加古川生まれの悲劇の英雄・日本武尊

#創作大賞2023 #ヤマトタケル #我が郷里・加古川の故事 #古事記と日本書紀を比較して  

はじめに
 私は幼い頃から加古川市に住んでいますので、小学校の遠足などで日岡山にある御陵に何度かお参りしました。子供時分のこととて記憶が曖昧で、往路は、池尻か升田辺りから渡し船に乗って対岸の大野辺りへ向けて加古川を渡ったことは確かなのですが、帰路のことは再度、船に乗ったのか、あるいは池尻橋を歩いて渡ったのか、さっぱり記憶がありません。私が通学した東神吉小学校の同学年児童数は一〇八人でしたから、往路は、船頭さんが竹の竿で川底を突きながら、何度も往復してみんなを渡して下さったと明確に記憶していますのに、帰路のことは何も記憶がないのです。当時、池尻橋があったのかどうかさえ、分かりません。それは別にして、その際、担任の先生方から、日岡御陵について幾らか教わったのですが、すっかり忘れてしまっていて、後になって本などを読み大分知識を得ましたが、それでも、ほんの断片的なことに過ぎません。
 実は、約二〇年余り前、診療所の旅行で山形県と宮城県の県境にある蔵王温泉へ行ったときに、バスガイドさんの案内の中に、蔵王温泉がヤマトタケルと関連がある旨の説明があったことを記憶していて、真偽のほどを何らかの方法で確認したい、と願っていました。
 その時、宿泊したホテルは「森のホテル バルト」という名前でしたから、それを頼りにネットで検索してみますと、名称は少し変わっていましたが、現在でも健在で、そのホームページには、「蔵王温泉は西暦一一〇年頃日本武尊の東征に従った吉備多賀由によって発見された我が国最古の温泉の一つ」との記載がありました。日本全国、弘法大師や行基菩薩が来て云々という伝説が溢れているのと同様、このヤマトタケルが来て云々というのも、単なる伝説なのかもしれません。真偽のほどは、何ら定かではありません。
 そこで、この度、一念発起、真偽のほどを確認したいと願って、古事記と日本書紀(一般には纏めて「記紀」と総称されています)を並行して読んでみることにしました。それによって、景行天皇やその妃イナビノオオイラツメ、皇子のヤマトタケルなどについて、少しばかり知識を得ましたが、当初の目標であった真偽の確認には遠く及びません。それでも後々、何かの参考になればと願って記してみました。神話の世界ですから、そのつもりで嘲ってお読み下されば、それで充分です。何分にも素人の俄か勉強ですから、誤りや独りよがりも多いかと存じます。どうぞご容赦のほど、お願いいたします。
 
日本書紀と古事記のこと
 最初に、日本書紀や古事記について少しばかり触れておきたいと思います。
 日本書紀は朝廷に伝わっていた神話・伝説・記録などを漢文で記述した編年体の史書で、舎人親王トネリシンノウらの撰とされており、続く続日本紀ショクニホンギなどとともに六国史リツコクシの一です。従って、日本書紀は、国家が編纂した正式の歴史書、すなわち正史セイシですが、残念なことに原本は残存していません。写本だけが伝わっています。
 正史でないものは稗史ハイシ・私史と呼ばれます。古事記は正史ではありませんが、それに準ずるものと評価されているようで、現存する日本最古の歴史書です。稗田阿礼ヒエダノアレが天武天皇の勅で誦習した帝紀および先代の旧辞を、太安万侶オオノヤスマロが元明天皇の勅により撰録したものとされています。
 以前は稗田阿礼や大安万侶について疑問視する向きもありましたが、一九七九年に大安万侶の墓誌、さらには遺骨が発見されるに及んで古伝承の信憑性が高まりました。もっとも、大安万侶自身が書き留めたのではなく、その部下などが携わったのかもしれませんが、記録の責任者であったことに誤りはないようです。大安万侶の位は従四位下ですから、低くないにしても決して高くはないので、有力貴族ではなく中流貴族だと思われます。日本書紀に関与したのが舎人親王であるのと比較すると、古事記に対する政権の評価もそれ相応だったのかもしれません。
 なお、稗田阿礼については、まだ確証はないようですが、文化勲章受章者で「梅原日本学」で名高い梅原猛氏(故人)は、その著書『隠された十字架―法隆寺論―』のなかで、稗田阿礼は藤原不比等に違いないと大胆な仮説を立てて持論を展開しており、真偽は兎も角、一考に値するものと思います。自分は哲学者であって歴史学者ではないから、仮に誤りであっても失うものは何もない、と強い覚悟の論調です。是非、ご一読下さい。
 因みに、この藤原不比等は、表向きには中臣鎌足の次男となっておりますが、実際は第三八代天智天皇の落胤で、それが周知の事柄であったのでしょう、それもあってか、藤原氏栄華栄耀の礎を築きました。とにかく、頭脳がもの凄く明晰であったようです。平清盛が白河法皇の落胤で、しかもそれが周知の事実であったため、有力な公卿衆が異を唱えにくく、あっという間に大出世を遂げましたが、同じような好条件に恵まれたのではないでしょうか。『隠された十字架―法隆寺論―』にも詳述されています。
 記紀の原文は、全て漢字書きです。変体漢文というそうですが、それを主体に、古語や固有名詞など漢文では代用しにくいものは一字一音表記によっています。ですから、面白いことに、一部は漢字の意味を伴って使用されていますが、一部は漢字の意味とは全く関係なく仮名代わりに使用されているのです。例えば、景行天皇の「大帯日子」のうち、大と帯は、意味を含んでいますが、次の日や子は単に仮名代わりに使われています。『万葉集』同様、上代特殊仮名遣いという手法ですが、この用法によって、全て仮名代わりに漢字を用いる一字一音表記に比べて、随分字数を減らしています。そのため、今日、私たちが記紀を読むときには、相当苦労が要るのも事実です。
 
