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伏見稲荷大社で学んだこと

続けて覚書きのために書きます。だらだら書くので長くなります(笑)
実は4月の終わりから断捨離を始めて、物を減らすことで自分の執着を手放したり、今の自分の身の丈が見えるようにしたり、使うものを厳選することで出費を減らしてその分いい物を使うことで生活の質を変えるみたいなことをやってるんですけど。
財布の中のポイントカードとかレシートもだいぶ整理してきたのですが、どうも長財布が鞄で大きいと感じるようになり…。よく考えたらもうかれこれ7年ほど使っている財布で、とてもお気に入りで綺麗に使っているのであと3年は全然使えるだろうなっていう、キラキラで超可愛くてアガる財布ではあるんですけど、でも、なんとな~~く、う~~~ん……大きい……重い…と思うようになり。
それにすごく綺麗に使っていてお気に入りとはいえ7年は長いだろうと…。これはそろそろ、次の7年後の自分が使っている財布を探すべきときかもしれないとも思うようになり、財布を買い替えることにしたのです。それが5月のこと。なぜか5月のある日、「今日は財布を探す日だ」という直感が働いた日があって、実際に探して歩き回ってみたところめちゃくちゃいいお財布と出会いました。でも不思議なことに、そのときは「たぶんこの財布がいいと思うけれど、買うのは今日じゃない…」と思ったので、下見だけをして買わなかったんです。
ちなみに余談ですが、この日は別のご縁が結ばって(生すばって?)、友達の口コミ→おいしい和栗のクリームパン→3000年くらい前の神代杉を使った一輪挿し とまるでわらしべ長者のように次々縁が繋がっていく不思議体験をしました。そして自分の我欲にも気付いて、あっこれ気をつけなきゃいけないポイントだ!みたいなこともありました。気になる話かもしれませんがここでは割愛します。いやめっちゃ楽しい日だったんですけどね。

で、なぜか昨日ふと「めちゃくちゃ天気いいし、これは今日財布を買う日かもしれない!」と直感。というかGoogleがなぜか「一粒万倍日と巳の日が重なる日!」って記事を出してきたのもある。電子やITの世界、なんでわたしにそういうものを授けてくるんだ????すげえ。絶対量子の世界だ。
そういう引き寄せもあり、昨日無事におニューの財布をお迎えしたのですよ。それも、自分が可愛い!と思う色の財布ではなく、なぜかこっちの方が気になる…というか財布に呼ばれている気がする……という色を選びました。革の財布だったので、下見のときは一般的な明るい茶色の方を見ていたしそちらが可愛いと思っていたはずなのですが、なぜか気になって仕方なかったのは黒い方で。素敵な店員さんが接客して下さっていたのですがその人の黒いお洋服も素敵だったし、「黒財布は黒字になるといって験を担ぐ人もいますよ」と言われたので黒に決定。こういうのは直感とノリが大事です。

で、そのおニューのお財布。創業者の思いや職人さんの思いが感じられるとても素敵なものなのです。お迎えしたときには紅白の組み紐が通されたご縁玉が入っていて、わあ!こういう心遣いがとてもいい!と思って。
買ったのは昨日だったのですが、下ろして使い始めたのは今日。そう、今日は一粒万倍日+巳の日です。そして一粒万倍日といえば、一粒の籾がもっと大きな実りになるということで。伏見稲荷大社にお詣りしてきました!
実は自転車で行ける距離に住んでいるのです。ありがたや。

最初、わたしはこれでお金が入ればいいな!丁寧に財布を使って、お金を使って、いい縁があって、もう少し経済的に膨らめばいいな!と、ルンルンではありますがそういうめっちゃ俗っぽい思いもありありだったのです。ところが、実際にお詣りすると不思議なことが起こりました。

