平氏の起源と平家隆盛への道程を辿る


#創作大賞2023 #源平藤橘 (げんぺいとうきつ) #平清盛 #保元平治の乱  
                     

はじめに
「平家にあらずんば人にあらず」と豪語した平家は一体どんな道程を歩んで、その地位を築いたのか、誰もが興味あるところではないでしょうか。今回は、その過程を辿ってみたいと思います。
 最初に「平家」と「平氏」の語は似てはいますが、異なるということを説明しておきたいと思います。後にも触れますが「平家」は「平氏」の一部「伊勢平氏」のうち政権を打ち立てた平清盛とその一族を特に「平家」と呼ぶ事が多いようです。
   そこで、まず「平氏」の興りについて触れましょう。
 「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」という語をご存知のことと存じます。「源」は源氏、「平」は平氏、「藤」は藤原氏、「橘」は橘氏の意味で、いずれも奈良時代以降に栄えた氏族の呼び名です。
 氏(うじ)と姓(かばね)は混同されやすいのですが異なるものです。氏(うじ)は姓(かばね)を識別するための呼称で、例えば源、平、藤原、橘です。一方、姓(かばね)はその技能や功績に対する恩賞や称号で、例えば朝臣、宿禰などで、正式の名称としては、その双方を併せて使用されていました。例えば源朝臣(みなもとのあそん)、平朝臣(たいらのあそん)、藤原朝臣(ふじわらのあそん)、橘宿禰(たちばなのすくね)、という呼び方です。これは天皇から下賜された名称ですから「本姓(ほんせい)」とも呼ばれます。
 家系図作成を業としている某氏の書き物に、日本人の7割は、この4氏のうちのいずれかに繋がっている、つまり、その末裔であると記載されていて吃驚しました。その他3割には菅原氏、大江氏などの学者の流れ、物部氏、土師氏など古代豪族の流れ、神主の流れなどがあるものの、大半は源平藤橘だそうで、多くが元皇族(源平)や藤原鎌足の子孫・末裔(藤原)であるとしています。勿論、傍系も、そのまた傍系も、あらゆる傍系を含めての数字と類推しています。家系図作成依頼のPRを込める意図もあろうかと類推していますが、それにしても凄い数字だなあというのが実感です。この4氏のうちのでは藤原氏の末裔が最も多いとありました。この数字を信じるならば、今日ここにお越し下さった方の3割以上は藤原氏の末裔ということになりますね。「自分が高貴な皇族や貴族の末裔だなんて。とても信じられない」と思われましょう。でも歴史人口学上も、それは証明されているそうで、これは、人1人について父母2人ですから、1代ごとに倍々に増えていくことに関係しており、20代遡ると100万人の先祖があるという計算がもとにあって、当時の日本の人口は500万人程度であったことからも理解できるはずだと言います。
 
源平は臣籍降下の氏の代表格
 「源氏」と「平氏」はそもそも、皇族が臣籍、つまり天皇の臣下に下る「臣籍降下」をする際に天皇から下賜された氏です。古代から現在にいたるまで、天皇や皇族は氏姓(うじかばね)や名字を持たないことから、臣下となる際にはじめて「氏と姓」をつける必要がありました。
 この「源」と「平」の氏は臣籍降下にあたって賜姓される氏の代表格だったので、天皇を始祖とした多くの流派が生まれ、地方に下り主に武士となった後から支流も多く分出し、子孫も繁栄しました。
 その点、功績が基で恩賜の氏を賜った藤原氏や橘氏とは由来が異なります。ただ、橘氏には一部に臣籍降下によるケースもあるにはあるようですけれど。

平氏の起源
 では、本題の平氏についてお話を進めます。
 「平氏」の「平」は、始祖である第50代桓武天皇が建設した平安京に因んで「平(たひら)」と名づけたとする説が有力のようです。当時は皇族の数が増えて財政を圧迫していたため、葛原(くずはら)親王は桓武天皇の孫にあたる長男の高棟王(たかむねおう)を皇族の籍からはずし臣籍に降下させたいと申し出ました。そして高棟王は825年に「平(たいら)」の氏と「朝臣(あそん)」の姓を賜わり「平高棟(たいらのたかむね)」となりました。これが平氏のはじまりです。