第一二代景行天皇
 さて、「景行天皇」という名前は、他の歴代天皇と同様、諡号(シゴウ おくりな)であって、在位中は日本書紀では「大帯日子淤斯呂和気天皇オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト、古事記では「大足彦忍代別天皇オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト」という名で記載されています。ただ、本稿では今後、景行天皇の名で記載したいと思いますのでご了承下さい。
 景行天皇は、第一一代垂仁天皇の皇子ですが、即位は父の死の直後ではないようで、即位に至るまでの数年間は、他の誰かが実権を握っていたようです。ひょっとして皇位の継承で何か争いがあったのかもしれません。天皇の代数は、現在のところ、第一二代ですが、神代には実在が疑問視される天皇もあるようですし、もしも何か新しい発見があれば、それで変わるかもしれないと思います。なお、第一四代仲哀天皇の皇后で七〇年もの長い間、摂政として実権を握っていたとされる神功皇后が皇位を継承したとする学説もあるようですし、大友皇子(後の第三九代弘文天皇)のように皇位継承が後の明治時代になって認められたケースもありますので、今後の学説の推移に注目したいところです。大友皇子の場合は、日本書紀や古事記の編纂に関連した天武天皇と壬申の乱で戦った相手ですから、恣意的に皇位継承が記載されなかったという事情もあったのかもしれません。個人的には、そんな推察をしています。今のところ異論はあるものの、天武天皇は以前の第三九代から第四〇代に繰り下げられています。
 景行天皇は即位の後、現在の桜井市にある纒向マキムクで政務をとったようです。日本書紀には、他の天皇の場合、天皇自身の政務や活躍が記載されていますのに、景行天皇の場合は、妃や妾、皇子、皇女のこと、活躍面では九州熊襲征伐に出向いたことと東国巡狩などのほかは余り記載がなく、また、古事記でもヤマトタケルについての記載が多く、それがためにヤマトタケルこそ、この景行天皇だとする学説もあるようです。でも、加古川市住人の一人として、古来の伝説どおりヤマトタケルは当地で生まれ育った双子皇子のうちの弟皇子と信じたいところです。
 
景行天皇の妃
 古事記によれば正規の妃は、針間之伊那毘大郎女ハリマノイナビノオオイラツメ、八尺之入日売命ヤサカノイリヒメノミコト、美波迦斯毘売ミハカシビメの三人と記載し、その他はいわば妾としていますが、日本書紀では播磨稻日大郎姫ハリマノイナビノオオイラツメを筆頭に、次々と妃の名前で出ています。合わせて八人に及び、古事記が妃と妾とを区別しているのと若干異なります。いずれにしても、多くの女性と結婚していたことが分かります。
 日岡御陵に祀られている伊那毘能大郎女イナビノオオイラツメは正規の妃の筆頭です。妹の伊那毘能若郎女イナビノワカイラツメも嫁しています。現在では、姉妹が同じ男性に嫁すことには奇異を感じますが、昔はよくあることです。ご存知の第四一代持統天皇は天智天皇の皇女で叔父にあたる天武天皇と結婚していますが、同母姉など天智天皇の皇女四人が天武天皇と結婚しています。この同母姉・大田皇女は、同母妹の持統天皇から死を賜った悲劇の皇子・大津皇子の母親です。この件につきましては、以前に執筆したものがありますので、別の機会に紹介したいと思います。
 
景行天皇の皇子・皇女
 古事記によりますと、ハリマノイナビノオオイラツメとの間に、櫛角別王クシツヌワケノミコ、次に大碓命オオウスノミコト、次に小碓命オウスノミコト、別名・倭男具那命ヤマトヲグナノミコト、次に倭根子命ヤマトネコノミコト、次に神櫛王カムクシノミコの五柱を儲けたとあります。
ヤサカノイリヒメノミコトとの間に、若帯日子命ワカタラシヒコノミコト(後の成務天皇)など四柱、また、ミハカシビメとの間に、一柱を儲けたとあります。
 正規の妃ではなかったイナビノワカイラツメとの間に、二柱を儲けたとあります。
 その他の女性との間にも、多くの皇子・皇女が生まれ、合計で八〇柱と記載されております。
 一方、日本書紀では明細でやや異なるものの、合計は八〇柱とあり、なんと子沢山。びっくり仰天です。
 皇子のうち、後に成務天皇となるワカタラシヒコノミコトは別として、私たちの関心事はなんといっても、ハリマノイナビノオオイラツメとの間に生まれた五柱です。次に詳しく触れてみましょう。
 
