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第4回 神戸・新開地「神戸の成り立ちと進取の気風」

「新開地で産声をあげる」

「新開地で産声をあげる」と冒頭の小見出しにある本の著者は、上方落語界の重鎮だった笑福亭松之助師匠(1925年~2019年)。
著書(*1)の中で自身の人生のこと、芸のこと、日々のことを書いている。

明石家さんまの師匠としても知られている松之助氏は、兵庫県神戸市湊東区(そうとうく・のちの兵庫区)で、土木建築関係の職人だった父親と、店を持てない髪結いだった母親との一人息子として生まれた。

松之助師匠が語る上方芸能裏話を林家染丸師匠が聞き書きをした書籍(*2)には、松之助師匠の小学校時代の同級生が書いた地図が掲載されている(図1)。
そこには師匠の実家(明石宅)だけでなく同級生の自宅の場所も書き込まれている。資料に楠木の実家の場所も書き込んだ。


(図1)「昭和初期の新開地付近」(奥田保氏作成)『いつも青春ずっと青春―笑福亭松之助聞書』(P11)。

JR神戸駅の北にある湊川神社の西側から、聚楽館や映画館、演芸場、芝居小屋が立ち並ぶ新開地本通りを囲んだ地域が橘尋常小学校(のちの橘小学校)の校区だった。
そこには福原遊郭の桜筋、柳筋も記載されている。

松之助師匠は私の小学校の先輩であるだけでなく、家も歩いて1〜2分のご近所さんだった。
もちろん師匠は私の父親と同年代なので一世代ズレている。また昭和初期と現在の土地区画は変わっているので、師匠の住んでいた場所は特定できない。子どもの頃、地蔵盆で小学生の私たちがお菓子をもらいに行ったあたりだ。

この地図の同級生の家には、「ろうそくや」や「眼科」などの自宅の商売が書き込まれている。私も同様に記載するとすれば、氷屋のSクン、自転車屋のKさん、化粧品屋のHクン、文房具店のFクン、散髪屋のAさん、お菓子屋のSクン、仏壇屋のMクン、お父さんが左官職人だったKクンなどと書き込める。
校区の中に商売人や職人の家が多かったことにあらためて気づく。

自分の道を切り開いてきた人たち 

松之助師匠は書籍によると、1937年に橘小学校を卒業して楠尋常高等小学校(2年生)に入学する。北京郊外の盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突し、日中戦争の始まった年である。

この学校には野球部があって松之助師匠は友達に誘われて入部したものの、高等小学校への進学に反対していた父親に「バカ野郎ッ、やめてしまえッ」と一喝されて一日で野球部をやめることになる。そのため部員全員からビンタをくらったが、その一人が、後にプロ野球で通算5回の本塁打王になった青田昇だった。また青田の2年先輩には、プロ野球の投手として通算310勝を挙げて野球殿堂入りした別所毅彦もいた(*3)(*4)。

いずれも楠尋常高等小学校を卒業して滝川中学からプロ野球に進んでいる。
別所氏の書籍によると、彼の楠尋常高等小学校の先輩には、パシフィック・リーグ元会長の中澤不二雄、元阪急の田中成豪、伊藤甚吉、巨人の三田政夫などがいて、少年野球界では名門だったという。

実は、私も楠尋常高等小学校(神戸市立楠中学校、合併後、神戸市立湊翔楠中学校校)の野球部にいたので、青田、別所の後輩ということになる。

松之助師匠は、小さい頃から芝居や落語、歌舞伎にもなじんでいた。新開地の松竹劇場で母親と一緒に曾我廼十吾の松竹家庭劇も観たそうだ。面白いことに、松竹新喜劇を創立したメンバーでもあった曾我廼十吾は、師匠が通った橘小学校の正門に近い場所で生まれている(*5 p133)。
2020年度後期放送のNHKの連続テレビ小説「おちょやん」の須賀廼家千之助(すがのや せんのすけ、星田英利が演じた)は彼をモデルとしている。

そのほかにも元漫才師、お笑いタレントで大阪府知事も務めた横山ノック、創作落語をはじめ幅広く活動している女性落語家桂あやめは、同じ楠中学校の卒業生でもある。

関西浪曲界の大看板である梅中軒鶯童(ばいちゅうけん おうどう)(1902- 1984)は、満3歳から古湊町2丁目で借家暮らしをして、橘小学校を4年修了の後、はや9歳で新開地相生座に飛び入り参加して満員の客を驚かせたという(*5 p67)。

また松之助師匠(1925- 2019)の子どもの頃、すぐ近くのエリアの神戸新開地南側の地域には、流通革命家でダイエーの創業者である中内功(1922 - 2005)。後に日本最大となる暴力団の創始者山口春吉(1881 - 1938)、日本画家の巨匠東山魁夷(1908-1999)、大ミステリー作家の横溝正史(1902- 1981)、映画評論家の淀川長治(1909- 1998)などの面々がひしめいていた。

