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「線を描いても無邪気な線をみんな引ける気分ではない。」FDL Tips 12−4

絵は本来は楽しいものです。
本来とは幼児の頃とか生得的な力で野生的に絵を描いていた頃とか、絵の描き方、周りを汚さないなどのルールを与えられる前です。
大人の皆さんとか、物心を覚えた子供も含めて忘れてしまっている頃。
絵はこの本来の楽しさを忘れてしまうという問題を随分昔から知っています。
でもこの問題はとても高い壁で人類は越えようとして未だに越えられないでいます。

この壁を超えられないことは、つまり人生を楽しめない、かもしれないことを意味します。すみません。失礼かと存じますが、気分の操作の方法がわからずに人生を楽しめないでいる方は多いと存じます。アルコールに頼ったり、イライラして身をよじったり。私自身仕事を楽しめるように、毎日楽しい気分で仕事に行けるようにするために、とても大変だったものですから、失礼を承知で書かせて頂いています。

楽しくない人生を楽しくする。
1本の線を引く時に楽しく引けるようにすることは、そのまま、日常のあらゆる行為を楽しいものに変えるのに役立ちます。


これがまだ実現できていないアートと絵画の真価の一つ。自由にのびのび。導入はされていますがかなり歪んだ伝わり方になっています。

これは、これまでの絵画が、これからの人達のために片付けておかなければならない課題。
課題を片付けずにいて偉そうな顔などできない。恥ずかしくて顔向けできない。
というか偉そうな顔をしている人は100%自分が儲けたいだけのつまらない輩ですけどね。
かつての巨匠達が現代の画家に残した宿題。勝手にそんな気がします。
「絵画は終わった」と言った声も上がりますが、いえいえまだまだやれていないことばかりです。

絵を描くのは楽しいと世間では耳にすることは多いですが、私の印象はちょっと違います。殆どの人が辛い状況で絵を描いている。
世間では皆んな絵を倦厭し、絵画の世界に足を踏み込み、この世界を知っている人ほど嫌いです。と私はそんな印象を抱いています。
実際の所は意識調査していないのでわかりませんが、本当に皆楽しく絵が描けているのでしょうか?と、正直思います。
私の周りには楽しく描いている人はいないですね。
強いて言えば私くらいです。すみません。
私は周りがどうであれ、自分の考えを断行してき・・。すみません。

絵を描くということに関して良い話はよく出回っていますが、辛い、楽しくない話は皆伏せるので表には出ません。

落描きや落描きに近いイラストを自由に描く時は楽しく描けることは多いようです。
でも、仕事として絵を描く、それもデザインや絵画といった仕事で描く時には楽しく描けるという話を聞く機会は少ないように思います。

今回私が考えてみたいのは、楽しく描いてもいいのにそのような気分になれないことについて。

落描きやイラストを描いてもいいと言われてもそのような気分になれなかったり。
気持ちを開放するにはある程度時間が必要であったり。
脳が抑えるモードから開放のモードに切り替えなければならなかったりします。
そこをざっとスルーせずに紐解いていかなければなりません。

絵画の歴史は自由な表現を目指して、アカデミックなガチガチの絵画のルールからほぐしにほぐして、ルール自体はかなりフリーなものになってきています。
美術館での制約についてはまだ多少のことはあるようですが、以前と比べれば自由度は高くなっていると言えると思います。
ルールがフリーになっている絵画ですが、私の目論見は、アートの外の皆さんが楽しく絵を描けるようになって欲しいというものです。
なれる可能性があるのだけれど、まだそうなれていないので、何かアプローチが必要だと考えています。

アートの外の皆さんが楽しく描ける気分になれない。
太古の人たちはみんな楽しく描いていたのですよ。
きっとそうです。


世界最古の壁画、あまり真剣には信じていませんが、最近では5だの8万年前だのという話も出ています。
あれは、例えば、手形なんかはとても無邪気な絵です。
とても無邪気に楽しく描いている。
無邪気な絵は世界中の色んな場所で見つかっています。
つまり世界中のみんなが無邪気に絵を描いていたのです。

