藤原氏栄華栄耀までの裏面を辿る


#創作大賞2023 #物部氏・蘇我氏の排斥 #大伴氏・紀氏の排斥
#権謀術数


 中臣氏は、元は中央ではなく、常陸国鹿島出身の一地方豪族に過ぎず、神祇を祭る氏族だったようです。ですから、仏教が渡来した際には、当然のことながら、物部氏と同様に排仏派でした。当時の氏族のトップは大連・物部尾興と中臣鎌子(後の中臣鎌足)でした。大臣の蘇我稲目は礼拝に賛成したため、天皇は稲目に仏像を授けて礼拝させましたが、間もなく疫病が起こりました。尾輿と鎌子は蕃神を礼拝したために国神が怒ったのだとして仏像の廃棄を奏上。天皇はこれを許して、仏像は難波の堀江に流され、寺は焼かれました。その後、稲目、尾興ともに亡くなり、蘇我馬子、物部守屋に代替わりしました。587年馬子は炊屋姫(かしきやひめ 用明天皇の妹で敏達天皇の后 のちの推古天皇)の命により蘇我氏及び連合軍が物部守屋の館に攻め込み、守屋は戦死。蘇我氏の推す崇峻天皇が即位し、以降、物部氏は没落しました。
 中臣氏は、物部氏なきあと、その地位にとって代わることになりました。
中臣鎌足は、飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、たまたま中大兄皇子(のちの天智天皇)にまみえて以来、親交を深めることなり、中大兄皇子を助けて、多武峰の談山神社で談合の上、蘇我入鹿を殺害。翌日に蘇我蝦夷は自害しました。私どもが日本史を学んだころは、何もかもひっくるめて「大化の改新」と習いました。この事変は「乙巳の変(いっしのへん)」と呼ばれています。
 勿論ご存知のとおり、蘇我蝦夷・入鹿が横暴を極めたからだ、とされています。それには、裏でこんな事実があったようです。当時、舒明天皇亡き後、その皇后であった皇極天皇が践祚して天皇の地位にありました。でも配偶者を亡くして寂しかったのでしょうか。皇極天皇に取り入った蘇我入鹿と深い関係に陥っしまったようで、それが蘇我父子が横暴を極めるもとになったのです。それを嫌った中大兄皇子が、それを排したいとして、起こしたのが、この「乙巳の変」です。

 話が少し外れますが、談山神社は奈良県桜井市多武峰にあり、現在でも紅葉の名所として有名です。祭神は中臣鎌足で、鎌足の没後、長男の定慧が留学中の唐より帰国して父の由縁深い多武峰に墓を移し十三重塔を建立。後に神殿が創建されたということです。定慧については、後ほど触れます。
 ところで今、ご紹介したいのが、この談山神社の絵巻や扁額にある蘇我入鹿暗殺の図です。同神社のホームページにも掲載されていますので、同神社へ赴かなくても簡単にご覧になれます。ご注目願いたいのは、刎ねられた蘇我入鹿の首が後ろに控える皇極天皇との境をなす屏風にまで飛んで行って、その屏風に刺さっていることです。この絵は、皇極天皇と蘇我入鹿の深い関係を暗示しているのです。

 その後、中臣鎌足は大化の改新以来、日本の外交責任者の地位に就きました。当時、外交使節として活躍していたのが僧侶と史(フミヒト 書記官)で、彼らが持っていた漢文や儒教・仏教の知識が重要視されたことから、長男・定恵を僧侶として、次男・不比等を史として育てて、将来的に自分の役割を補佐・継承させる意図があったのだろうと言われています。不比等についても、後ほど触れます。

 ここで、長男・定恵と次男・不比等について、触れてみようと思います。
 長男とされる定恵については、実は鎌足の子ではなく、軽皇子(のちの孝徳天皇)の落胤であるとの説があります。乙巳の変の遂行にあたっては、蘇我倉山田石川麻呂とともに、姻戚関係にもある軽皇子が陰で暗躍したと伝わっており、その落胤をもらい受けたということも充分ありうるというのです。
 一方、次男とされる不比等についても、実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤という説が『大鏡』に記載されていますので、これも誰でも簡単にお読みになれます。それだけでなく、『興福寺縁起』『公卿補任』『尊卑分脈』などにも見られるそうです。
 興福寺は藤原氏の菩提寺であり、氏神である春日大社と同様、都が飛鳥から奈良に移った時には、ともに都の一等地を与えられていることからも解るように、中臣氏とは切っても切れない深い関係にある寺ですから、『興福寺縁起』の信憑性は高いと思われます。
