人魚とお話
人魚あれこれ
前回の記事で、中学の時に図書室で百科事典に妖精の記事があって驚いたというお話をしました。
そこにはギリシアにはニンフという半ば神様に近い妖精から、欧州の座敷童とも言うべきブラウニーなどが書かれていた(と記憶している)のですが、並んで1枚の絵画が掲載されていました。
それは人魚ではなくセイレーンがオデュッセウス(ユリシーズ)を誘惑する場面を描いたものでしたが、僕は一目で心を奪われてしまったのです。
(セイレーンと人魚は同根であると言う説があります)
絵画の素晴らしさはもちろんのことでしたが、1番に惹かれたのは「音楽(歌)の力で魅了する」という所でした。
歌にそんな力があるのか! なんか格好いい!
中学生だった僕は一気に人魚たちの世界に引きずり込まれたのでした。
今にして思えば、お話好きだった僕が、妖精のお話に拘りはじめたのは、この一件がきっかけだったように思います。
なにがきっかけかなんて分かりませんね。
それまで人魚と言えば、小川未明氏の「紅いろうそくと人魚」、アンデルセン童話の「人魚姫」しか知らなかったのですが、以降、ギリシア神話や、様々な民話に触れ、人魚たちがとても魅力的で、自分が考えていた以上に広い範囲でお話が残されている事を知りました。
だって、人魚と言えば海の住人だとはがり思っていたら湖や川にも住んでいるし、アフリカやエジプトにもお話が残っているんです!
人魚と一緒に
その内に、人魚のお話の多くが異類婚姻譚であり、その結末はおよそ悲劇である事を知りました。
「そういえば人魚姫のお話も悲恋だったよなぁ」
もちろん、単純な悲話には収まらず、教訓めいたものから、理不尽なものまで沢山ありました。加えて、人魚から派生して水の精霊とのお話や、木の精霊との恋愛譚などもたくさん伝わっていることも。
「水は生きてゆくのには必要だけれど、皮肉にも私たちは水の中では生きていかれない。水の中はもっとも身近な異界である」
そんな身近な異界に住んでいる相手だからこそ、結ばれず、どちらかが不幸になるお話が多いのでしょうか。
人魚については色々な研究があり、民話にみられる彼らは波を越えてやって来た異国の人が転じたのだ、とか、人魚と結婚すると言うことは水の底に行く。つまり水死を意味しているなど様々な説があるようです。
そんな風に考えれば、確かに腑に落ちると言いますか、現実的に納得出来るような気もします。
こんな事がありました。
何年も前のお話会で、人魚と恋に落ち、互いに手を取り合って海に去って行った漁師のお話をしました。僕の大好きなお話で、十八番といっていいものです。
お話会が終わったあと、一人の女性が話しかけてきてくれました。
聞けばその方は東日本大震災による津波でご友人を亡くされ、ご遺体は今だ見つからないそう。
あぁ、そういう方もいらっしゃるのか、と自分の選択ミスを恥じました。
すると彼女はこう続けたのでした。
「あのお話で、人魚たちの世界はとても綺麗で楽しく、なんの苦しみもないって話されてましたよね。だとしたら友達が帰ってこないのは当然ですよ。だって、楽しいこととか大好きなとっても明るく愉快な人でしたから」
僕は再び自分の浅さを恥じ入りました。
「きっと『楽しい〜♪』とか言って、今も人魚たちと暮らしてるんですよ」
お話はこんなにも自由で、語り手や聞き手が思いもしなかった深いところに届くものなのですね。
狐弾亭の1冊
アイルランドにも沢山の人魚譚が残されていますが、北方諸島には更に色濃く、そして生き生きとした人魚のお話が語り継がれています。
それは、人魚たちが幻想の存在であるという以上に、傍らに住む異種族という色合いが強く、だからこそ交わることもあれば、どうしても理解出来ない相手であると伝えているように思います。
狐弾亭の書棚にもありますので、開店、お越しの際には是非。
狐弾亭亭主・高畑吉男🦊
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