行ってみると観光客が多く、特に色鮮やかな鳥居や社殿神殿、お狐様や狛犬さんたちが大人気。みんな写真撮りまくって楽しんでいました。修学旅行生や着物姿の日本人旅行客、国際色豊かな海外からの旅行客。みんなとても楽しそうで、元々綺麗で色鮮やかな伏見稲荷大社ではありますが、あちこちで元気な気があるのがとっても良かったです。でもちょっと気になったのは、私みたいに「一粒万倍日だ!お稲荷様~!!!」って来てる人、いる???(笑)え、少数派!?ここ神社だよ!?みんな「お金持ちにしてください!」とか「映える!!!」なの???それはちょっと不思議だった。

で、せっかくなので下の本殿のところと、奥の山の登山入口手前のところまでお詣りしました。下の本殿で小銭入れに入っていた「ご縁玉」を、奥の院の方で札入れの方に入っていた「ご縁玉」を、それぞれお賽銭にしたのです。はい、財布は2つ買いました。お札と小銭入れを別にしたので。お札用の財布の方にある小銭入れは、お守りを入れています。

不思議なことというのは、ちょっと気付いたんですけど、お狐様の持ち物について。下の方のお狐様は、宝珠と黄金の稲穂を持っているんです。一番下にいた駅前入口のお狐様も黄金の稲穂。いかにもお金!実り!って感じです。いいねえ。黄金の稲穂、超アガる。わくわくする。お金欲しいし。
ところが、本殿より上に上がるところでは宝珠は変わらないのですが、持っているのは稲穂ではなく巻物なんですよね。あ、違うんだ。巻物だと、これは知恵とか教養、知識などかな?と思いました。
わたしが思うのは、お金という物質だと、間違えば無くなってしまったり他人に騙し取られたりするけれど、知恵や教養・知識という自分自身の身につけた財産は他人が横取りしようと思っても取れないものなんですよね。いいねえ~~~!!!それもすごく大事だし欲しい。欲しいというか、これは自分で身につけるべきものですね。
ついでにこの宝珠・巻物ペアのお稲荷様のあたりでは神馬を祀っているところもあったのですかさず祈願。「世界中の馬たちが幸せになりますように!!!!」とめちゃくちゃ食い気味で。
ちょっと自分で笑っちゃったんですけど、いつもなら神社では丁寧に自分の名前を名乗ったり住所をお伝えしてからお願いしてたのにいきなり馬の話しちゃった。いやいいんです別にどこの誰べえか分からなくても。自分への見返りを求める祈願じゃないので。馬の幸せはわたしの幸せなので。馬が幸せだったらもうそれで何でもいいです私は。でもこの勢いには神様も「お、おう……」ってなってるんじゃないかと思うとウケる。

そして千本鳥居のところ。ここはもうさすがにすごい人です。みんな写真を撮っています。私も写真は好きですが、こんなにいい天気でいい気が回っている場所だから、みんなにも感性を使って感じて欲しいな、何か伝わるものがあるといな、とアナログなことを思っていました。
そして私はと言うと、千本鳥居のところはなだらかな坂道で石段ではないのですが、並んだ鳥居により光と影が交互になって、それこそが階段のように感じられました。
今日はとても暑かったので、程よく影があることにほっとしますし、合間合間から木漏れ日のように入ってくる光がキラキラと本当に美しくて、陰翳礼讃、光と影のどちらもが素晴らしいと感じられました。同時に、影ばかりが続くと光が恋しくなるし、光ばかりが濃くても人間は辛くなってしまうだろうなということも感じられ、人生はどちらかに偏ってもしんどいのだということと、光と影が程よく交互にくることこそがそのどちらも愛する秘訣なのではないかということ、だから今が影に感じられるときであっても何も怖がる必要はないのではないかということでした。
そして鳥居は一つ一つ奉納されたものであるため、個人の名前や会社名が並んでいて、みんなそれぞれ違う願いを願掛けしているのではないかと思うのです。先日ある人に言われた言葉ですが、「ここは人間世界なので、色んな人がいていいのです。そのことを認めること。みんなここで修行をしているのですから」ということを思い出しました。色んな願いがあっていいのだと思いましたし、色んな願いが集まってこの景色を作っているのだ、色んな願いがあって私が感じた学びも生まれるんだ、これは色んな人がいるおかげなんだな…ということも感じました。