 『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする。」と言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝えています。『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあるそうですし、『帝王編年記』『尊卑分脈』などの記載も同様だそうです。
 さて、『万葉集』巻二・95に、中臣鎌足の詠んだ歌として、
    内大臣藤原卿が采女(うねめ)を得た時に作った歌
   我はもや 安見児(やすみこ)得たり 皆人の 得かてにすとふ 安見  
  児得たり
が、載っています。当時は、たとえ下級の女性であっても、天皇に仕える女性への手出しはご法度。ですから、采女という下級の女性であっても、それを嬉しくも貰い受けたという喜びの歌なのです。これも、天智天皇落胤説の強力な裏付けといえるかと思っています。
 平清盛にも白河法皇落胤説がありますが、いずれも、それが人口に膾炙するなどして、周囲に知れ渡ってこそ、昇進や権力獲得に結び付くのだと思われます。この定恵や不比等のことも、周知の事実であったのではないでしょうか。中臣・藤原氏の権力獲得には陰で大きな力となったであろうと考えるのです。
 中臣鎌足は669年、重病にかかり、それを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、 大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、さらに藤原の姓を授けました。藤原の姓はここに始まりました。死の前日のことです。ですから、鎌足は、ほとんど一生、中臣姓を名乗っていたのです。その藤原姓を授けられたことを受けて、家族はすべて藤原姓に一旦改姓しましたが、のちに不比等の一統以外、すべて元の中臣姓に復しました。これも、天智天皇落胤説の強力な裏付けといえるかと思います。
 因みに、中臣姓に戻った一統は、旧のとおり神道を司る地位を継承し、出雲大社もその一統だと聞いています。
 さて、藤原不比等の一統は、その後、栄華栄耀を極めます。
 いわゆる藤原四兄弟
   長男・武智麻呂 南家の祖
   次男・房前   北家の祖
   三男・宇合   式家の祖
   四男・麻呂   京家の祖
の一統です。このうち、次男・房前の北家が特に隆盛し「この世をは 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることの なきを思へば」と詠んだ藤原道長も、この北家の出身です。
 不比等の娘としては、光明子(のちの光明皇后)があります。
 法隆寺夢殿に安置されている橘夫人念持仏厨子、いわゆる「玉虫厨子」で有名な橘夫人は、もとは県犬養三千代という名でしたが、天皇家子守役としての貢献に対して橘性を賜ったと伝わっています。もともと美努王(みのおう)の妻したが、その人を藤原不比等が強引に奪って結婚。光明子を儲け、その光明子を聖武天皇の皇后につけました。皇系以外で皇后になった最初だと表向きにはいわれています。ただ、不比等天智天皇落胤説が正しいとすれば、それは必ずしも中らないわけです。
 光明皇后については、病弱な聖武天皇とともに仏教を尊んで、施薬院など、いろんな民のための施策を施しましたので、ご存知のことと思います。
 不幸にして、上記の藤原四兄弟は、当時九州から流行りだした天然痘にかかり、みんな死去してしまいました。そこで、実権を握るのが、橘夫人が美努王との間に儲けた橘諸兄です。この橘諸兄の意向が強く働いて編纂されたのが、和歌集『万葉集』と漢詩集『懐風藻』なのです。『懐風藻』が先に世に出ましたが、『万葉集』は大分遅れたようです。
 『万葉集』の編纂には、大伴家持が多大な貢献をしたと伝わっていますが、この大伴氏も、紀貫之で有名な紀氏も、最後は藤原氏におされて没落してしまいました。このことについては、後にもう少し詳しく触れてみたいと考えています。
 この大伴氏はもともと軍人です。大宰府帥として赴任し、「令和」の由来で有名になりました大伴旅人は大伴家持の父親で、酒が大好きであったらしく、『万葉集』に酒を褒むる13首というのが収録されています。
