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無象論 あるいは懐かしいメモ書き

無象論
 
1 小説『関東大震災』が書かれなかった理由

 文学とは、ある種の洒落を受け止めることのできる気易い空間の中での一種のゲームであって、それ以上のものではない。屡私は自分自身にそう念を押す。トランプにゲームを感じられない人にとっては、トランプはゲームではない。またある種のゲームに熱中している最中にはそのゲームが全てであって、それ以外のことはどうでも良くなる心性が有り得る。同じ意味で、誰が何をしようがどうでもいい、みんな死んでしまえばいい……そう宣言できる或る種の人間にとっては、単に独りよがりの出鱈目でしかない文学ゲームという彼岸が存在し、そんなものを暴力的に押し付けられることを拒否する権利がないとは言えないだろう。また例えばミステリーを拒否し、ミステリに拘るグループが存在する棲み分けを、混乱した事態だと決めつける訳にはいかない。
 ところで、西暦1923年、関東大震災を引き起こしたのは一体何処の誰なのだろう? その際に使用された地震兵器は、ニコラ・テスラの発明したテスラ・コイルを応用したものなのだろうか? ……そういう類いの問いに対しては今のところ思い込みの激しい答えしかないだろう。或いは問題を否定する答えしかない。地震は今のところ人為的な作業ではなく、テスラ・コイルは地震兵器ではなかったのではないかと考えられている。そうではないと口に出すのは些か憚られる。或いはその常識は次第に覆るのかも知れないが、そういう科学的な議論は、この短い評論の扱うことのできる範囲を超えている。
 さて、では芥川龍之介という作家に『関東大震災』という長編小説がないのは何故だろう、という問いは、やがて問いを無意味にする答えしか導かないのだろうか。取り敢えず、私はその疑問から始まる迷路への逡巡を「本はたくさんある」という予備的判断の下に始めたい。
 本はたくさんある。この実感は日々私にはリアルであり、切実である。数字を挙げて示すまでもないだろう。文字を辿らなくては本を読むことのできない人が、一生をかけても読めないだけの本が毎年出版されている。だからと言って、わざわざその事実の確認を予備的判断として念押しする態度には、安直な主張に短絡するあからさまなからくりが隠されていないと証明できるものではない。
 都合のいい事実のみを組み合わせることによって、屁理屈ができあがる。従っていきなり、図書館で本屋で私がうんざりするのは何故だろう、と考え込むのもフェアではないかも知れない。
 批判性を持って書く以上、書きつつある自分に対する批判と反論の「ぐるぐる批判」からは逃れられないとは言え、結果として何かが書かれているのは、アン・フェアで身勝手な頭痛から始まる些かは不遜な試みが受け入れられることを前提とするゲームが相互行為として存在することを前提にしているという証拠ではないだろうか。 本はたくさんあるのだろうか?
 問うまでもなく、本はたくさんある。では、私が芥川龍之介と云う人を心底偉いと思うのは、氏が『関東大震災』という長編小説を書かなかったからであろうか。そこには、誰かがこの問題を共有し得る尤もな屁理屈が介在するのだろうか。
 何故『関東大震災』という小説を書かないと偉いのか、逆に何故『関東大震災』という小説を書くと偉くないのかという議論になると、ここで藤原定家を持ち出すのが文藝上の常套手段であるように思われる。従って或る仮定の下になら藤原定家に関する前提条件の確認とその注目すべき引用を割愛させて戴いても、論を進めるにあたってなんの障害ともならないだろう。
 本は既にたくさんある。後に書かれるものは、先行する多くの書物からの引用をちりばめ、より良いものを書こうとし、文学を夢想して発射されたロゴスのスペルマでなくても構わない。存在しないオリジナルまでを本棚に並べられる程、日本の住宅事情は豊かではない。言葉は内輪に向けられるにしくはない。最低限の読書の結果としてさえも、こうは言える。藝術至上主義の芥川龍之介が、さほど藝術的ではない揺れ方をした関東大震災とその後のスラップスティックスを吾事に非ずと切り捨ててもなんの不釣り合いもない。では私は、その藝術至上主義を某かのイデオロギーに沿い褒めたたえようという趣向なのであろうか。
