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私にとっての旅行


この場所から離れたい。いつも思っていること。私は今のくらしが嫌いだ。

まずは家が嫌いだから職場から帰りたがらない。かといって別に職場も好きではないから、いなくていい休みの日は家にも職場にもいない。どこへ行くってこの場所と類似性のないところ。海が多いが、町のこともある。

今年も11月の祝日は旅に出た。旅の途中で、旅に出る理由みたいなものに気づいてハッとしたので備忘的に綴っておく。きっと旅に出ることを選択肢として思い付けないほど疲弊したときの助けになるから。

旅行先で、ケータイのカレンダー機能が帰宅翌日の職場の先輩との飲み会をリマインドしてくれた。特別嫌いな先輩ではない(金曜の夜数時間話し込むと、土曜の朝苛立ちで目が覚めてその日一日は怒りでモチベーションが変わるような、そんな存在)から約束したわけだが、約束後、ずっと憂鬱で、一度はリスケしてもらったものだった。にもかかわらず、旅先でのリマインドに「旅行中なのに萎える」とも「嗚呼帰りたくない」とも思わず、本当に無感情だった。その自分に違和感を覚え、何故嫌だったものにマイナスの感情を抱かないで済んだのか少し考えたところ、旅先の自分は「今のくらしをしている自分」とは別人だからだということに落ち着き、どうも自分は別人になりたくて旅に出ているらしいと気付いた。

よく、昔の知り合いに会うと学生時代の自分に戻れる、なんて話があるが、私は旅にそれを見出だしているらしい。
「今のくらし」が嫌いな理由は複合的と思われよくわからないが(次回以降テーマにしたい)普段の生活圏にいる限り、私は「今のくらし」の立場から離れられず、それはほぼ職場での私と同義であるが、私は一定の場所に行くと、その立場から逃れられるらしい。旅に出れば誰も自分のことを知らないわけで、裸の自分になれるわけだ。知らない町で、お店のスタッフなどに親切にされて、食べ慣れないものを口にする。その人たちは私には話せないことば(博多弁…素敵)を話して、私はその風景の中で無色透明になる。職場の立場なんてない、ただの自分。再訪場所では以前来たときの自分に戻れるし、その自分は「今のくらしの自分」とは必ず異なる。

先輩との飲み会は「今のくらしの自分」が対応するんだから私には関係ないでしょ、とまでは思わなかったが、あの他人事感はどうもそういうことなんだろうと思う。マタイによる福音書 6:34のより俯瞰バージョンか。

誰かと目的を決めて旅行に行くのもいい。見てみたかった建造物を見てその歴史を知ったり、食べてみたかったものの感想を言い合ったり。それでも私が一人でフラりと旅に出るのは目的に追われず、人との繋がりから離れ、そのときだけの偶然の出会いに身を任せた何者でもない自分になりたいからなのかもしれない。

普段はやれ資格だやれ出世だと「何者かになりたい」くせに勝手なものだが、それが「今のくらしの自分」の姿なのかもしれないなとここまで書いて思い至りましたとさ。


喜水丸の朝定食。地元の人が「今のくらし」に追われて出社する中、一人でぼんやり食べる朝食が最高。
派手な店内で流れてきた椎名林檎も最高だった。

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