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第1回 神戸・新開地「薬局の店先から見える風景」

春になれば桜が咲くから「桜筋」。至極当然のネーミングだが、
年中いろいろなものが咲いているこの福原というエリアにふさわしすぎる名称。

神戸新開地界隈の薬局が生家

私の生家は、神戸新開地・福原界隈にある薬局だった。
10坪あまりの角地にあるモルタルの建物で、一階は店舗と調剤室、その奥に台所とちゃぶ台とトイレがあるだけの狭いスペースが生活の中心だった。2階は親子4人の寝室と薬の置き場と私の勉強机があった。机の横の窓から物干し場に出るという案配だ。

当時の個人商店は1階が商売スペース、2階が生活の場で、風呂はない家が大半だった。もう50年を超える前のことではあるが、初めに住んだ薬局の記憶は鮮明だ。

父親が薬剤師の免状を持っていたが、薬の仕入れや接客、販売はほとんど母親が一手に引き受けていた。母親が外出時に父親が店番に立つと、なじみのお客さんが求める薬のある場所や、薬の値段が分からないことがよくあった。父親一人では対応できないので、私が近くの銭湯に湯船につかっていた母親を呼びに走ったこともある。

店の周りには、酒屋や喫茶店、寿司店、八百屋、自転車屋などの小さな商店が軒を連ねていた。ほとんどの店は、おかみさんが切り盛りをしていて、主人はあまり働いていなかった。
子供心にも、大体誰がよく働いているかは分かるものである。

夜には、近所のオジサンたちが酒屋の部屋に集まって花札をよくやっていた。小学生の私たちは、その周りでブラブラしていた。当時、100円玉をもらって、近所のタバコ屋で1箱40円のピースを2箱買ってくる。おつりの20円を駄賃としてもらって友達と分けていた。

薬局は、歓楽街の中にあったので、朝の10時から夜の10時、忙しい時には12時頃まで店を開けていた。正月の1日、2日だけが休みで、土曜日も日曜日もなかった。

当時は昭和30年代から40年代にかけての高度成長期。人出も多くて街には活気があり、夜の街も活況だった。特に夜には多くのお客さんが店に出入りした。近所で商売している人たち、夜の街で働いている人達、遊びに来たお客さん、タクシー運転手などだ。

夜の街・福原の薬局と人々

夜に働いている女性は、「セデス」などの頭痛薬を買いに来る人が多かった。今でも青白い顔色をした女性の表情を覚えている。また肉体疲労や滋養強壮などに効く「グロンサン」や「アスパラ」などのドリンク剤が売れていた。それらとよく似た名前のラベルを貼った「グルクロン」や「パルパラ」というドリンク剤もあった。

両親は、前者を「メーカー品」、後者を「パッチもん」と読んでいた。本物を繕ったものという意味ではなかったかと思う。ただ、「パッチもん」は「こうせん(口銭?)」が高い。つまり薬局が受け取る利益幅が大きいのだ。

母親は店内の二つ並んだ椅子に座ってお客さんと話し込んでいることが多かった。自らの不幸な人生を語る女性の話を聞きながらよく一緒に涙を流していた。その時にヨッパライのオジサンたち2,3人が店内に入ってきた。母親は、涙を瞬時に拭くと、笑顔で「パッチもん」のドリンクを勧めていた。
一方で、近所の知っている人達には「メーカー品」しか売らない。そこは驚くほどキッチリ区別していた。 

また当時は、薬問屋の営業マンが、車や自転車でやって来て注文を取ったり、配達に来たりしていた。いろいろなタイプの人がいて、わたしたち子どもにもよく声をかけてくれた。相撲を取って遊んでくれるお兄さんもいた。紙などを扱う問屋の兄さんは、「うちらの商売はメーカー品の薬問屋に比べて利益が薄いので、給料が安くてやっていられない」といつも店内でぼやいていた。スーパーやドラックストアーの業態がでてくると、いつのまにか彼らはいなくなった。

書きながら思い出したが、近所のお客さんから選挙期間中に依頼を受ける時がある。「自民党の○○頼みます」「今回は、共産党から出ている××に協力お願いします」。
母親は、いつも「わかってます!」と答えていた。決して「投票します」とは言わない。これだと相手は何も言えない。これも生活の知恵だと感じていた。

夜遅くなると、タクシーの運転手が店の前に車を停めて、ねむけや倦怠感を除去する「オールP」などのアンプル内服液を店内で飲んでいた。彼らは、普段の孤独を紛らわすためか、店にある椅子に座って長々と話すことが多かった。
また夜に街を行き交う人が店にある黒電話を借りに来ることもあった。要件をすますと10円玉をおいて立ち去っていく。顔見知りの人もいれば、知らない人もいたが、父母は気軽に応じていた。

あるタクシー運転手が「売り上げが上がらんから、今日はもうエントツやらなしゃーない」と言っていたことも思い出す。昔の運賃メーターは空車表示が旗のように上に立っていて、それを横に倒すと作動を開始する。
顧客と行先までの料金額を握って、メーターを立てたまま走るので「エントツ」というのだ。運賃をドライバーが着服する不正行為である。 

