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日本最古の香辛料「山椒」がつむぐ物語

 産物を生む土地の個性、味や香りを決めるさまざまな自然環境を「テロワール」と言うそうです。摂津、播磨、但馬、丹波、淡路の旧五国からなる兵庫はその宝庫です。中でも昨今、国内外から注目される産物があります。緑鮮やかな大粒の実。爽やかなかんきつの香りと味わい。舌を軽くしびれさせる辛み。そう、「さんしょう」です。
 千年に及ぶ歴史がありながら、一時途絶えた時期もありました。しかし、地元住民らの手によって復活を遂げ、その魅力は広く発信されています。国内屈指の一大産地、但馬の「朝倉山椒」、神戸の「有馬山椒」の物語をたどります。

 家康も好んだ天下の名産 朝倉山椒

山椒の実


ファンクラブ会員の指導に当たる才木明さん(右)

 初夏、朝倉山椒は最初の収穫シーズンを迎える。緑鮮やかな大粒の実は爽やかなかんきつの香りと味わいがあり、辛みが舌を軽くしびれさせる。養父市の発祥の地で絶えかけていた伝統の薬味は地元住民の手によって復活を遂げ、千年に及ぶサンショウ文化の歴史の「発掘」作業も進む。

▼トゲなく、大粒の実

 5月中旬、養父市八鹿町朝倉などで「朝倉山椒ファンクラブ」の収穫や交流会が開かれた。戦国時代に北陸の越前、今の福井県で勢力を誇った朝倉氏はこの地区の出身だ。1万5千円のAコース会員なら、1本に5キロの実がつくというサンショウの木のオーナーとなり、好きなだけ持ち帰ることができる。朝倉山椒は1キロ6千円にもなるだけに、お得といえる。
 「普通のサンショウなら1房に30~40粒。ここのは70~100粒ついてます」。神戸や岡山から来たオーナーらに取り方を教える、ファンクラブ会長の才木明さんは胸を張る。
 園芸の世界で、朝倉山椒はサンショウの代名詞といえるほど広く知られた存在だ。最大の特徴はトゲがないこと。野生に近い品種はしっかりした手袋がないと収穫の際に手が傷だらけになってしまうが、朝倉山椒はその心配がない。

▼数本の木からの再生

 養父市内には現在、耕作放棄地などを活用した朝倉山椒の畑が点在しているが、本家本元の朝倉地区で栽培が絶えかけた時代もあった。昭和50年代のことだ。
 江戸時代の古文書に栽培の様子が記載されているサンショウの木々は、大正時代以降に次々伐採され、跡地にスギやヒノキが植林された。「集落全体でも数本になっていた」と才木さんは振り返る。サンショウは栽培が難しく、3年で枯れてしまう木もある。このため根の強い木に接ぎ木をして育てるのだが、そのノウハウも失われていた。
 1977(昭和52)年、才木さんら地元住民が復活に向け、地元の高齢者から接ぎ木栽培について聞き取りを始めた。兵庫県の八鹿農業改良普及所(当時)と連携してマニュアルを作成し、本格的な苗木作りがスタート。山に分け入って採取した野生のサンショウに、朝倉山椒の実がなる穂木を接いでいく。「最初は成功率30%。70~80%になるまで20年かかった」
 こうしてたくさんの実をつける木を選んで苗木を作る技術が完成し、今では但馬各地でDNAを受けついだ1万6千本が栽培されている。順調に生産を増やした朝倉山椒は、養父市の全額出資会社「やぶパートナーズ」によって国際博覧会などに出展され、イタリア、フランス、ドイツなどの国々へ輸出されるようになった。国内ではデザートのほか、ジンや日本酒に入れて味わうなどさまざまな形で利用する動きが広がる。

▼平安時代の和歌にも

 産地復活とともに始まったのが、風化していた朝倉山椒の歴史の「発掘」作業だ。元養父市職員で、ひょうごの在来種保存会会員の茨木信雄さんらは6年ほど前から研究会をつくり、古文書調べを進めている。
 「整腸や食欲増進のための漢方薬などとして利用されていたようで、驚くほどたくさんの文献に登場します」と茨木さん。
 2021年3月に発行された「朝倉山椒とその風土」(耕作放棄地解消推進グループ やろう会)によると、和歌や書物などで確認できる最も古い記録は平安時代にさかのぼる。
 養父市教育委員会の谷本進さんによると、記述は戦国時代の終わりごろから増え始め、「江戸初期の『将軍記』では、1586年に豊臣秀吉が焦がしたサンショウを白湯にふりかけて飲み、風流だと喜んだと記されています」という。
 生野銀山の盛衰をつづった古文書「銀山旧記」には1611年(慶長16)年、生野奉行の間宮直元が徳川家康に献上し、大変喜ばれたと書かれている。その後、出石藩、篠山藩、福知山藩などから定期的に将軍家に献上されたことで天下の名産品となり、風刺を効かせた狂歌の季語に用いられるなど一般大衆にも広がっていった。

