映画「月」
いきなり脱線します。
先日「ジョーカー」を見ました。これまで「周はぜったい見た方がいい」とかなりの人からすすめられ、観念してやっと見ました(赤星はアメコミ映画が苦手なので避けてた)。
弱者である主人公が社会からボコボコにバカにされ続け、ついに怪物になりましたというお話なんですが、ただのヒステリックな雄叫びじゃなくって社会を鋭利に批判してました。なによりホアキンさんの演技がよかった。名作です。
で、今回の映画「月」です。
相模原事件の当事者(犯人ふくむ)たちが何を見ていたかを丹念に追った力作です。このあと私はプリップリに怒りだしますが、当事者の描写においては、いい映画だったということはここに書いておきたいと思います。この手の邦画はめずらしいとこからも察するに、たぶん、それだけでもかなりチャレンジングだったんじゃないかとは思う。
(以下、なが〜いプリプリ)
ただ、「これって当事者の自問だけで済ませていい問題じゃないよな〜」感はぬぐえずでした。
「このリソースでニコニコうまくやってね☆」っていうルールこそが、そのパワハラっぷりこそが、諸悪の根源なんだから。
原作に忠実たろうとしたのか(読んでないけど)? 「映画をプロパガンダにしちゃイカン」という信念なのか?それとも、スポンサーをつけるためにそうせざるを得なかったのか?尺の問題でテーマの範囲を絞らざるを得なかった?
理由はわかりませんが、「リソース不足」をつくりだした社会の態度(劇中の施設長が、そこを担ってる)に対しては「あれっ、そんだけ?」ってぐらい弱腰でした(当事者の自問が苛烈だっただけに、なおさらそこのヌルさが際立つ)。そこだけは地でノンフィクションなのね・・・でした。リアルなのはよかったけど。
当事者の自問をあれだけ苛烈にできるなら、施設長との対話を苛烈にする実力自体はあったんじゃないかと、思います。だからこそその場面での「社会への不問」は、選択された「不問」だったんじゃないかと。
問題の解決や葛藤を当事者だけで抱え込もうと懸命に努力するのは、「リソースそんだけでええやろ?」と高みの見物してるエラい人にとっては、かなり都合のいい展開とも言えます。それを助長しかねないストーリーになっていたのはすごく疑問でした。強者は不問で、弱者には努力を強いるかっこうになっている。
「汚い部分をなかったことにするな」がこの映画をつらぬくテーマだったにも関わらず、もっともダーティなところには踏み込まなかった。その理由も、映画のなかで語られもしなかった。
作品に矛盾があっちゃいけないとは思わないけど、劇中「だいじだ」と何度も言っているテーマを、映画の射程自体が裏切ってしまっていたのはやはり残念です。
ただ、この国で映画をつくるって、それだけ大変なのかな〜なんてことも思いました。真相は分からないけど・・・。
これ、保育園の問題にも引きつけられると思う。
保育士さんは「根本的にリソース足りてないんじゃボケ(が、なぜかそういうルールになってるので言えない)」ってかんじだろうし、
親としては「園すくね〜。縫い物とかPTAとか面倒くさすぎんだろ(が、なぜかそういうルールになってるので言えない)」
ってかんじです。
で、それぞれの余裕のなさを、かみ殺しながらなんとかかんとか日々をつないでいるっていう点においては、相模原の施設ともおおいに重なるのだろうな。
「『このルールでうまくやれ』というルール自体が狂ってる」とすら言えぬまま(なんなら狂ってることにも気づかないまま)、リアルな苦しさをお互いに抱え、ときにそれを当事者同士で噴出させながら暮らしてる・・・まるでバトルロワイアルです。
何も知らぬまま殺戮ゲームに放り込まれて、殺し合いをさせられている。生き延びるために、(精神的に)死ぬか殺すかするしかない。(ネイチャーもそれなりに過酷、というのはそうなんだろうけど、今のこの過酷さをつくったのが他ならぬ人間、という救えない状況をどう受け止めたらいいのか、私にはよう分かりません)
そんな精神を摘む戦いのもと、もっともわりを食うのは子供だと思います。相模原の施設ならば利用者。
クソルール
→ カツカツ&ギスギスな実情
→ その場のトップ
→ その下で働く人
→ 利用者(または園児)
と、クソをトップダウン方式でリレーして結局、いちばん弱い人がクソを食わさせられるハメに(またはどこかでクソに「ノー」と言った人にミラクルな負荷がかかる。または迫害されたりする)。
それを是として「クソルールでいこうね!」とクソ川の上流にあぐらかいている方とは一度お話をしてみたいもんです。いったい何を考えておられるのか。きっとなんも考えてないんだろうけど。
バトルロワイアルの劇中、キタノ(ビートたけし)が
「これから、きみたちに殺し合いをしてもらいます」
と言ってゲームはスタートします。
「わたしたちにバトルロワイアルさせているのは一体だれか?」
ってことを気にしないままルールに飲み込まれてしまったら、そりゃ保身のために「殺すしかない」って、人殺しちゃいますよね。広義には、「悪の凡庸さ」のアイヒマンもこれに相当するんかな。
周到に余裕や思考を奪い、合意なきまま「ルールに従え」という世界に自分が生きているってことを、わたしは子供産んでから骨身にしみて理解した。
敵があまりにデカすぎるので(国か?文化か?人間か?)、闘って勝てる相手じゃないです。だからガチンコでは闘わないけど(一生つかってもムリでしょうね)、つねづね「ゆるすまじ」とは思ってます(気が向いたらタタリ神にならないようにそっと見守ってあげてください・・)。
タタリ神になって我をうしなわない程度に、なっちゃって退治されない程度に、自分のリソースにゆるされる範囲で、ルールへささやか〜に抵抗したり逃げたり、身近な被害を最小限にとどめるだけで正直精一杯です。なんだかな〜
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