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THE HIGH BEATSの歴史(1)

べんちゃーずってなに?の63年


神田川にかかる面影橋近くの安アパ-トといえば、みなみこうせつ氏がギターを抱えて出てきそうですが、現実はえらい違いで、家具もない三畳間にひとりどんよりと生きておりました。

奇しくもビートルズが海のかなたで誕生した1963年の初夏ぐらいだったと思いますが、私の部屋へひとりの後輩が尋ねてきました。親同士が友人でたまたま中学の1年後輩であるにもかかわらず、それまで顔をあわせたことがなかったのですが、私と同じ大学に入学してきたのです。彼の両親からよろしくたのむという連絡ももらっていました。彼のあだ名はポンでした。

ポンは私の父親から託された古いクラシックギターを届けにきたのです。
友人から安く買ったさほど値打ちのあるものでもなかったので、家に置いてきたのでした。
「ギター弾きはるんですか」
「いや、本格的に習うたわけやないから、あんまり弾かれへんねん」
そこで私が弾いてみたのは「太陽はひとりぼっち」の間奏の部分でした。

「いけますやん」
と喜んだポンは一緒に上京した同級生とバンドを作ろうとしていること、バイト先の先輩が参加して色々教えてくれているが、いつまでも頼っていられないので、同じ大学の中でメンバーを探していることなどを熱く語りました。
で、どんな構成になっているのかたずねたところ、最低ギター2本とベースとドラムが必要だと言うことでした。
驚きました。今まで私がイメージしていたバンドというのは、管楽器抜きにはありえなかったのです。
小人数のディキシーは管楽器とバンジョーだし、ウエスタンやハワイアンは歌い手がいます。
「ギター2本でダンスパーティー?」
「ん?べんちゃーずってなに?」
無知な先輩でした。

とにかく一度練習を見にきてよ、と誘われてある日の夜、その会社のビルの屋上へ行ってみました。
そこに居たのは、バイト先の先輩(サイドギター)、ポンの同級生(ドラム)、ヒゾー(ヴォーカル)、おとなしかったのでよく覚えていない人(ベース)、一癖ありそうな人(MC兼マネージャー)、それにポン(リードギター)でした。
そこで初めて聞かされた曲が何であったかは記憶していません。
しかしその迫力に圧倒されました。生まれて初めて目の前でアンプを通したエレキギターの音を聞いたのです。

「どうですか」とポンに聞かれて、
「やる!やりたい!」
単純な私は即答しました。どんなに大変なことかを、よく考えもせずに。
「歌は?歌えますか?」
「歌う!何でも歌う!」
無謀にも、参加したいがために言いなりです。
そしてメンバーというより仲間になることを認めてもらいました。

ギターのコードさえよく知らなかったのに、すぐに余っていたギターを持たせてもらいました。
ここを押さえて、次はここを押さえて、と指を一本一本つまんでは置いていく押さえ方で、自分の指がいかに自分の言うことを聞かないものか思い知らされました。

そんな経緯を経て、夕方になるとビルの屋上へ行って練習を重ねるようになりました。
当時の名前は「東京デンバース」でした。日本なのかアメリカなのかハッキリせい!というようなバンド名でした。
ポンがバンマス(リーダー)となり、バンドをまとめていきました。
曲をコピーする方法は、楽譜ではなく(誰も読めません)レコードを聴いて各パートが何をしているかつかみ、同時にコードも探し出すのです。その結果でギターとドラムのコード表やリズム表を作っていました。
そしてそのコード表を見なくても演奏できるようになれば自分のパートは完成で、他のパートと合わせる段階に入れます。
私はまだまだ音取りができなかったので、コード表を書いてもらって、それを見ながら練習していました。

で、その年の11月15日に山形県酒田市で、いきなりステージに立つことになってしまったのです。
大学の県人会の主催であったと思いますが、「東京デンバース」を呼んでのダンスパーティーが行われたのです。
広すぎるとビビったほど広い体育館でした。それを埋め尽くすように集まった人たちにもビビりました。

東京デンバースの初ステージ
ギターを抱えて歌う店主(右から2人目)

「ハウンドドッグ」を歌ったことだけは覚えています。そしてみんな狂ったようにツイストやモンキーダンスを踊っていたことも覚えています。
どんな曲を何曲やったのか覚えていません。コードが憶えられなかったので、大きな紙に書いて足元に置いていました。演奏がうまく行ったかどうかも覚えていません。
多分都合の悪いことは忘れるように、無意識に脳細胞を壊してしまったのでしょう。
その時初めて「えらいことになったわい」と、楽器を持って人前に立つことの恐ろしさを実感しました。

舞台で記念撮影

(2)へ続く