そして千本鳥居の周辺にいたお狐様は宝珠と鍵を持っておられるんです。あ、鍵!?!?鍵、それも不思議な形をした鍵です。ここで私が思ったのは、この鍵はNEXT DOOR、つまり次の次元へ行くための扉の鍵ではないだろうかと思うのです。帰宅後調べてみたところ、これは蔵の鍵で富の象徴だという説明が非常に多かったのですが、神様の富というのもなんだか恐れ多いですし、富というとお金に限らず確かに様々な種類があるのでそれを望んだりするのがダメというわけではないと思うのですが、どうもわたしには次の次元への鍵に思えてならないのです。
だって、中身の富がどうこうって話だったら、鍵を開けてどうぞじゃなくても良くない…?勿論、誰にでも何でも与えるというわけではなく、その人それぞれに与えるという意味では宝物に鍵をかけてしまっておくという発想も分からなくはないんですけど…じゃあ鍵を開けてくれたら「好きなの持って行っていいよ」みたいな話なの???と、どうもしっくりこなくて。
わたしは鍵ものそのものが不思議な形をしているのも、これは人間が自分だけでは開けられない不思議な世界の扉みたいなものがあるのではないか?とも思ったんですよね…。それだったら、知識など、自分自身の手の届くものの範囲より上位のものとしての位置づけも納得がいくというか。ある説明では、「神徳を得ようとする意志の象徴」とも書いてあったので、その方がまだしっくりきます。つまり、単なる知恵や知識ではなく、それより更に上の徳というものがあるということですよね。しかもそれは神様の領域に近い。

そんなことを感じたので、これを自分自身の今日得た学びだと思っています。
つまり、お金や物質的な富は入口。お金が欲しい!と思って行動をし始める。でもお金を求めるうちに、お金を求める中で知恵や知識が本当はもっと大事なんだということに気付くのではないでしょうか。だから、どんな願いもお稲荷様は否定しない。お金が欲しい!というのは、さらに上の願いの入口になるものだから。
そうして知恵や知識が欲しい、と豊かさなどを求め勉強や努力をするうちに、どうしても自分だけでは開けられない扉があることに気付くのかもしれません。そこで初めて本当の意味での神徳を得たいと、次の次元に引っ張り上げてくれる存在やご縁を望むようになるのかも。そしてお稲荷様はそれを叶えてくれるんじゃないかなと思いました。
そう、”望めよさらば与えられん”とキリスト教でも教えていることがまさにそれなんじゃないかとも思うんですよね。望みの種類が変わっていくことは、人間自身が成長していくことと連動しているのではないかと。だから、どんな望みも否定したり拒否したりするのではなく、その人それぞれの願望があっていいし、その人それぞれの願望のために努力する中で得たものが次のステップへと導いてくれるのではないかなーと。や…優しい……。
今日のお詣りでそれを感覚として、すごく実感を伴って感じられたのは本当に有難かったです。

そして奥の院の方でおみくじを引いたんですけど、その内容がですね、神様ってやっぱりいるんだな。見てるんだ…。とびっくりしました。びっくりしたあとちょっと泣いた。有難うございます。って。

【凶後大吉】名にも知れ天の益人平坂をふさぎし石ぞいのちなりける

調べてみたところ、色んな解釈はあるようなのですが、私自身の解釈としては、邪魔だと思った石にこそいのちが宿っているのだと。自分の行く手を阻むように見えるものによって助けられてもいるし、その石があるから私は正しい道を選んで来られたのかもしれない。それに、私が邪魔だと思った石にもいのちが宿っているのだから、自分の我を通すためにそれを傷つけたり無理やりどかせようというのは無駄の多いことで自分にも無理が返ってくるかもしれないから、それはそのままにしておくのがいいのかなーと。