 と自分のやろうとしていることを人に尋ねても空しいだけだ。しかも私はたどたどしく考え、曖昧な結論に収まる愚を避ける為にそれなりの手筈を整えている筈である。恐らく今更『関東大震災』と云う小説を芥川龍之介が書かなかったことを問題にする以上は、ここには何か現代的な批判があるに違いない、と提灯持ちをしてくれる人がある訳ではなし。
 例えば芥川龍之介が長編小説『関東大震災』を書かなかったという事実を通して、田中康男が行っている阪神淡路大震災に関するボランティア活動のエッセイや、地下鉄サリン事件に関する村上春樹の真摯なルポルタージュ『アンダーグラウンド』が書かれる理由なり姿勢というものを批判して、どのような無根拠な傲慢さからか、彼らを懲らしめようとしているのではないだろうか。
 田中康男の側から、或いは鳥居つばきと云う人から、村上春樹の『アンダーグラウンド』はこっぴどく批判されている。その批判そのものには益々新鮮味がない。人が何か「いいこと」をしようとすると、軽々しいとか真剣さが足らないとか売名行為だとか偽善だとか言われかねない。言われかねないと予想できる範囲で、言われた批判だから新鮮味がないのである。編集長がスキャンダルを集めようとすれば、フリーライターはでっちあげのスクープ記事を書く。そうして書かれたスクープを集めたゴシップ雑誌が、必要以上に大袈裟でスキャンダラスなのは間違いないが、どんなにスキャンダラスな内容が暴露されていたとしても、その雑誌の色づけによって何割かのスキャンダラスさは色眼鏡で割り引かれて受け入れられる理屈である。
 芥川龍之介の『葱』には真剣味の足らない軽々しい女が出てくる。デートの最中に葱を買ってしまうのである。こんな不真面目な軽々しい態度はない。マニュアル違反である。デートの相手が文句を言ってもおかしくはない。鴎外の『雁』では、女がデートを誘おうと待ち伏せている手前で、相手の男が晩飯のおかずに雁を狩るのであるが、結果的にはこの雁の所為で二人はすれ違う。好色な読者にとってみれば、こんな肩透かしは興ざめだろう。
 では、有名なベストセラー作家が、地下鉄サリン事件の被害者にインタヴューをしてサンチマンタルな気分に陥った帰り道、例えば八百屋で葱を(或いは厚揚げ三枚を)買ったら不謹慎なのだろうか。帰り道なら構わないのではないかと私は思う。いくら心に残る話を聞いたとしても、晩飯を食べない訳にはいかない。アルベール・カミュの『異邦人』にも不謹慎が溢れている。忌引の最中にカフェオレを飲んだり、映画を観たり、海水浴に行ったり。実に不謹慎である。ラップ・トップ型のワードプロセッサーを使い終わったら、蓋をするなどという不謹慎な行為もするだろう。しかし人間はみな不謹慎な生き物である。
 そういう意味では『関東大震災』という不謹慎な読み物が書かれ、そしてげらげら笑いながら読まれてはならないという決まりはない。ジャーナリスティックな野心や歴史家の傲慢がなくても『関東大震災』という小説を書くことは可能だったのではないだろうか。物語とは一面で「適度な負荷を与えて後に解放する」作業である。小説に限定すれば、どのような負荷を描くかで、世界の大きさが決まる。関東大震災という強烈な負荷を描けば、かなり大きな小説になり得たのではないか。様々な階級の何人かの主人公の震災体験を短編に描くだけで、結果的に一つの長編小説が纏まる……と、日頃創作メモのようなものを書き残していた芥川なら一度は計算してみなかった筈はない。それは芥川の唯一の長編小説となり、後世の出版社からは見栄えの良い“嵩"を褒められることにもなっただろうし、谷崎との体力論争にも「勝負に負けて相撲で勝った」ような妙な落ちをつける結果となっただろう。
 しかし実際には芥川は震災の体験記のようなものを日記風に短いエッセイで残し、また『或る阿呆の一生』の中でおやっと思うほど真剣味のない描写に捉えているに過ぎない。その描き方はあっさりとしていて、剽げるでもなく、冷ややかである。しかし家族に読ませられない程度に無防備で、文学的に気取っていて、もしも太宰なら腑抜けた描写だと破り捨てていたかもしれないような描写である。それは何故なのか。
 その疑問を、疑問文が飽きる程繰り返されるこの短い評論「ぐるぐるアポリアの」の入り口としたい。
 