(2022年6月22日神戸新聞朝刊)
秋になると赤く色づく
朝倉地区の史跡を紹介するマップ

牧野富太郎が登録

 朝倉山椒が、正式な品種として登録されたのは明治時代のことだ。1877(明治10)年、東京大学の初発刊物である小石川植物園の植物一覧に登場する。記述を担ったのは「花粉」「雄しべ」などの用語を考案した日本初の理学博士、伊藤圭介だ。
 さらに1912(明治45)年、日本の植物学の父と称され、NHK連続テレビ小説「らんまん」のモデルになった牧野富太郎が、学会に「アサクラザンショウ」と登録した。
 元養父市職員で、ひょうごの在来種保存会会員の茨木信雄さんらによる古文書の調査を経て今では、原産地は養父市八鹿町今滝寺、発祥の地は同町朝倉とされる。「いつからトゲがないのかなど、朝倉山椒の歴史発掘はまだ途上です」と茨木さん。〝日本最古の香辛料〟ともいわれる名産品はどのようにして、日本の食や健康の文化に深く定着してきたのか。多くの人の探究心によって、さらに実像が明らかになっていくだろう。

(2022年6月22日神戸新聞朝刊)
朝倉山椒と八鹿豚のローストバーガー
朝倉サンショウ味のシロップが全日本空輸(ANA)の欧米路線ファーストクラスの機内食に採用された

14年かけた復活劇 有馬山椒

14年かけて復活した有馬山椒の木 
栽培に成功した有馬山椒の品種「湯船谷」(右)と稲荷山

 有馬温泉観光協会(神戸市北区有馬町)は、付近の山地開発による木々の減少で失われつつある特産品「有馬さんしょう」の再生に成功し商品化した。14年の長期間を費やした取り組みで、粉山椒に加えソーセージ、うなぎを使った煮物など関連食品も考案。かんきつの香りが豊かな特長を生かし、多彩な料理を提案している。

 「有馬焼き」「有馬煮」と、有馬を冠する日本料理は山椒を用いた料理を指す。温泉街の代名詞ともいえる香辛料の歴史は長く、明治期に実をしょうゆ煮にした土産物が人気となり、湯治客の間で広がった。
 背景には、温泉街近郊の神戸市北区から三田市を含む地域一帯に原木が群生していたことがある。しかし近年の住宅開発で木々が減少。有馬山椒も食卓から消えていった。
 同協会は「貴重な食文化が失われる」と危機感を募らせ、2009年に復活プロジェクトを立ち上げた。有志4人が六甲山中に入り原木を捜索。「ぶねだに」「いなやま」とよばれる有馬山椒の木2種を採取した。
 それを朝来市の「兵庫県北部農業技術センター」に持ち込み、5年、接ぎ木で栽培。育った苗を神戸市北区大沢の農家で数年育成し、実や花が採取できるまでにこぎ着けた。
 同協会の金井ひろのぶ会長(68)は「山椒栽培は長い年月がかかるといわれていたので、焦らず粘り強く頑張った」と14年の道のりを振り返る。
 ようやく収穫して商品化。柑橘とバラの香りが強い湯船谷を素材に、粉山椒が完成した。焼き鳥やそばに風味を加えるにはピッタリだ。
 加工食品も多彩で、神戸ビーフとコラボすることでコクのあるソーセージを創作。ビールのつまみに最適で、温泉街を散策する客向けにアピールしたいとする。酒米・山田錦の米粉と酒かすを餌にした三木市吉川町のにしきうなぎと組み合わせた「有馬」も提案。金井会長は「歴史ある温泉街にふさわしいよう、高級食材と組み合わせてプレミアム感を出した」と説明する。
 山椒は実だけでなく、花も食用素材になる。そこで地元の念仏寺の永岡順子さんのアドバイスで、家庭料理を伝授してもらい、豆と一緒にたいた五月煮も仕上げた。ピリ辛で、こちらもお酒のお供にあいそうだ。
 他に、花山椒と神戸ビーフを素材にした鍋料理も。こちらは3万円と高価なため、今後、ふるさと納税の返礼品に活用してもらうよう、神戸市などに働きかける。金井会長は「有馬の食文化を伝えるきっかけにしたい」と話している。

(2023年4月28日神戸新聞朝刊)
山椒鍋セット
神戸ビーフと有馬山椒のソーセージ
有馬山椒を使った商品

<ド・ローカル>
 1993年入社。焼き鳥や鰻に振りかける山椒も好きですが、一番の好みはちりめん山椒です。何杯でもご飯が進みます。私は但馬出身なのですが、子どもの頃、朝倉山椒の存在はまったく知りませんでした。手元に「朝倉山椒とその風土」という本があります。朝倉山椒のルーツ、栽培の歴史、研究成果がまとめられています。発刊したのは耕作放棄地の解消に取り組む八鹿町大森区の有志グループ「やろう会」。朝倉山椒の再生に向けた歩みを「次世代に伝えたい」と出版したそうです。その思いが継承されることを期待します。