桓武天皇
 ここで、桓武天皇について少しばかり紹介します。桓武天皇はご承知のとおり、今の京都市に平安京を造営して794年に遷都を敢行した天皇です。その10年前には今の長岡京市・向日市・京都市にまたがる地に一旦、長岡京を造営し、そこから更に平安京へ遷都した経歴があります。皇位を継承するに当たって弟の早良親王との確執があり、その関係で長岡京造営責任者であった寵臣の藤原種継が暗殺されるという事件が起こったことでも有名です。これに絡んで万葉集編纂に大きな役割を担い直前に死去した大伴家持も同族として連座し、厳しい処罰を受け埋葬すら禁止、官籍も剥奪されました。その後、家持は没後20年以上経過した806年に恩赦で許されましたが、それがために万葉集も公になるのがその分遅れたという事情がありました。天皇家が日向から大和へ攻入るときから長く仕えた名門の大伴氏が没落した一因とされる事件です。これらのことについては、先に投稿いたしました作品で既に触れましたので、重複を避けて詳しくは述べません。
 なお、この桓武天皇以前は、「践祚」も「即位」も同義で使用されていましたが、この桓武天皇以後は別の語となりました。ネットで調べたところでは、次のように解説されていますので、それに従って、ここで紹介します。
 「践祚」は天皇位を継承すること。桓武天皇以降、即位と践祚が分離して別の儀式になりました。譲位あるいは先帝の死去と同時に、神璽(しんじ)・宝剣(草薙剣)・内印・大刀契(だいとけい=平安期以降、天皇践祚の際に剣璽とともに授受され、行幸にも供奉した宝器。大刀は節刀をはじめとする刀剣のこと)のレガリア(君主の地位を象徴する宝器)を旧天皇から新天皇に奉る剣璽渡御の儀を行い、即位式を待たず、新天皇の天皇位継承を明らかにしました。
 「即位(令制では践祚に同じ)」は奈良時代以前、天皇が大極殿の高御座(たかみくら)につき、中臣氏が天神(あまつかみ)の寿詞(よごと)を奏し、忌部氏が神璽の鏡と剣を新天皇に奏上、群臣が拝礼する形式でしたが、平安時代になると中臣の寿詞と鏡剣奏上は大嘗祭に移され、践祚の儀から数ヵ月を隔てて即位式が行われるようになりました。
 つまり、桓武天皇以降、譲位や先帝の没直後に行われる剣璽渡御をともなう天皇位継承を「践祚」と呼ぶようになりました。
 1889年(明治22年)の旧皇室典範では「践祚」の語を使い、1909年(同42年)の登極令で践祚・即位礼について規定していましたが、2047年(昭和22年)の現皇室典範では「4条:皇嗣が、直ちに即位する」「24条:皇位の継承があったときは即位の礼を行う」と規定し、践祚の語を使用しておりません。

平氏の4系統
 平氏は、大きく分けて4系統がありました。
 桓武天皇から出た①桓武平氏、②第54代仁明(にんみょう)天皇から出た仁明平氏、③第55代文徳(もんとく)天皇から出た文徳平氏、④第58代光孝(こうこう)天皇から出た光孝平氏の4流がありました。このうち、桓武平氏以外の流派は途絶えてしまいましたので、「平氏」とは桓武天皇の系統である「桓武平氏」のことを指すようになり、さらには葛原親王の後裔・平高望(たいらのたかもち)の流れである「高望流」が主流となりました。一般には、平氏はすべてが武家と思われがちですが、必ずしもそうでなく武家として栄えたのは高望流だけで、高位に就いた文官も少なくありません。

