小説「カフェ”木陰の散歩”にて」(22)

 今日はカフェはお休みで、ケンジと奥さんは二人で早めの夕食をのんびり二人で取っています。先日ケンジは日帰りで、東京にぶらりと出かけていきました。その時のことが話題になっています。

☆ ☆ ☆

 料理もそろい、夕食の準備万端。ケンジはワインを開け、奥さんのグラスに注いだ。おもむろに奥さんが話始めた。
「ありがとう。ところでこの間ふらりとでかけて、いったいどこに行ってきたの?」
「いや、ちょっと乗りたい電車があったんだよ」
「電車って、そんな趣味、あなたにあったの?」
「電車と言っても路面電車。子供の頃の路面電車を思いだすけど、今はもうすっかり無くなってしまったよね。もちろん都市によっては完全に無くなったわけではないけど。ところが、都内にまだ都電が走っているというのをたまたまネットで知ったんだよ。それで、急に乗りたくなってね」
「そうなのね」
「起点の三ノ輪まで行って、そこから乗ったんだ。路面電車といっても、線路は専用だから、枕木と砂利石で支えられている。だから、まあ言ってみれば、普通の電車を小ぶりしたような感じかな。まあそんなものかなあと思ってしばらく乗っていたんだけど、それが途中から、道路の真ん中を走るようになった」
「へぇ」
「道路の中央が路面電車用エリアに区切られていて、もちろん電車しか走れないんだけど。でも、線路は道路と一体化しているから、もうそうなると、いつもの電車ではなく、路面電車の景色だよね。最初乗った時はちょっとがっかりした気持ちもあったから、だんだんうれしくなってきてね」
「はいはい」
「それで王子駅まで行ったんだよ。そして、しばらく駅前をぶらぶらしていたんだけど、もっとびっくりすることがあった」
「どうしたの?」
「駅前に坂があって、そこは数百メートルくらいなんだけど、自動車と路面電車が同じ車線を走っているんだよ。まさに昭和の風景を見た感じで、ちょっと感動した」
「そんなところが残っているのね」
「本当にそうだよね。しばらく見入っていたんだけど、自動車も路面電車も慣れている感じで、スムーズに流れていたなあ」
「そうなのね」
「昔、僕が子供の頃、父親の車に乗って路面電車の軌跡の上に信号待ちだかで停車していたら電車にぶつけられたことがあってね。その時を覚えていたというより、大人になってから何回も父親からその話を聞く機会があって、すっかり頭に残っているんだ」
「まあ、そういう時代もあったのね」
「まさか東京都23区内で、こんな光景が見られるとは思わなかった。ああ、ちなみに王子駅は北区ね」
「まあ、楽しめてよかったわね」
「そうだよね。子供の頃の懐かしい記憶がよみがえる、そういうことが楽しいのだと思う」
「そうね。だから私も、付き合って話を聞いてられるわ」
「本当だよね。周りの人は当たり前のように乗っていた。僕が普段、電車とかバスとかにのるように」
「そりゃあ、そうでしょう」
「もちろんそうなんだけど、何というか、同じ状況にあっても、その人の過去とか、今の生活とか、そういうことで感じ方がずいぶん変わるよなあ、と思ったんだよ」
「なんか、理屈っぽいわね。酔って来たんじゃない?」
「そうかな」
二人は飲んでいるワインが少し回ってきたようだ。まだまだ話は続きそうであるが、それも夫婦円満の証拠かもしれない。

(了)

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