あと何に泣いたって、「これまで死ぬる思いの苦労をつづけて、やっと峠をこしたところである。ここで過去を清算して、再出発せよ。幸運は前途に待っている」って書いてたんですよね…。
確かにこの5年くらい本当につらかったところから頑張ってきて、過去2年くらいは家族のことも色々あったし仕事も不安定な綱渡りみたいな状態でやってきたところがあるので、ようやく今また頑張ろう!という気持ちになれたというのはめちゃくちゃ当たってて。だからこそ断捨離で自分の身の周りのことを整えたり、趣味を始めたりといった余裕が出てきたし、財布を買い替えてこの先の七年も頑張ろうと思ったりしたわけなので、もう、マジで神様って見てるんですよ…怖いくらい見てるっす…。でも見ててくれたんだな、それでこんなに優しい言葉をかけて下さるんだな、ってちょっと泣いたもん。嬉しい~~また頑張ろうと思いました。

それで、奥の院限定で売ってあるというネックレスの形をした鍵のお守りがあったのでそれと、可愛い狐面のストラップ御守りを頂いてきました。ネックレスのやつ、一見してまさかお狐様の鍵だとはわからないのでちょっと変わったネックレスみたいでいい(笑)あと白狐守というストラップ御守りもすごく可愛くて、自転車の鍵にでもつけようかなと思っていたんですけれど、なんと先ほど偶然電話がかかってきた母も財布を新調したというので、これは母に渡すようにうちへ来たんだな~と。しかも母は母で、母の妹である叔母が結婚式でハワイに行ったお土産で財布を買ってきたというので本人の意思じゃないんですよ。タイミングすごくね?
御守りあげるとは別に言ってないんですけど、しかもめちゃくちゃ可愛いのでちょっと惜しい気がしないでもないですが、ご縁というのはこういうときに出し惜しみするものではなく次に繋げるものだということも学んだので、まあこれが何かの縁でまたいいこともあるのかもしれませんね。馬券当たったりしたらマジでここで報告しますね。(宝塚記念が待っている…)(儲けをアテにしてはいけない…堅実にいこう…)
我欲ありありでお詣りに行きましたが色々感じて学ぶことがいっぱいあって、帰宅後はなんだかスッキリしてお金や我欲に振り回されずにまた頑張ろう!と思えたのでした。馬券に関しては別です。馬で儲けたお金は馬に使うから!(笑)

そんなこんなで今日はとてもいい一日だったのですが、実はこれを書いている途中に恩師と両親から立て続けに電話が掛かってきて、すっかり遅くなってしまいました。今日の学びは学びとして本当に有難く、またこれまでの頑張りを認めてもらえて次に繋げて行けそうなヒントもあり、とても嬉しい一日でした。

追記:そういえば今日、不思議だったことがもう一つあって。いくら思いつきのぷらっとしたお散歩みたいなものとはいえ一応神社へのお詣りだから清潔に小綺麗にしていこうと思っていたのですが、なぜか服や鞄は今使っている普段のもので比較的あまり高価ではないもの、というか年季が入ってちょっとボロくなっているものがしっくりきたんですよね…。何でだったんだろう。来てたシャツとかよく見たらえりもと擦り切れてるし。別に他人に会うわけじゃないからいいんだけど…、神様が今の姿を見てくれるということだったんだろうか?
あと持って行った鞄の中に、とある別の神社で頂いた御守りも入っていたんだけれど、自分の中ではそろそろ手放したい…と思う願掛けのものだったので、ついでに古いお札などを納めるところも覗いてみたんですけど、あんなに綺麗な神社なのになんか粗大ごみみたいに神棚や電気灯篭みたいなものが捨てられたりもしていて、えー…なんかここじゃないな…やっぱり元の神社に行かなきゃ…という確認にもなったんですよね。たぶん、ご縁って結ぶばかりじゃなくて手放したいものもあって、切るまではいかないけど自分で手放せるくらいの余裕があるのなら、綺麗に手放せる方がいいんだろうなともぼんやり思いまして。なので、手放したいからって何でもかんでもいいというわけではなさそうです。これもまた後日なにかあるかもしれませんね。不思議なこと一つや二つじゃなかった。いっぱいあったわ。それもまた楽し。






マイペースに徒然しているだけなのですが、わたしの記事が刺激になったり、良かったよ!と思って行動して下さると嬉しいです。ちょっとした親切や、どこかに寄付をするなど、あなたの出来ることが誰かの良きご縁になりますように。それがあなたの幸せに繋がりますように。