朝廷と敵対した坂東平氏
 平高望流の子孫は京都を離れ関東地方へ国司として赴任し、武士として勢力を伸ばしました。平将門や平忠常が反乱を起こして朝廷に敵対しましたが、ついには源氏に鎮圧され止む無く源氏に与しました。関東で「坂東平氏」として根を張り、鎌倉幕府創建に尽力しています。
 もう少し詳しく申しますと、高望王流桓武平氏の始まりの地である東国は武家平氏の盤踞地です。その祖である上総介の平高望や、東国に独立政権を樹立しようとして失敗した下総の平将門、将門を倒した常陸の平貞盛などがよく知られており、坂東八平氏や北条氏も同じく坂東に土着した高望王流桓武平氏の末裔です。
 平将門の乱以降、関東では貞盛流と平良文の子孫が大きな勢力をもっていたようですが、 1028年の平忠常の乱で源頼信によって平定されたことから、河内源氏が関東武家の棟梁的存在となり、千葉氏・三浦氏などの平姓諸流は源氏の家人として扱われるようになったということです。
 貞盛の四男平維衡(たいらのこれひら)は伊勢に地盤を築き、その子孫は主に西国で勢力を拡大しました。特に平忠盛は主として西国で勢力を拡大、その子の平清盛も同じく肥後守・安芸守を歴任し、西国に勢力を拡大しました。先に触れましたとおり、平治の乱で義朝が討たれるまでは東国では源氏が強固な勢力を保っており、東国の平氏は清盛流とはほとんど関係がない存在だったとされています。

「平家」のルーツ 伊勢平氏
 高望流として基盤を固めながら平将門に討たれた平国香(たいらのくにか)の孫である平維衡は遥任(ようにん 奈良時代・平安時代などに国司が任国へ赴任しなかったことをいい、遥任国司は、目代と呼ばれる代理人を現地へ派遣するなどして、俸禄・租税などの収入を得た)の国司として下野守在任中でしたが、伊勢国で同族の平致頼(たいらのむねより 維衡の又従兄弟)との合戦に及びました。一旦伊勢守を拝命するも僅か2か月で解任され、上野介、備前守、常陸介を歴任したといいます。伊勢国における同族争いは2代に亘って引き継がれましたが、最後には、維衡一派の覇権が確立し伊勢国に勢力を広げて「伊勢平氏」として発展しました。
 京都で上皇の護衛をする「北面の武士」となり、平氏の主流となりました。この流れから平正盛・忠盛・清盛が出て最盛期を築くことになり、「平家」を組織し、保元・平治の乱を鎮圧し源氏を追放すると平氏全盛の時代を迎えることになりました。
 伊勢平氏のうち、いわゆる平氏政権を打ち立てた平清盛とその一族を特に「平家」と呼ぶこと事が多いようです。「平家」という言葉は、当初は桓武平氏の中でも伊勢平氏が属する武家の高望王流ではなく、京の都で文官として活躍していた高棟王流の人々を指していました。平氏政権時においても清盛一族のみならず、彼らに仕えている家人・郎党らを含めた軍事的・政治的集団を指す用法としても用いられ、この場合の「平家」は清盛に従った藤原氏や源氏の武士をも含むそうです。平家は1185年に「壇ノ浦の戦い」で滅びました。しかし、平家が滅んだといっても、後述しますように平氏が滅んだわけではありません。

鎌倉幕府執権の北条氏も平氏
 平家が滅んだ後は鎌倉幕府執権の北条氏をはじめとする坂東平氏が活躍しました。室町時代には幕府御家人の伊勢氏が、また戦国時代には北条氏康で有名な後北条氏が平氏を名乗っていました。
 相模平氏として、三浦氏、鎌倉氏、大庭氏、梶原氏、土肥氏、長尾氏があります。
 秩父平氏として、秩父氏、河越氏、畠山氏があります。
 常陸平氏として、城氏、大掾氏、岩城氏があります。
 房総平氏として、上総氏、千葉氏、相馬氏、武石氏、国分氏、大須賀氏があります。

保元平治の乱で源平武士が抬頭
鳥羽上皇と崇徳天皇の対立
 鳥羽上皇と崇徳天皇の対立から、後にそれが崇徳上皇と後白河天皇の兄弟対立になり、やがて保元の乱に繋がっていきました。先に投稿しました作品『崇徳院』とも重複するところがありますが、お許しください。