景行天皇とハリマノイナビノオオイラツメの結婚 皇子オウス誕生
 幼い時に聞いた話や、その後いろんな本で読んだ記事の中では、景行天皇がこのイナビノオオイラツメに結婚を申し込んだ経緯や、申し込みを受けた際にイナビノオオイラツメがどこかの島に一旦身を隠したという件クダリがあり、この島が何処だろうと想像したこともありました。過日、『万葉集』を調べた時の収穫として、島は決して今日言う島だけでなく、岬や埼をも指すことを知りました。海の中の島でなく、海に近い離れた所くらいに理解すればいいのかな、と考えています。また、それに対して、天皇は犬の鳴く方向から隠れた所を見付けて探し当て無事結婚できたという話もありました。          当時は求婚されても、すぐに受諾しないのが慣習になっていたらしく、犬が鳴いた云々は、それを承知で、誰か身近な人が天皇に居場所を教えたのだろう、犬云々は単に申し訳であって、実際は人だろうかと思っています。桃太郎伝説で鬼退治に随行した雉などは、動物が単にあてがわれているだけであって、本当は人に違いないと思われるからです。桃太郎伝説に同じと考えています。
 ただし、記紀には、このような結婚に関する記述は、一切ありません。古伝承に基づくものなのか、それとも別の記録によるものなのかは、分かりません。別途、播磨風土記などを調べてみようと考えています。
 今の元号は令和ですが、我が国で初めて元号が定められたのは、今から一三七〇年余り前の西暦六四五年のことです。中大兄皇子と中臣鎌足によって蘇我入鹿・蝦夷が滅ぼされた事件、すなわち乙巳の変イッシノヘンに続いて、二人が時の天皇であった第三五代皇極天皇(天智天皇の実母)を退位させて、その弟・第三六代孝徳天皇を即位させるともに、多くの政治改革を断行した大化改新の年です。これによって、天皇中心の政治体制が確立したとされています。ご承知のとおりです。
 では、それまでは年号はどのように表されていたのでしょうか。○○天皇△年、という表現でした。○○天皇の時代で▽年、という意味です。古代中国と同じです。
 日本書紀には、「 二年春三月丙寅朔戊辰、立播磨稻日大郎姫一云 稻日稚郎姫 (郎姫、此云異羅菟咩)爲皇后 后生二男 第一曰大碓皇子 第二曰小碓尊 一書云 皇后生三男其第三曰稚倭根子皇子 其大碓皇子 小碓尊一日同胞而雙生 天皇異之則誥於碓 故因號其二王曰大碓 小碓也 是小碓尊 亦名日本童男(童男 此云烏具奈)亦曰日本武尊 幼有雄略之氣 及壯容貌魁偉 身長一丈 力能扛鼎焉」と記載されています。
 景行天皇二年にイナビノオオイラツメが立后、つまり皇后になり、それに続いて、双子の皇子達、オオススノミコトとオウスノコトが誕生したということです。
 私たちが昔、聞いた話に、その際天皇が安産を祈って臼を抱えて廻ったとか、双子の皇子のうち兄皇子は大きい臼で、また弟皇子は小さい臼で産湯を受けたという話がありましたが、そんなことは一切記載されていません。ただ、古来、我が国では出産と臼に関わる伝説や風習が沢山あるようです。碓は臼のことですから、後者の話は偽りではないように思われますが。
 古事記では、この双子の皇子のほかに、クシツヌワケ、カムクシ、 トヨクニワケ の三人が生まれた、とありますが、日本書紀では、その記載がありません。
 前述のとおり、景行天皇には八〇人もの皇子・皇女がありましたが、このうち、立太子、つまり皇太子(次期天皇と決定した地位にある者 儲君チョクン)の地位についたのは、オウス、ワカタラシヒコ(後の第一三代成務天皇)、イオキノイリヒコ の三人しかありません。他は、みんな国造クニノミヤツコ(現在の知事にあたる)や、和気ワケ、また稲置イナギ・県主アガタヌシなど、いわば地方の役人として派遣するか、あるいは表現は不適当かもしれませんが、追いやっています。
 
景行天皇と美濃国の姉妹のこと
 次に、いよいよオオウスノミコトとオウスノミコトのことに触れて参りましょう。日本書紀よりも、古事記の方が詳しく記載されていますので、以後は主として古事記の記載をもとに、話を進めたいと思います。
 景行天皇は美濃の国に美女姉妹がいると聞き及んで、オオウスノミコトに下見を命じましたが、一向にその報告がなく食事にも顔を見せません。そこで、オウスノミコトに向かって、オオウスノミコトによく言い聞かせるようにと命じましたが、それでも一向に顔を出しません。天皇がオウスノミコトに改めて質したところ、天皇の意を曲解し、オオウスノミコトが厠カワヤ(トイレ)から出てきた時に殺害、薦コモ(ムシロ)に包んで川へ投げ捨てたと告げました。天皇がこれを聞いて、なんと恐ろしいことと、驚いたに違いありません。オウスの背丈は一丈とあり、一丈は三メートルといいますから、誇張があるにせよ、大柄の力持ちで乱暴な気性であったのでしょうか、天皇はオウスのことを恐れ、先々遠ざけたのかもしれません。この一件以来、オウスノミコトの悲劇が始まるように思います。
 ただ、ここで充分説明しておかなければないことがあります。それは、日本書紀には、そういった記載が全くなく、しかもオオウスの子息や末裔のことが記載されており、古事記の記載に誤りがあるのではないかと疑われることです。この真偽は不明ですが、景行天皇が驚いて、その後に九州や全国各地に征伐に派遣する切掛けになったことは、充分想像されます。
 古事記では、美濃国のオオネノミコの女ムスメで、名はエヒメ・オトヒメという姉妹が非常に容姿麗美と聞いて、オオウスを遣わして都へ召されたにもかかわらず、オオウスは自分が、その姉妹と婚マグワし、さらに他の女人を詐って天皇に貢上。女性が求めていた姉妹でないことを知った天皇は、オオウスを恨んでいた旨の記載があります。日本書紀でもオオウスは余り芳しく記載されておりません。父親の求める女性を、いわば横取りしたわけですから仕方ないのでしょう。
 古事記では美濃の姉妹は美人姉妹となっていますが、日本書紀では妹オトヒメは醜女で美女の姉エヒメとの結婚を勧めたとなっており、記紀で若干異なります。
 
