この世界のさらにいくつもの片隅に

この映画を見て思い出すのは祖母から聞いた終戦時の話。

7年前に亡くなった母方の祖母は、中学校の先生を長年勤め、この時代には珍しく経済的にも自立した人だった。

祖母は岡山の西川沿いで茶舗を営む家に生まれ、幼い頃はそれなりの生活をしていたと聞いた。

洗濯などをするために水路に降りる階段は、各々の家が自力で作ることになっていて、一つのステータスだったようで「うちにもあったんよ」と話をしてくれた。

ある日、用事から帰って、店の二階に上がると祖母の父が倒れていて、そのまま帰らぬ人となった。
突然の死だった。

それから母親との2人での生活がはじまった。

母と子、2人で針子として働いた。

祖母は幼い時から暮らしのために働いたことが、どのように心に、体に作用したかはわからないが、社会に出ると教師として長い間働いた。

役職がつくほどの能力があったが、女性であったためか出世できず、悔しい思いをしたと話してくれたのを覚えてる。

勤め始めてから役所に勤めていた祖父とお見合いをし、結婚した。

それから経緯は忘れたが…家族で満洲に渡り、祖父は南満州鉄道に勤めることになった。

二人の長男である僕の叔父は満洲で生まれた。

満洲での暮らしは不自由のない裕福な暮らしだったと聞いた。
屋敷のような立派な家にはお手伝いさんがいて、中華料理を教わったらしい。
(その時教わったレシピを子どもたちが引き継ぎ、うちでは皮から作る水餃子が幼い時から当たり前になってます)

戦争が終わり、ソ連軍から逃れ日本に帰るために家財は全て置いて、子どもと3人、引き揚げることになった。

日本の子どもは優秀だということなのか、売買できたのか現地で連れ去りが横行していたらしく子どもと帯紐で硬く結んで離れないようした。

満洲での貨幣は価値がなくなり、賄賂も現物でしか通用しない。祖父はありったけの腕時計を持ち出して、それを賄賂にして船にのった。

船は身動きが取れないほどの人数が乗っていて、体の弱っていた人は日本に帰る前に亡くなった。
遺体は海にかえされた。

祖父母が乗る引き揚げ船は、長崎の佐世保へ。

日本に着き、食べ物を探してなんとか見つけた巻寿司。

その巻寿司が、祖母の人生で一番美味しい食べ物だったと話してくれた。

90歳の手前で亡くなった祖母の人生において一番美味しかった巻寿司。巻寿司見ると祖母の話を思い出す。

長崎から電車で岡山まで戻り、岡山駅から駅前に出ると、そこにあったのは東山までの見通せる焼け野原。

千切れて剥き出しになった水道管から一滴一滴おちる水滴。記憶の中の岡山の風景はどこにもなかった。

家がある総社まで戻ると、親戚が大八車を持ってむかえに来てくれていた。

裕福な暮らしをしていたと聞いていた親戚は、さぞ荷物が多いことだろうと大八車で来てくれたらしい。
だが、祖母たちは身一つで帰ってきた。

夕暮れ時、乗せるものが何もないので長男を乗せて大八車を引いて家に帰った。

祖母が亡くなる前にインタビューしたことがあって色々と教えてくれた。

一度しか聞いてないことも多いけど、浮かんできた映像を今でもはっきりと覚えている。 「この世界の片隅に」を初めて見たときも祖母から聞いた話を思い出したし、「さらにいくつもの〜」を見て、戦争の時に市井の人々がどのように生きていたか、どんな悲しみがあったか祖母のことを思い出しながら見ました。

前回見たのが4年前。

子どもが大きくなるにつれて失うことの悲しみが身に染みるし、喪失感を想像すると胸の中が焼けるように悲しみが広がる。

マイマイ新子を見たときも思ったが、片渕監督の映画は自分が知覚してないほど深い記憶とダイレクトにつがってしまうような感覚があって、映画を超えた鑑賞体験だった。
#この世界のさらにいくつもの片隅に
#片渕須直
#のん

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