不倫の子・顕仁(あきひと)親王
 1119年、鳥羽天皇に待望の第一子が生まれました。顕仁親王、後の崇徳天皇です。しかし鳥羽天皇だけでなく周囲の者もみんなが知っている公然の秘密として、顕仁親王は白河法皇の子でした。顕仁親王の母・璋子(しょうし 藤原璋子・待賢門院)は鳥羽天皇に嫁ぐ前から白河法皇に愛されて、その関係は鳥羽天皇に嫁いだ後も続いていました。璋子は顕仁親王を身籠ったのでした。
 白河法皇は鳥羽天皇の祖父です。祖父の子は叔父にあたるため、鳥羽天皇は顕仁親王を「叔父子(おじご)」と呼んで疎んじていたとされます。『古事談』という古書にも
「人、皆これを知るか 崇徳院は白河院の御落子・・・・ 鳥羽院も・・・『叔父子』とぞ申さしめ給ひける」と記載されているそうです。白河法皇も勿論顕仁親王が我が子であることを承知して、かねてより皇位に付けたがっていたといわれ、1123年、白河法皇は鳥羽天皇を退位させて、わずか5歳の顕仁親王を即位させました。崇徳天皇です。

鳥羽上皇のしっぺ返し 思惑違いで後白河天皇即位
 1129年、白河法皇崩御。鳥羽上皇は、崇徳天皇の子孫が皇位につけないように策謀しました。寵愛する得子(とくし 藤原得子・美福門院)の生んだ3歳の体仁親王(なりひとしんのう)を養子にし、その体仁親王を天皇にして院政を行えばいいと崇徳天皇に持ち掛けたのです。崇徳天皇は鳥羽上皇の勧めに従って、1141年、体仁親王に譲位しました。近衛天皇です。
 しかし、近衛天皇即位の宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」となっていました。「子」ではなく「弟」への譲位では院政を行えません。崇徳上皇は落胆しましたが、幸か不幸か、1155年、近衛天皇は17歳で早逝。しかも皇子はありませんでした。崇徳上皇は、これで我が子・重仁親王が即位すれば天皇の父として院政を行えると内心喜びました。
 ところが、養子として迎えた守仁親王を皇位につけて欲しいと美福門院から請われた鳥羽上皇は、当初難色を示しながらも、当時の流行歌・今様狂いの雅仁親王を一旦即位させた後、直ぐに、その子・守仁親王に譲位させるという手順を踏む心積もりで、29歳の雅仁親王を即位させました。後白河天皇です。
 しかし、あにはからんや、後白河天皇は実権を握って離しませんでした。
白河法皇は、幼帝を即位させては若いうちに退位させ上皇とし、次々とそれを繰返す手法で、長く実権を掌握し続け「治天の君」と呼ばれました。後白河天皇も、その諡(おくりな)が白河法皇に肖って「後白河」とあるように、白河法皇と同様に老獪だったようです。

失意の崇徳上皇
 後白河天皇の即位によって崇徳上皇の院政への望みは完全に断ち切られました。その崇徳上皇に、摂関家の内部抗争に敗れた藤原頼長が接触してきました。

摂関家の内部抗争
 天皇家の家督争いは、今、述べたとおりですが、一方、摂関家にも内部抗争が起こっていました。
 関白藤原忠実(ふじわらのただざね)には長男・忠通(ただみち)と次男・頼長(よりなが)がありました。忠実は温厚な忠通より学識豊かな頼長を愛していました。忠実が忠通を憎んだのは、自らが白河法皇に退けられた際、白河法皇に取り入って関白に就任したからだと言われているようです。忠実と忠通を対立させて摂関家を分断しようとした白河法皇策謀説もあるようです。  
 父・忠実の意向であったとは申せ、藤原氏の氏の長者を継ぐべき実子がないとして23歳年下の弟・頼長を一旦養子として迎えながら実子が誕生したとして、それを解消した兄・忠通に対して、頼長は不快であったに違いありません。氏の長者の権を巡って、摂関家の対立は次第に激化していきます。ただ、頼長は秀才ではありましたが、その政治は厳しく熾烈で融通性がなく「悪左府」とよばれるほど周囲から嫌悪されていました。
 そんなとき近衛天皇が17歳で崩御し、忠実・頼長父子による呪詛との嫌疑がかかりました。鳥羽上皇は忠実・頼長を遠ざけ忠通を寵愛しました。後白河天皇時代には忠通は関白に就任して後白河天皇と忠通の結びつきは一層強固になりました。
 一方、忠実・頼長は崇徳上皇と結びつき、源氏の棟梁・為義も与しました。

