お金なんて
合わないと判断したバイトを半年で辞めてから2ヶ月が経った。代わりのバイトも見つからず今の月収は掛け持ちしていた家庭教師で稼ぐ2万円と交通費として親から支給される1万円の計3万円だ。
交通費の1万円はしっかり消し飛ぶが、実家暮らしのおかげで他の生活費用は昼食代だけ。通信費を負担してもらっている上水道代電気代も払わなくて良いため、稼いだ2万円はほぼ自由に使うことができる。
食費込み月2万円。決して多くは無いが生活に支障が出るほど少なくはない。とはいえ多くもなく毎回昼食代に500円かければそれだけで半分無くなる程度。もはや昼食は嗜好品の域になりつつある。
昼食を買う事すら負担になる状況、限りある金銭リソースを何に対してどう分配していくかをよく考えていかないといけない。よく使うガジェットを新しくしたい、遠くのイベントに参加したい、話題の新商品を食べたい、仲間と連れ立って遊びに行きたい、未来のために投資・貯金をしたい、趣味の物を買い漁りたい、ただ今の空腹を満たしたい等々挙げ始めるとキリがない使い道すべてを天秤にかけ選択を繰り返す。昨日と今日で天秤の傾き方が違う事もあるし思考の最中に切り替わることもある、そんな不安定な天秤を携えて日々を過ごしている。
実質的な貯金がほぼゼロということを除けばこのまま不安定な天秤に選択を任せていても何ら問題は無い。寧ろ選択が不安定な事それ自体が一種の心地良さを孕んでいて何気ない日々に彩りを添えている。
それでも限界に近いリソース管理は単体でストレスになる。腹を満たしつつ趣味にも使い貯金もするなんてことは当然できず、貯金どころか空腹を満たすなら趣味は諦めなければならない状況であり、それははただ生きるためにしか生きていないような虚無感がある。何に対してお金を使うかで生きている意味すら定義されているような窮屈さをも感じている。
心の奥だけはどうにか安定させたくて運用はなるべく「使わされるよりも使う」を意識しているが使える場面が少ないという根本的課題の解決にはならない。回避できる義務はひたすら回避してリソースを温存したとしても始めがそもそも少ないのだからやれることもたかが知れている。どうにもむず痒い。
何をしたところで結局この感情からは定期的な収入に頼っている限り逃れられないのだろう。リソースが増えるほどにとれる選択肢も増え欲の矛先が増える。欲を消しリソースを使わない方向に進むなら待っているのは底なしの虚無、吞まれれば人には戻れない。二律背反に挟まれたくなければ資産の鳥籠を壊すか籠ごと引き摺って飛べるほどの逞しい翼が必要になるだろう。
血肉とします