見出し画像

幸せのボトムアップは幸せだったの?って話

少し前に引いた風邪が長引き、
熱が下がったり上がったりを繰り返している1歳半の次男。

それでも遊び回っているので
発熱外来には行かずに
様子を見ているのだけれど

そんな時、小児の風邪薬の枯渇を訴えるツイートを見かけました。

どうも、こぶたです。

コロナ以降、そんな話は聞いていたけど
感染症時代の幕開けと言われている今、
幼い子を抱える身としては不安も過ぎります。

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/268791?display=1


祖母の記憶の中で笑うあの子

「よう笑う可愛い子ぉでなぁ。器量もようて、みんなに可愛がられとったんやけどなぁ、のぅなってしもうたわ。可哀想やったけどな」

ふと、頭の中に響く祖母の声。

私には101歳の祖母がいます。
彼女が祖父の元へ嫁いだ時、まだ祖父の末の妹は乳飲み子でした。

年上の兄弟から可愛がられ、
よく笑う、可愛い女の子だったその子は
1歳と少しの頃に、風邪で呆気なく亡くなってしまいました。

昔は大人になれるだけで
もうそれはすごいことで
だから子どもの成長を喜んだり、祈ったりする
様々な伝統が今も残っているのでしょう。

節目節目に、大きくなれたことを喜び、
そして健康を祈って
それでも多くの親が、子を亡くす悲しみを味わうのが当たり前だった時代。

誰かの涙と願いの果てに

どうかどうか、この先
こんな思いを味わう人が1人でも減りますようにと願い、
医療は発展し、公衆衛生の知識が普及したのでしょう。


今は大人になるのなんて当たり前で
死は随分と、身近な位置からかけ離れていきました。

大人になれない子がいることが当たり前の時代から
大人になれないということが、不運で不幸でイレギュラーなことだと捉えられるようになりました。

大人のように働かねばならず、またはお金が無くて貧乏で
学校へ行けなかった悔しさを抱えた人々の悲しみが
全ての子どもに義務教育を与える時代を作り上げ、
今は大学行くのも当たり前のこととなり、
随分と幸せがボトムアップしました。

人権を認められず涙した女性たちが
女性の人権の獲得のために闘い、
そして今、女性も働ける時代から
女性も働かざるを得ない時代になり、

そうであることが「幸せ」とされていた時代から
そうであることが「当たり前」となりました。

幸せのボトムアップの副作用


すべてのことが当たり前になった今、
当たり前をこなすために必死にならざるを得ず、生きづらさを抱えてしまう人々がではじめている事実…。


発達障害が“障害”と言われはじめ、“障害”の裾野が広がり始めた時代と何となく重なるような気もするようなしないような。

幸せがもたらしたもの

書字識字はかつては限られた人だけが持つ才能でした。
今は識字率があがり、読めない書けないことは障害になりました。

義務教育が課され、義務教育以外のやり方で学ぶ知的好奇心の旺盛な子は問題ありとされるようになりました。

いや、発達障害に限りません。
女性たちは働くこと、産むこと、育てることを自ら考え、選択しなければならなくなり、
そのためには男性も育児家事ができなければならなくなりました。

超人でなければ、
これまでの家庭を築き、家を持ち、
子どもを育むという、
“かつての普通の生活”は送れなくなってきています。

そして結婚を選ばない、産まない人が増え始めるのです。

フラクタル

ある人がこう言いました。
「人類の使命は繁殖と適応だよ」

生物として繁殖することが難しくなった今、私たちはこれからの波乱に満ちた地球環境に、どう適応し、
人類を滅亡させずに存続の道をあゆめるんだろうなと
何となく思うのでした。

誰かが壊さなくても、文明は内側から滅んでいく
というような話をどこかで耳にしたことがあったような気がしますが、個人と文明(社会)がひとつのフラクタル構造上にあります。

当たり前の基準が
高水準になっているのは幸せなことなのに、いいことなのに
求められることがあまりにも増えすぎて、余白がなく、
そこに生きづらさを抱えて、必死になるしかなかったり、
溢れてしまう人がいる皮肉。

幸せのボトムアップは、本当に全ての人の幸せだったのでしょうか?

大昔は
愛する人たちが
生きて、
大人になってくれるだけで
良かったはずでした。

それだけを望めれば、それで良かったはずでした。

まとめ

あれもこれもできなければならない。身につけねばならない。
あれもこれも叶えなければならない。
幸せにならなければならない。

底はぐんぐん上がってきても
私たちには死により終を迎えるという天井が決まっています。

どうかどうか、
挟まれることのないよう。

皆さんは子どもたちに何を望みますか?
幸せにならなければならない人生を望みますか?

“当たり前の幸せ”は
本当に当たり前ですか?

どんなに短くても、
どんなに呆気なくとも、
写真1枚、残っていなくても
1歳で逝った祖父の末の妹は
会ったこともない私に、
ニコニコと笑いかけながら
影響を与え続けているのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?