父が癌で死んだ話
2020年3月12日。
3月10日の透析から急激に体調が悪化していた父が、二日後の午前10時17分、ついに息を引き取った。
2019年の十月に、父が癌と診断された日から、私はネットの海をやたらとうろついて、癌患者がどのように過ごしているかの情報を求め続けてきた。
何より「頑張るぞ」とか「治して見せる」とか「奇跡的に治った話」ではなく、苦痛やトラブルについての情報が欲しかった。
父の苦しみに対応する覚悟が欲しかったのだ。
一番不安で、一番苦しいのは父だ。周りにいる人間が、父の体調不良でいちいち慌てふためいているわけにはいかない。
「吐血をする」と分かっていれば、父が「吐き気がする」と言い出した時に「吐き気止めでも飲んでおけば」というようなトンチキはやらかさない。
だから私も、こうしてnoteに書いておくことにした。
父は医療と薬に対して常に不信感を持っている人で、「自己判断」を愛してやまず、痛み止めも自分の裁量で調整したがる人だった。
「ある程度痛いのは仕方がない」といって、癌の痛みを我慢して、医療用麻薬を「そんなもの飲みたくない」というような人だった。
けれど死の一週間ほど前から、どうしても痛みが我慢できず、「オキノーム」という医療用麻薬を服用するようになった。
これはレスキューと呼ばれていて、痛いときに飲むとすぐに利くという薬だ。一時間ごとに追加で飲んでもよいことになっており、父は「全然きかない」と文句を言っていたが、量を増やすと少し楽になったようだ。なおこの薬は「一時間ごとにいくら飲んでもよい」ということになっている。
「薬の効き目のピークと、痛みのピークが重なるように服用するのがよい」というのが、痛み止めの原則だという。
なので「痛みがきそうだな」というときに、予防的に飲むのもありだという。父は痛みが絶頂にくると仕方なく飲むというようなやり方をしたがったので、何かと痛み止めのききは悪かった。
それでも、薬にはかなり助けられた。
「まだ痛いけど、少し寝られるようになった」
横になると息苦しいので、ここ一カ月ほど父は座ったまま眠っている。
そして痛み止めがきいたといっても、基本的にはまだ痛い。
この「基本的な痛み」を取るために朝昼晩とロキソプロフェンを飲んでいたが、それをオキシコンチンという薬に変えた。
成分は先述の「オキノーム」と同じだと説明をされていた。ロキソプロフェンで胃の調子を崩し、食欲がなかった父は、ロキソプロフェンをやめてオキシコンチンをフラットに飲み始め、痛みが強くなったらオキノームを飲むという形で対応する事に決めた。
それが10月の9日だった。
オキシコンチンを飲み始めた翌日、「下血がある気がする」という父の言葉で、透析病院で血液検査をすることになった。
父は一度、癌からの不正出血で生死の境をさまよっている。
「血が出たなら、放射線でもなんでもして止めてもらわないと」
そう言った父に、医師は「胃癌に放射線を再度するというのは、あまり効果がないかもしれない」と説明し、父はそれにいたくショックをうけていた。
父は抗がん剤を嫌っている。
最初の投薬で副作用が強く出たから中止したのだ。
でも、また再開してもいいかもしれないと思い始めていた。少し体調が上向いて、体力がつきつつあったから。
「抗がん剤を拒否してるわけじゃない。でも入院はいやだ。絶対にしたくない」
放射線治療のために入院した父は、退院して在宅療養に切り替え、今は訪問医の先生に週に一度見てもらっている。
訪問とはいえ、ほとんど病院と同じような医療行為をやってもらえるが、放射線やら抗がん剤やらは、設備のある病院に行くしかない。
抗がん剤は基本、通院でできるものだけど、最初の数日は入院というのが一般的だ。
つまり「以前かかっていた病院で抗がん剤を再開する」なら、もしかしたら入院なしで抗がん剤を再開できるかもしれない。
でも、数か月で父の体の状態も随分と変わったので、結局再入院は必要なのかもしれない。それなら別の病院に入院したい、前の病院は嫌いだ。
そのようなことを、父は恨み言のように話した。
検査の結果、血液量はさほど問題なかった。処方された止血剤(飲む止血剤がある)のおかげだろうか。
