善人なをもて往生をとぐ…

「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は、「歎異抄」の一節であり、親鸞の「悪人正機」の精神を表したものと思われる。善人ですら救われるのだから、悪人が救われないわけがない。との意味であるそうだが、わかった様なわからない様な…普通に考えたら善人が往生し、悪人は地獄に落ちるものだろう。そうに決まっている。いや、そうであって欲しい。いくら名著だと言われても、これはわからん。わからんものはわからん。「歎異抄」は、私の本棚から消え、リサイクルショップ行きの段ボール箱の奥底で眠らせた。
 しかし、ある日、私の師である東洋•日本思想家の林英臣先生のご著書(心の的を射る人・外す人、博進堂)を読み、知る事になった。そうではなかったのか!と。
 悪人こそ救われるというには理由がある。なぜなら、善人には自分は善人だという思い上がりや慢心がある。その為、人に不寛容だったりする。私は決して善人の類ではないが、ちょっとでも良いことだと思われることをすると慢心し、やってない人に対して厳しくなったりするので、わかる気がする。
 一方で悪人は、自分の罪深さを自覚している。ここが重要で、自分の悪さを自覚していない悪人は、当然救いようが無い。しかし、親鸞が言っている悪人とは自分の悪を自覚している者だということだったのだ。だからこそ、この自覚ある悪人は、懺悔の心や感謝の心を持ち易いということだ。
 なるほど。私は極悪人では無いという自覚はある。さりとて善人でも無く、時々、悪人である。寛容になれる時と不寛容な時。勿論、人間なので同一人物の中に両面が有って当然だが、寛容さが自分の言動に関する善悪の自覚によって左右されることも確かにあると思う。だからと言って、わざわざ悪をやると言うわけでは勿論ないが、どちらにせよ、常に寛容さを失わずに持っていたいと、林先生の本で気付かされた。理想言えば、なるべく悪をやらず、善人でありながら寛容さを失わない人でありたい。   
 段ボール箱の底に沈んでいた「歎異抄」救出し、再び本棚に復活させたのは言うまでもない。

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