 話が少し外れますが、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人、車持皇子(くらもちのみこ、または、くらもりのみこ)のモデルは不比等とされています。この車持皇子のことをご記憶でしょうか。偽物の蓬莱の玉の枝を職人に作らせて、かぐや夜姫に献上していた丁度その時、職人たちが未払いの代金を請求してきたために、偽物であることが露見してしまった、例の貴公子です。想い出されましたでしょうか。これは、母が車持氏出身の皇子、という意味のようですが、『竹取物語』が権力者に対する恨みを色濃く反映していることから、藤原氏によって没落の憂き目にあった紀貫之が作者ではないかとされる所以です。大伴氏にしても、紀氏にしても、不満が募ったことでしょう。
 因みに、この『竹取物語』と非常によく似たお話がチベットにもあるそうです。当時既に渡来人や、遣隋使、遣唐使を通じて日本にも伝わっていたのかもしれません。

 ここまで概略をご紹介しましたので、次に、もう少し掘り下げて紹介したいと思います。
 物部氏や蘇我氏を抑えて、藤原氏が台頭してきた経緯は先に述べた通りですが、当時は天皇家が日向から大和に進出する際に貢献した有力な氏族があり、先に触れました大伴氏もその一ですが、それらの氏族を藤原氏がどのようにして排除してきたのでしょうか。
 では、先ずはこの大伴氏から触れましょう。
 大伴氏は823年・弘仁14年、淳和天皇(大伴親王)の即位に伴い、その諱を避けて一族はすべて伴氏(ともうじ)と改称しました。ですから伴氏も大伴氏も同じ一族なのです。
 その大伴氏は、邇邇藝命(ににぎのみこと)が天照大御神の神勅を受けて天孫降臨の時に先導した天忍日命(あめのおしひ)の子孫とされる天神系氏族です。佐伯氏とは同族関係とされています。物部氏と共に朝廷の軍事を管掌。物部氏が主として国軍的な面を担当し、大伴氏が親衛隊的な面を担当、宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を担っていたとされています。
 5世紀後半に、雄略朝で葛城氏に替わって大伴室屋が大連となって力を得、後に大伴金村が武烈・継体・安閑・宣化・欽明各朝まで5代にわたって大連を務めました。金村は越前国から継体天皇を皇嗣に迎え入れるなどの功績から大和王権で確固たる地位を築いていましたが、一任されていた任那運営で、百済への任那4県を割譲せざるを得なくなった政策を物部氏から失政と激しく糾弾されて失脚したといいます。それでも、決して力を失ったわけではありません。
 大化の改新後も649年(大化5年)には大伴長徳が右大臣になっていますし、672年(弘文天皇元年)の壬申の乱の時は長徳の弟たちが兵を率いて功績を立てたほか、以後も奈良時代までの朝廷で大納言まで昇った大伴御行、大伴安麻呂、大伴旅人以下、多数の公卿を輩出しています。大伴安麻呂、大伴旅人、大伴家持、大伴坂上郎女など万葉歌人も多く、遣唐副使として渡唐した大伴古麻呂は鑑真和上来日を計っています。長屋王が唐に送った千着の袈裟に「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」と刺繍されていたので、これに心を動かさて鑑真が日本行きを決意したとされているようです。
 ただ、大伴氏は奈良時代から平安時代前期にかけての政争に関係し多数の処罰者が出て次第に勢力を失っていきました。
 729年(神亀6年)の「長屋王(ながやおう/ながやのおおきみ)の変」で長屋王と親しかった大伴旅人が大宰府に左遷されました。
 この長屋王の変について、少しばかり触れましょう。
 長屋王は、父は天武天皇の長男・高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であり、皇親として嫡流に非常に近い存在であったようで、皇親勢力の巨頭として政界の重鎮でした。
 716年(霊亀2年)に正三位に叙せられて以来、翌翌718年には一足飛びに大納言に任ぜられ、太政官で右大臣・藤原不比等に次ぐ地位に着きました。異例の昇進です。
 さらに、720年(養老4年)藤原不比等薨去をうけて、翌721年(養老5年)右大臣に叙任されて政界の主導者となりました。なお、不比等の子である藤原四兄弟はまだ若く地位も低かったので、舎人親王とともに皇親勢力で藤原氏を圧倒。公民の貧窮や徭役忌避への対策を打ち出して、社会安定と律令制維持の不比等の政治路線を踏襲しました。