ただ、そのほかの数値はどれも非常に悪かった。
特に肝臓の数値が悪く、「癌が肝臓に転移しているかもしれない」と説明された。この可能性は、一か月ほど前に肺のレントゲンを撮った時にも「少し影がある」と言われていたので、さほど驚きはしなかった。
けれど父に数値の話はできない。それほど悪い数値だった。
その日、父は透析から帰ってくる途中、ひどい吐き気に苦しめられていた。
なにせオキシコンチンを処方された翌日だったので、「とんでもない薬を処方しやがって」と父は悪態をついていた。
吐き気がひどく、痛み止めも飲めない。
その日の夜、父は一晩中リビングのリクライニングチェアに座り、ベッドに移動できずに前後に揺れていた。
夜中、痛みが耐えがたく、吐き気をこらえてレスキューのオキノームを続けて飲んだが、結局父は朝までベッドに移動しなかった。苦しくて立ち上がれないほどだったのかもしれない。
「車椅子にうつってくれさえくれれば、ベッドまで連れていけるよ」
そう言っても「ここにいたい」とリビングから動かなかった。
翌朝7時半。
父に付き添ってリビングにいた母が、「お父さんが死んじゃう」と私に言いに来た。
私が訪問医に電話をかけ、昨晩からの状況を説明すると三十分ほどで駆けつけてくれ、父の様子をみてくれる。
血液検査の結果は、透析病院から訪問医にも伝わっている。まずい状況であることは全員が分かっていた・
「痛いですか? どのあたりが痛いですか?」
医師は大きな声で、父の肩に触れて問いかけた。
「痛くはないですけど」
質問の意味を考えるような間を開けて、父はダイニングテーブルにつっぷするようにして答えた。
一晩中「いたい、いたい、いたい」と呟ていたので痛くないはずはないのだけれど、父はこれまでも「痛い?」と聞いても「痛くはない」と答えたりしていた。
けれど今日は、追加で一言あった。
「痛いというか、死んじゃう」
身の置き所がない辛さなのだと思う。
痛みもあるのだと思う。
リクライニングチェアに体をあずけ、ぐったりしていたかと思うと、ふと「いたたたた」といって体を起こす。
それを十分程度の間隔でずっと繰り返している。
「姫路行くんだから、痛いのは薬で治してもらわないとね」
内心で「まずい状況だぞ」と思いながら、私はなんてことがないような口調で言った。
3月の後半に、桜が咲いたら姫路城を見に行く計画を立てていた。
父が「死ぬ前に一度は見ておきたいなぁ」と急にぽつりと言ったので、電動車いすなどを手配していく準備を進めていたところだった。
「姫路? 無理無理無理」
父は慌てたように答える。
二日前くらいから「無理かもなぁ」とは言っていたけど、やっぱり今も無理だと思っているらしい。
でも、どんなに反応が遅くても、私が何を言っているかはちゃんと理解できているんだなと、そこは少し安心した。
口から薬を飲まなくてすむように、定期的に自働で薬剤を注入する医療機器を訪問医が用意してくれた。
痛み止めと吐き気止めの混合剤で、この吐き気止めは少し鎮静作用もあるという。
「痛み止めの注射をしますので、胸に針をさしてもいいですか?」
質問に父は答えられない。
しっかりと目は開いている。肩を叩くと「何?」というような顔で医師を見る。
それでもなぜか質問に答えることができない。
ほんのさっきは「姫路」に「無理」と答えることができたのに。
たぶん、父の答えは「嫌だ」なのだったのではないか。
父は点滴のようなものが本当に嫌いだから。
だけど「いたたたた」という言葉は続く。
家族の判断で、胸に皮下注射の針を入れてもらった。
持続的に痛み止めを入れ続ける機械は、痛みが強い時はボタンを押すことで、十五分に一度、一時間分を先送りで投入できる。
痛みを取るため、医師が最初に六回分を一気に投与する。
「ベッドに戻った方がいいと思います」
医師の言葉はもっともだ。
私も是非そうしたい。
医師と一緒に父を説得してみたが、父は立ち上がらない。
車椅子を近くに持って行っても「いやぁ」と言うだけで動かない。
「お父さん、でも、もう一晩そこに座ってるんだよ?」
私が言うと、父は不思議そうに私を見た。
「え? そう?」