メンバーの顔つきと経歴を見ていると、いずれも国や組織に頼らずに自分の道を切り開いてきた人たちである。
最初から自分の決まった席は用意されておらず、自らが活躍できる場を見つけているという共通項がある。

もちろん、これらは彼らの個性と努力の賜物である。ただ地域の持つ場の力も関係しているのではないかと考えている。

明治初期の神戸の3地域

神戸市の中心街の成り立ちを考えてみると、かつての兵庫城のあった兵庫の津(旧称は、大輪田の泊)に県庁が置かれている。開港と同じ明治元年の1868年のことだ。当時も人口2万人を超える港町として栄えていた。
逆に言えば、街らしい町は兵庫にしかなかった。

神戸で生まれて育った直木賞作家の陳舜臣は、「為政者は当初、兵庫と新港区域の中間に、都心をつくるつもりだったらしい。そこには湊川神社(楠公さん)がある。(中略)神戸駅も楠公さんの前につくられた。明治末に落成した前の市役所も、楠公さんのすぐそばであった。裁判所も繁華街もそのあたりにあった」(「神戸ものがたり」P134)と述べている。

リンクの「神戸兵庫名勝絵図(こうべひょうごめいしょうえず)」をみれば、明治19年の神戸・兵庫地域が一覧できる(「詳細画像表示」をクリックすると拡大できます)。
この地図を見ると、東から
①元町の居留地や雑居地(外国人が日本人と雑居することを認められた地域)
②東の宇治川から付け替え前の湊川(現在の新開地本通り)までの神戸駅、湊川神社、裁判所、福原遊郭を含む地域
③兵庫の津のあった旧市街地域
の3つに分かれる。この3地域より外側になると、具体的な建物などの表示はなく、「村」や「郡」と表示されている。

注意を要するのは、当時の三宮駅は、現在の元町駅あたりにある。その近くの三宮神社あたりが一番の盛り場であり、露店、映画館(活動写真)、寄席、飲食店、カフェなどで賑わっていた(*6)。余談であるが、昭和4年(1929)生まれの私の母親は、子どもの頃は三宮にある百貨店そごう(現・神戸阪急阪急百貨店)の近くに住んでいたが、三宮神社の近くには行ってはいけないと親に言われていたそうだ。

この地図の下欄には学区のことが整理されている。上記の3つの地域に対応して、
①第一番学区:神戸小学校(神戸北長狭通4丁目)
②第二番学区:相生小学校(兵庫上橘通4丁目)
③第3番学区:兵庫小学校(兵庫永沢町)
に分かれている。

神戸の明治期以降の発展は、⓷の兵庫の津のあった旧市街ではなく、①居留地を中心とした元町地域と、②新たな神戸駅と湊川神社、福原遊郭、新開地を軸とする地域とで街が形成されていった。

明治当初からの神戸の街の成立する経緯については、加藤政洋の『神戸の花街・盛り場考』(*6 P60-)に詳しい。

以下はその引用を中心にした記述である。
徳川260年のタガが緩んだのか、開港後の明治初年の2月には、神戸に在住する有力者は、相次いで劇場や遊郭の設置を出願している。遊郭は、現在の元町商店街の西端に流れていた宇治川の河口付近(右岸)に土地が求められて、平清盛にちなんで福原遊郭と命名された。明治元年には早くも開業にこぎつけている。

加藤は、「この立地は、とても特徴的で、居留地から見れば雑居地の外側だけれども、旧市街地の兵庫に近接しているわけではない、まさに都市空間の縁辺に建設された」と書いている。ところが、明治3年(1870年)に、大阪―神戸間の鉄道敷設に伴う神戸停車場(神戸駅)の用地として福原遊郭を含む地区が選ばれる。
このため現在の新開地本通り横の「湊川の土堤下の新福原町」に移転した。一面が田んぼだった地域に花街が出現した。

神戸港開港に伴う大きな街をつくるためには旧市街地では、狭くて対応できなかったこともあるのだろう。
また市街地の中に外国人の居留地を作ればトラブルも想定されたのかもしれない。


新たな神戸発展の中心地になった湊川神社の正門側から神戸駅を写す

神戸開港の経緯が影響

新たな街が急速に発展する際には、多くの人がそこになだれ込む。
当然ながら神戸港の開港に向けて多くの労働力も必要であった。

江戸から明治への時代の大転換期に、貧しい農民や窮乏した士族、手工業者が続々と神戸に流入してきた。「細民は四方より遠きを厭はず老も幼も男も女も、波濤の如く群入」(『神戸開港三十年史』)という状況だった。

