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process 2: 逐語録をシェイプアップ

 【process 1: 音が文字になるとき】は、一度きりの「人の声」というクローズドでホットな空気の揺れを、いつでもアクセスできる「文字」というオープンでクールな可視的な信号に変換する、その工程でした。


 今回の【process 2】では、その文字になりたてホヤホヤでまだ人肌のぬくもりの残る「文字」を、読んで内容がスムースに頭に入ってくる「原稿」へと整えてあげる工程です。

 たとえば... これがテープ起こしされたままの「逐語録」です。

 私は、今から50年ほど前に、マスコミュニケーションに、すごく、深く、幅広く参加させていただいて、マスコミュニケーションに参加したのが、大体2年あるいは3年ぐらいになりますね。今から50年前のことです。
 そして、それから、私は、マスコミを引退して、ときどき出ていましたけれども、本格的に登場することはなくて、そして、パーソナル・コミュニケーションというものにあこがれて、マスコミに対して若干失望したというか。マスコミとパーソナル・コミュニケーションとの違いは、ロンドンで出会った、留学先で出会った精神分析によって明らかになったのですが、マスコミというのは、今日みたいな同じ内容を同時に不特定多数の方に送り届けるというコミュニケーションの方式です。
 もう1つのコミュニケーションのあり方は、「パーソナル・コミュニケーション」というもので、繰り返せない、一度限りのコミュニケーションを、たった1人の人、あるいは、特定の人に送り届ける。このコミュニケーションは2種類あると理解していただいていいと思うんですよね。不特定多数の人に送り届けるコミュニケーションと、特定の人に1回限り送り届けるコミュニケーションとあります。
 その出会いということを重視して、マスコミでは人となかなかちゃんと出会えないという失望があって、それで、開業医となりまして、精神分析を実践することになりました。それは、人と出会って、人のことを理解するという、心を理解するという方法であります。それで、大学人になって、九州大学に招かれ、白鷗大学に招かれ、そして、この精神分析を教えるという仕事に就きました。
 私は、ずっと、このお会いできることと、会えないこととに拘り続けてきたと思うんですよ。人前に出て、あるいは、いくら深夜放送に出ても、実際に会っていないじゃないかという、ひょっとしたら今日もそうかもしれませんけれども、でも、今日なんかは、前よりは、皆さんとお目にかかれている感覚は、やっぱり深いと思うんです。ただ、やっぱり実際の皆さんと直に触れているわけではないという感覚は、今日も、今ここにもあると思うんです。                                 私の専門としてきた精神分析というのは、人との、特定の方との出会いを繰り返して、それで、その方のお話を聴きながら、その方の人生の心の台本、人は相手役を変えながら、同じ台本を繰り返して、それで、我々のところにいらっしゃる方は、ほとんど悲劇を繰り返しておられるわけですけれども、その悲劇を読み取って、言葉でそれを取り出して、なぞって、その反復を人生の物語として描き出す。これが精神分析の方法です。
 そして、皆さんには、それを生き直していただく。人生を悲劇として生きておられた方の台本を、できれば、少しは書き直す。あるいは、それをちゃんと生きていくという方法を共に共有していくというのが精神分析で、これは「出会いの医学」、あるいは、「出会いの深層心理学」と呼んでいいと思うんです。
 それで、人生、物語を紡ぎ出すための言葉というものをとても大事にしているというわけです。私たちは、言葉なくして精神分析を実践することはできないし、直接お目にかかることなくして、この物語を紡ぎ出すことはできません。

 前回も触れましたように、AIに負け知らずの職人: 福浦清美さんは、この段階ですでに相当な「ケバ取り」(「あのー」とか「えっと」とかを取ったり)を施した上で、十分「読める」原稿に整えて下さっています。    けれども、まだ、繰り返しがあったり行きつ戻りつのフレーズが散見しますので、それをシェイプアップするのですね。

 わたしなら、こんな感じに調整するでしょうか...。

 僕がマス・コミュニケーションに、深く、幅広く参加させて頂いたのは、今から50年ほど前になります。その期間はだいたい2,3年でしょうか。そのあと私は、マス・コミュニケーションに若干失望したというか、パーソナル・コミュニケーションというものにあこがれて、基本的にマスコミを引退しました。マス・コミュニケーションとパーソナル・コミュニケーションとの違いが、ロンドンで出会った、留学先で出会った精神分析によって明らかになったのです。
 マス・コミュニケーションというのは、今日の講義のように、同じ内容を同時に不特定多数の方に送り届けるというコミュニケーションの方式です。もうひとつのパーソナル・コミュニケーションは、繰り返せない、一度限りのコミュニケーションを、たった一人の人、あるいは、特定の人に送り届けるという在り方。不特定多数の人に送り届けるコミュニケーションと、特定の人に一回限り送り届けるコミュニケーションがあるわけですね。
 思えば、僕はずっと、この「お会いできることと、お会いできないこと」をめぐって考えてきました。人前に出てはいても、あるいは深夜放送に出てはいても、実際に会っていないじゃないか? という感覚にこだわってきたのです。ひょっとしたら今日この講義などは、以前よりは、皆さんとお目にかかれている感覚が深いかもしれません。ただ、それでもやはり、実際に皆さんと直に触れているわけではないという感覚は、今ここにもあると思うのです。                               そんな次第で、開業医となって、精神分析を実践することになりました。それは、人と出会って、人のことを理解するという、心を理解するという方法です。僕の専門としてきた精神分析というのは、人との、特定の方との出会いを繰り返して、それで、その方のお話を聴きながら、その方の人生の心の台本、人は相手役を替えながら、同じ台本を繰り返して、それで、我々のところにいらっしゃる方は、ほとんど悲劇を繰り返しておられるわけですけれども、その悲劇を読み取って、言葉でそれを取り出して、なぞって、その反復を人生の物語として描き出す。これが精神分析の方法です。
 そして、皆さんには、それを生き直していただく。人生を悲劇として生きておられた方の台本を、できれば、少しは書き直す。あるいは、それをちゃんと生きていくという方法を共に共有していくというのが精神分析で、これは「出会いの医学」、あるいは、「出会いの深層心理学」と呼んでいいと思うんです。それで、人生、物語を紡ぎ出すための言葉というものをとても大事にしているというわけです。私たちは、言葉なくして精神分析を実践することはできないし、直接お目にかかることなくして、この物語を紡ぎ出すことはできません。

 やってみると、そもそも、この話者(きたやまおさむさん)が半ば原稿を読むような思考回路でお話しされた記録で、わたしの調整がなくとも理路整然としていたため、どちらかというと「やり甲斐に欠ける」作業でした。それでも分量は2割減くらいになっているでしょうか...。


 さてさて、問題はこのあとの【process 3: 原稿を練る作業】です。ここから著者(このケースでは話者: きたやまおさむさん)との協同作業のスタートとなります! 一冊の本をつくるうえで、いちばんドキドキ・ハラハラのプロセスとなります。ヘタすると著者さんから「お目玉」を喰らうことになりますから...(でもわたしはこのプロセスに、いちばんワクワクします!)

 それでは... 次回【process 3】でもお目にかかれますように...


 


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