彼らは酔った客の面白い話も披露してくれた。そのたびに中学生の私と父母は腹を抱えて笑い倒すことが多かった。その頃の影響か、今もタクシーのドライバーには話しかけることが多い。
『経理部は見ている。』(日経プレミア)という本を書く時には大変お世話になった。母親の介護施設に向かうタクシー内で、「なぜタクシーのレシートには時刻が入っていないのか」を200人近くのドライバーに問うた。運転席に少し身を寄せて聞くと、面白い話をどんどん語ってくれた。それは昔の薬局内と同じだった。
今は、酔って眠り込んだ客の身体に触れてはいけないなどのコンプライアンスがあるので、ドライバーも大変だ。

店先から感じた教科書への疑問

私が小さかった昭和30年代は、まだまだ第二次世界大戦の影響が随所にあった。新開地界隈や湊川公園近くでも傷病兵による街頭募金も多かった。社会全体に貧しさが色濃く残っていた。

近所で働く人たちが、役所に提出する書類を私の母親に書いてもらいに来ることがあった。戦争などの影響もあって学ぶ機会がなかった人たちが結構いたのだ。落語の「代書屋」では、字を書けない人が代書屋(今の行政書士?)に履歴書を書いてもらうときのやり取りを描いている。
なぜそれがわかるかというと、彼らや彼女たちは、私と妹にお菓子を持ってきてくれたからだ。母親はどちらかと言えば地味な性格だったが、世話好きで頼まれごとは気分よく引き受けるタイプだった。

小学校の教科書には、たしか「文盲率」という言葉があった。文字の読み書きができない人の国ごとの割合である。今は使えない言葉になっているだろう。
義務教育により国民のほとんどが文字の読み書きを学習する機会があるので、文盲率は、ほぼ0%といった記載だったと記憶している。

「教科書はホンマのことを書いていない」というのが当時の私の実感だった。 
中学一年生の担任だった美術のA先生に話したことがある。彼は「君の言うことが正しいと思う。でも、そのことを誰に彼にも言わない方が良い」と諭してくれた。自分を理解してくれたと感じて、すごく嬉しかったことを覚えている。

 店に来た印象的な人達

かつて私が小学生の頃に、その筋のアウトローの人達7,8人が店にドヤドヤと入ってきた。
包帯や絆創膏、飲み薬等をまとめて買っていた。その時に、「今から広島に殴り込みの応援に行くんや」と言っていたことを覚えている。なぜかコンドームをまとめて買っていた。当時は、「スキン」とか「サック」とか呼んでいた。

その後、大学に入学した後に、京都の京一会館で、映画『仁義なき戦い』シリーズをまとめて観た。
広島での暴力団の抗争が、神戸を拠点に覇を争う二大広域暴力団の代理戦争の様相を呈していた場面があった。「あの時の彼らは、この人たちだったのだ」と過去の思い出と目の前の映画のストーリーがスクリーンの前で結びついた。

薬局の横にあった溝で、遊びに来た酔った客が立小便をすることもあった。ある日、母親が店を出て「やめてください!」と注意しに行ったが、興奮した面持ちで帰ってきた。「山城新伍やった」とつぶやき、「キレイな顔してたわ」と後で付け加えた。

また店の前で、ヨッパライ同士数人がけんかを始めたこともある。野次馬が周囲に集まってきて騒がしくなった。その時、福原の桜筋にあった交番所の若い警官二人がやって来てけんかを止めに入った。その警官の一人がヨッパライに大外刈りをかけられて投げ捨てられた。
その時に周囲の野次馬から、「おっー!」という雄たけびと拍手喝采が起こった。その光景を見た時に、「いくらなんでもこれはあかんやろ」と小学生の私はつぶやいた。

薬局の店には、色々な職業や立場の人が立ち寄っていたが、多くは開けっ広げで親し気な雰囲気を持った人たちだった。少々口が悪くても他人のことを思う人の言葉は直接伝わってきた。高校に通うようになるとすべての人がそうでないことに軽いカルチャーショックを感じたことを覚えている。

店の前を行き交うオジサンたちは、顔見知りや私たち子どもたちには、いつもやさしかった。ところが、警察官の制服を見ると、肩を揺らして歩き始めたり、舌打ちしたりして急に態度が変わるオジサンが少なくなかったのである。

小売業の商売は、店の方からお客さんたちを見ている感じがある。ある意味定点観察ができるということだ。面白い人、怖い人、寂しい思いをもつ人、取り返しのつかないことを抱えた人などなど。

22歳になった1976年に、神戸の王子公園近くの母親の実家に転居した。母親は「毎日が退屈で仕方がない」とよくこぼしていた。「前の店では、毎日のように事件が起こっていたのに」と寂しげに語ることが多かった。

そんな事件が起こっていた新開地〜福原の日々の思い出を中心に、これから語っていきたい。

      



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