オウス 景行天皇の命で九州熊襲を征伐 ヤマトタケルと称する
 そうこうしているうち、九州で熊襲が叛乱したのでしょう、それを機に、景行天皇はオウスに「西の方にクマソタケル二人あり、従わず礼なき者どもなり。(命を)取れ」と、その征伐に向かうよう命じました。まだ髪を額に結った子供であったとの記載です。先に背丈一丈とありましたが、それとはやや矛盾するのですが、古事記にはこういった矛盾が沢山あります。オウスは叔母のヤマトヒメの援助で衣服と剣を貰って、それを懐にして向かいました。そこでは軍を三重に廻らし二階建の部屋を作り、そこで宴会を開く準備をしていていました。宴会の日まで待ったうえ、当日はヤマトヒメから貰った衣裳で童女の姿にやつして参加したところ、二人は非常に気に入って二人の間に挟んで坐らせました。宴も酣のころ、オウスは機を見てクマソタケル兄弟のうち、兄の胸に剣を刺し殺害。逃げる弟をも階段(梯子)下で尻に剣を刺しました。その際、弟は誰何スイカ(相手に対して誰かと尋ねること)して、オウスが大和政権の皇子であることを知り「西の方には我らよりも強い者いない。だが、このように我らよりも強い者が現れた。今後は『タケル』と称すべし」と名前を献上しました。因みに『タケル』は『建』と書き、強い者、という意味のようです。オウスはそれでも、結局は殺害して、それ以後、ヤマトタケル と名乗ることになりました。
 ここまでは古事記の記載に従って執筆しました。古事記では、オウスが単身、クマソを征伐したように書かれていますが、他方、日本書紀の記載に目を向けますと、まるで違うのです。
 景行天皇一二年、クマソが反抗して朝貢しないので、景行天皇自身が周防まで赴き部下を遣って様子を探らせました。クマソのボスは女性でカムナツソヒメという名でした。彼女の言うには、私自身は大和政権に従いたいのだけれど、ハナタリ、ミミタリ、アサハギ、ツチオチイオリ という四人の部下が、それぞれの眷属を率いて大和政権に従わないのです、と使者に征伐を要請しました。戦いでは大和政権側がタケモノロキ(多臣オオノオミの祖先)、ウテナ(国前臣クニサキノオミの祖先)、ナツハナ(物部君モノノベノキミの祖先)などの策略でクマソ側四人を殺害しました。そこで、景行天皇は豊前国まで赴き、仮宮を建てたとあります。古事記の記載と全く違うことがお解りと思います。
 
九州熊襲征伐後、出雲建イズモタケルも平定
 また、古事記の記載に戻りましょう。クマソ兄弟を征伐したオウス・ヤマトタケルは帰路、出雲国に立ち寄りました。それは、イズモもクマソ同様、大和政権に対抗する勢力であったからでしょうか?イズモタケルを征伐するお話です。
 ヤマトタケルはまずイズモタケルと友人になり、簸河ヒカワ (現在の島根県斐伊川とされています)で一緒に水浴びをし、川から上がる際に剣の交換を申し出ます。予め櫟イチイの木で作っておいた、見掛けは素晴らしいが偽物の剣を相手に手交し、自分は相手の本物の剣を持って戦います。結果は当然ヤマトタケルの勝利。その時に詠んだ歌は
  やつめさす 出雲建イズモタケルの 佩ハける刀 黒葛ツヅラさは巻き さ身無しにあはれ
 意味は イズモタケルの帯びた刀は、葛が鞘に巻いてあって見掛けは綺麗だけれど、刀身がないので意味がない。面白いなあ。
といったところでしょうか。
 日本書紀には、祟神天皇の条に、兄弟で太刀を取替え、偽の太刀で戦った弟が殺害されるという似た話、 その際に詠んだとされるほとんど同じ歌がありますものの、ヤマトタケルによる出雲平定のお話は一切ありません。
 
帰朝して休む間もなく東国平定も下命
 古事記によりますと、ヤマトタケルがイズモタケルを殺害し出雲を平定して帰朝しますと、景行天皇はすぐさま、東国十二道に大和朝廷に従わない者どもがいる、として平定に旅立つよう命じました。この度は、たった一人でなく、ミスキトモミミタケヒコ(吉備臣の祖先)を随行させ、柊ヒイラギでできた鉾・八尋矛ヤヒロホコ(武器ではなく呪術の為のもの)も下付してくれました。
 なお、東国十二道とは、現在の、滋賀県、岐阜県、長野県、群馬県、栃木県、埼玉県、福島県、宮城県、青森県、岩手県、秋田県、青森県にあたります。
 ヤマトタケルは、叔母のヤマトヒメに「帰朝してまだ間もないのに父親はなんと薄情なこと、自分に死ねというのか」と嘆きました。ヤマトヒメは、草那芸剣クサナギノツルギ(草薙の剣)と御嚢ミフクロ(袋)を与えて、危険に遭った時には、この袋を開けなさい、と諭しました。
 ヤマトタケルは、東国へ向かう途中、先ず伊勢神宮へ参詣し、次いで、尾張国へ入りました。ミヤズヒメの家に入り、すぐにも結婚したいと思いましたが、先に東国を平定して帰ったときにしようと思い直し、ミヤズヒメとは結婚の約束だけして東国へ向かいました。そして、悉く山河の荒ぶる神、また従わぬ人等を平定しました。
 相模国でのことです。相模国造がヤマトタケルに「この野の中に大沼があり、その沼に住む神は、たいそうちはやぶる神です」と騙して、ヤマトタケルがその野に入ると国造は野原に火をつけました。ヤマトヒメから貰った袋を開けてみると、なかには火打石が入っていましたので、クサナギの剣で草を刈り、火打石で火をつけ、迎え火(意味は不明です)をすることによって、火の野から無事脱出、国造を切り殺しました。爾来、その土地を「焼津」というと、地名の由来も記しています。
 日本書紀にも、伊勢神宮参拝のことは記載されておりますし、「野に大鹿が沢山いるので狩りをしてはどうか」と誘われ騙されて火責めに遭った話も記述されており、ヤマトタケルがすべての賊衆アタドモを焼き滅しましたので、この地を「焼津」というと記しています。
 
弟橘比売オトタチバナヒメの犠牲
 古事記を読んでおりましたら、何の前触れも説明もなくいきなり、オトタチバナヒメの歌が出てまいりました。おかしいなと思って、日本書紀を読んでみましたら、次のような記載があり、納得した次第です。そこで、ここのところだけは、先ず日本書紀の記述を紹介します。
 日本書紀によりますと、ヤマトタケルは相模から上総へ向かおうとしていました。大した海ではないので、直ぐに渡れるだろうと甘く見ていたのでしょう。暴風アラキカゼが巻き起こり、船が沈みそうになったため、随行していたオトタチバナヒメという名の妾が「これは海神ワタツミのお心に違いない、私の身を差し上げましょう。あなたは目標の東国平定を果たしてください」と身を投げました。忽ち海は静まり上総へ渡れたとあります。爾来、この海を馳水ハセルミズという、と記載しています。現在の浦賀水道のことです。
 古事記では、全く何も触れていませんが、いきなり出てきた歌は、浦賀水道を渡って東進しようとして、嵐に遭遇した時、同道していたオトタチバナヒメが犠牲になって海に身を投げるに際して読んだ歌だったのです。
  さねさし 相武の小野の 燃ゆる火の 火中ホナカに立ちて 問ひし君はも
 意味は、「さねさし」は相模の枕詞ですから意味はありません。相模の野原で炎に包まれながら妻の私のことを心配してくれた夫よ
 このオトタチバナヒメといつ結婚したのかも触れていません。夫のために、いわば生贄として入水自殺をしたのです。七日後にヒメの愛用していた櫛が流れ着き、その櫛を手にして墓を作ると、船がスイスイと進んだとあります。日本書紀とは、やや異なるところがありますが、この程度の違いはよくありますので、よしとしましょう。
 
