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呪われた世代

作ること。

その行為には目的や理由がある、

ナイフを作ったのは何かを切るためだし。

服を作ったのは防寒や、日除けのためだろう。

物語を作るのは、自分のためか、誰かのためか。
生きるためか。
人それぞれ目的は違うと思うが作ることにはきっと理由がある。

この作品の目的はなにか。

それは25年間の呪いを解くことに他ならない。
その呪いは誰のものか。

新世紀エヴァンゲリオンがテレビで放送されたのは1995年10月から1996年3月。

わたしは14歳だった。

洗礼。というには大袈裟だろうか。

しかし我々はそういう世代であって、エヴァンゲリオンの呪いというか庵野秀明の呪いをまともに受けた世代だと思っている。

突然、哲学的で難解な物語が平日の18:30から放送されたことのショックは今でも良く覚えている。

それは、わかりやすさや、伝えるということを明後日に投げつけたように作られた物語と演出のように見えた。

伝わらなくてもいい。
私たちはこう考えて、こんな世界に住んでいるんだという演出という名の叫び。

それが最初のエヴァンゲリオンであり、庵野秀明との出会いだった。

ナウシカの巨神兵の作画が彼であることを知るのも、ナディアを見るのも、もっと先のことだ。

テレビ版の「終わり方」が我々が見慣れたものとは違ったため、その補完のために作られた最初の映画版が公開された当時、社会現象などといわれアニメ雑誌だけではなく一般のニュースや、ワイドショーなどでも取り上げられた。

ヤマトもガンダムも知らない我々の世代が初めて目にしたアニメファンだけの広がり超えた「ブーム」だったかもしれない。

それを赤い小さなブラウン管のテレビで見たことをよく覚えている。(ちなみにダイヤル式のテレビ)

当時14歳だった我々も、今や40歳を超えた、いわゆるいい大人な年齢となり、気づけば1995年の庵野秀明の年齢を5歳も超えている。

35歳でテレビ版のエヴァンゲリオンを監督した庵野秀明は、その4年前何もできなかった自分をエヴァンゲリオンに登場人物に「自分を」塗り込めた。

アスカ、レイ、シンジ、ミサトに自分自身を分け与えて投影してキャラクターを作っている(と思う)のだから作るのは苦しい。自分と真正面から向き合うのだから。

今までのエヴァンゲリオンには肉体を持った母親は登場しなかったが、今作では象徴的に人も獣も母親が何人も出てくる。
母親は新しいこと命を生み出す存在。

間接的に旧作でもずっと母親からというキーワードは散りばめられてきたけど、母親のことを書いてしまうのは宮崎さんの影響もあるのかな。

当初、擬似家族であったミサトとシンジは当作で初めて本物の家族になったし25年経って、じゃなくて14年経って肩書き関係なく人間同士として向かい合うことができた、とてもいいシーンだった。

25年に決着をつけるために作られた物語。

映画が終わってみると25年の呪縛から解かれたような気持ちになった。
そういう気持ちで作っていたであろう庵野秀明の気持ちに我々も大人になって寄り添うことができるようになったのかもしれない。

しかしそれは少し寂しくもある。

庵野秀明の作品にしてはセリフに無駄というか、余白を作るセリフがいくつかあって、今回は決着をつけると言うこともあるけど悪い意味じゃなくてエヴァンゲリオンとしては雰囲気が軽妙と感じた。
それも一つの表現としてエヴァンゲリオンとの訣別のように感じた。

父の不在。

母親に比べて父親は物語の推進剤でしかない描かれ方。
ゲンドウとシンジの関係は愛情が希薄で、辛うじて周りが親子という皮膜をかけてくれてたことで親子であった関係だがシンジからゲンドウと向き合うことで、やっとゲンドウは物語の歯車から人間として父親として性格を与えられた。
ゲンドウは何がしたかったのか。何がしたいのか。
劇中でも何度も出てくるセリフ。

誰かと溶け合うほどに一緒になりたかった。のかもしれないが、全員同じにというのは方便で、シンジの母親だけでよかった。死者ともう一度会いたくて、会えなくなった悲しみを共有したくて人類補完計画を生み出した。
俺だけ苦しいのは嫌だ、と(勝手な解釈です)

ユイの死から地獄まで逃げたのはゲンドウで、強者に見えた彼も庵野秀明が作り出したキャラクターの一人。

庵野秀明は演出家としては、ナディアでやりたいことは全部詰め込んだのか、やりたいことが一貫しているというべきか、後半はナディアを想起させるシーンがいくつもあって楽しかった。

自分の再生。

25年の決着であり、エヴァンゲリオンは庵野秀明個人の再生の物語。
それを感じ取れるのは自分が年を重ねたせいか、庵野秀明が「エヴァンゲリオンも伝わるように作る演出家」となったせいか。

エヴァはやはり庵野秀明なくしては語ることのできない作品だけど、シン・エヴァからはカリスマ的な作家の個性で、映画を作る時代の終焉も同時に感じた。
映画も個人作家からチームで、スタジオで支えるものづくりに姿を変えつつある。(日本映画が?アニメ業界が?)

アメリカでは特にMARVELやピクサーがスタジオのチカラで良質な作品を次々と作り出している。
個人のチカラに頼るとビジネス的にもリスキーでマネージメントもしにくいし、スケジュールもたてにくい。

その点、プロデューサーがしっかりと方向性を出せる制作スタジオはブレのない作品作りを同時におこなうことができる。日本ではアニメスタジオが先をいっていて、鬼滅の刃を作ったソニー小会社のアニプレックス、制作を担当したufotableもそうだ。

真に優れた制作スタジオは、監督の個性をスタジオの枠にはめるのではなく、演出に集中してもらえる環境づくりをおこない、そうすることで優れた作品を量産しているように思う。(これは個人的な感覚たけど)

庵野秀明の個性の総決算であるシン・エヴァンゲリオンは個人的な映画製作の終焉を観たようで複雑な気持ちです。

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