『江刺郡昔話』と、そのうち「お鶴物語」

 まず、この「江刺郡」について紹介しましょう。元は岩手県南部にあった郡です。現在では町村合併に伴って奥州市などに変わり、江刺郡の名は消滅し今では存在しません。兵庫県加古川辺りでいうと、印南郡の名が消滅したのと全く同じです。
 さて、その旧江刺郡は、失礼ながら凄い田舎で山奥の地だと思います。この『江刺郡昔話』には、そのため田舎ならではの話がいっぱい出ており、狐に化かされた話がいくつも出ています。もっとも、我が郷里・旧印南郡にも、狐に化かされたという話がいっぱいあって、決してよそ事ではありませんけれど。
 この図書の発行は大正11年。当時の定価で85銭。著者は佐々木喜善という人です。余談ですが、この佐々木喜善は、「日本民俗学の父」とされる兵庫県神崎郡福崎町出身の文化勲章受章者・柳田国男に、この地の伝説などを語って伝えた人です。柳田国男の東北地方関係の著書は『遠野物語』が有名ですが、この件は同氏の別の著書『北国の春』に出ています。
 
 ところで、この『江刺郡昔話』の内容ですが、以前「日本昔話」という子供向けのテレビ番組がありましたが、それの元になったのではないかと思われる話が沢山出ています。まったく同じではないのですが、「瘤取り爺さん」「花咲爺さん」「文福茶釜」などと非常によく似た話が出ています。合計で200話は下らないでしょうか。どの話も読んで大変興味深いものばかりです。
 
 今日は、この本に出ているお話のうち、特に興味深い一話を紹介します。
 
 江刺郡黒石村、現在では町村合併によって奥州市水沢黒石町という地名に変わっていますが、その地にある正法寺というお寺に纏わるお話です。大きなお寺で、現在でも多くの人々から深い信仰を集めているようです。曹洞宗の古刹で、正式の名称は「大梅拈華山圓通正法寺」。ホームページを見ますと、南北朝時代の1348年の開基。往時は末寺が508ヶ寺とも1200ヶ寺ともいわれ、江戸時代には永平寺、總持寺と並んで東北地方における「第三の本山」の格式を得ていたとあります。
 
 真空という僧が下野(しもつけ)の国河内(かわち)郡今泉の地に興福寺を開きました。3人の弟子がいて、その3人の弟子は、無尽、無底、無意といいました。師匠の真空は弟子達に、「私は今、白旗と石を投げる。3人はそれぞれ、その白旗か石を探し当てて、その地にお寺を建立しなさい」と命じました。3人のうち無底は石を求めて探し回った結果、この黒石村で見付けました。それで、この地に寺を建立し、それが正法寺だというのです。下野国は現在の栃木県ですから、この岩手県まで石を投げ飛ばしたことになる訳で、疑いをもって読みました。まあ、伝説ですから、それはそれで、置いておきましょう。
 
 この正法寺には「ほやの扇」というものが伝わっているそうで、その由来についての話が面白いのです。
 
 奥州一ノ関、田村藩に亀井辰次郎という若侍がいて、近所の者と一緒に伊勢参宮に行った際、松坂の扇屋勘兵衛の店で扇を買ったということです。その時、「お鶴」という名の店の娘に一目惚れされましたそうな。その「お鶴」から「ほやの故に」と言って扇を一本貰いました。同行の勘太という男から「『ほやの』とは、『ほいと』つまり、乞食の方言だぜ」と嘲られたといいます。それを聞いた辰次郎は扇屋に引っ返し、「お鶴」を切り殺してしまったというのです。それらのことを一切秘密にして、一行は帰郷し、曰く因縁の扇を師匠の正法寺住職・実源に土産と言って届けました。実源は扇が余りに綺麗なので不審に思って、同行の浅次郎という少々足らぬ男に問い質して真実を知りました。辰次郎父子をお寺に呼んで、理(ことわり)を説いて非を戒(いまし)めたところ、辰次郎も悔悟して、その場で自害しようとしたそうな。実源はそれを制(お)し止めて「もう一度、松坂へ行ってこい」と言って、餞別に白無垢の浄衣と蘭麝香(らんじゃこう)を与えたといいます。この蘭麝香というのは、香りのいいお線香です。
 
 辰次郎が松坂に着いたのは丁度「お鶴」の四十九日の忌日に当たっていました。辰次郎は仔細を話して「私を殺して、仇討ちしてくれ」と申し込みました。
 
 扇屋では娘の横死以来、悲嘆に暮れていましたが、有名な易者に見て貰ったところ、「四十九日に仇の方から訪ねてくるだろう。それと同時に扇屋にも喜びがあろう」という占いであったそうな。しかも、「お鶴」が夜な夜な夢枕に立って、「四十九日に妾(わらわ)の恋しい人が訪ねて来るから、何卒夫婦にして欲しい」と言っていたといいます。不思議なことに、正にその言葉どおり辰次郎が辿り着いたので、扇屋夫婦は、それまでのことを語ったうえ、自害しようとした辰次郎を制止して、その場で白木の位牌と婚礼をさせたというのです。しかも、「お鶴」の身代りとして親類の同年の「お三重」という娘を許嫁として、店を継がせたそうな。
 