東国を平定 帰路に足柄で白鹿に遭遇
 ヤマトタケルは更に北進して悉く荒ぶる蝦夷エミシや山河の荒ぶる神等を平定しました。その還り、足柄の坂本に到り御粮(ミカレヒ 保存用の乾かした飯)を食べていると、その坂の神が白鹿に化けて出てきました。ヤマトタケルは直ちに食べ残した蒜(ヒル 韮ニラの一種 匂いがきついとされる)の片端をもって投げつけると目に中って死んでしまいました。ヤマトタケルはその坂に登り、三度ため息をついて「ああ、吾アが妻よ」と叫びました。それで、この辺りを阿豆麻アヅマと呼ぶようになったということです。
 一方、日本書紀では、足柄ではなく、信濃での話になっています。全く異なる地での話に置き換わっているのです。
 
私の疑問
 ここで、私の知るところをご紹介し、自分の抱く大きな疑問をぶつけてみたいと思います。平安朝の頃、坂上田村麻呂が桓武天皇の命で征夷大将軍として四万人もの軍勢を率いて東国へ派遣され、数度、蝦夷と戦いましたね。その結果は、胆沢城での伝説は別として、とうてい征伐に至らず、和睦しかできませんでした。田村麻呂は蝦夷の酋長二人を連れて帰朝しましたが、その時の蝦夷との約束はあくまでも和睦だったので、朝廷には強くその旨を訴えたようですが、朝廷の強い意向で二人の酋長は斬られてしまいます。田村麻呂の心境はいかばかりだったでしょう。でも、朝廷から多額の報奨金を受領しました。それを原資に東山に音羽山清水寺を建立したのです。田村麻呂は清水寺のスポンサーだったのです。この話は清水寺の森清範貫主から直接伺った話ですから誤りではないでしょう。森清範貫主は毎年、日本漢字検定協会の「今年の漢字」の行事で、それを大書し達筆を揮われている方ですから、皆さんご承知のことと思います。
 田村麻呂の気持ちを汲んででしょうか、今から二〇年ほど前、清水寺の境内に二人の酋長の鎮魂慰霊碑が建立されたと聞いております。
 軍事の神とまで崇められた田村麻呂が多くの兵と共に何度も戦ったのに、和睦しかできなかったにも拘らず、ヤマトタケルが僅かの人数で平定なんぞ畏れ多い、せいぜい握手して会話を交わした程度だったものを、大仰に平定と言っているに過ぎないのだろう。そう思っているのですが、いかがでしょうか。東国十二道を平定した時の模様など、詳しいことが一切触れられていないのが、何よりの証左と思います。
 
甲斐国の酒折宮サカオリノミヤで
 古事記や日本書紀では、足柄での出来事の後に、次のような記述があります。その後、甲斐国に至った時、酒折宮 (現在の甲府市酒折町の酒折神社)で、ヤマトタケルが歌にして
  新治ニイバリ(茨城県真壁郡東部)や 筑波ツクバを過ぎて 幾夜寝つる
と尋ねましたが誰も答えられません。居合わせた秉燭者ヒトモセルモノの老人が
  日日ガガ並ナべて 夜には九夜ココノヨ 日には十日トウカを
と詠って答えたので、ヤマトタケルはたいそう褒めて国造に任じました。
 
信濃で信濃坂の神を平定
 古事記では、ヤマトタケルは信濃へ入り信濃坂シナノノサカ(現在の長野県下伊那郡那智村と木曽郡山口村の境辺り)で信濃坂の神を平定し、尾張国へ出て、先に結婚の約束をしたミヤズヒメの許へと行ったと、簡単に触れてあるだけですが、一方、日本書紀では、かなりの分量の記載があります。
 この国は山高く谷幽フカシ。翠アオい嶺が幾重にも重なって杖を使っても登れない。巌イワが険しいので、馬も頓轡ナズミ(立ち止まっ)てしまって進まない。ヤマトタケルは疲れて山中で食事をしていると山の神がヤマトタケルを苦しめようとして、白鹿になって現れたので、一つの蒜ヒル(足柄のところで紹介済み ニンニクと言われる。臭いに厄除けの能力があるとされる)を白鹿に弾くと目に当たって死にました。その後、ヤマトタケルが道に迷って困っていると、白い狗イヌがやって来て嚮導キョウドウ(道案内)、無事、美濃に出ることができました。古事記の足柄での記載とそっくりです。
 以前は、信濃坂を越える人は神の息を浴びて体が弱り伏せることが多かったけれど、白鹿が死んでからは蒜を噛んで越えると、人も牛も馬も神の息に中アたらなくなったと記しています。
 