父は時間の感覚を失っていた。
脳の機能が落ちているのは明らかだった。
でもこれに答えられるなら「注射していい?」って質問にも答えられたのと違いますか、お父さん。
まあいいんだけども。
注射の薬もなかなか効かず、訪問医が帰った後、四回ほど薬を先送りで投入した。
三時間もするとようやく痛みが少し落ち着いたのか、父が「いたいいたいいたい」と呟く頻度が下がる。
そうこうするうちに、昼前に訪問の看護師さんがやってきた。
在宅医療は本当に、入れ替わり立ち代わりいろんな人がやってくる。
父はまだリクライニングチェアの上から動けずにいる。
この明るいベテランの看護師さんを、父はとても好きだったのだけど、彼女が「ベッドに戻りましょう」といっても「いやぁ」とやんわり拒絶する。
昨夜からずっとこうだ。
血中の酸素濃度が低く、看護師さんが血圧を測ると上が60で下が40。
私は耳を疑った。
血圧が上80を切ったら「危篤」と言ってもいい状態だ。
脳にはもう十分な血液量が供給されていない事になる。
腕に触っても脈は触れない。時間の感覚を失うわけだ。父は半分気を失っているような状態だ。
透析に使っているシャント部分に触れると、いつもよりずいぶん弱々しいながら、血流が感じられた。
「せめてステロイドだけでも飲んだ方がいい」
看護師さんがそういうので、小さな粒のステロイドを父に飲ませるミッションがはじまった。
まずは一錠口に入れ、水を含ませると飲み込むが、水だけ飲んで薬が飲めない。
二回ほど繰り返したが無理だったので、薬を潰して粉状にし、ハチミツとコーンスターチと水で作ったゼリーに混ぜた。
口元に持っていくも「いやあ」と言って薬を飲まない。
父はこういう「謎のゼリー」的なものを飲むのも嫌がる人なのだ。
「じゃあこの、粉になった薬なら普通に飲める? 粉薬は昨日の夜まで飲んでたよね?」
聞いてみたが父の反応は薄い。
朝と比べても反応が明確に鈍くなっている。
その場にいる誰の事も見ておらず、どこか遠くを見ているようだ。
呼びかけには反応するし、なんとなく返事もする。
だけど全体的に寝言のように感じられた。
眠っているけど、声を掛けられると夢うつつに返事をする。そういう状態に感じられた。
「今のうちにベッドに戻した方がいいです」
「もう自力じゃ車椅子にうつれないし、リクライニングチェアごと運んでいこう」
そういうわけで、リクライニングチェアごと父をベッドサイドまで運んだ。
痛いのか、具合が悪いのか、辛いのか、父はベッドにうつるのを嫌がり続ける。
父は九十キロを超える巨漢だ。胃がんを患っても体重はさほど減らなかった。
父は女性の看護師さんには自分を抱えられないと思っており、体重をあずけるのを極端に嫌がる。
立ち上がらせようとするも、父の拒絶もあって立ち往生。
こうなっては男手が頼りになるので、兄を召喚することになった。
兄と看護師さんと私で力を合わせ、どうにか父を介護ベッドに移すことに成功したが、起き上がっていないと辛いようなので、ベッドをおこして背中にクッションをやたらと詰める。
「いたいいたいいたい」
ベッドで体を起こしていると腹圧がかかるのか、父がまた痛がり出したので再度薬を先送りした。
召喚した兄は、本来ならそのまま仕事に出かけ、翌日の夕方まで職場にいる予定だったが、看護師さんの「今日か明日だと思う」という言葉で休むことに決めたようだ。
今日か明日、父が死ぬかもしれない。そういう状況だ。
最高血圧が60だと、とても透析は受けられない。
翌日は透析の予定だったけれど、すべて断りの連絡を入れた。
透析をやめれば一週間で死ぬ。
それが透析患者だけれど、ここまでになったら透析しようがしまいが関係なく死ぬ。
「透析できなくなった時が終わり」
そんな風に言われていたけど、どうも私は、その意味をよく理解できていなかったようだ。
血圧が下がって透析ができない状態になったら、尿毒症なんかで一週間後に死ぬ、というわけじゃない。
透析ができなくなるほど血圧が下がれば、すでに持って一日か二日の状態、ということだ。
本当はこの日、レンタル予定の電動車椅子を持ってきてもらい、試乗する予定だったのだけど、それもキャンセルしてもらった。