鳥羽上皇の崩御
 1156年、鳥羽上皇崩御。危篤を知ったとき崇徳上皇はすぐに鳥羽殿へ駆けつけましたが鳥羽上皇の意向として見舞うことは許されませんでしたし、死後の弔問も同じく叶いませんでした。

後白河天皇方からの仕掛け
 後白河天皇の近臣・信西入道(藤原通憲 ふじわらのみちのり)は、崇徳方に内裏襲撃計画があるとして崇徳上皇の拠点・三条東殿の邸宅や家財を没収するだけでなく、没収した文書にクーデター計画の記載があったとして、頼長配流を決めました。崇徳上皇としては決起せざるを得なくなりました。
 ここで、信西入道のことに少しばかり触れておきましょう。
 俗名を藤原通憲といい博識を自負していました。かつては名門でも凋落して中流貴族となった藤原氏南家の出身、出世が思うに任せず出家していました。二人目の妻が後白河天皇の幼時にその乳母となった関係で後白河天皇に重用されていました。

保元の乱勃発
 1156年、平安京遷都以来初の都での合戦が起こりました。保元の乱です。前述のとおり天皇家の家督争いと摂関家の内部抗争が結びついて起こった争いです。
 
崇徳上皇方 為朝の夜討ち案を退ける
 崇徳上皇は鳥羽の田中御所から白河北殿に移り平忠正、源為義、源為朝父子らが集まって作戦会議が始まりました。強弓の名手で鎮西八郎の名で有名な為朝が夜討ちを提案しましたが、頼長に退けられました。

後白河天皇方 義朝の夜討ち案を執る
 一方、後白河天皇方は高松殿に集結し、平清盛・源義朝らが高松殿で作戦会議。信西主導の下、源義朝が夜討ちによる先制攻撃を唱えてそれを衆議一決、決行したのです。600騎が3隊に分かれて崇徳上皇方が籠もる白河北殿へ。そこに火を放ったので一気に焼け落ち、崇徳上皇も藤原頼長も命からがら脱走、後白河天皇方の勝利となりました。

崇徳上皇は讃岐への流罪  頼長は死去  為朝は伊豆大島へ配流
 崇徳上皇は仁和寺などあちこち訪ねましたが庇う者なく最後は捕縛されて後白河天皇方に引き渡され、後日、讃岐に流されました。
 頼長は逃走途上に矢を受けて、それが因で後日、死去しました。
 鎮西八郎為朝は伊豆大島に流されました。

苛酷だった戦後処理
 戦後処理は余りにも苛酷でした。810年薬子の変以来350年間なかった死刑が復活しました。信西は家族が分かれて戦った源平武士に対し、同族に刑を執行させたのです。清盛には敵対した叔父・忠正を、また義朝には実父・為義と弟五人の斬首をそれぞれ命じました。

保元の乱後の政治は信西に一任
 後白河天皇は29歳で即位しましたが、それまで今様ばかりに耽っていたため保元の乱に勝利したとはいえ、政治は行えません。実際の政治は信西に一任しました。
 信西は乱後、ひたすら反対勢力の排除に努め、藤原忠実を幽閉する一方、忠実・頼長父子の所領を没収しました。藤原忠通に対しても藤原氏の氏の長者の任命権を奪い摂関家を弱体化させたほか、大寺社・大貴族の所有する荘園も没収するなど、敵対勢力の弱体化をはかるだけでなく、自分の一族を要職につけ権力の地盤を固めました。当然のことながら反対勢力の恨みも大きくなっていきました。
 ただ、独裁的な信西に功績がなかったわけではありません。焼失していた大内裏の再建です。寺社や貴族、源平両方の有力武士からも費用を拠出させて僅か2年で完成させたそうです。信西は政務に夜中まで没頭したのも事実のようです。

後白河院政の開始
 1158年、後白河天皇は上皇となり息子の守仁親王に譲位しました。二条天皇です。後白河上皇は内裏を出て三条東殿に移ったので、信西も後白河上皇に従い益々勢いを伸ばしていきました。

