ショートストーリー フーセンガム
久しぶりに食べたそれは、安っぽい味がした。
何度も膨らませて遊んで、味が無くなるまで安上がりな娯楽に興じる。
膨らませることだけに集中する。
その間だけは、不思議と寂しさが失せていた。
朝起きてすること。
お手伝いさんに挨拶。
昼食後にしてすること。
お手伝いさんに挨拶。
夜寝る前にすること。
お手伝いさんに挨拶。
これが私の一日の仕事だ。
貧乏少女だった私は夢のような玉の輿で、生活が一変した。
家具は、人が隠れられそうなくらい大きくて重厚なものへ軒並み変わり。
食べ物は、量どころか質にも拘り、料理人にも拘られ。
着る物は、どれもクリーニングに出さなきゃいけないような生地。
透明な衣装ケースに貰い物のTシャツを三枚並べ、空きスペースにお菓子を忍ばせていた頃とは、比べるまでもない生活。
唯一同じと呼べるのは、朝から晩まで挨拶ばかりしていること。
とはいえ、朝から晩までお客さんに声が枯れるまで繰り返した挨拶と、今のお手伝いさんにする挨拶では『質』が違うのは言うまでもないけれど。
私の代わりに家事をするお手伝いさん達は、昔の私の様にあくせく働いている。
夫より、彼女達のほうが話が合うのは明確なのだけど、話せるような雰囲気はなく、かと言って、私が彼女達の仕事を取るわけにも行かず。
ただ、お互いに黙って互いの仕事をこなすだけだった。
しかし、そんな何もない毎日の中でも変化があった。
お手伝いさんの一人が、小さな男の子を連れてきた。
聞けば、コロナ渦で学校が休校となったらしい。
急なことで預け先もままならず、雇用主である夫に連絡したところ、彼の提案でしばらく連れてくることになったそうだ。
夫からそんな話は聞いていなかったが、広い家に小さな子供が一人増えようと私の生活が変わることもないので、私も二つ返事で了承した。
手を引かれて連れてこられた男の子は、大人しくダイニングテーブルでひらがなの書き取りをしている。
何も喋らず、時々キッチンで働く母親の姿を見て、淡々とひらがなを書く。
ソファにもたれて読書にふける私は、彼と大差ないなと笑ってしまった。
私の視線を感じ取ったのか、男の子はひらがなを書く手を止めて私を見つめた。
子供の相手なんてどうすればいいか分からず、とりあえず小さく手を振った。
すると、彼は母親のところへ真っ直ぐ走っていってしまった。
怖がらせてしまったのかもしれない。
昔から、愛想が足りないと言われたから。
そう思って、彼の勉強の邪魔をするのは今後止めようと本の続きを読み始めた。
ページを捲る度に、物語の中に惹き込まれていく。
この家に誰がいても、何をしても、気にならなくなってくる。
本から目を離さず、コーヒーの入ったカップに手を伸ばす。
無機質な陶器に触れると思っていたが、私の手に触れたのは、そうぞよりも柔らかく暖かい人の手の感覚だった。
驚いて、素早く手を引っ込めて触った物を確認した。
そこには、同じく驚いた顔の男の子がいた。
何も言わない彼は、気まずそうに手に握った物を私に見せてきた。
大人の手より水分を含んだ小さな手には、一欠片のガム。
キャラクターが描かれた紙で巻かれた小さなガムだ。
見覚えのあるそれは、私が昔何度も遊んだガムと同じデザインだった。
無言で私に訴えかける彼の変わりに「くれるの?」と聞けばコックリとしっかり首を縦に振られた。
自然と口角が上がるのを感じながら礼を言うと、彼もニッコリと笑った。
その後は、ソファに座るように促して、二人でガムを食べた。
膨らませては弾けて、膨らませては弾けて。
お互いに何も喋らなかったが、それが妙に心地よく楽しかった。
夜になってお手伝いさん達に挨拶を済まし、一人寝室へ入る。
キャラクターの絵が書いてある包み紙を、寝る前にじっくり観察してから、財布の中に仕舞い込んだ。
財布の中では、夫から渡された黒色のカードが無機質に光った。
冷たい色の黒いカードと、明るい色の包み紙は相反するようでいて、差し込んでみると案外馴染んでいた。
翌朝には、安っぽいガムの匂いが財布に移っていて、黒いカードにも色がついたみたいに見えた。
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