 けれども辰次郎の心は一向に晴れず、「お鶴」の霊魂を慰めようと毎夜、般若心経を書き写し、実源から貰った名香を焚いて部屋に閉じ籠ってばかりでした。すると、「お鶴」の亡霊が毎晩通って来て、蜜語を交わすのです。2年程経った或る夜、「お鶴」が、「妾は、そなた・辰次郎さまの胤を宿して、今月は臨月です。ついては、妾の墓に白木綿(しろもめん)の布(ぬの)と銭六文を供えてほしい」と言ったそうです。そのとおりに供えておくと、翌朝にはそれが無くなったので、以来、毎朝それを供え続けたといいます。
 
 その頃から、墓場近くで若い娘子が毎晩飴を買いに通ってくるという噂が立ちました。「お鶴」の母親が一目娘に会いたいと出向きますが、叶わず泣く泣く帰ったといいます。
 
 「お三重」も、また、辰次郎から優しい言葉をただの一言も掛けてもらったことがないので、積もる想いを書き認めた文を持って辰次郎の部屋へ忍び込みました。すると睦まじそうな男女の蜜語が漏れて、それを聞いた「お三重」は嫉妬に狂ったそうです。
 
 「お鶴」の両親は亡霊であっても一目会いたいと、物陰に隠れて窺っていると、可愛い乳飲児を抱いて現れた「お鶴」が
「今宵は何となく胸騒ぎがする。これは、ご縁が尽きた証拠。今夜限りで恋しいそなた・辰次郎さまともお別れ」
と言うなり、姿が見えなくなったということです。亡霊が子どもを置いていったので、これは不思議と大事に育てていましたが、夜泣きに困っていました。
 
 辰次郎の夢枕に立った「お鶴」が、
「裏の竹藪に捨ておいて」
と言ったそうで、不憫に思いながらも、その通りにしたそうな。
 
 すると、通りがかった旅の僧が、その子を見て、
「これは、観音様の授かり子に違いない」
と言ったそうです。それ以来、夜泣きは、すっかり、なくなったといいます。
 
 ところで、その子は真に聡明で、3、4歳で文字を知り、5、6歳で達筆を揮い、幼くして大津絵を描いたといいます。10歳まで扇屋にいて、その後は碩学名僧となって、丹後国に鬼国山要澤寺を開いたということです。
 
 なお、この話に登場する人達は、みんな実在で、その家族もすべて名前が分かっていると書かれています。
 
 このお話は、現在の三重県松阪市でのお話です。もっともっと調べてやろうと考えまして、松阪市のホームページやら、松阪市教育委員会のホームページ、また、2ヶ所ある松阪市立図書館のホームページにアクセスして、随分探しました。松阪市に伝わる民話は、色々、出ています。松坂市や同市教育委員会が編集したものもありました。ユーチューブにも動画で編集されたものがありました。でも、この扇屋勘兵衞やお鶴のお話は、いくら探してもみつかりません。全くありませんでした。確かに、亀井辰次郎という若侍は、岩手県江刺郡の人ですから、その出身地に伝説として残っていても、何ら不思議ではありません。でも、松阪での出来事ですから、その地に残っているのが普通ではないか。そう考えますと、ちょっと、奇妙な感じがします。
 
 そもそも、亡霊が身ごもって出産し、また、その亡霊の子供が実在するという、そんなことは、現実ではありえないと思われます。誠に奇妙な話です。
 
 そこで、私、つらつら考えてみました。私の考えるところを語らせていただきますと、扇屋勘兵衛の家で、何かの事情で赤子が生まれ、その事情を表に出しがたい理由があって、このような偽りの作り話を拵えて、周囲に吹聴したのではないかな。それが周囲に知れわたってしまって、誰もこの作り話も信用しなくなったのではないか。だから、民話や伝説として伝わらなかったのではないかな。そんな風に勝手に推論したのです。これは私の単なる推論ですが、いかがでしょうか。
 
 ただ、こんな考え方も、ない訳ではありません。文化とか風習というのは、その中心では直ぐ廃れるもので、伝わった遠い所で永く残るという特性があります。
 例えば、仏教は本家本元のインドでは廃れ、遠く離れた中国、朝鮮半島、更には日本で永く生き残っています。日本だけに限った例を挙げますと、都のあった京都の伝統や言葉は、京都で廃れ、遠隔の地方で永く残っているものが、たくさんあります。その例に照らせば、本家本元の松阪で廃れ、遠い岩手に残っていても、不思議ではないかもしれません。
 詰まらない揣摩臆測に最後までお付き合い賜わり、誠にありがとうございました。心から厚く御礼申し上げます。


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