあるものは助動詞、なければ助詞とすればいいのだが、活用があるかどうかの認定に問題のあるものもある。古くは活用したが、今では活用形の一つだけが残っているようなものは、助動詞とも助詞とも言えることになる。

「で‐ある(<に‐て‐あり)」が短縮された「だ」(森は静か)や、「なる(断定の「なり」の連体形)」に由来する「な」(静か森、森は静かのだ)なども、助動詞とされることが多いかもしれないが、助詞としても扱いうる。完了の「た(<たり)」(森は静かになっ)もここに加えることができる。

しかし機能的な面を重視して分類するならば、動詞の活用形に下接して、その動詞の意味を完成させるような要素は、活用のありなしに係わらず、全て助動詞とする考え方もあっていい。

日本語文法に助動詞という概念を導入したのは、十九世紀末の大槻文彦で、西洋文法を参考にしたといわれている。それより前、伝統的な文法論では、助詞や助動詞などは「てにをは」といった括りに入れるのが一般的だったろう。これは昔のほうが必ずしも不分明だったのではなく、たしかに助詞と助動詞の境界は「すりぬけ」の起きるようなものである。

西洋語の助動詞というのは、例えば英語では、歴史的な文法の変化で動詞の活用が衰退してきたため、失われた動詞の機能を補うために助動詞が発達した。スペイン語では、動詞の活用が基本的に時制と人称の標示をするが、過去分詞か現在分詞になるときは人称標示を取れないので、助動詞が前に置かれてこれを代行する。これらは代用的なものという性格が強いように見える。

日本語の動詞は、基本的にその活用形だけでは、下に続く要素の種類を限定することしか出来ず、むしろ動詞の働き方を決定するのに、多くの場合で付属語を必要とする。必要とされるものが動詞に付く助動詞や助詞で、代用的なものではない。このくらい違いがあることを認識すれば、助動詞という区分がどれほど有効か疑いも湧くし、「てにをは」という括りの意味も評価しなおすべきではないだろうか。

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