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第5回 神戸・新開地「新開地の芸人たち①」

笑福亭松之助と横山ノック

明治以来の神戸港開港の経緯から進取の気風が生まれ、芸人やプロ野球選手、著名な日本画家、ミステリー作家、映画評論家などの面々が神戸・新開地近くのエリアにひしめいていたことを第4回連載で述べた。

また大正期に三井物産を遥かに上回る売り上げを挙げる商社に発展した鈴木商店の発祥地は今の神戸駅近くの弁天浜であり、戦後に流通革命をもたらしたダイエー創業者の中内功は神戸新開地の薬局の息子である。

ここでは、落語家の笑福亭松之助(1925- 2019)と元漫才師の横山ノック(1932 – 2007)を例に取り上げて考えてみたい。
笑福亭松之助は、私の実家近くの神戸市兵庫区の福原地区の東側で生まれて橘小学校に通った。横山ノックは、神戸駅近くの生田区相生町の出身と言われているが、少し北側の兵庫区菊水小学校に在籍した。いずれも同じ楠高等小学校を卒業している。

二人には年齢差があって、横山ノックは終戦の翌年に楠高等小学校を卒業。軍需工場で働き、淡路島へ疎開することもあって満足に学校に通える状況ではなかった。
一方、松之助が入学した年は本格的な戦争の始まる前だったので高等小学校の生活を味わう余裕はあったようだ。

芸人で成功した理由

落語家の笑福亭松之助と元漫才師の横山ノックの各々の自叙伝やDVDなど(*1)を通じて、神戸新開地界隈で生まれた二人が芸人になった(自分の地位を固めた)共通のポイントを私なりに検討すると、下記の4点である。

① キャラクターが面白いこと
これは芸人になる必須条件と言った方が良いかもしれない。
当然ながら、二人とも子どもの頃から人を笑わせるのが好きで、松之助は、小学校6年生の時に、すぐ隣の湊川神社にちなんだ『楠公劇』の主役を務めたと語っている。
横山ノックも、母や兄からも「イサム(本名 山田勇)はオモロイ奴ちゃな」と言われていて、近所のオジサン連中を笑わせる人気者であった。

② 頼るべき組織はなく、早くに父親を亡くしている
松之助は、建築関係の職人だった父親と、店を持てない髪結いの母親との一人息子として生まれた。父母ともに決まった組織や店で働いていたのではない。
横山ノックの父親は船乗りだった。外国航路の貨客船の機関士で、家に戻ってくるのは年に一度か二度、それも一週間程度だった。母子の生活は父親からの給料の振り込みだけを頼りにしていた。

二人に共通しているのは、子どもの頃に父親を亡くしていることだ。

松之助が17歳の時に父親は病気で亡くなり、家計の責任は彼にも覆いかぶさった。楠高等小学校卒業後は三菱電機神戸製作所の養成工として働いた。
横山ノックの父親は、太平洋戦争が始まって船ごと内務省に徴集されたが、まもなく消息不明になった。戦後になって船会社から「行方不明通知書」が届いたという。
横山ノックは当時芸人という選択は頭にはなく、戦中は学徒動員で軍需工場で働いた。戦後は生活のために母親と一緒に湊川市場でおはぎを売り、近くの銭湯でのバイトや、香具師の手伝いなどをいていた。その後は、年齢をごまかして進駐軍関係の仕事を始めている。

横山ノックが働いていたという銭湯は「芦原温泉」として現存

③ 神戸・新開地の土地や人からの影響
二人とも自伝の中で地元の神戸・新開地の思い出をいろいろと述べている。

松之助は、母親が芸能好きだったこともあって、小さい頃から映画や演劇、寄席などを新開地で観賞。当時は聚楽館が一番大きな劇場で客席が3階まであって4階がアイススケート場になっていた。
新開地本通りの北側にあった松竹劇場では、歌舞伎や松竹家庭劇、橘小学校の先輩にもあたる曾我廼家十吾の芝居なども観ていた。
二流の演芸を低料金でやっていた劇場もあり、映画館も10軒以上はあったという。
松之助本人もそのような環境が芸人になるのに大きな影響を与えたと認めている。また小学校1、2年生の頃、同級生の家に大量にあった初代桂春團治のレコードを聞かせてもらったのが、落語の面白さを知るきっかけだったと語っている。

横山ノックも、新開地の錦座で映画を観たり、菊水食堂という洋食屋でビフカツやオムライスを食べたりした思い出は忘れられないという。
当初は自分が芸人になろうという意識まではなかったが、旧居留地のメリケン波止場で働いている時に芸能界の師匠となる秋田Bスケと出会っている。秋田Bスケは、有名な芸人一家の生まれで、すでに芸能界に入っていた。このBスケとの出会いがなければ、芸人にならなかったかもしれない。横山ノックも芸人になるに際して地元からの影響を受けているのである。