 水害と干魃による貧窮への対策として、平城京・畿内の公民に対する調免除はじめ、他の七道諸国の公民に対する夫役免除、隼人・蝦夷反乱鎮圧のための兵役負荷軽減、陸奥・筑紫の公民に対する調・庸免除、戦死関係者に対する租税免除など、多くの重要な民政策を打ち出しました。
 わけても重要施策として開田策があります。田100万町歩の開墾を進める「百万町歩開墾計画」、新たに田地を開墾した場合は三代目まで、また田地を手入れして耕作できるようにした場合は本人の代のみながら田地の私有を認める「三世一身法」などです。
 この頃、頻発した蝦夷・隼人の反乱に対して機敏な対処で速やかにこれを鎮圧したほか、新しい叙位制度を実施しました。
 こんななか、721年(養老5年)崩御を前に元明上皇が、右大臣・長屋王と参議・藤原房前に後事を託し元正天皇の補佐を命じましたので、外廷を長屋王が、内廷を藤原房前がそれぞれ補佐していく政治体制となりました。724年(神亀元年)聖武天皇即位と同時に長屋王は左大臣に進みましたが、聖武天皇は生母・藤原宮子(藤原不比等の長女 聖武天皇の皇后・光明皇后は異母妹)の呼称に関する詔勅を巡って藤原四兄弟と対立しました。この背景には、長屋王と吉備内親王の間の4子女を皇孫として扱う旨の715年(霊亀元年)の詔勅もあって、病弱な聖武天皇に万一の事態が発生した場合に、聖武天皇の皇子女は非藤原氏系の安積親王だけだったこともあり、長屋王家の子女が皇嗣に浮上する可能性があったので、聖武天皇の外戚である藤原四兄弟にとっては、長屋王家が極めて不都合な存在だったのです。
 ここで、長屋王の変が発生しました。
 729年(神亀6年)(729年)「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告する者ありとして、藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲。長屋王および吉備内親王と所生の諸王らは首を括って自殺したとなっています。真実のところは、死罪の代替として宇合らに強要されたものではないかとされているようです。
 長屋王の変の後、藤原四兄弟は妹・光明子を聖武天皇の皇后に立て、藤原四子政権を樹立しました。737年(天平9年)天然痘により4人とも揃って病死しましたが、長屋王を自殺に追い込んだ祟りだろうと噂されたといいます。『続日本紀』では、先述の密告が「誣告」と記載されているそうで、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では既に、長屋王は無実の罪であったことが公然の事実として認識されていたのではないでしょうか。
 藤原四子死去の後、前述のとおり実権を握るのが、橘夫人が美努王との間に儲けた橘諸兄です。主たる公卿は参議の鈴鹿王と橘諸兄のみとなり、朝廷は急遽、鈴鹿王を知太政官事に、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に任命して応急的な体制を整えたのです。翌738年(天平10年)諸兄は右大臣に任ぜられ、一躍太政官の中心的存在となりました。これ以降、国政は橘諸兄が担当、遣唐使での渡唐経験がある下道真備(のち吉備真備)と玄昉をブレインとして聖武天皇を補佐する体制となり、実質的に橘諸兄政権を成立させたのです。
 740年(天平12年)藤原広嗣が、政権を批判した上で玄昉と下道真備を追放するよう上表しました。これは、諸兄への批判と藤原氏による政権奪還を目論んだもので、広嗣が九州で兵を動かして反乱を起こすと(藤原広嗣の乱)、聖武天皇は伊勢国へ行幸。さらに乱平定後も天皇は平城京に戻らず、諸兄の本拠地(山城国綴喜郡井手)に近い恭仁宮へ遷都しました。
 孝謙天皇(母は光明皇后)が即位すると、光明皇后の威光を背景に、藤原仲麻呂(藤原武智麻呂の次男)の発言力が増すようになりました。
 745年(天平17年)頃から、諸兄の子息・奈良麻呂が長屋王の遺児である黄文王を擁立して謀反の企図を始めたとされています(橘奈良麻呂の乱)。この謀叛に関連して諸兄は755年(天平勝宝7年)側近からの讒言を受け、聖武上皇が取り合わなかったものの、諸兄は翌年辞職を申し出て致仕しました。