信西と藤原信頼の対立
 後白河上皇の寵臣には、他に藤原信頼(ふじわらのの ぶより)がいました。かつて権勢を誇った藤原道長の流れを汲む藤原氏北家の出身で順調に出世していました。しかし、後白河上皇は信西をより可愛がったために、信頼は当然不満でした。信西も信頼を嫌って後白河上皇に進言し昇進を阻みました。

反信西派の結束
 信西憎しは信頼だけではなく源義朝もその一人。保元の乱の恩賞で昇殿を許された身分でした。信西の息子にわが娘を嫁がせようとしましたが信西に拒絶されたうえ、保元の乱の戦後処理で実父・為義を斬らされた恨みも重なって、同じく信西に恨みを持つ信頼と結び付きました。また院近臣藤原成親、大納言藤原経宗、検非違使別当藤原惟方らも信頼に与して反信西派が結束、信頼派は次第に大きくなっていきました。

平治の乱勃発
 1159年、平清盛ら平家一門が熊野詣している隙を狙って、信頼、源義朝らが決起しました。その決起には、13歳の源頼朝も追随していました。後白河上皇を内裏に移したうえで御所三条東殿に火を付け、焼き討ちしたのです。隣接する信西の舘にも火をかけました。信西は逃亡しましたが、京都の南方、山城国田原荘で殺害されたとも自害したとも言われています。信頼は信西の首を大路に晒したそうです。

 ここで、改めて「平氏」と「平家」の違いについて触れておきましょう。
「平家」とは「平氏」の一部を指します。先にも触れましたが、天皇家から離れて家臣となる際(臣籍降下)には新しく「氏」と「姓」を賜りました。最初のころは、「清原」とか「在原」など、その都度新しく賜っていましたが、奈良時代の終り頃からは、すべて「源」と「平」に限定されました。
 源平ともに当初こそ朝廷で活躍していましたが、平安時代中期以降、朝廷の要職は藤原氏一門が独占したため、地方に降って武士となった一族が多く、平氏の多くは関東で武士となり、坂東平氏と呼ばれました。
 一方、伊勢で武士となった一族(伊勢平氏)は朝廷に留まって下級官僚として朝廷に仕え続けました。このように朝廷に仕えた伊勢平氏のことを、広義の「平家」と呼びます。なお、前述のとおり、政権を打ち立てた清盛を中心とした一族を狭義の「平家」と呼ぶようです。

平清盛の作戦
 紀伊田辺にあった平清盛は、わずか15騎ながら長男・平重盛に促されて京都を目指し六波羅の館に帰着。重盛の進言に基づき信頼に従うふりをして、名簿(みょうぶ)を提出したのです。名簿とは名前と官位を記したもので、名簿の提出は相手に全面的に従うことを意味しています。こうして清盛は信頼を油断させる作戦に出ました。
 信頼派では内部で既に分裂していました。後白河上皇による院政を目指す信頼ら後白河院政派と、二条天皇による親政を目指す藤原経宗(ふじわらのつねむね)・藤原惟方(ふじわらのこれかた)ら二条親政派です。信西憎しで両派は手を握ったとはいえ、元来は敵対する立場。二条親政派は密かに接触してきた清盛と手を組み信頼打倒を目論みました。
 
二条天皇も後白河上皇も脱出
 藤原経宗・藤原惟方両名は、二条天皇が監禁されていた清涼殿から二条天皇に女装させ、熊野詣に見せかけ車に乗せて六波羅への脱出に成功しました。一方、後白河上皇は自力で仁和寺に逃亡しました。
 
清盛の反撃 六条河原の戦い
 清盛は配下の武士たちを集め信頼追討の宣旨が下ったとして、信頼・義朝の立て籠もる内裏に押し寄せました。信頼の狼狽ぶりや醜態に周囲は呆れたといいます。清盛の攻撃には義朝が邀撃。苦戦を強いられた平家軍は揺動作戦で一旦退却を始めました。その後、賊軍になったことを知った源氏方には脱落者が多く出て十数騎にまで減り、義朝は東国での再起を図るべしと東進しました。
 