日本では見つかっていませんが、多分日本のどこかにもあるでしょう。
私の知るかぎり日本人はそういうハートを持っています。
見つかってはいませんが、むかしむかし日本人は同じようにペタペタやっていたはずです。
無邪気にみんなでペタペタ。
かの天才李小龍のように。
Dont think feel peta peta.
アチョ、ウ〜アチョ。

怖いことを言うようですが、
無邪気な絵の画材は動物の血です。
動物を洞窟の中で食べた時に手が汚れたり、貯めた血に手を突っ込んで手につけたりしてその辺の壁につける。それか血を口に含んで、きれいな手を壁につけて手に向けて血を吹き付ければ手の周りの壁にだけ血がついて手の所だけ血がつかないので手を剥がせば壁に手形がくっきりと残る。

この手形は目的も推測されています。縄張り等です。
縄張り等の意味があれば無邪気につけたのではないかもしれませんが、子供が真似したり、暇つぶしの遊びで無邪気につけられたものも多いハズです。

手形が縄張りとしてなぜ成立したのか?
それは辺り一面大自然で人が痕跡を残せる場所は限られた所。
やっと見つけた場所なので目立つようにぺたぺたやっているのできっと迫力があります。
洞窟は雨に濡れて血が流れ落ちることもなく。
大自然の中で洞窟は雨をしのげる大変大事な生活環境だったはずです。
その空間を他の人にとられないように、兎に角壁じゅうに手形を押しまくったのだと思います。その作業は必死かもしれませんが、無邪気にやっていた奴もかなりいたはずです。

我々の住む空間は手形の時代と比べてどうでしょう。
無邪気に手形をつけていい場所はどこにもありません。
世界中どこでも勝手に手形をつけてはいけないことになっています。
そこに無邪気に絵を描ける空間はないのです。
そのかわり縄張りを荒らされることはめったにない。
つまり、無邪気に絵を描ける場所はどこにもないということになります。
勝手にぺたぺたやったら縄張りを荒らしたことになって捕まります。

昔は無邪気に絵を描くことができた。でも今は場所がなくなったせいでできなくなった。
私は絵画の役割のひとつはアーティストを制約でがんじがらめにするのではなくて、アーティストに限らず、誰もが無邪気に絵を描ける場を設けることだと思います。ご家庭内では私が描いているような大きなキャンバスを1枚置いておく。

我が家の犬おとめは家のトイレ以外では絶対にトイレをしませんでした。
旅行に行った時、3日目になってやっと海でトイレをしました。
飼い主に似ず、本当に賢い子。意地でもトイレをしませんでした。
人間にもなんとなく無邪気に絵を描いていはならないという意識があるのだと思います。なんか絵なんか書かないほうが身のため、そんな意識があるように思います。
時計じかけ意識です。無意識の中にそれがあるので、どうも無邪気に絵を描く気分になれません。
突然無邪気に絵を描けと言われても誰もできませんよね。
なんとなく怒られるような気がする。
して良い所と悪い所を気分のレベルで上手く区別できている人は少ないように思います。

人の気分について考えることは、私は絵画にとってとても大切なことだと考えています。
無邪気にやって良い時間と空間を作る。
酒に頼らず。
皆ちっちゃい頃はできていたのですよ。


人間は幼児期に絵を描くという概念はありません。
でも、絵を描く前の人間は絵を描く無邪気な面白さを知っています。
それで絵を描くことを学ぶことと引き換えに、無常の喜びの絵を捨てるのです。

今回の話の本題ではないのでさらっと流しますが、幼児期に「大人の振る舞い」を学びます。その時に絵の具でぐちゃぐちゃにする時のえもいわれぬ喜びを捨てさせられているのです。それが大人になるということであり、何者かに従うということでもあります。

大人になるということは必要なこと。しかし目の見えない何者かが、不条理な仕掛けを作っているのであれば、それに従う必要は一切ないのです。私は不条理がある。沢山。と思います。それを徹底的に取り除くというのは作品の裏のお話です。

今回は1本の線を引くお話です。
1本の線を引く前に頭の中にある不条理とは何か?
時間をかけてそれを列挙していきます。
そして1つずつ解決していく。

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