ミヤズヒメとの結婚
 ミヤズヒメはヤマトタケルへの食事を献上し酒を酌んだのですが、その際、ミヤズヒメの衣服の裾に月経の血がついていたので、ヤマトタケルはその月経の血を見て詠いました。
  ひさかたの 天の香具山 鋭喧トカマに さ渡る鵠クビ 弱細ヒハボソ 撓タワや腕ガヒナを 枕かむとは 我アレはすれど さ寝むとは 我アレは思へど 何が著ケせる 襲オスヒの裾スソに 月立ちにけり
 意味は、天の香具山の上を渡る白鳥よ、その細長い首のようにか弱い腕を枕にしたい、一緒にと寝たいと思うのだが、あなたの衣服の裾に月が立ってしまったなあ
といったところでしょうか。月を経る、と月経が掛詞になっているようですね。
 ミヤズヒメが答へて
  高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経行く 諾ウベな諾ウベな 君待ちがたに 我が著せる 襲オスヒの裾に 月立たなむよ
と詠みました。
 意味は、日の神の御子・わたしの大君よ、年が経てば月も経ましょう。そうとも、そうとも、あなたを待ちきれなくて、わたしの衣服の裾に月が立ちました。
といったところでしょうか。
 そして二人は結婚しました。何か月か後、ヤマトタケルは持っていたクサナギノツルギをミヤズヒメの許に置いて伊服岐の山(伊吹山 イブキヤマ 標高一三七七メートル)の神を、討ち取りに行きました。でも、これが大失敗だったのです。
 古事記と日本書紀を比較しながら読んでみますと、概ね同様の内容が記述されています。
 日本書紀の方が詳しいので、それに従って紹介しましょう。
 イブキヤマに荒ぶる神がいると聞いたヤマトタケルは、剣を持たずに素手で退治するつもりで出向きましたところ、そこでは大蛇オロチ(古事記では牛ほど大きいサイズの白い猪になっています)が道を邪魔していました。ヤマトタケルは、これは、ただの山の神の使者に違いないと思って、山の神・主神カムザネを退治してから還りに大蛇(大猪)を退治すればいい、と考え無視して進みました。でも、実は、その主神が大蛇(大猪)に化けていたのです。蔑ろにされた主神は怒って、雹を降らせたり、霧をかけたりして呪いましたので、ヤマトタケルは、道に迷うだけでなく、意識が遠のく感じになりました。でも、白い狛が現れて道案内をしてくれた御蔭でやっと戻ることが出来ました。山の下に泉があって、その水を飲むと酔いが覚めたので、この泉を居醒泉イサメガルというとあります。現在でも滋賀県米原市醒井の加茂神社に名水が湧き出る泉があり、ここのことでしょうね。
 ヤマトタケルは、この頃から痛身ナヤミマスコトを発症、やっと尾張へ帰りましたものの、何故かミヤズヒメの家には入らず伊勢へ向かいました。
 
当芸野タギノで
 古事記では、当芸野に至った時、「吾が心、恒は虚ソラより翔り行かむと念ひきに、今吾が足得歩まず、たぎたぎしくなりぬ〈私の心は、平常のように空を翔けて行きたいに、今は歩くことさえできない。なんとも、不満でいっぱいだ(たぎたぎしい、はかどらないの意)」と言いました。それで、この地を当芸野タギノという、とあります。現在のどこなのか不明です。
 日本書紀には記載はありません。
 
杖衝坂ツエツキザカで
 少し進んだところで、ヤマトタケルは疲労困憊。杖をついて、やっと歩くようになったので、その地を杖衝坂と呼ぶようになった、とあります。
 この分も日本書紀には触れられていませんし、現在のどこなのかも不明です。
 
尾津浜オツノハマの一本松 置き忘れていた剣
 ヤマトタケルは東国に向かった時、オツノハマで食事をしましたが、そこの一本松の下に剣を置いたことがあり、忘れていたのですが、ここに到着してみると、その剣がまだありました。そこで歌を歌いました。
  尾張に直タダに向ムカへる 一つ松あはれ 一つ松 人にありせば 衣キヌ着せましを 太刀タチ佩ハけましを
 歌の意味は、尾張に向けて真直ぐに生えている一本松よ もしも人間なら服を着せ、太刀を佩かせてやるのになあ
といったところでしょうか。
 古事記でも、同様の記述がありますが、少しばかり異なっています。地名は尾津前オツノサキとなっており、また、その時詠んだ歌も、次のとおりです。
  尾張に直に向へる 尾津オツの崎なる 一つ松 あせを
 ここで、「あせを」の意味ですが、よく分かりません。一説では「あせ」は「吾兄」で「吾が兄よ」か、「吾が夫よ」ではないか、としています。
 なお、尾津は三重県桑名郡多度町辺りとされているようです。
 
三重で
  ヤマトタケルは三重村へ至り、「私の足は曲がってしまった。まるで曲がり餅のようだ。ああ、疲れた」と言いました。そこで、この地を三重というとあります。
 
能煩野ノボノで
  更に進んで能煩野)に至り、大和国を偲んで歌を詠みました。
  倭ヤマトは 国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭ヤマトし うるはし 
 この意味は、大和はいいところだ 山々が垣根のように幾重にも重なっている 大和は美しい
といったところでしょうか。この歌、どこかで読んだ記憶があり、調べてみると、景行天皇が詠んだとされる歌でした。父を思いだしたのでしょうか。決してヤマトタケルのオリジナルではありません。
 更に、大和の国を偲んで、もう一首
  命の全マタけむ人はたたみこも平群ヘグリの山のくま白梼シタカシが葉をうすに刺せ その子
 この意味は、そこに居る元気な子供よ 平群の山のくま樫(シラカシ)の葉を 髪に挿しなさい
といったところでしょうか。
 なお、ノボノは、現在の三重県鈴鹿市加佐登町辺りとも、三重県亀山市能褒野町辺りとも、比定されているようですが、定かではありません。
 