2 何を書くべきで何を書くべきでないのか
 
 しかし一体何を書くべきで、何を書くべきではないのか。そう小タイトルに纏めながら、ここで問われているのは実際の「良書と悪書」を区別する基準ではなく、その根拠への接近の方法であるかも知れない。
 ところで文学は、一つの文芸雑誌にその相似形を発見できる程度に「作品と批評」にそっくりの「ボケと突っ込み」(と良心的で品位ある広告)で成り立っているのに違いない。何故そのようなことが可能なのかと言えば、例えば小説というものが、自らを小説と呼び得る程度の謙虚さに支えられた物語であるからではないだろうか。
 その程度のものを相手にしているのでなくては、批評には悪ふざけの余地はない。添削をするか、絶望の表現としての解釈をマゾヒスティックに弄ぶしかない。突っ込みにはいくらでも突っ込みようがあるだろう。なんなら壁打ちテニスの要領で、一人遊びを続ければいい。しかしもうそれは発振であり、発酵であり、文学ではない。
 この「ボケと突っ込み」という微妙な関係に、善人面をした鵺のような生き物が迷い込むことがある。それが伝記作家だ。伝記作家の筆が冴えれば冴えるほど、かって感じた神々しいばかりの作家の魅力は見るも無残に削ぎ落とされて行くように感じる。褒めても貶しても、その無残さは変わらない。そもそも伝記作家は褒めるとも貶すとも言わない。自叙伝以上の事実を伝えると言う。この思い上がり、この傲慢さが致命的な無残さ生み出すのである。やがて(どんなに常識に配慮しても)救い難い腐臭を漂わせない訳にはいかない。いや、もっと控え目に、「ジャーナリスティックな手法に留意し」とか「私は私が確認した真実のみを書き残そうと思う」などと言う輩が最も信用に値しない。結局「私の書いていることは全部真実だ」と言っているようなものである。そういう報道オタクが「住民は不安な一夜を過ごしました」とか「国民からは不満の声が高まっています」などというくたくたに萎れた訳の分からないルポルタージュ文学を振り回すことになるのだ。
 繰り返すが、用心して、謙虚に見せかけた伝記ほど、傲慢で独りよがりなものはない。そういう意味で『サリンジャーをつかまえて』(イアン・ハミルトン著/海保眞夫/文藝春秋社/1992年)などは要注意だ。結果的にはハミルトンはサリンジャーの初期作品と青春時代を等身大に縮尺することに成功した。グラス家ものサーガなどで神格化された隠遁作家サリンジャーの青春時代を、数々の証言と資料で分析した。
 例えばサリンジャーはマックバニー校時代、ソニー(坊や)と呼ばれていた。学校劇『メアリーのくるぶし』で女役を演じている。またマックバニー校に入学する前に、脚、くるぶし、腕などの骨折を経験しているらしい。
 そして『ヴァリオーニ兄弟』の登場人物の一人はソニー・ヴァリオーニである。ここに何らかの関連性を見いだしたいと思わない人はいないだろう、というのが伝記作家の思い上がりなのである。あるいは「くるぶし」すらも作品とは無関係なのではないだろうか。(サリンジャーは、その後多くの作品で“くるぶし"へのこだわりを見せている。※1)
 サリンジャーが実際にどのような経験から作品の着想を得たのかは明らかではない。そういう意味で言えば、『ヴァリオーニ兄弟』にグラス家の天才たちの物語を重ね合わせる手法も思い上がりであると言えそうに感じる。作品を作品の中に書かれている要素のみから論じる。これは賢明なやり方だ。一方全ての言葉は過去に所有主体によって語られた言葉のコラージュでしかないというドナルド・バーセルミ風の(あるいはキケロ風の)見地からすれば、一つの作品は単体で論じられるべきものとは限らないのではないかとも言える。ただ問題なのは、作品と作家の実生活とを余りにも安直に面白おかしく結び付ける赤新聞的行為の傲慢さである。例えば黒岩涙香は萬朝報に鴎外の妾の住所を載せたが、もしもそういう行為で鴎外の『ヰタセクスアリス』や『心頭語』を批判できるという思い込みを持つ人がいれば、その人は文学そのものをゲームとして楽しめない人である。(注2)
 
「情報屋さん」のために一筆しておくなら、ソニー・ヴァリオーニという人物はハンサムで、チャーミングで、ふまじめで、人生に退屈していた。彼はまたピアノにかけてはめざましい創造力にとんだ高度の技巧家でもあった。 (『ヴァリオーニ兄弟』)
 
 サリンジャーは(時空を超えて)数十年後に出版される自分の伝記の作家に向けて、こんな皮肉を吐いている。ここからサリンジャーそのものの人物像を拾い上げようとする情報屋さんは実に滑稽である。即ち「サリンジャーという人物はハンサムで、チャーミングで、ふまじめで、人生に退屈していたと自らを評していた。彼はまた小説にかけてはめざましい創造力にとんだ高度の技巧家でもあったと自惚れていた」などと書いてしまう人間の批評性というものを無防備なボケとみなし、サリンジャーは予めこっぴどく批判しているのである。
 こういう解釈の過剰さが許されるなら、サリンジャーはとんでもなく遠く大きなものまで批判しているように思える。いや、そうとしか思えなくなる位置に我々が存在する弱い人間原理を、ある種の便宜理論(シオリー・オブ・コンビーニエンス)として受け入れたくなる。

「パパ、生意気なようだけど。ときどきパパが戦争のはなしをするとき、――パパの世代のひとたちはみんなそうなんだけど、――まるで戦争って、何か、むごたらしくて汚いゲームみたいなもので、そのおかげで青年たちが一人前になったみたいに聞こえるんだな。ぼく厭味をいうつもりじゃないんだけど、でも第一次大戦に行った人たちって、みんな、戦争は地獄だなんて口ではいうけれど、だけどなんだか、――みんな、戦争に行ったことをちょっと自慢にしているみたいに思うんだ」(中略)
「ぼくは今度の戦争は正しいと思うよ。そうでなかったら、良心的参戦拒否者の収容所に行って、戦争が終わるまで斧でも握っているよ。(中略)ただね、この前の戦争にせよ、こんどの戦争にせよ、そこで戦った男たちはいったん戦争がすんだら、もう口を閉ざして、どんなことがあっても二度とそんな話をするべきじゃない――それはみんなの義務だってことを、ぼくはこればかりは心から信じているんだ。もう死者をして死者を葬らせるべき時だと思うのさ。その逆からは何も生まれなかったってことは周知の通りじゃないか」
 
