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「線の見えるようになる飽きない線」FDL Tips 12−1

絵画には最初は見えずに、よく見ると見えるようになる線があります。
人によって形の認識の仕方は違いますから、初めて見る絵は普段見ている見方ですんなり見えてくるとは限りません。
例えば印象派以降の絵画に多いのは近づいてみると何が描いてあるかわからない、網膜全体で見るような、作品から離れてみる見方。人は基本的によく見る時は網膜の中にある中心窩という1mm程度の部分で細部と色を見ますから、中心窩以外の網膜全体で物を大きくみることには慣れていません。

今回の私の作品はざっくり言えばやはり最初は網膜全体で見て、それから中心窩で見る。その中心窩で見る際に多くの人にとってあまり体験したことのない微妙な縁辺を探ることになると思います。
上の画像の親指の隣の線です。

よく見ると見えるようになる線を認識した瞬間に何かの感動があります。
大抵は、「面白い」とか「綺麗」と言ったものです。

人によってはその線がそれでしか見ることの出来ない線であれば忘れられない記憶になるかもしれませんし、まあ、興味関心がなければつまらないものかもしれません。感動するにはその下地が必要です。でも、私の絵に関してはわざわざ予習などする必要はありません。

線が見え続けていけば、それは経験済みの連続。続けばありきたりの経験になります。
なので見えない線と見える線の境界を追い続ければ、それについてありきたりと言う感想はありません。その行為全般を飽きることはあると思いますが、線自体は飽きのこない線になります。

今回の線は見えません。でもよく見ると見えるようになります。
今回の作品を描いていて線を引いている時は基本、筆を置く場所は眼では見えません。
指先の感触で少しづつ位置を詰めてやっと筆を置く場所が特定できます。
なので見えているようで眼では見えていないのです。
手で見ているといいましょうか。
一応仕上がりは目で見えるには見えるのです。

私の視力はどんどん落ちています。
老眼もあるので、日に日に見えなくなっています。
それも手伝って見えるようで日に日に線は見えなくなっているのです。
完全に見えなくなってしまえば、それはどうにもなりませんが、それでも「見えた」という認識が得られた時には何かしらの感動があります。
見えない、見えるという境界を行き来することで絵の感動は無限に広がるのです。

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