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旦那の障害と妻の苦しみ


こんにちは。
車椅子ユーザーの夫と5歳の子どもと暮らす主婦、こぶたです。

旦那が事故に遭った日、私はどこで何をしていたのか
全く覚えていません。


私と彼の”その日”

それはショックのあまり忘れたわけでもなく
バタバタしていて記憶があやふやなわけでもありません。


私にとっては
何気ない、全く特別でも何でもない
普段通りの一日だったから
全く記憶にないのです

酷い妻でしょう?


彼が事故に遭ったのは1995年の夏のことでした。
彼は17歳、私はまだ11歳でお互いの存在すら知らず、
それぞれ東日本と西日本で全く別々の人生を歩んでいたからです。

その日が私にとって特別なものになるには
その日から10年の月日が必要だったのです。

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そんなつもりじゃ…

出会った時、彼は既に車椅子に乗っていました。
車椅子なんて気にもならず、
ただただ私の知らないやり方で生活する彼の全てが魅力に思えたし
できないことも一緒に考えればクリア出来ることが楽しくてたまりませんでした。


一緒にいたいと思うのは
ごくごく自然なことでした。
それなりの大恋愛をして、結婚に至りました。



ですが、結婚生活が進むにつれ
私はとても苦い思いに駆られることになります。


彼の周りの人に会う度、周りはみな口を揃えて言うのです。
「良かったなぁ良かった。本当に良かった。」
「まさかこんな日が来るなんてな。」
「奥さん、しっかり面倒見てやってください。」


そんな言葉に私だけが疑問を抱き、
そして気づいたのです。

私だけが、何も喪失していないということ。


彼の周りの人たちはみな
私の知らない歩く彼を知っていて
走るのが得意で猿のように野山を駆け回る彼を知っていて
そして事故のことも知っていて
みな、それぞれに何かを失い
それぞれの思いを持っているのに

私だけが何も喪失していないのです。



何かを喪失した人々は
当たり前に涙を流しながら
私に期待を投げかけるのですが
「怪我をして歩けなくなった可哀想な男を支える妻」
なんて像を演じる気なんてさらさらなかった私には
地獄の始まりでした。


周りから求められるのは献身

「ある日突然、同級生が歩けなくなった」
という衝撃的な体験をした、旦那の同級生たちは特にそうでした。

同窓会に参加した彼を迎えに行った夜。
自分より年上の、
ベロベロに酔ったたくさんの屈強そうな男の人に取り囲まれ、
「奥さん!奥さん!あいつのことほんとよろしく頼みます」
と絡まれました。

涙を流して「ほんと良かった」という人もいて、
私だけが何も喪失しておらず、
私だけが彼を支えることを期待されている現実に
強い恐怖とプレッシャーを感じたのです。



私、そんなつもりじゃなかった……。
ただ彼とずっと一緒にいたい。それだけだった。

私が甘かったのでしょうか?


障害者と結婚することは
そんなに覚悟がいることなのでしょうか?


私だけが一方的に
彼の支えになるのでしょうか?
それが“当たり前”なのでしょうか?


年に一度、彼の元に困り事がないかを聞きに来る
訪問支援の人が来ていたのですが
ある時その、ナースだというおばさんに言われました。

「あなたが支えなきゃいけないのよ?
あなたがしっかりしないでどうするの?
大変なのはご主人なのよ?わかっているの?」


私は彼の介助要員として結婚したつもりはありませんでしたが
周りは私に彼の介助者として献身することを求めていることに気づきました。



無理もありません。
私だけが何も喪失していないのですから……。
喪失していない私が悪いのですから……。


仕方がない

献身することを求められ続ける辛さに
ある時愚痴をこぼしたら、友人にこう言われたのです。


「わかってて結婚したんでしょ?
そんなことわかっててそれでも障害者が良かったなら
仕方なく無い?」


”らしさ”を生きなければならないか

1度はこう思いました。

「私が選んだ道だから仕方ないのか」
「私がもっとがんばればいいのか」
「私が酷い妻だからいけないんだな。」



でもなぜかそう思えば思うほど
苦しくてたまらないではありませんか。



子どもが生まれ、
白目を剥きながら育児に介助に奔走していたある日のことです。

同じ育児中の車椅子ユーザーの奥さんが書かれているブログに
こんな言葉が書かれていました。



望んで迎えた育児だけど
車椅子の旦那との育児は想像以上に大変でした。



「大変って言っていいの?!大変って思っていいの?!」



雷に撃たれた気分でした。



無責任な誰かの期待に応えようと必死になる必要なんて
なかったんです。


周りがどうかじゃない。
彼と私がどうか。

それでいいはずだったのです。


「らしさ」「役割期待」「ステレオタイプ」「既成概念」
そんなものに囚われて苦しむ必要なんて
なかったんです。


もうやめた

では苦しかった時間は無駄だったのか?


その時間を無駄なものに終わらせるのも
何かの糧にするのも、
きっと私次第。

そんなふうに思います。



私は旦那が事故にあった日を覚えていません。
加害者の顔も知りません。
なんの涙も流していません。


それは事実です。
いくら悩もうが苦しもうが
変えられない事実です。


でもそれは、誰にも責められることではありません。
私と彼の生活に、
それは重要ではないからです。


私は何も喪失してない。
彼の何をも喪失してない。
苦しむのはもう辞めた。



きっと、それでいい。

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今、もし

人が決めた「らしさ」ってやつに
苦しめられてる人がいるならこう言いたい。



無責任な人の評価を気にするより
自分がどうしたいか、どう生きたいか

自分の人生を生きればいい。

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