 と、サリンジャーの作り出したキャラクター、ベーブは語る。(ソニーの次はベーブである。)彼はある周到な手順を踏み、後に書かれであろう「相対化されない自己による、肌にべったりとまとわりつくような」日本の戦後文学を纏めて否定した。戦中世代の被害者意識のうさんくささを指摘した。あるいはティム・オブライエン、その他もろもろの体育会系を否定した。勿論時間の順序に従えばそんなことができる訳ではないが、そんな風に読む行為そのものは楽しい。史実として間違っているかどうかということは殆ど気にならない。順序はどうあれ、批評として、文学として、そして温故知新ゲームとして見事に成立している。それは「言い訳も、自慢もするな」という指摘が、戦後文学の微妙な脆さを批判し得ているからである。
 イアン・ハミルトンのサリンジャー像は、姑息で商業主義的で、目立ちたがり屋である。それは必ずしも嘘ではないだろう。瞳を綺羅綺羅させた彼の読者は、ジェローム・デイヴイッド・サリンジャーをまったく別のイメージで捉えている。秘密主義で、人前に姿を現さない厭世主義者、商業主義を嫌い、数十年間は恐らく書いているにも係わらず一切作品を発表しないという謙虚な本物の芸術家、というところが一般的なサリンジャー像ではないだろうか。明らかにイアン・ハミルトンはサリンジャーのイメージを変えようとしている。そこにリアリティを創造しようとしている。
 サリンジャーを「秘密主義で、人前に姿を現さない厭世主義者、商業主義を嫌い、数十年間は恐らく書いているにも係わらず一切作品を発表しないという謙虚な本物の芸術家」とキャラクターづけして商品化した編集者と、善良で思い込みの激しい若い読者の文学ゲームにイアン・ハミルトンは敢えて割り込もうとする。しかしそんな時に使われる「敢えて」という動機に尤もさ、面白みが感じられないサリンジャーという批判者によって、あらかじめ批判されていることになる。
 クイックリー井上氏に拠れば、(サリンジャーに限らず)作家というものは常に読者の予測を裏切る次の一語を探しているらしい。だから作家の一言を真に受けてはいけない。どんな気の効いた一言も次の決定的な台詞の為の手抜かりない準備でしかないとも限らない。そういう前提で、ここから「サリンジャーの戦争文学論」を読み取ろうとする行為は、一体どのような種類の混乱なのだろうか。
 
ダンスからもどったら――きみたち、パートナーをえらびたまえ――このトラックについて不滅の詩を書くことができる。このトラックは潜在的な詩だ。「わたしの乗ったトラック」とか「戦争と平和」とか「マヨネーズぬきのサンドイッチ」とか名づけることもできる。簡単にしておけ。 (『マヨネーズぬきのサンドイッチ』)
 
 文学とは、洒落を受け止めることのできる空間の中での一種のゲームであって、それ以上のものではない。私は冒頭でそう述べた。例えば私はある興味からこの引用部分を面白いと感じたが、ここに不快なものを感じ、どうしてこんなものが小説なのだ、なんてことを書くのだと怒り出す人がいてもおかしくはないとも考える。ここに詩のタイトルとしてさりげなく「戦争と平和」が挟み込まれているのだが、それが「皇軍萬歳・第六慰安所」という文字に見えるという過剰な(異常な)人がいてもおかしくはないのである。勿論それはやり過ぎで、これは慰安所の話ではない。その程度に読まなくては、ゲームが成り立たないのである。
 
きみたちの心、君たち軍人の心は何よりも正確さをのぞむ。細部に関するかぎり、射的の金的の子供になりたい。何か気持の休まる嘘をまぜた話がおわったあとでも、市民をそのまま別れさせたくない。ヴィンセントの女に、かれが死ぬ前にタバコをほしがったと思わせたくない。かれが勇敢ににやりと笑ったとか、りっぱな言葉を最後に口にしたなどとは思わせたくない。 (『他人行儀』)
 
 この文章では「射的の金的の子供」という喩えがよくわからないけれども、ここで言われているのは「軍人はディテールにリアリティを追求する」ということだろう。ありがちな物語を拒否したい。解り易い話にされたくない。昔の修身の教科書に載っていたような、腹から腸を出してまで戦う兵士の逸話などを読めば、サリンジャーの小説の中のキャラクターはリアリティがないと批判するだろうか。しかし何も現実は『ちび黒サンボ』の「とらバター」などのように非論理の極みに落ち着かなくても構わない筈である。
 例えば(本当に誰でもいいのだが)日露戦争の英雄・廣瀬武夫中佐ならば、肉片一切れ残して飛び散りながらも実際に部下の無事を心配しただろう。勇敢ににやりと笑い、りっぱな言葉を最後に口にしたであろう。生涯酒も飲まず、煙草を吸わない男がいる。まさか婦人に慰安を求めることもない。そのような「絵に描いたような」解り易い理不尽な人間が存在することは事実である。なのに何故「軍人」には正確さが重要なのだろうか。何故そのままズバリのタイトルをつけるように「簡単」にできないのだろうか。
 
「いっしょに食事と芝居はどうですか?」かれは聞いてみた。 (『他人行儀』)
 
 ベーブは戦友の死を戦友の元恋人に告げに行った別れ際、彼女にこんな簡単なことを言ってしまう。勿論断固拒否され、代わりの女の子を紹介されそうにもなる。しかしベーブは別に慰安婦に性欲のはけ口を求めてはいなかったのだ。そう言って、どれだけの人が信じてくれるものだろうか。戦争帰りの若者が、女を欲していない訳がない。サンドイッチにはマヨネーズが必要なのと同じ理屈で、戦争には慰安婦が必要なのだ。それは無理からぬことなのだ。……そういう視線に対して、究めて正確な弁解が必要なのだ。しかし正確に弁解して一体何が得られるというのだろうか?
 