④ 一つの立場にとらわれずに、転身を繰り返していること
二人の共通点は、常に自分の力量が発揮できる場所を求めて転身を繰り返していることだ。

松之助は「ご飯食べられへんで」「それはもうわかってます」というやり取りですんなり5代目笑福亭松鶴に弟子入りした。
落語修行に精を出しながら、小林一三が主宰した「宝塚新芸座」という軽演劇の劇団に入り、噺家でもあり喜劇俳優でもあるという道を進む。
また台本作家も手掛け、その後は新芸座を退団して吉本興業と契約する。「吉本新喜劇」の第1回公演『夫婦読本』は松之助の作・演出・主演である。その後、一時は松竹芸能に移籍したが、再び吉本興業に戻っている。

横山ノックも秋田Bスケに弟子入りの後は、上方演芸から松竹新演芸(松竹芸能)、その後、大宝芸能を経て、吉本興業に入るなど所属事務所を何度も変わっている。今では許されない二重契約的な時期もあったという。
漫画トリオで一世を風靡した後も、突然参議院議員に立候補して、漫才師から参議院議員、大阪府知事から最後は刑事被告人にまでなった。芸人の枠にとどまらない振り幅の大きい人生だった。

神戸松竹座の盛況

私が小学生の頃は、新開地本通りにあった神戸松竹座は、文字通りお笑いの殿堂と言っても良い存在だった。時代は違っても、私も松之助や横山ノックのような刺激を受けていたといえる。
昭和40年代前半までは、吉本興業よりも松竹芸能が隆盛を誇っていた。

新開地商店街には神戸松竹座跡の説明板が立てられている

近所の遊び人の兄ちゃんが、なぜか入場券を持っていて、時々松竹座に連れて行ってもらった。
トリがかしまし娘で、最も人気があったのが若井はんじ・けんじだ。「頭の先までピーコピコ」というギャグを覚えている人もいるだろう。
ふたりはMBSテレビ『ダイビングクイズ』の司会も務めた。回答者が大きな滑り台に乗って、クイズに答えられないと滑り台の段差が上がっていって、落ちるとアウトという斬新なクイズ番組だった。

漫談の西条凡児、海原お浜・小浜(海原千里・万里(千里は後の上沼恵美子)の師匠。小浜は、海原やすよともこの祖母)、ドツキ漫才の正司敏江・玲児、のこぎりで『お前は、アホか。』を弾いてくれる横山ホットブラザ-ズ、少年の人形を使った川上のぼるの腹話術などなど。
スポットライトに照らされた舞台を見ながら『こんなにお客さんを喜ばすことが出来るなんて凄いなぁ』とワクワクしながら、毎回の出し物を見ていた。

喜楽館に展示されている松竹座のポスター


レツゴー三匹がまだ新人の頃だ。
神戸松竹座の裏手に花月湯という銭湯があった。
私たちが、脱衣場にいると、レツゴー三匹のじゅんさん(ここは敬称を外せない)が入ってきて一気に周囲が沸いた。当時、舞台で飛ぶ鳥を落とす勢いだった彼が、突如現れたのだ。
手拭いで前を隠しながら、少しはにかんで浴槽のほうに入っていくじゅんさんの姿を今も鮮明に覚えている。翌日、中学校で自慢げに話しまくった。

テレビによって立場が逆転

昭和42年(1967)にABCラジオで、「ヤングリクエスト」(通称 "ヤンリク")が始まり、吉本興業は、笑福亭仁鶴というスタ-を誕生させた。
「仁鶴・頭のマッサージ」や「どんなんかな~」という仁鶴の声が頭にこびりついていた。彼の歌う『おばちゃんのブルース』で自分の母親のことを想起する子が多かった。
翌日、中学校に行って前日の深夜番組のことを話すのは当たり前で、私がクラスの学級委員長の時は、毎日の夕礼で「ヤンタンクイズ」をもじった三択の問題を出してウケを狙ったことを思い出す。

余談であるが、大学一年生の時には実際にヤンタンクイズにも挑戦した。
結果は残念賞で、スポンサーのロート製薬から眼薬が送られてきた。「家では売り物にはならないナ」と薬局の商売をしていた母から言われたことを覚えている。

私が中学3年(1970)のときに始まった毎日放送のテレビ番組「ヤングおー!おー!」は若者の気持ちをがっちりつかんだ。
会場に観客を入れる公開放送形式の番組で、カメラが初めて観客側を映し出し、斎藤努アナウンサーが「ハッピー?」などと直接呼びかける斬新な内容だった。
桂三枝(現・桂文枝)が司会を務め、吉本の芸人によるコント・漫才やゲストのアイドルの歌とトークなどの目先の変わるコーナーが展開した。

この時期あたりを境に吉本興業はメディアでの露出を高めて一気に勢力を伸ばした。これに対して演芸場の顧客を相手にした笑いはマンネリに陥った。
松竹芸能は次第に力を失い、吉本興業との立場も逆転して、1976年に神戸松竹座は閉館になった。新開地自体の地盤沈下もあったが、テレビという新たな潮流についていけなかったのである。
私の中学時代の友人の祖父母はその昔、神戸松竹座で漫才をやっていたというが、それは過去の話でしかなく、当時の祖父母の芸名をその友人も知らなかった。

