見出し画像

鬼滅の刃 無限列車編

今年1番の話題作になった「鬼滅の刃」。
無限列車編は原作の7巻から8巻の映画化。この一巻に満たない話を映画版では、これでもかってほど丁寧に描いている。

始まり方がすごく良くて、お館様こと産屋敷輝哉と奥方が墓場を歩いている。
鬼と戦い、亡くなった鬼殺隊の名前を1人ずつ唱えながら。
本筋ではないが物語に深みを与えるエピソード。原作をただなぞるだけではなく、映画は映画の深みを持たせようとするスタッフの矜持が伝わってくるいいシーン。

映画はアニメ版の最終話である26話の続きから始まる。

鬼滅の刃がいいのは色々理由があるけど個人的好きなのは主人公、炭治郎の人格で、決して人を陥れたり、侮蔑したりしない、一言でいうととてつもなく優しい人だということが、各エピソードを通してよくわかる。

炭治郎が怒るのは自分のことではなく、いつも誰かのため。
その優しさは環境のせいなのか、炭治郎の家族も先祖もとても優しい。
その優しさのおかげで縁壱さんから図らずも技を伝承された竈門家の優しさが無惨と戦う武器となり、みんなを救うこととなった。人に優しくするのは大切。

舞台を大正にしたのは、もののけと人間が共存していた最後の時代として設定されたのではないか。

闇に紛れて人々を恐れさせていた鬼や妖怪は近代化に突き進む時代の狭間で、人々の前から消えていった。夜が明るく、闇が少なくなり物の怪が生きづらくなった時代。

400年続いた封建制から社会が変革し、新たな強者と弱者を産んだ時代。

前の時代から存在している鬼も含め、この時代に生きる鬼たちは弱き者として描いている。

社会から弾かれた弱き人たちが鬼となり人々に復讐していく。一度始まった復讐は、きっかけは忘れられて行動だけが残り、日々を生きるため衝動に身を任せ、自分の命は何を成すべきものなのか分からなくなり、そのため、他の命も軽んじるようになる。

なぜ人を食い、殺すのか。

鬼たちは今際の際に自問して、本当の望みに気づく。物語中、何度も繰り返されるパターンながら、全てのキャラクターのエピソードの質が高く感動する。後悔からの昇華。

原作者は、鬼となった者にも理由があり、生きるためだったと描いている。
生きるのは辛く、悲しいことが多すぎる。
奪われる人生なら奪う側になってしまえばいい。
鬼たちは生きるために奪い、殺した。
自分を守るために。

鬼殺隊は奪われないために力をつけて、その力を誰かを守るために使う。

鬼となるか鬼殺隊となるかは紙一重。

悲しみと絶望の中で、人か鬼か、どちらかに復讐する、その選択の物語。

恨み妬み嫉みに身を任せ、永遠の命と強さを手に入れるか、限りある命を抱えながら、弱くとも託されたものを胸に自分を鍛え、次につなげていくか。
鬼と鬼殺隊は表裏一体の関係。

そのことからも、この物語は決して勧善懲悪の物語ではないと言えると思う。
世の中の、ほとんどの人は鬼と鬼殺隊の戦いは知らない。
それはある種、少数民族と少数民族の戦いであり、一つのマイノリティが駆逐される物語。ファンタジーではあるが、歴史が繰り返してきたこと。
正義は歴史が作る。

「バケモンだって殴った手の方がイタイこともある」

多面的に物事を見ることを学べる「鬼滅の刃」は、少年漫画の正しい系譜の作品。
そして作者が少年漫画が大好きという想いが伝わってくる作品でもあり個人的にはそこが一番好きなとこ。

うしおととら、ジョジョの奇妙な冒険、ドラゴンボール、AKIRA等々の影響を自分のものとして消化し、それらの作品に匹敵する魅力に引き上げた快作。

少年漫画の歴史に残る漫画。

#感想が長い

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?