 ふとったアパートの玄関番が、手のひらにタバコをのせながら、公園とマティのあいだのふち石の上を針金のような毛の犬を歩かせていた。
 ベーブはドイツ大反逆のあいだじゅう、この男が毎日この通りをあの犬を歩かせていたのではないかと想像した。かれには信じられなかった。信じることができたにしても、あり得ないことだった。
 論理矛盾の通り、玄関番が普通でベーブが異常なのである。しかしベーブには彼らには感じ取れない何かを感じる感覚があった。この異常さをみんなが気が付かないことに恐らく焦立った。本人にしか分からない微妙な違いを、他人に理解されないこと、その当たり前さ加減に苛立ったのである。そして、この『他人行儀』という小説では私がサリンジャーの全作品を通して最も好ましく思うエンディングが綴られる。
 
 道を横切って五番街の公園側にわたるとき、日差しがつよくて暑かった。バスの停留所で、ベーブはタバコに火をつけ、帽子をぬいだ。帽子箱をもった背の高い金髪娘が、通りの向こう側を元気よく歩いていた。広い通りの真中で、青い服を着た小さい少年が、たぶんセオドアとかワギーとかいう名前の腰をおろしてしまったのんきな小犬を立ちあがらせて、レックスとかプリンスとかジムとかいう名前の人のように、悠々と道を横断させようとしていた。
「わたし箸で食べられるわ」とマティが言った。「あの人が教えてくれたの。ヴェラ・ウィパーのお父さんよ。今度見せてあげるわ」 太陽がベーブの青白い顔にまともに暑く照りつけた。
「赤ちゃん」と彼はマティに言って、肩を軽くたたいた。「それは見たいね」
「いいわ。見せてあげる」マティは言った。両足をそろえると、彼女はふち石から道へかるく跳んで、またもどった。それがどうしてこんなに美しい眺めなのだろうか。
 
 犬の散歩は許せないけれど、少女のあどけなさ、あるいは「簡単さ」は許せるというのだろうか。ベーブはただ戦時における民間人の危機感の欠乏を憂えたのではない。自分がセックスなどしたくないことを明らかにしたかった。馬鹿馬鹿しさの中で犬死にしないために、他人の勝手な物語に巻き込まれたくなかったのだ。ある微妙さを伝えたいと考えたのだ。無限に平たく言ってしまえば、それはサリンジャーの初期作品群に共通する一つの傾向である。或いは微妙さを受け入れるという行為がファンというものをのぼせ上がらせる一つの要素でもある。自分だけにはこの微妙さが分かると信じて、墓の前に額突き、単なる平凡な読者がファンになるのである。
 
3 小説とは恣意的な遊戯であるや否や
 
 最初サリンジャーの沈黙は十年の沈黙と呼ばれていたように記憶している。沈黙が十年に達した頃に、ようやく翻訳が始まったからであろうか。ここで十という数字に何か意味があるのかどうかは分からないが、辻邦生と云う人はやはり十年の沈黙の後、再び小説を語り始めたと告白する貴重な作家の一人だ。
 
 現実の厳しさに較べると、フィクションの世界には、恣意的な判断が入り込んできます。(中略)現実のきびしさの前で、自分の全能力を使って生きることが、真の生きることであると考えていた私には、こういう気ままな判断を許す仕事は、一人前の人間が生きる対象として真剣に取り組むべき仕事と思えなかったのです。
(『詩と人生』辻邦生/岩波書店/1988年/P.242)
 
 一般的に長谷川二葉亭や鴎外漁史と云ふ人もかのように考えたと言われている。ところでよりたくさんの女とセックスがしたいから、何となく文学を選んだという作家も存在するのは間違いない。そんな作家がいてはいけないという絶対的な理由はない。そんな架空の作家にとって、辻青年の悩みは、なんとも青臭くて気恥ずかしいものなのだろう。しかし、そういう真剣さを乗り越えて、ようやく語ることのできる真実があるのだ。
 
 小説家にとっての美とは、真実を直感したことによって生まれる一種の解脱、自由感といってもいいかと思います。意識的、無意識的にながいこと小説家の心にあった問題が、何かのきっかけで、あるまとまり、ある秩序をとることがあります。それは、多く、その問題を解決する一つの意味、パラダイムを発見した場合です。小説家は、そのことによって大きな自由を手に入れると同時に、それを文学によって、生きた形のままに定着しないではいられないのです。 この直感的に掴んだ全体の真実を、生きた形のまま(それは言いかえると詩的な形といっていいかもしれませんが)に定着するために、小説家は、フィクションというものを使うのです。その意味では、フィクションとは、はじめ私が考えていたような、作者の勝手気ままによって、どのようにでもなるというものではなく、むしろ、ある必然の動きをもって作者に迫ってくるものだ、ということができます。フィクションとは、全体の真実を、生きた形で表わすための、必要な新しいパースペクティヴなのです。 (同前/P.252~253)
 
