Fingertip spectacle!~網膜と中心窩

最近私は受験生に向けて網膜と網膜の一部で網膜の中にあるほんの1mm程度の大きさのスペースである中心窩の話を良くする。絵画の指導の中に神経生理学をひも解くことで得た知識を活かしていくことを試みている。

中心禍と網膜の双方が持つ異なる視神経(網膜全体で形に反応する錐体、中心窩で色に反応する桿体)の機能の違いによって絵を描く上で注意しなければならない重要な問題が人知れず、数多く生じている。私が神経生理学に興味を持ったのは20年以上前にランダムドッドステレオグラムを知り興味を持って以来、字引き的に調べることで絵画制作の中で問題を解決する糸口や科学的な根拠を神経生理学から得られことが多かったからだ。

神経生理学的に解決可能な絵画制作上の問題も、まだおそらく誰にも知られていないので、多くの人が同じポイントでつまづき、思い通り絵が描けるようになれなくて、マズい場合は才能がないと誤解されて諦めてしまう人が多い。実際これまではとても大きな困難を超えて描けるようになる人が多く、ひとえに絵が描けるようになるには、一般的には才能、実際は根性と言った方が良い現状であることは間違いない。私の見る限り、周りの人間すべて絵画の技芸は根性なしには習得できてはいないと言える。才能は関係ない。才能と言えるような楽をして習得している者が残念ながら一人としていないのだ。

これまで多くの人が根性で絵画技法を習得してきた。再度言うがこれらは才能ではない。ひとえに根性と言った努力の賜物だ。根性なしに習得できるものがいないことは明白。これまでに多くの根性家が技法を習得してきた。その際に弊害になった多くの問題が神経生理学を応用することによって誰もが楽に克服できるようになる。
ここで言っておくが、この話のメインは私の制作する作品の話。作品のコンセプトに網膜と中心窩の問題への働きかけがあるので、その話の導入として指導の話を書いた。


中心窩と網膜の話を通じて、これまでのつまづきの多くが解明され取り除くことができる。そのためこれからは実際に誰にでも絵は描けるようになる。
絵画の世界は今、積極的に「視る」というメカニズムを紐解く必要があるのだ。
それによって絵画の世界は多くの事柄を書き換えなければならない。

人が視覚で物を認識する際には、まだまだわからない問題が多く存在する。絵画はやり尽くされていると言われているがとんでもない。私自身神経生理学に精通しているわけではないが、絵を描く実施においてどのような問題があるか考え、解決していくように実践することについては、この世界の中でおそらく早い方だと思う。私の指導する現場では効果が認められることについては研究の成果は須らく活用している。わかっていることの全てを無駄するつもりはない。
昨年から取りかかった技法書作成には現在はコロナ禍のオンライン授業の準備等で手がまわっていないが、技法書にこれから書き起こす「形を取る」、「立体感を出す」といった基礎においては、早く習得できたり、どうしても形が取れなかった人、立体感が出せなかった人ができるようになるはずだ。

私が気づいたこれらの成果は、tipsを書き、撮影し、公開していく。多分、まあ、先駆的な活動なのかもしれない。
今まで公開してきた私の様々なtipsなどはよく利用されているようだ。HPなどはそっくりな内容と構成の物を他社で2〜3見受けられる。大学生は私のtipsで論文など書いてもらっても良いのではないかと思う。そうすればきっと将来先駆的な先生になれるだろう。

網膜と中心窩の問題は形を取る、測る際の問題に通じる。
人間は物を見る瞬間、網膜で空間全体を見ている。その際に認識しているのは網膜をスクリーンとしてそこに映し出された白黒のシルエットの形だ。その瞬間に色や細部は認識していない。

形の取り方は簡単に言えば網膜が光に反応してすぐに脳内にシルエットの先入観が浮かび上がるので、その瞬間にモチーフを隠すのだ。そして頭に残るイメージを頼りに画面に向かい、下描きの下描きである「あたり」をとる。これが究極の下描きの取り方だ。よくわからなければ私の所に習いに来るといい。

網膜に光が入り込んだ瞬間は色や細かい形は認識していない。
写り込みと同時に左右の瞳孔の周りにある虹彩の絞り機能が働き光の量が調節される。毛様体とチン小帯の働きによって水晶体の厚みが変わり焦点が合わせられ、最初のA地点が見える。A地点から焦点は網膜に映った全体像の中から適当な縁辺を探る。その際に白と黒の境を行き来しながら次第に見方が適宜ミクロになり、縁辺にそって物の輪郭を瞬間的に認識していきながら、定めたB地点に向かう。人間の焦点は見えている境界線のコントラストを高く上げて見やすくすると同時に細部をどの程度まで見て、どこから先を見ないようにするかを判断し調整している。これらの脊髄反射的に行っている一連の作業はコントロール可能だ。

立体感を出す際は明暗境界線をとても細かくみて辿らなければならない。それを画像などを使って生徒とともに鉛筆の先で一緒に辿ることで生徒は微細な境界がわかり、ほどなく観察力が養成され描き起こせるようになる。それが立体感が誰でも出せるようになる私の指導の秘密だ。

絵を描く時は一生懸命に物を見ようとする。ただ、皆さんが一生懸命にもの視る時に行っているのは中心窩で縁辺を探る作業だ。
私の所に訪れる生徒の全員が絵の描き始めは中心窩で見ようとする。一生懸命に見ようとすればするほど中心窩でミクロに見ようとするのだ。網膜で大きく見ようとすることはない。そのような才能は未だかつて一度も目にしたことはない。つまり才能はいらないのだ。このような現象が必ずあるので最初に網膜と中心窩のことを説明してあげると生徒は網膜でみようとするので、早く物の見方を探る意識を掴む。網膜で形を見ることからその後のことを指導してあげると正確な輪郭の形を取ることがわかってくる。

網膜で物を視る事自体は絵画の世界では古くからあることだ。
絵画の世界の傾向として網膜で視ることを重視。中心禍で物を視ることの素晴らしさや可能性については言及する意識は希薄だ。ここに大きな未開発の可能性が隠れている。
今回の作品は中心禍で物を視ることについて描こうと考えている。網膜的に見るアートならびに絵画の正解と対比するためにあえて大きなキャンバスを選んだ。
私の作品は網膜的ではない大きな作品だが私の作品を価値のないものをするのであれば遠慮なく価値のない、悪い作品と評価して欲しい。そうすれば私はそれを10倍か気分によっては100倍返しでコテンパンに叩きのめすだろう。

アートの世界は網膜で見せる絵画ばかりで市場も、展覧会も、画廊も、大学も中心窩で視る世界を評価する機能を持たない。網膜の世界は訓練を要する世界。つまり、中心窩でやりとり可能な感性の世界を認めることでアートの世界は飛躍的に活きる物に生まれ変わる。

私の仕事は神経生理学の研究を進めることではない。アートの世界に中心禍で見える世界を評価する機能をもたせることだ。
その点において、私は無償でtipsを公開していくので興味のある人は眼を通すとよい。先程も述べたように学生はこれを論文に起こせばそれなりにうまい汁をすすれるはずだ。それで何なく一生食べていける人がもう一人増えるのであれば本望だ。


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