信頼 義朝に見捨てられ六条河原で二条天皇方に斬首される
 義朝一行が比叡山の西麓に至った時、信頼が追走して同行を請いましたが、義朝は拒否し罵倒しました。見捨てられた信頼は京都に戻り後白河上皇を頼って仁和寺を訪ねました。上皇からの二条天皇への懇願も虚しく信頼は六条河原で斬首されました。
 
義朝の息子たちのその後
 平家の追撃を逃れた義朝一行は、堅田、坂本、大津を経て瀬田に至り、義朝、長男・義平、次男・朝長・三男・頼朝はそれぞれ分かれて東国へ向かいました。頼朝は疲れ果て一行と逸れ関ヶ原で平宗清に捕えられ京都へ連行されました。
 朝長は落ち武者狩りで受けた傷がもとで亡くなりました。
 義平は別行動で一旦北陸道を目指しましたが京へ戻り清盛暗殺を試みましが失敗。六条河原で斬首されました。
 
義朝も最期を迎える
 義朝の最期については、一説によると、義朝は尾張国知多まで逃げ延び、代々の家人・長田忠致(おさだただむね)の屋敷に入りましが、謀られて湯から上がったとき家人の手で殺害されたとあります。自害説もあるようです。1160年のことです。
 
 
平家の作戦勝ち 隆盛へ
 このように武力で同時に擡頭した平家と源氏の争いは、宣旨を戴くなど平家の作戦勝ちと言えましょうか。
 
平清盛 異例の昇進で公卿となる
 戦後の論功行賞により平清盛は正四位下から二階級特進で正三位に叙せられ、次いで参議に昇進しました。このような異例の出世の陰に、その出生の秘密があるとされています。実は忠盛の子でなく、白河法皇が白拍子に生ませた子であることは公然の秘密で、周囲が異をとなえることができなかったということです。藤原不比等が天智天皇の落胤で藤原氏隆盛の礎となったのと同様かと思います。
 さらに、重盛は伊予守に、頼盛は尾張守に、教盛は越中守にそれぞれ任じられました。
 清盛は武士としてはじめて公卿になったのです。公卿とは、大臣以下・大納言・中納言・参議の、国政の中心を担う人々のことです。
 清盛の昇進は後白河上皇の後ろ盾によるようです。清盛は二条天皇親政派、後白河院政派の いずれにも敵対しないよう上手く立ち回っていたのでしょうが、後白河上皇も清盛の武力をあてにしていたのではないかということです。
 
清盛 後白河上皇に法住寺殿を院庁として再建し寄進
 平忠盛が鳥羽上皇の要請に応えて得長寿院千体堂を建立したのに倣って、清盛もまた後白河上皇の要請に応え権力を盾に周囲を取払った広大な敷地に法住寺殿(ほうじゅうじどの)を院庁として再建造営、寄進しています。当時は五重の塔をも伴う大寺院であったようですが焼失して現存しません。現在のいわゆる三十三間堂は、その一部です。これも清盛の異例の昇進に寄与したものとされています。
 
親政派への牽制
 1160年、後白河上皇は八条堀川の藤原顕長(ふじわらのあきなが)館への行幸の際の藤原経宗・藤原惟方両名の行為を反逆と決めつけ清盛に逮捕を命じ、経宗は阿波へ、惟方は長門へ、それぞれ流罪としました。最有力の近臣二人が失脚したため一気に二条親政派は衰え、後白河院政派の勢力が強まりました。翌年には清盛は検非違使別当(長官)に就任しています。
 
清盛の義妹 憲仁親王を出生
 そのうえ1161年、清盛の妻・時子の妹・滋子が後白河上皇の皇子を生みました。憲仁親王(のりひとしんのう)、後の高倉天皇です。さらに清盛娘・盛子が関白藤原基実(ふじわらのもとざね 藤原氏北家出身)に嫁ぎ摂関家とも姻戚関係になりました。
 
二条天皇譲位 六条天皇即位 二条天皇崩御
 1165年、二条天皇が病で譲位し皇子の六条天皇が即位しました。六条天皇はわずか2歳。二条天皇は譲位の翌月、崩御しました。直後に清盛は権大納言に就任。とんとん拍子の出世です。
 