 従ってこの些かならず大仰で鬱陶しい見解そのものと、辻邦生の小説の題名に矢鱈と「の」が使われている事実の間には、必然の働きがあるということになる。
 
    夏の砦 もう一つの夜へ
 小説家への序章    時の果実
  北の岬    国境の白い山
  天草の雅歌 十二の風景画への十二の旅
ユリアと魔法の都       春の風 駆けて
パリの手記     雪の宴
海辺の墓地から     椎の木のほとり
北の森から     灰色の石に坐りて
詩への旅 詩からの旅  霧の聖マリ
  真昼の海への旅   秋の朝 光のなかで
霧の廃墟から     夏の海の色
春の載冠     時の終わりへの旅
時の扉        雷鳴の聞える午後
 季節の宴から      雪崩のくる日
橄欖の小枝     風塵の街から
十二の肖像画による十二の物語
 樹の声 海の声    夏の光 満ちて      雨季の終わり      冬の霧 立ちて

 ここに羅列したのは、辻の小説の題名である。このように辻の小説は、嫌らしい中年夫婦の気易い空間並に「のの字」の洪水である。私はかってこれ程迄に「の」に拘った作家を知らない。(作家以外では、吉野作造や朱楽管江が「の」に拘りを見せるが、それにしても辻とは比較にならない。)担当編集者は「せ、先生、また“の"ですか?」と言いたかったに違いない。あるい額から脂汗を流しながら、そんなことを口走ってしまった編集者も存在したかも知れない。そんな編集者と作家の間のスリリングな関係を含めて一種のゲームであるとはやはり言い難いのだが、批評という行為はそこに遊びへの誘いを見ることから始まる遊びである。この「の」に対する辻の拘りには必然的な屁理屈があるのだろうか?
 
 4 太宰の『海』と三島由紀夫の『豊饒の海』
 
 太宰の全集の第十巻に、『一つの約束』という短い文章がある。昭和十九年頃発表された文章らしく、そこには第二次世界大戦で戦う日本兵への直接的なメッセージが見られる。『一つの約束』はこういうエピソードで始まる。
 
 難破して、わが身は怒濤に巻き込まれ、海岸にたたきつけられ、必死にしがみついた所は、燈臺の窓縁である。やれ、嬉しや、たすけを求めて叫ばうとして、窓の内を見ると、今しも燈臺守の夫婦とその幼き女兒とが、つつましくも仕合せな夕食の最中である。ああ、いけねえ、と思つた。おれの凄惨な一聲で、この団欒が滅茶々々になるのだ、と思つたら喉まで出かかつた「助けて!」の聲がほんの一瞬戸惑った。ほんの一瞬である。たちまち、ざぶりと大波が押し寄せ、その内氣な遭難者のからだを一呑みにして、沖遠く拉し去った。
 もはや、助かる道理はない。
 
 ここまで読んで、私は笑った。なんとも滑稽な道化の絵面である。細部に正確さを求めた話である。しかし、同時に奇妙さも感じた。完璧にこれは滑稽だ。そして私はこの文章を初めて読むのではなかったが、滑稽さが全く記憶に残っていなかった。
 その理由はすぐに明らかになった。太宰は続けてこう書いているのである。
 
 この遭難者の美しい行為を、一軆、誰が見てゐたのだろう。誰も見てやしない。燈臺守は何も知らずに一家団欒の食事を續けてゐたに違ひないし、……(中略)。けれどもこの美談は決して嘘ではない。たしかに、そのような事實が、この世に在つたのである。ここに作者の幻想の不思議が存在する。事實は小説よりも奇なり、と言ふ。しかし、誰も見てゐない事實だつて、世の中にはあるのだ。さうして、そのやうな事實にこそ、高貴な寶玉が光つてゐる場合が多いのだ。それをこそ書きたいといふのが、作者の生甲斐になつている。
 第一線に於いて、戦って居られる諸君。意を安んじ給へ。誰にも知られぬ或る日、或る一隅に於ける諸君の美しい行為は、かならず一群の作家たちに依つて、あやまたず、のこりくまなく、子々孫々に語り傳へられるであらう。日本の文学の歴史は、三千年来それを行ひ、今後もまた、變る事なく、その傳統を継承する。
 