永六輔の著書『芸人』(岩波新書)(*7)の中で、江戸末期に「ええじゃないか」騒動という大衆行動で伊勢に集まった多くの難民に近い人たちが、神戸開港という話を聞いて神戸に移動した。

そして関西の相撲取りたちが見張り役になって百人部屋という小屋を作って、朝から働かせて、夜になると飯を食わせ、酒を飲ませ、音頭取りが現れて各地の民謡を歌うことになった。

今の新神戸駅の南側の生田川沿いの新川地区あたりにあったこの百人部屋が港湾労働者の仕切り場になり、ここから上方漫才の原型なるものが生まれるという場所であると彼は述べている。
また日本各地の民謡が歌われたであろう百人部屋の存在は歌謡史の中でも重要な地位を占めていると永六輔は言う。

江戸時代から明治時代への大転換期に、新たな土地に日本有数の港を造るという大事業が神戸という都市で行われた。当然ながら一旗揚げようと多くの人が集まる。
そこでは、既成の枠組みにとらわれない新たな起業センスや鋭い金銭感覚を持った時代を見る目が求められる。同時に急激に多くの人が流入すれば、どうしても頼るべき組織や生産手段を持たない人が増える。

ちなみにこの新川地域ではスラム街が形成されて、キリスト教の社会運動家である賀川豊彦が貧しい人たちの救済活動に貢献した。
労働者の生活安定を目的として神戸購買組合を設立、現在の日本最大の生協であるコープこうべにつながっている。

頼るべき組織や生産手段を持たない人たち

永六輔は、先ほどの『芸人』の中で、生産手段を持てない人たちの例として芸人を挙げている。
彼らは生きていかなければならないから、何か売らなければならない。かつては「ヤクザ」は男を売り、「女郎」は身体を売り、そして「芸人」は芸を売る、と書いている。

時代を経た戦後にも、私が育った神戸新開地や福原あたりではそういう人たちは少なくなかった。冒頭の小学校の校区内では、小商いを営む人や職人、アウトローの人たちが多かったことにも通じるのである。

一方で、そのことは開港都市神戸が進取の気風を持ち、西洋文化をはじめ新たなものを取り入れるのに抵抗が少ないことにつながっている。
従来からの慣習や他人の思惑から比較的自由なので、奇抜なアイデアも実際に試すことができる。
その反面、最初から自分の決まった席は用意されていない中で、どのように生きていくかの課題が各人に突き付けられる。親や過去から受け継いだものだけでは、生きていくことはできないからだ。

それが前述した、プロ野球選手や芸人たち、暴力団の創始者、日本画家の巨匠、ミステリー作家、映画評論家などを生む土壌にもつながっていると考えている。横溝正史の『悪魔の手毬唄』(1957年)に登場する亀の湯の夫婦は、新開地で出会った活動弁士と女芸人だったという設定で、やはり芸人と言える人たちだ。

個人だけではなく、明治7年(1874)、現在の神戸駅の南側の弁天浜に生まれた小さな店から始まった鈴木商店は、大正期には三井物産や三菱商事を遥かに上回る売り上げを誇る商社に発展した。
また戦後の日本社会に安売り旋風を巻き起こした総合スーパー・ダイエーの創業者である中内功は新開地本通りの南にあった薬局の息子である。神戸三中時代は目立たない性格で、壮絶な戦争体験が彼を変えたという説もあるが、新開地の土地柄というか、気風が、戦後の活躍に影響を与えている気がするのである。
いずれにしても、鈴木商店、ダイエーとも安易に既得権益に頼ることはなく、あらたなニーズを開発して成長した。

頼るべき組織や親から受け継ぐものを持たない中で、どのように生きていくかは、私の子ども時代でも多くの人にとって共通の課題でもあった。今後は、そのあたりにも焦点を置いて書き進めたい。

次回は、神戸新開地出身の笑福亭松之助師匠に戻って、彼の生き方と、なぜ明石家さんまが彼を師匠に選んだのかなどについて考えてみたい。

(*1)『草や木のように生きられたら』(笑福亭松之助 ヨシモトブックス/2016)
(*2)『いつも青春ずっと青春―笑福亭松之助聞書』(林家染丸  燃焼社/2019)
(*3)『ジャジャ馬一代―遺稿・青田昇自伝』(青田 昇 ザマサダ/1998)
(*4)『剛球唸る!』(‎別所 毅彦 ベースボール・マガジン社/1989)
(*5)『わいらの新開地』(林 喜芳 神戸新聞総合出版センター/2001)
(*6)『神戸の花街・盛り場考』(加藤 政洋 のじぎく文庫/2009)
(*7)『芸人』 (永 六輔 岩波新書/1997)
(*8) 『古地図で楽しむ神戸』 (大国正美 爽BOOKS/2019)


      





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