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鬱の時の運動に意味を感じなかった。でも休み休み、好きな時に少しでもやってみてると、

私のカラダのことは、
これといった治療法はない。

カラダ中がガチガチだからほぐす為に、
カラダが動かないから鬱が促進されるから、運を動かすために。

鬱は朝日を浴びるといい。

全部わかってる。
でも、継続出来ない。
で、落ち込む。
最悪の人生のパターンが頭の片隅にある。諦めちゃうってやつ。

昨年末になんだか我が家の不幸の仕組みに気づいてから、兎にも角にもその時の状態を続けていることが、疫病神を呼び続けてたことに気づき、腹から怒りを覚え、良くも悪くも現状維持が得意な母が、一番の安心の元だった母が、そんな母の愛が欲しくていつも母のために頑張ってカラダを壊し、家を出て自活してもカラダを壊し、を繰り返す元が母の優しさのベールの中に、暴力を家族全員に撒き散らし、金銭もなくなり、私の健康と将来を壊し、経済も不安で死にたい想いに襲われながらなんとか暮らす生活を長引かせていると気づいたのと、

【不足感の元は母の愛が足りない】

#笠村メソッド  からヒントを得て、
まさしくそうだと感じ、

82歳の母に、稼いできてくださいと言って出ていってもらった。2024.2/末。

その時の私は、幼少期から母に依存してたけれど、そこに欲しいものはなく、むしろ、母自身も由緒正しき優しい家に生まれながらにして、淋しかったと昔言ってた。

トラブルを起こさない代わりに、
良くなる変化をも起こさないように、
という穏便さを形成してた家。

それって、結局、問題の先送りがちになり、後続者が犠牲になるパターン。

余談から、
標題に戻りますが繋がってると思います。

人として、新しい環境でやれてるのか等の心配はありますが、可哀想とは思わないし、心身病んで長く50にもなってしまいながら母に生活を回してもらっていた甘えが断絶されたので、

家事をしなければならなくなり、
本当にカラダを治したくなり、

無理矢理に、階段上り下り中心のウォーキングを、気が向いたらというユルイ感じでやり出しました。

そうすると、もちろんカラダはガチガチになって疲労物質が溜まってまた寝続けるのがオチになることもありますが、

やはり筋肉を動かすので、固まってた筋肉がバリバリっと剥がれることも感じます。

そこの筋肉って動くんですね、と思います。

そしたら、他のところも動くんじゃね?
と思って動かしてみたら動いたりするんです。

そうすると、カラダが軽くなるのを感じます。

そうすると、動かす方が気持ちいい となり、ちょっとだけ思い切って辛いカラダを動かす機会が少しずつ増えてます。

苦手な家事もやってみようとなってきて、それも運動量を増やせてるようです。

私は生き下手で全力投球しなきゃと思って生きてきて、病気になりましたが、

カラダを楽にすると
ええ塩梅がわかってくる気がします。

とはいえ、まだまだ、確かな今後の人生の目的や足掛かりの無いまま、毎日1人でこれやるのも簡単ではありませんが。

ま、こんなんもどうでしょう。

#治し方不明の病 #愛情欠乏症 #虐待 #死の淵 #幸せとは何か #鬱でも運動してみよう  


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