 遺族でなくともこれを読めば怒る人が大勢いるだろう。「すめらみくにのもののふ」が無残にも間抜けなお兄ちゃんに貶められているから怒るのではない。ここには従軍戦記を書くジャーナリストの思い上がり以上に醜いエゴが見える。それはたかだか誰も見てゐない事實をリアリスティックに細部に拘って小説に書くことで、兵士の死を犬死にから救えるという思い込みの激しさである。また、この能天気さは、「朕はたらふく食つておる。汝臣民飢えて死ね」という落書の皮肉にも似ている。兵隊さんはご苦労さんだが、こっちにはこっちの生活があるんだから、出来るだけ迷惑をかけないようにしてくださいねえ、というメッセージがあるような気がする。強烈なブラック・ジョークではある。
 ブラック・ジョークは、強烈な拒絶に遭うこともある。私は最初これを読んだ時、忿りはしないまでも笑わなかったのだろう。そしてそれは洒落に諂うことのない案外真面な反応だったのかも知れないとさえ思う。
 太宰には小説家としての強烈な自負がある。小説というものに我が身をなげうつ真摯な姿勢がある。志賀直哉に『斜陽』を酷評されれば『如是我聞』で徹底的に反論する。けして小説を女子供の慰み物などとは考えていない。そういう自負のある作家は、しばしば「これは一体何なのだろう?」という逸脱を仕掛ける。
 しかしまた小説というものは女子供を騙すものであると、太宰は語る。良く言われる前置きである。太宰治は『小説の面白さ』という文章で、島崎藤村の『夜明け前』を読んでもなにも残らなかったというようなことを書いている。ここで面白いのは島崎藤村を「藤村と云ふ人」と呼んでいることだ。こういう云い方は無名の作家に使うものだ。太宰治が島崎藤村を「と云ふ人」呼ばわりする必然性はない。
 過剰解釈すれば、藤村でさえ権威主義的な意識を外して眺めたとき、自分とそう変わらないと云いたかったのだろう。藤村の小説は立派な国民文学で、太宰のは紙くずだと云われるのに腹が立ったのだろう。『夜明け前』も『晩年』も、同じように十年かかって書かれたものである。構想十年というこけおどしではなく、実際に執筆十年である。太宰にしてみれば、この十年にそう差がある訳はないと云いたいのだろう。太宰は長すぎる小説を好まない。長すぎることを欠点だと考える。千八百枚の長編小説などを書こうとは思わないけれども、五万枚の原稿用紙を汚す。そうして汚された五万枚の自分の原稿の方が『夜明け前』より真摯だったと考えているかも知れない。
 ところで三島由紀夫という人間が不当に、過剰に太宰を批判している。誰もがその態度に近親憎悪、或いは裏返しの性欲のようなものを読み取る。三島由紀夫は太宰をなんらかの理由で否定しなくてはならなかった。もしも否定しなければ、三島の全てが駄目になってしまうような危機を感じていたのに違いない。三島は太宰を批判し、自らの文学を太宰から遠く位置づけようと必死になった。『豊饒の海』四部作を、二部まで書き上げたところで気が変わり、新潮社から二部だけ先に出版することになった。長編を書き下ろすという孤独な作業に耐え切れなかったのである。この時三島は、ようやく太宰の呪縛から離れ、自分自身の作家性というものに忠実になれたと感じていたのではないだろうか。太宰がなんぼのもんじゃい、と心の底から言うことができたのである。
 吉野作造とも関係の深い中央公論で、深澤七郎氏に次いで三島に見いだされた一人、丸山真男を囲む会出身の庄司薫は十年の沈黙の後『赤頭巾ちゃん気をつけて』『さよなら快傑黒頭巾』を書き下ろしで、『白鳥の歌なんか聞こえない』を新聞連載で書いた。そこから『ぼくの大好きな青髭』までには随分溜めがあった。最初は『ぼくの大好きな青髭』を含めた四部作を、一年間で書き下ろすつもりでいたらしい。十年間あれこれ考えていた割りには計画が狂ったように見える。
 中央公論社の『世界の歴史』を暗記する程繰り返し読み、庄司薫氏に少なからず影響を受け、一部では庄司薫派とも言われる村上春樹氏の『ねじまき鳥クロニクル』は第一部と第二部がやはり新潮社から先に出版された。そしてやや間が空いて、三部が完結編として出版された。『ねじまき鳥クロニクル』には三島由紀夫の大傑作同様第四部があると信じている人がいても可笑しくない状況というものが確かにある。(一つの小説から分裂した『国境の南、太陽の西』を勘定に入れれば四部作である。)
 しかし『ねじまき鳥クロニクル』の第四部を期待しない人もいるだろう。そもそも恣意的な四という数、四部作という形式になんの意味も感じない人、大長編という試みに作家の軽はずみな自己満足を見抜く人、それが文学的虚弱体質芥川に憧れた太宰治と云う作家である。
 繰り返すまでもないが、四部作や大長編という形式には、それ自体に価値というものはない。問題はそれがどういう形式を満たすかではなくて、その内容である。庄司薫氏は自分が試み始めた形式を戯作的なものだと感じていた。そして『白鳥の歌なんか聞こえない』では「忍ぶれど色に出でにけり……」という歌を引き、「忍んだら色に出しちゃいけない」と批判し、四色の小説を書く自分を相対化した。白は告白の“白"でもあったのだろう。
 村上春樹という人は正直なようで案外大きな嘘をつく。『風の歌を聴け』以来一貫して、氏はずっと先のことまで予定を考えて書いているので、原稿は必ず締め切りに間に合わせるし、逆に急な原稿依頼は受けないと公言している。ところが『国境の南、太陽の西』と平行して書かれた『ねじまき鳥クロニクル』は、二部で終わる予定だったのに、三部を書いてしまった、ということらしい。それでは二部を書いた後の予定が大幅に狂ったのではないか?
 庄司薫氏も村上春樹氏も『豊饒の海』の馬鹿馬鹿しさに気が付いていたのだと思う。そしてその形式をなぞるように見えることを恥じた。『豊饒の海』が書かれる前から、『豊饒の海』の馬鹿馬鹿しさに気が付いていた太宰に反発するように、三島は敢えて『豊饒の海』を書いた。
 
