『雨月物語』と、そのうち「菊花の約(ちぎり)」


#創作大賞2023 #霊魂 #雨月物語 #中国故事・叔座と商鞅 #わが郷里・加古川の故事

  
 
 
 この『雨月物語』については、昨日投稿いたしました『崇徳院』で、西行が崇徳院の亡霊と交わした話について紹介しましたが、これも同じ『雨月物語』にでているもので、「菊花の約(ちぎり)」という話です。概略を紹介します。
 
 播磨国の加古川宿に丈部左門(たけべさもん)という学者がいました。彼は清貧に甘んじて、書物以外は、調度品は勿論、何事にも決して贅沢をしませんでした。彼の母親も孟母に劣らぬ賢明な人で、紡ぎ仕事で左門の志学を支えていました。同里の裕福な作用家に嫁いでいた末妹が支援を申し出ても決して応じませんでした。
 そんな或る日のこと、左門は友人の家を訪れ会話を交わしていると、壁越しに苦しそうな呻き声が聞こえてきました。
 友人に質すと
「4、5日前、仲間と逸(はぐ)れたとして一宿を乞う者があり、武士らしき風体で卑しからぬ者と見受けられたので、泊めてやった。ところが、その夜から高熱を発し流行り病の虞があり、家族にまで移ってはいけないと心配している。泊めてやったことが過ちだったかと後悔し戸惑っている。近づかないように」
との返事。
 左門は、友人の制止にかまわず、部屋に入って、その人を見ると、顔色は黄色く、肌も黒く瘦せ衰えて、見るからに重病そのもの。自ら薬を処方する一方、自ら煮た粥を勧めて、兄弟のように看病しました。その後も毎日訪れて真心こもる介抱をしました。その甲斐あって、すっかり元気を回復した、その人は友人にも左門にも厚く御礼を言い、己の身の上を語りだしたそうです。
 それによりますと
「私は出雲国松江郷に生まれ育った赤穴宗右衛門と申す者。少々兵法に心得があって富田城主・塩冶掃部介殿にその道を教えていたが、近江の佐々木氏綱殿への密使として選ばれ、そこに滞在している間に、前の城主・尼子経久が大晦日に夜襲をかけて城を乗っ取り、掃部介殿は討ち死にした。雲州は元来、佐々木の治国で、塩冶は守護代。経久を滅ぼして欲しいと、氏綱殿に勧めたが、討ち滅ぼすどころか、自分を近江に引き留め置いたのだ。そこで、やむなく国元へ帰る途上、病に罹った次第。身に余る御恩に対して、我が残る半生必ずお報いしたい」
と言ったそうです。
 その後、左門はよい友ができたと喜び、日夜会いに行っては語り合ったそうです。赤穴は諸子百家、兵法理論にも長け、最後には左門と義兄弟の契りを交わしました。赤穴が5歳年長であったため兄としての礼儀を受け入れました。左門の母親とも面会し心を通わし、左門の家にも数日間滞在して雲州へ帰ることになりました。
 赤穴曰く
「私が近江を逃れて来たのも雲州の動静を見るため。一度は戻り再び参上したい。仮に豆と水ばかりの貧しい生活となっても必ず御恩を返したい。ひと時の別離をお許し願いたい」
 9月9日・菊の節句に戻ってくる旨を固く約束して、赤穴は西へと帰って行きました。
 さて、9月9日、左門はいつもより早く起きて座敷を掃き、黄菊・白菊を2枝・3枝小瓶に挿す一方、財布を空にして酒や飯の用意をしましたが、昼を過ぎても待ち人来たらず。西に沈む日に沖の方ばかり見て酔い心地になりました。それを見て、老母は左門を呼んで、今日のところは家へ帰り、また明日待つがよい、と諭しました。
 母の言葉は拒み難く、母を先に寝かせた後、もしやと思って戸外に出てみても、何の兆しもない。月も山際に落ちたので、仕方なく戸を閉めて家へ入ろうとすると、うっすらと黒い影が見え、その中に人の姿があって、よく見れば赤穴宗右衛門でした。
 躍り上がるように喜んだ左門が
「約束を違わずよくぞ来て下さった。誠に嬉しい。さあ、お入りくだされ」
と言ったが、赤穴は、ただ頷くだけで何も言わない。
 左門が
「兄上のお戻りが遅かったので母は待ちわびて既に床の中。起こして参る」
と言っても、赤穴は頭を振って制しながら相変わらず何も言わない。
 左門が
「夜通しで来られたので疲れておられよう。酒でも一杯飲んでからお休み下され」
と酒と肴を勧めても、赤穴は袖で顔を覆うばかり。
 左門の
「もてなす術は足りないけれど、私の気持ち。どうか気分を害されないように」
の言葉に、赤穴はなおも答えず。
 暫くして、やっと
「我が弟の真心こめたもてなしをどうして拒もうか。真実を話そう。決して怪しまないで欲しい。実は、私はもうこの世の者ではない。霊魂となって仮の姿を現しているだけなのだ」
 驚いた左門
「兄上、何故そんなことを言われるか。夢とも思えない」
 赤穴は
