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文と語順のこと

 文を作るということは、言葉をある順序に並べるということである。このとき、並び方になんの秩序もないと、それは単なる言葉の羅列になって、文にはならない。なぜだろうか。

 言葉が文になるということは、並びの中の言葉に何らかの方向が与えられて、個別的な辞書的な意味を超えるということだと、こう考えてみることにしよう。つまり、文が演劇の舞台だとすると、名詞には主役か脇役かという配役がされ、動詞には名詞がする演技の指示という位置付けが与えられなければならない。

 例として英語の場合、基本的な他動詞構文で、
 1)Donald bites Joe.
 と言えば、Donald が bite するという演技の主役、Joe が bite される対象の脇役というように、動詞を中に置いて前と後という位置関係で配役が決まる。

 これに日本語で、
 2)ドナルドがジョーを齧る。
 という訳文を対照させ、語順に注目したときには、ただ動詞と脇役の名詞が入れ替わっただけに見えるかもしれない。しかし、日本語と英語とは単に「語順が違う」と考えるのは非常に不適切な理解である。

 なんとなれば、日本語では例文2)の二つの名詞句を入れ替えて、
 3)ジョーをドナルドが齧る。
 としても、名詞の配役は変わらないのに対して、英語では
 4)Joe bites Donald.
 とすると、主役と脇役の関係も入れ替わってしまうので、日本語と英語では「語順の持つ文法的な働きに違いがある」ことがわかる。英語では語順が配役を指定するのに対して、日本語では「〜が」や「〜を」のような助詞といわれる成分が配役を保証するからで、実は表面的な語順の違いは、こうした文法的要素の差異に根差しているのである。

 それなら日本語の文法には、語句の順序によって配役を指定する働きが全く無いのかというと、
 5)オレサマオマエマルカジリ
 のように助詞の無い構成でも、2)の例文と同じように文意が成り立つことをみれば、それは必ずしも然らずということになろう。5)の文では、二つある名詞のうちで、初頭に出るオレサマがマルカジリという動作をする主役、次のオマエがマルカジリにされる脇役と理解されよう。

 しかし助詞が入ると3)のように主役と脇役の位置が替わることがありうるし、名詞や動詞の意味する内容によっても違ってくることがありえよう。このように日本語の語順が持つ働きは、助詞や語彙との組み合わせ方によって、実際の文ではいろいろな結果をもたらすように見える。

 ところで語順に関係する文法的要素が、英語のような西欧言語では、古代から近代に至るまでに大きく変化している。これは古い段階では複雑であるがゆえに不安定さを持っていたため、それを安定させようとして単純化の道を歩んだ末(あるいはまだ過程)が、現代語の文法になっているということである。

 これに比べると日本語の場合は、文献によって知ることができる限り、1300年ほど前から語順は安定している。そしてその最も古い段階の史料によっても、語順が動揺したような痕跡は見られないとすれば、この特徴はきわめて古い時代にまで遡るもので、あるいは世界言語の根源につながっている可能性も考えられる。

 長い間、時代を越えて安定しているということは、その原理が単純であるということを示している。その原理が単純であるにもかかわらず、いくつかの要素のかけあわせによって多様な表れ方をするところに、日本語文法のおもしろさの一つがあると言えるだろう。

 そこで次回以降は、その原理の単純さとはどのようなものであるかについて、考えてみたいと思う。

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