 次の藤原仲麻呂政権下で、757年(天平勝宝9年)奈良麻呂は橘奈良麻呂の乱を起こし獄死しましたが、この乱で、大伴古麻呂が獄死、大伴古慈悲は流罪(称徳天皇崩御後に復帰)に処されました。また、大伴家持は別途藤原仲麻呂の暗殺計画に関わっていたとされて、薩摩守に左遷されました。さらに、家持は782年(天応2年)に発生した氷上川継の乱に連座して解官の憂き目に遭いながらも最終的に中納言にまで昇りました。784年(延暦3年)桓武天皇は長岡京への遷都を断行しましたが、天皇の地位継承を巡って、また長岡京遷都の是非を巡って、何かと桓武天皇と対立していた同母弟・早良親王に近かったことから、大伴氏はこの政策に不満を持っていたらしく、桓武天皇の寵臣で遷都責任者・藤原種継を暗殺する事件(藤原種継暗殺事件)を起こしたとされています。乱後、大伴古麻呂の子・継人は首謀者として死刑。直前に没した家持も除名され埋葬さえ禁じられました。没後20年以上も経った806年(延暦25年)に恩赦を受けてやっと従三位に復したようです。既に出来上がっていた『万葉集』が世に出るのが遅れたのも、陰でこんな事情があったのです。
 なお、藤原種継暗殺事件の首謀者・大伴継人の子として若くして佐渡への流罪となった伴国道も恩赦後に業績を上げて参議に任ぜられたようです。
 また、842年(承和9年)の承和の変では伴健岑(こわみね)が首謀者として流罪となりました。その経緯は次のようなものです。
 823年(弘仁14年)、嵯峨天皇は譲位し、弟の淳和天皇が即位しました。ついで皇位は、833年(天長10年)嵯峨上皇の皇子仁明天皇が承継しました。仁明天皇の皇太子には淳和上皇の皇子恒貞親王(母は嵯峨天皇の皇女正子内親王)が立ち、嵯峨上皇による強力な支配で30年近く政治は安定し皇位継承の紛争は起こりませんでした。
 藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子(檀林皇太后)の信任を得て急速に台頭し始めました。良房の妹順子が仁明天皇の中宮となり道康親王(後の文徳天皇)が生まれたので、良房は道康親王の皇位継承を望みました。道康親王を皇太子に擁立する動きがあることを知った恒貞親王と父親の淳和上皇は、しばしば皇太子辞退を申し出ますが、嵯峨上皇は同意しませんでした。
 しかし、840年(承和7年)淳和上皇崩御。2年後の842年(承和9年)には嵯峨上皇も重病で倒れたため、皇太子に仕える伴健岑とその盟友橘逸勢が皇太子の身に危険が迫っているとして皇太子を東国へ移すことを画策。それを阿保親王(平城天皇の皇子)に相談したのですが、阿保親王はこれに与しませんでした。情報は阿保親王から良房へ、さらに良房を通じて仁明天皇の知るところとなり、嵯峨上皇崩御の2日後、仁明天皇は伴健岑と橘逸勢、その一味とみなされる者を逮捕しました。皇太子は直ちに辞表を天皇に奉りましたが、皇太子には罪はないものとして一旦は慰留されたものの、直後に藤原良相(良房の弟)が近衛府の兵を率いて皇太子の座所を包囲。出仕していた3人を捕らえ、伴健岑、橘逸勢らを謀反人と断じる一方、恒貞親王を皇太子から廃しました。伴健岑は隠岐へ流罪(その後出雲国へ遷配)、橘逸勢は伊豆に流罪(護送途中、遠江国板築で没)となり、他の3人もそれぞれ左遷されました。
 事件後、藤原良房は大納言に昇進し、道康親王が皇太子に立てられました。これによって、名門の伴氏と橘氏双方に大きな打撃を与える結果となりました。良房は、この事件を機にその権力を確立し昇進を重ね、遂に人臣最初の摂政・太政大臣まで登って藤原氏栄華栄耀の基礎を築きました。
 その後、藤原種継暗殺事件で処罰された伴国道の子・伴善男が仁明天皇のもとで頭角を現し、清和朝の864年(貞観6年)には旅人以来130年振りに大納言に昇りましたものの、866年(貞観8年)の応天門の変で善男・中庸父子が首謀者とされ、その親族が多数流罪となりました。これによって、伴氏の公卿の流れは断絶してしまいました。
 応天門の変とは次のようなものです。
 平安神宮応天門が放火され、大納言伴善男は左大臣源信の犯行であると告発しましたが、太政大臣藤原良房の進言により無罪となりました。その後、密告があって伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された事件です。事件は国宝『伴大納言絵詞』に詳しく描かれているそうです。