「あれから雲州へ下ったが、国の者たちのほとんどが尼子経久に服して塩冶殿の恩を顧みる者はいなかった。従弟の赤穴丹治が富田城にいると聞いて訪ねてみれば、私を経久に会わせたのだ。経久は、知恵ある者のくせに猜疑心が強くて腹心の家臣もいない。長くいても益なしと判断し去ろうとしたが、丹治に命じて私を城外へ出すことを禁じたのだ。そのうちに今日という日が来てしまった。お主との約束を違えるものならば、お主は私をどう思うだろうかと心配でならなかったが、逃れる術はどこにもない。古諺『人は1日に千里を行くことはできない。だが、魂は1日に千里を行くことができる』を思い出して、自ら刃で命を奪い、霊魂となってここへ赴き、菊花の約束を果たしたのだ。その心を理解して欲しい」
と言い終えて、はらはらと落涙。
「これで永遠の別れ。母上をくれぐれも大切にせよ」
と言うなり、消えて見えなくなったということです。
 左門は母親に対して、
「兄上は今夜菊花の約束を守って訪ねて来られたけれど、酒肴をもって迎えても再三辞退。兄上は約束に背くことになった仔細を話してから、見えなくなってしまった」
と経緯を説明しました。夢であろうと言う母親に、
 左門は
「決して夢などではなく、兄上は確かにここに来られたのだ」
と泣き崩れました。今度は老母も疑わず2人して声をあげて、その夜は泣き明かしたということです。
 翌日、左門は母に向かって
「私は幼少の頃から学問に身を寄せてきた。だが、国に忠義を立てたこともなければ、家に孝行を尽したこともない。ただ徒にこの世に生きてきただけ。兄・赤穴は一生を信義のために終えられた。弟として私は出雲へ下り、骨を納めて信義を全うしたい。母上、しばし私にお暇を下され」
 「早く戻っておくれ」
と、せがむ母の世話を作用家に懇ろに頼んだうえ出立した左門は10日後には富田城に到着しました。
 赤穴丹治の家へ赴き名を名乗って入ると、丹治が出てきました。
 左門は
「武士たる者は富貴盛衰を論ずるべきにあらず。信義を重んじるのみ。我が兄・宗右衛門は約束を重んじ霊魂となって百里を飛んで私宅へ訪ねてくれた。それに報いんがため、私はここへ参った。昔、魏の宰相が病床に臥した時、魏王自ら見舞いに訪れて、叔座の死後のことを誰に託すべきかを尋ねた。叔座は商鞅を推すとともに、もしこの人物を採用しないのならば殺してでも国から出してはいけない。他国に行かせては後々の禍根となろう。そう答えたのち、商鞅を密かに招いて、そなたを我が亡き後の宰相に推挙したが、王はそれを許さぬ節がある。危険が迫る前に速やかに他の国へ逃れ、その害を免れよ、と商鞅を庇護した故事がある。宗右衛門の場合も同じであろう。どう思うか」
と質しました。(ここで少しお断わりします。この中国の故事(叔座と商鞅の関係)について史実と異なりがあり上田秋声が誤っていますので、念のため付記しておきます)」
 丹治は頭を垂れて答えなかったそうです。
 左門は
「我が兄・宗右衛門は塩冶殿との旧交を重んじて尼子に仕えなかった。これこそ義士。そなたは旧主の塩冶殿を捨て尼子の軍門に下った。武士の信義がないではないか。我が兄は菊花の約束を重んじて、命を捨ててまで百里を来られた。これは信義の極み。尼子に媚びて血を分けた人を苦しめ非業の死を遂げさせるとは人たる信義もない。密かに叔座のような信義を尽すべきだった。私は信義を重んじて、ここへ来た。そなたは不義のために再び汚名を残すがよい」
と言うなり、一刀のもとにその場に斬り捨て、その地を後にしました。
 尼子経久はこの話を聞いて、兄弟信義の篤さに同情し、左門の後を追わせることはなかったということです。
 これも、霊魂の話です。明日は、『江刺郡昔話』と、そのうち「お鶴物語」 を投稿したいと考えておりますが、それも霊魂の話です。
 
 最後に、余談をひとつ。加古川という地は、よくよく塩冶家と縁が深い地と思います。
 『太平記』に、足利尊氏の執事・高師直に奥方を横恋慕された塩冶高貞が、謀反の汚名を着せられ、その廉で討たれた故事が出ています。高貞の実弟六郎や家臣たち7人が加古川のほとりで討ち死にしました。その7人を弔って、当地の村人が建てた「七騎塚」というのが、今も、私の住まいする加古川市米田町船頭の地に残っています。加古川城の跡とされる同市加古川町の称名寺にも、その七騎供養塔があります。その撰文は、かの有名な頼山陽ですから、併せて紹介しておきます。
 このことにつきましては、以前に加古川西公民館の「ふるさと講座」でお話した時の抄録がありますので、よろしかったら、お読みいただければ嬉しいです。

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