先ほど紹介した、笑福亭松之助も横山ノックも、自伝の中でテレビを意識していた記述が何度も出てくる。
松之助は落語だけでなく喜劇俳優としてテレビでも活躍したし、横山ノックは「いずれ漫才もテレビでやる時代が来る」ということで漫画トリオの結成時にも新しいメディアを意識していた。
そして二人とも最終的には吉本興業に所属してマルチな芸人としての立場を確保しているのである。

地域の記憶や地場の力の弱体化

笑福亭松之助、横山ノックの二人のキャリアの展開を追うと神戸・新開地界隈に生まれていなければ芸人にはならなかった可能性が高い。
つまり土地から受けた刺激やそこで暮らす人々との出会いが芸人の道を歩むのに必須の要件でもあった。アナログの時代では、演芸や芝居はすべて一回限りのその場だけで体験できるものであり、現場にいることが何よりも大きな力を持つ。当然ながら人との出会いも同じである。

しかしながら現在では、テレビやネットなどの新たなチャネルがあって、芸人になることは多くの人に扉は開かれている。演芸場や芸人が身近にはいなくても、芸人になることはできるのである。

映画においても、『神戸 最後の名画館』を書いた浅田修一によると、1963年の神戸新開地には、19館の映画館があったという(*2)。
当時は映画館に行かなければ、映画を観ることはできなかった。新開地近くで生まれた映画評論家の淀川長治は、子どもの頃から新開地で映画を観まくっている。
当時は新開地にいることで大きなアドバンテージがあった。しかし今やDVDやビデオテープを通して映画を鑑賞できるどころか、自宅においてデジタルで手軽に洋画も邦画も観ることができる。

逆に言えば、それだけ土地の記憶や人を引き付ける地場の力は薄れている。今後、AIが発展すればさらにその傾向は強まるだろう。

また異なる観点になるが、厚生労働省が発表している労働力調査をみれば、就業者全体の内、雇用者(会社,団体,官公庁などに雇われて給料・賃金を得ている者)の割合が、私が生まれた1954年6月は43.4%であったが、2023年4月は89.9%に達している。
ほぼ70年前は半数以上が、農林漁業関係者や自営業者、独立した職人などで占められていたものが、今や90%はサラリーマンになっている。
地域よりも組織が中心の世の中になっているのである。この急激な組織化の流れも土地の記憶や人を引き付ける地場の力を弱めることにつながっているだろう。

土地の持つ地場の力を再生できるかどうかは非常にむつかしい。もちろんこれは神戸・新開地にはとどまらない問題である。
最近は地域のまちづくりにおいて若い人たちが大いに活躍している。それは素晴らしいことであるが、東京オリンピック(1964)や大阪万博(1970)を経験して、今日より明日は豊かになるという基本感覚をもつ高齢者層と、右肩上がりの未来を安易に信じることができない若者との感覚の違いという世代間ギャップもあって、なかなか一筋縄ではいかない。

誰か故郷を想わざる

「記憶」というものは、個々人の内面からのユニークな発露として想起されるというよりも、さまざまな思い出の中で何らかの外部的なきっかけによってその都度、再構成されて現れるものである。

各人が懐かしむノスタルジーにおいても、今後はメディアやネットから提供された既成のコンテンツ(音楽、テレビ番組、映画など)に向かい、それはさらに加速されていくことになるだろう。
そこでは、地域の意味合いは薄れて、個々人の独自性や個性的な記憶の意味も失われがちになる。

ただ、私は神戸・新開地で生まれて、京都、大阪、名古屋、東京などを廻った後に地元近くに戻ってきた。
若い時にはあまり感じなかったが、コロナ禍の時期に、生まれ育った神戸・新開地界隈を歩くだけで嬉しい自分がいることに気がついた。
高度成長期のような勢いは全く失われ、阪神・淡路大震災で町並みも大きく変わってしまったが、記憶の中ではいろいろな思い出が存在している。

その中で印象的なものは、土地やそこに住む人から受けた刺激や、自らの行動や人との出会いの中でリアルに感じてきた私自身の私的ヒストリーである。
決してテレビやネットが提供している過去のコンテンツだけではない。それらのリアルな物語をもう一度呼び戻すことにも価値があるかもしれないと、この文章を書き始めた。

最近もときどき小学校や中学校当時の友人と語らう機会がある。
互いに70歳が目前という年齢になっているが、「昔の仲間とバカ話さえできれば、もうそれだけで十分だな」と語る友人の発言を聞いて、一番大切なことは、このあたりにあるのではないかと思っている。

(*1)『草や木のように生きられたら』(笑福亭松之助 ヨシモトブックス/2016)
『いつも青春ずっと青春―笑福亭松之助聞書』(林家染丸  燃焼社/2019)
『楽悟家 笑福亭松之助』( [DVD]ユニバーサル ミュージック/2009)
『知事の履歴書―横山ノック一代記』(横山ノック 太田出版/ 1995)
『ノックは有用―PL法による知事取扱説明書』 (中田 昌秀  日本デザインクリエーターズカンパニー/1995)
(*2)『神戸 最後の名画館』(浅田修一 幻堂出版/2001)


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