夜にまた訪問医が来てくれることになっている。
それまで母をいったん休ませ、私と兄で父を見守った。
父は相変わらず、十分ほど目を閉じては「はっ……!」と目を覚まし、またすぐに目を閉じるというようなことを繰り返している。
とはいえ、このころになると目を覚ました時の「いたいいたいいたい」と呟く声は聞こえなくなっていた。
ただ時々目を覚ますので、ささっと駆けつけて水を飲ませたりする。
起き上がろうとするので、体を起こして背中をさすってあげたりする。
「水飲む? 飲める?」
口にストローをいれてあげると一口吸い上げ、十秒後くらいに飲み込む。
しかし睡眠と覚醒を繰り返すごとに、ストローから自力で水が吸えなくなり、最後に水を含ませたときはうまくのみ込めずにせき込んだので、「ここが限界だ」と感じて水を飲ませるのを諦めた。
せき込む父を前傾姿勢にさせたとき、「だめだぁ」と父が弱々しく言った。
何がダメなのかはわからないけど、何もかもがダメな感じなのは分かる。
そんな風になったのが、午後の二時半。
少し背名に入れているクッションを組み替えると、寝心地が安定したのか、父がいびきをかいて寝るようになった。
三十分くらい眠って、一分くらい目を覚ます。
そんなサイクルになりつつあった。
目を覚ますと言っても「はっ!」となって、軽く腕をさまよわせる程度。
痛いのか、かゆいのか、違和感があるのか、やたらと顔を気にするようなしぐさがあった。
服が邪魔なのか、お腹を隠してもすぐにむき出しにしてしまう。暑いのかと思って窓を開けた。ちなみに私は普通に寒い気温だ。
一瞬体を起こそうとするけれど、私が手伝って体を起こすともう寝ている。
そういうレベルの覚醒を、覚醒と呼べるのだろうかと思いながら、父が覚醒したら何かとあれこれ話しかけるようにする。
しかしすでに反応はないと言っても過言ではないレベル。
鎮静剤がきいているんだろうか。
ケアマネージャーが様子を見にやってくる。
何か対応したような気がするけれど、なぜかあまり覚えていない。
「痛くてずっと眠れなかったんですけど、やっと眠れてるみたいです」
そんな話をしたような気がする。
ケアマネというのは、一か月に一度は様子をみにくるものなのだけど、父の状態がよくないので「一週間に一度見に来ます」というような話をしたらしいと母が言っていた。
夜七時半に、訪問医が様子を見にやってくる。
そのころには父もだいぶ落ち着いていたけれど、時々顔をしかめたり、うでをさまよわせたりするので「まだちょっと痛いのかもしれません」と伝えた。
医師は薬を少し濃くしてくれた。
おもむろに「これから起こる事」というような、看取りの覚悟的なパンフを渡される。
とても言いにくそうに「この状態になったら、一日か二日だと思います」と伝えられる。
私は聞いた。
「今夜という可能性もありますか」
「十分にあり得ると思います」
「この状態から回復する可能性ってありますかね」
「ないとは言い切れませんが、僕は見たことはありません」
父は今や、口を開きっぱなしにして眠っている。
口で大きく何回か呼吸して、十秒程度の無呼吸。
そして呼吸を再開する。
閉じたり開いたりしていたまぶたは、ほとんどの時間開いているようになりつつあった。
「お父さん、起きてるの?」
声をかけても反応は全くない。
まぶたを閉じてあげると、そのまま閉じるけど、しばらくすると開いている。
瞼は麻痺すると、閉じずに開きっぱなしになるのだ。
「瞳が渇くよ」と
そう言って目を閉じさせてあげる。父は涙を流している。
時々、思い出したように「あぁ」とか「はっ」とか、覚醒のような声を出す。
でも次の瞬間には眠っている。
寝ながらうめいているような感じ。
肌にふれると、やたらとしっとりとしていた。
汗をかいていたのかもしれない。
温めたタオルで、顔や体、腕や足を軽くふいてあげる。
暑いんだろうかと思って、さらにたくさん窓を開けて風を通したりする。家の中はほぼ外気温と同じになる。
乾いた唇にリップクリームを塗ったりする。
ハチミツを混ぜた水を脱脂綿に含ませて、口の中を湿らせてあげたりする。
全部無反応。