 伴善男は左大臣源信と不仲で、源信を失脚させて空席になった左大臣に右大臣藤原良相が昇進し、自らは右大臣に昇任したいと望んでいたともされ、864年(貞観6年)に伴善男は源信に謀反の噂があると言い立てたようですが、これは取り上げられませんでした。その後、866年(貞観8年)応天門が放火され炎上する事件が起き、ほどなく伴善男が藤原良相に対して「応天門は大伴氏が造営したもの。源信が伴氏を呪って火をつけた。犯人は源信だ」と告発しました。藤原良相は源信の捕縛を命じて邸を包囲しましたが、源信は藤原基経を通じて父の太政大臣藤原良房から清和天皇に奏上。結局、源信は無実とされました。
 その後、応天門放火の犯人は伴善男・伴中庸親子であると訴え出る者があり、善男に対する鞫問で善男は当然無罪を主張しました。応天門火災の捜査とは別に進行していた大宅鷹取父娘殺傷事件の捜査に関連して拘禁された伴中庸が応天門の放火についても自供し始め、「伴中庸が自白した」と偽りを告げて自白を迫ったところ、善男も自白したといわれています。伴善男らを応天門放火犯と断罪して死罪、罪一等を許されて流罪と決しました。首謀者として、伴善男は伊豆国、伴中庸は隠岐国、紀豊城は安房国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国への流罪となり、首謀者の親族8名もが連座して流罪となりました。まもなく源信・藤原良相の左右両大臣が急死し良房は朝廷の全権を把握することになり、藤原氏の勢力削減を図った伴善男でしたが、逆に伴氏らが一掃され藤原氏の権勢が増す結果となりました。藤原氏による伴氏追い落としのための陰謀とする見方が強い事件です。
 平安時代前期には、紀氏と並んで武人の故実を伝える名門とされていましたが、このように藤原氏による他氏排斥で大打撃を受け、古代からの名門伴氏(大伴氏)は没落してしまいました。

 続いて、紀氏が排斥された経緯を紹介しましょう。
 紀氏は、「紀」を氏の名とする氏族で、大和国平群県紀里(現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近)を本拠とした古代豪族です。姓は初め臣(おみ)であり、684年(天武天皇13年)八色の姓制定に伴い朝臣へ改姓しました。元来、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角(きのつな)を始祖とし、この2代はともに母方が紀伊国造家の出自であったとされています。この関係から紀氏は早くから武門の家柄として大和王権に仕えたらしく、具体的には、雄略朝の小弓、顕宗朝の大磐、欽明朝の男麻呂などが、朝鮮半島での軍事・外交において活躍したとされ、葛城氏・巨勢氏・平群氏などと同じく武内宿禰系の豪族です。
 天智朝に御史大夫、奈良時代に大納言などの要職に就任。志貴皇子の子・白壁王が光仁天皇として即位すると、その外戚として勢力を伸ばしました。桓武朝に大納言職も拝領。奥羽で蝦夷叛乱鎮定など軍事面での活躍がありましたが、平安時代初期には藤原北家の隆盛に圧倒されていました。貫之・友則などの歌人を輩出しましたが、官位は低かったようです。
 先に投稿いたしました「悲運の皇子・惟喬親王」で触れましたが、惟喬親王は、紀名虎の娘・静子が文徳(もんとく)天皇のもとに入内して産んだ第1皇子で、文徳天皇も寵愛して皇位を継承させたい意向のようでしたが、摂政太政大臣・藤原良房やその娘で妃の明子(あきらけいこ)のこともあって実現しませんでした。静子が紀氏出身であったからとされ、その頃紀氏の政治力が既に衰えていたことが伺われます。
 応天門の変の処罰で豊城が安房国へ配流されるなどで紀氏一族は衰退しました。

このように、最初は物部氏と連合して仏教を排斥、蘇我氏と物部氏の争いに乗じて物部氏にとって代わり、次いで中臣鎌足による乙巳の変で蘇我氏を排斥するなど、多くの事件・事案で、古代からの有力な氏族を次々とおしのけて、表現は妥当でないかもしれませんが、のし上がってきた、というのが事実でしょう。なんと権謀術数に長けた一族ではないでしょうか。

 そして、藤原氏一族だけの、いま流行りの語「一強」になると、今度は同族同士で争うようになりました。これについては、次に別途綴ってみようと考えております。それも是非お目通しいただきたいと念願するところです。
 最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。心から厚く御礼申し上げます。
 

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