清盛 娘・盛子の早逝した夫・基実の摂関家領土を奪う
 前述のとおり清盛娘・盛子が嫁いでいた基実は、二条天皇の関白、六条天皇の摂政の地位にありましたが、1166年、24歳の若さで亡くなりました。息子・近衛基通(このえもとみち)がまだ幼いので、摂関家所領のうち極わずかな土地を基通に渡して大部分を未亡人である盛子の管理下に置くことにしました。成人した際に引き渡すとしながらも、事実上、盛子の後見人・清盛のものになりました。清盛はこのようなやり口で摂関家の所領を奪いましたが、それでも周囲が何ら咎めることができないほど清盛の力は強くなっていたのです。
 
清盛 太政大臣に至る
 1166年、清盛は義妹・滋子と後白河上皇との間に生まれた6歳の憲仁親王を皇太子に立てると共に、自らは春宮大夫(とうぐうだいぶ 皇太子の後見役)となりました。後白河上皇は慈子を女御に格上げ。清盛は内大臣に昇進。さらに翌年、左右の大臣を経ず太政大臣に至りました。時に50歳、平治の乱からわずか8年で異例にも人臣としての最高位に至ったわけです。
 
太政大臣を辞任し出家
 それでも、清盛は太政大臣に就任後わずか3ヶ月で病を理由に太政大臣を辞任して出家、法名は青蓮。後に浄海と改めました。1167年、同時に妻・時子も出家しました。
 
高倉天皇の即位
 後白河上皇は、もしも清盛が亡くなれば天皇親政派が六条天皇を担いで厄介な事態になるかもしれない。それまでに我が子・憲仁親王に譲位させておかねばならないと考えたのです。1168年、後白河上皇の発議で4歳の六条天皇は譲位させられ、8歳の憲仁親王が即位しました。高倉天皇です。
 1171年、高倉天皇のもとに清盛と時子の娘・徳子が入内しました。徳子の高倉天皇入内で平家と天皇家の結びつきは一層強まりました。
 
言仁(ときひと)親王誕生
 1178年、高倉天皇と徳子の間に待望の言仁親王が生まれ、誕生の翌月には皇太子に立てられまし た。
 
平家 摂関家とも天皇家とも姻戚関係を築き不動の地位を確立
 このように平家は摂関家とも天皇家とも強い絆を築いて不動の地位を確立しました。
 
港や航路を整備 日宋貿易を独占
 清盛は日宋貿易を独占して巨額の富を築きました。そのために大輪田の泊(現在の神戸市)など多くの港を建設したほか航路も整備しています。武人としてだけでなく経済人としての才能にも優れていたのです。その財力が前述の多くの策略を可能にしたと言えるかと思います。
 
「満ちれば欠ける」「驕る平家は久しからず」 後には平家滅亡
 両語のとおり、後には平家は滅亡しました。皆さんご承知のとおりです。その経緯については、別の機会に譲ることにいたしましょう。

武家政権は平氏・源氏の縄の目の如し
 稿を終えるにあたり、ここで少し面白い事実を紹介しておきましょう。
日本の武家政権の歴史を振返りますと、最初は平清盛が政権を取りました。平氏です。
 その平氏もやがて源頼朝に取って代られ、源氏の政権が誕生しました。
 鎌倉幕府が三代で将軍の立場を失った後には、北条氏が執権として政権を受け継ぎました。北条氏は平氏です。
 そして、北条氏が力を失うと、次は足利尊氏が政権を取りました。源氏です。
 豊臣秀吉は、どちらでもありませんが、その次は織田信長、平家です。
 その次は徳川家康、源氏です。
 このように、くるくるとまるで縄の目のような輪廻になっていることには驚きです。偶然なのかもしれませんが、非常に興味ある事実です。
 
終わりに
 最後に、この稿の内容については、光永隆(ペンネーム:左大臣光永)先生のブログに学んだところが多いことを申し述べて謝意を表します。ありがとうございました。
 これでもって、拙い原稿を終わりにいたします。最後までご清読を賜り誠にありがとうございました。

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