 再度伊勢神宮に参拝 景行天皇に使者を遣わして復命 崩御
 日本書紀によりますと、能褒野ノボノ(古事記と充てた字は異なります。これは他の部分でもよくあることです)到着後も、痛みは治まりませんでした。蝦夷の俘囚(捕虜)を伊勢神宮に献上する一方、吉備武彦キビノタケヒコを派遣し景行天皇に報告しました。
 ヤマトタケルの報告の言葉は、原文が「臣受命天朝 遠征東夷 則被神恩 頼皇威而叛者伏罪 荒神自調 是以 卷甲戢戈 愷悌還之冀曷日曷時 復命天朝 然 天命忽至 隙駟難停 是以 獨臥曠野 無誰語之 豈惜身亡唯愁不面」
 自分流に訳しますと「臣(ヤツカレ 僕)は天朝(ミカド)から拝命し、東夷(東国異民族)を征伐しました。神の恩恵を受け、かつ天皇の威イキオイを得て、叛く者は罪しましたし、一方、荒ぶる神はおのずと従いました。これをもって、甲冑を巻き、矛ホコを納めて、無事帰還いたしました。いつの日にか天朝に復命(命令に対する報告)したいと願っていますが、天命が忽ち至り隙駟 (ヒノアシ 四頭立ての馬車)止まり難しです(死期が近い、の意)。たった一人荒野に臥して語る人もありません。身の亡びることをどうして惜しみましょうや。決して惜しんではおりません。ただ、天朝にお会いできないのを憂えるだけです」
 ヤマトタケルはここで「崩御」しました。時に年齢は三〇歳でした。
 因みに、日本書紀では崩御という語は、天皇に限って充てられていますが、ヤマトタケルの場合は、この崩御の語が充てられています。後に、その墳墓に「陵」の語が充てられているのと同様、将に天皇扱いです。
 
ヤマトタケル崩御直前のこと
 古事記では、ヤマトタケルの崩御の直前のことが、もう少し詳しく記述されています。
 経時的には遡るようになりますが、紹介させていただきます。
 ヤマトタケルは詠みました。
  愛しけやし 我家の方よ 雲居クモイ立ち来も
 この意味は、愛しい我が家の方向に雲が立っている。ああ、愛しいなあ。
といったところでしょうか。
 この歌を詠んだ直後に、病甚急になりました。
  嬢子オトメの 床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや
 この意味は、乙女(ミヤズヒメのこと)の床に置いてきた剣の太刀 どうなったろうか ああ、あの太刀は
といったところでしょうか。
 詠み終わると直ぐ亡くなってしまいました。周りの者が早馬を走らせて、大和に報告したとあります。
 
景行天皇 「能褒野陵」に葬る
 日本書紀に戻りましょう。景行天皇はヤマトタケルの死を聞いて、寝込み、食事しても味がなく、昼夜を通してむせび泣く日々でした。そして、曰く「我が子、小碓王は昔、熊襲が叛いた日は、未だに総角アゲマキをしていないほどの子供だったのに、長く征伐に加わり、常々朕の左右にあって、朕の及ばぬところを補った。東夷が騒動を起こした際には、討つ者がなかったので、愛を忍んで敢えて賊の境に入らせた。一日も小碓王のことを顧みない日は無かった。朝夕さすらい、帰る日を待って佇んでいた。朕のどこに禍があろうか。何の罪があろうか。思いもかけず小碓王は亡くなってしまった。これ以後、誰と与して鴻業(大きな事業)を成し遂げようか」
 百寮(官僚)に命じて、伊勢国の能褒野陵に葬りました。
 
景行天皇 白鳥陵に衣冠を葬る
 能褒野に葬った時、ヤマトタケルは白鳥シラトリになって、陵から出て、倭国ヤマトノクニを目指して飛んでいきました。群臣等が棺ヒツギを開いて見ると、明衣ミソ(死装束)だけあって屍骨はありませんでした。使者を遣して白鳥を追い探しましたところ、大和の琴弾原コトヒキノハラに留まりましたので、そこに陵を造りました。白鳥はさらに飛んで河内カウチの旧市邑フルイチノムラに留まりました(古事記では河内国志幾シキと記載されていますが、それ以外はほぼ同じです)。その土地にまた陵を造りました。それで人々は、この三つの陵を名付けて白鳥陵シラトリノミサザキと呼びました。しかし、白鳥は天高く飛んで昇ってしまったので、仕方なく遺体でなく衣冠を葬りました。よって、その功名を録ツタえるため、武部タケルベを定めた、とあります。武人集団のことでしょう。
 景行天皇が踐祚センソ四三年のことです。
 
 ここで、少し寄り道をしたいと思います。実は、記紀に出ている年齢をみますと、随分長寿の天皇が多くあります。私は、当初、記紀は内外に日本の国や天皇家が古い歴史を持っていることを誇示する目的で編纂されたものにつき、年数や年齢を過剰に表記しているのだろう、と独りよがりで考えていました。
 一般には、日本書紀は外国向け、主として中国向けに、一方、古事記は国内向けに編纂されたとされていることを踏まえて、そう考えていたのです。
 でも、真実はそうでなく、中国の史書・魏志倭人伝に、日本では年を数えるに春と秋の二回歳をとる風習がある旨の記載があるそうで、私の勝手な解釈はどうやら誤りかと思います。だから、年数や年齢は半分に読めばいいのかな。そんなように考えています。これも、真偽のほどは定かでありません。従って、この景行天皇踐祚四三年も半分に読むのがいいのかもしれません
 
なづきの田の稲幹に
 次は、経時的にまた前後しますが、古事記の記述です。ヤマトタケルの死を知って、大和にいたヤマトタケルの妻達と子供達は、皆、大和からヤマトタケルが亡くなった場所に来て墓をつくって、その周囲の田を這い回り泣いて歌いました。
  なづきの田の 稲幹イナガラに 稲幹に 葡ハひ廻モトホろふ 野老蔓トコロヅラ
 意味は、稲茎にトコロイモの蔓が絡みつくように、私たちも悲しみの余り絡みつきたいのよ
いったところでしょうか。
 先ほど、日本書紀の記述で、ヤマトタケルが死んだ後、白鳥になって飛び立ったという話を紹介しました。古事記にも同様の記述があります。
 この歌だけでなく、次に記します八尋白智鳥ヤヒロシロチドリの話は日本書紀には出ていません。
 
八尋白智鳥
 ヤマトタケルの魂は大きな白い鳥になって空を飛び、海へと飛んで行きました。后、皇子や皇女達は、竹の切り株で足を切っても、その痛みを忘れて泣いて追いかけました。
 古代人は白い鳥を「魂」の姿と考えていたのではないかと、記載した書物がありました。
 