いや本当に無反応だったんだろうか。
瞳はなんとなく私を追っていたような気がする。
誰かを見つけようとしていたような気もする。
それともこれはほとんど意識がない人の機械的な反応に、何か意味を感じようとしていただけなんだろうか。
母は「氷のかけらを少し入れてあげたら、ゆっくり飲みこんだ」と言っていた。
それじゃあ意識はあったんだろうか。
医者が帰るころには、父は覚醒的な行動をほとんどとらなくなった。
ずっと寝っぱなし。
口の中はからからで、あごは弛緩して落ちている。
「この吐き気止めは、意識を失うような強い鎮静効果はないので、血圧の低下が原因だと思われます」
訪問医はそんな風に言っていた。
そりゃ血圧が上60しかなかったらそうでしょうね。
この時点ではもう血圧は図っていなかったけれど、たぶん上50とかになっていたのじゃなかろうか。
どうして急に、こんなに血圧が下がったんだろう。
血液検査の結果で、特に悪かった肝臓の数値がこれだ。
ASTの上限値が35に対して、161。
ALTの上限値が35に対して、81。
γーGTPの上限が80に対して、586。
このγーGTPというのは、肝臓の解毒作用に関係している。
肝臓が壊れたり胆管が詰まるとこの数値が高くなり、500を超えることはまずないそうだ。
そして父は超えている。
癌が胆管をふさいで、劇症肝炎になったんだろうか。
透析帰りのひどい吐き気は、薬の副作用ではなくて肝臓のせいだったのだと思う。
早朝五時すぎ、前日からほとんど睡眠をとっていなかったので、私は仮眠に入ることにした。
が、五時間寝たところで「今、呼吸が止まった」とたたき起こされた。
10時18分。
母は「17分から息してない」という。
呼吸が止まって一分しか経っていない父の体は、まだ温かい。
呼びかけたり体をゆすったりしたけど反応はないという。
なんで私が仮眠してるときに死ぬんだ父よ。
シャントのある腕の脈にふれてみた。
この腕は、いつもごうごうと、恐ろしい勢いで血が流れている。
「脈」というか「水脈じゃん」というような血液の流れを感じられる腕だった。あまりにも血の流れが速すぎて、触るのが怖いほどだった。
それが、しんと静まり返っている。
心臓が動いていない証拠だった。
そこから更に五分がたち、十分たったころ、訪問医に「十分前に呼吸が止りました」と連絡を入れた。
医師はその日、朝の7時半にも父の様子を見に来ている。
対応していた母は「今日の日中だと思います」と言われていたという。
下顎呼吸という、死の直前に特徴的な呼吸がある。
苦しげに口を動かし、「はあ、はあ、はあ」と喘ぐように息をする。
この呼吸をするようになると、数時間で逝くことがほとんどだという。
苦しんでいるように見えるけど、実際にここまで脳の機能が低下していれば苦しみを感じることはないのだそうだ。
医師はその時も、さらに薬を増やしてくれたようだ。
そしてその三時間後、また我が家にやってきて父の死亡診断書を作成してくれた。
11日の朝から12の昼までのあいだに、四回も同じ家にきてくれたことになる。
訪問医は大変だ。
いつもの訪問看護の方が来てくれた。
父はこの人が好きだったので、エンジェルケアというものもこの方にしてもらった。
体をきれいにふきあげて、髪を洗い、体の内容物が出ないように詰め物をして、服を着せ、死に化粧を施す。
眼鏡をかけてあげると、本当に眠っているだけのように見える。
死に顔は安らかだった。
本当に安楽な死に際だったのか私にはわからないけれど、死の間際に、母は父の腕をさすり、顔をなで、声をかけていたというので、孤独ではなかったと思う。
葬儀屋に連絡。
こうして私の父が死んだ。
享年60歳。透析を始めてから八年くらい。とてもよく頑張った。お疲れ様。
写真を取られることが嫌いな父だったけど、私がとった笑顔の写真が一枚だけ残っていた。箱根に旅行した時、大好きなカメラをもって、カメラバックを抱えていた。思えばこの箱根旅行が、父が最後に自分の脚で歩き回れた、唯一旅行らしい旅行だった。
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