浅小篠原腰泥ナヅむ
 この分も、古事記にしか記載がありません。
 妃が歌いました。
  浅小篠原アサシノハラ 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな
  海が行けば 腰なづむ 大河原の 植ゑ草 海がはいさよふ
  浜つ千鳥チドリ 浜よは行かず 礒イソ伝ヅタふ
 意味は、低い篠の原っぱを進もうとしても絡み付いて進めない 空を飛ぶことも出来ないし、歩いていくのも歩きにくい 海に行こうとするが、それも腰に水が浸かって進めない 河原に生える水草のように海では進めない 浜辺の千鳥は浜辺ではなく磯を歩く
といったところでしょうか。
 書き洩らしましたが、ミヤズヒメはヤマトタケルが最後まで心配していたクサナギノツルギを尾張の熱田神宮に奉納しました。ここで付記しておきます。
 
東国平定に同行した膳夫カシワデ(料理人)
 日本書紀には一切出ていませんが、古事記には、急に次のような話が出てきます。
 名は七拳脛ナナツカハギ、恒に膳夫として従ひ仕へ奉りき。久米直の祖なり
 カシワデとは料理人。料理はただ単に食事するだけでなく、神にお供えして世の平穏を祈るという意味で重要視されていたからしょうか。
 
ヤマトタケルの死後のこと
 古事記では、この後、ヤマトタケルの子息や末裔について触れているにすぎませんが、一方、日本書紀では、まだまだ多くのことを記載しております。ただ、本稿はヤマトタケルについて記述するのが目的でしたので、ここでは、概略だけを記すに止めたいと考えています。
 古事記に従って記載しますと、フタジノイリビメとの間の子が帯中津日子命タラシナカツヒコ〈仲哀天皇)、オトタチバナヒメとの間の子がワカタケル、フタジヒメとの間の子がイナヨリワケ、オオキビタケヒメとの間の子がタケカイコ、ククマモリヒメとの間の子がアシカガミワケ、母親不詳の子がオキナガタワケで、以上子供は合わせて六柱とあります。
 このうちタラシナカツヒコは、景行天皇の次を継いだ成務天皇のあとに、即位して仲哀天皇となりました。
 日本書紀では、名称や充ててある漢字はやや異なりますが、概ね同じです。末裔のついても記載がありますが割愛いたします。
 
 その後、景行天皇五二年、ヤマトタケルの生母で皇后であった、イナビノオオイラツメが亡くなり、ヤサカノイリビメが立后しました。
 また、景行天皇は「冀欲巡狩小碓王所平之国(ヤマトタケルの平定した国を巡狩したい)」と言って東国を巡りました。その際の出来事も簡単に触れられています。
 そこでは、蝦夷の人たちを決して敵視するのでなく、ムードとしては友好的で、平安時代の敵視政策とは全く異なるものを感じます。先に私の疑問のところで記しましたが、ヤマトタケルは、いわゆる征伐や平定という語に相応しくない、和平交渉をしたのではないか、そんな風に感じました。
 景行天皇は即位六〇年、高穴穂宮で崩御しました。時に一〇六歳。先に記しましたとおり、一〇六歳は半分に読み替えるのが適当かと思われます。陵は天理市渋谷町の三輪山の北にあるようです。それを受けて、ヤサカノイリヒメの子・若帯日子命ワカタラシヒコが第一三代成務天皇となって即位し、武内宿禰タケノウチノスクネを大臣として重用、版図を整備したと伝わっています。皇子・皇女のなかった成務天皇の崩御を受けて、ヤマトタケルの子・帯中津日子タラシナカツヒコが第一四代仲哀天皇となって天下を治めました。
 
終わりに
 素人の拙稿に最後までお付き合いいただき誠に有難うございました。心から厚く御礼を申し上げます。終わりにあたりまして、武田祐吉著「古事記」、「日本神話・神社まとめnihonsinwa.com)」などを参考にさせていただいたことを付記して、謝意を表します。
 
補遺
 その後、播磨風土記の記述を調べてみました。風土記そのものを読むことは叶いませんでしたので、ネットに掲載されたものを二次的に読ませていただいた(いわゆる孫引き)に過ぎません。
 その結果、次の二件だけが記載されているようでした。
 一つは、本稿でも紹介させていただいた結婚の際のことで、原文のまま転載させていただきます。
大帯日子命(景行天皇)と印南別嬢(播磨稲日大郎姫)
 八咫剣・八咫勾・麻布都鏡で正装した大帯日子命が印南別嬢へ妻問いに明石郡までやってきたが、それを聞いた印南別嬢は驚いて南毘都麻島に隠れてしまった。賀古松原で別嬢を探していると、海に向かって吠えている犬を見つけた。その犬が別嬢の犬であることを知り、天皇は海を渡った。妻がなびた(隠れた)島であるので南毘都麻島(なびつまのしま)と呼ばれるようになった。別嬢と会うことができた天皇は求婚し、夫婦となった。当時は求婚された女性が隠れる風習・習俗があった。出雲風土記にも同様の記載がある。
もう一件は、生母イナビノオオイラツメの死去と日岡御陵のことでした。これも原文のまま転載させていただきます。
印南別嬢(播磨稲日大郎姫)死去と墳墓
 年月が過ぎ、別嬢が亡くなって日岡に葬られることになった。遺骸を船に乗せ印南川(加古川)を渡らせていると突風で遺骸が川の中に流されてしまった。遺骸探したが見つからず、見つかった遺品の匣・褶を埋葬し墓としたため、比礼墓(日岡陵)と呼ばれるようになった。天皇は悲しみ、「この川の物は食べない」と言った。これにより、この川の鮎は贄として出されなくなった。
 以上二件のほかに、播磨風土記には、どうやら記載がないようです。ただ、播磨風土記も成立は八世紀初め頃とされており、約五〇〇年も前のことを記述しているわけですから、出典となる古文書でもあれば別ですが、そうでなければ、古伝承によるものを記述したに過ぎないと考えざるを得ないと思います。


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