 東京の三鷹の家にゐた頃は、毎日のやうに近所に爆弾が落ちて、私は死んだつてかまはないが、しかしこの子の頭上に爆弾が落ちたら、この子はたうとう、海といふものを一度も見ずに死んでしまふのだと思ふと、つらい氣がした。(『海』)
 
 太宰はわざわざそう念を押して、五歳の娘と妻を連れて、津軽の実家に帰る汽車に乗る。所謂「北進」である。報國小説として魯迅をモチーフに書き、報國小説の馬鹿馬鹿しさを客体化できる作家の、その俗悪さにやはり大笑いさせられてしまう。
 
  「海が見えるよ。もうすぐ見えるよ。浦島太郎さんの海が見え  るよ。」私ひとり、何かと騒いでゐる。
 「ほら! 海だ。ごらん、海だよ。ああ、海だよ、ああ、海だ。  ね、大きいだらう、ね、海だよ。」
 たうとうこの子にも海を見せてやる事が出来たのである。
 「川だわねえ、お母さん。」と子供は平氣である。
 「川?」私は愕然とした。
 「ああ、川。」妻は半分眠りながら答へる。
 「川ぢやないよ。海だよ。てんで、まるで、違ふぢやないか!  川だなんて、ひどいぢやないか。」
 実につまらない思ひで、私ひとり、黄昏の海を眺める。
  (『海』)
 
 これでは三島由紀夫の立場がない。自分が一生懸命書いた代表作『豊饒の海』を川だと云われてしまうのである。それが現実だ。現実とは歴史的前後関係を無視して身も蓋も無い批評に晒されるということでもある。女子供には、一目海を見せたいという男の浪漫が通じない。太宰はこうして三島のまだ見ぬ代表作、感動巨編、迫力と驚愕と怒涛と狂気の四部作を紙くずに貶めた。女子供には文学が解らない、と切り捨てることは余りにも簡単である。三島は女子供の読む小説を幼稚と軽蔑する。太宰は女子供に理解されないこと、或いは理解されてしまうこと、叱責されること、郵便受けに蛇を入れられていることに困惑する。そして「小説というものは女子供を騙すものである」などと語ってもみるのである。本心がどこにあるのか、例によって解らない。
 ところでこの『海』という文章、これが随筆に似せた小説であることは微妙にはっきりしている。ここでは『女人創造』という文章で語られた女の描き方「私はひとりになつても、やはり、観念の女を描いてゆくだらう。」が実践されているのである。
 太宰は、観念の女にポスト・モダニズム的批評家という役割を与えた。しかし三島はへこたれない。『斜陽』の敬語が間違っていると指摘した三島由紀夫はまた、「おしつこよ」を非難する。『斜陽』のもっとも有名なこのシーンは、やはり『女人創造』で元ネタの小話が紹介されているのである。
 
 朝、垣根越しにとなりの庭を覗き見してゐたら、寝間着姿のご新造が出て来て、庭の草花を眺め、つと腕をのばし朝顔の花一輪を摘み取った。ああ風流だな、と関心して見てゐたら、やがて新造は、ちんとその朝顔で鼻をかんだ。
 
 おかあさまのおしっこと同じ逆説である。渡部直巳ならあざとい「衝突の技巧」であると説明するだろう。これが観念の女なのかリアルな女なのかを議論するのは間違っている。観念的に描かれたものの中に、リアルな女人が感じられればいいのだ。考えてもみよう。従軍記者でもない太宰は、名も無き一兵士が波に攫われる瞬間を目撃することはない。太宰は、ルポルタージュをやると宣言しているのではないのだ。考え得る限りの微妙なものの微妙さを府抜けない描写で書こうとしているのである。観念的なものはリアルでないと決めつける議論の前提が間違っているのだ。
 三島の太宰に対するもう一つの批判は、自分に対する敬語に関してだった。私は少年時代それを尤もな指摘だと考えていたが、この十年間くらい良くテレビジョンセットを観るようになって、割りに硬い報道を観察していると、どうも物凄く偉い人は自分に敬語を使うらしいということが解って来た。「私がテレビジョン放送を拝見して」とは云わず「私がテレビジョン放送をご覧になって」と云うのである。太宰という人間を侮るとえらい恥をかく。
 自分は今度こういう小説を書こうと思う、四部作で、一部毎に主人公がいて、転生する…… などという予定を説明するみっともなさを感じられる太宰は「題にばかり凝つてゐるのもみつともない」とも語る。これは時間と空間を超えた辻邦生批判にも聞こえる。サリンジャーは「簡単にしたまえ」と言った。なんだか文学とは面倒臭いゲームである。
 
5 書くという行為のみっともなさ
 
 しかし太宰自身が作家という職業にプライドを持ちながら、同時に小説を書くという行為のみっともなさに苛まれた「恥知らずな」作家であることも間違いない。
 
  文士といふからには、文に巧みなるところなくては、かなふまい。佳き文章とは、「情籠りて、詞舒び、心の誠を歌い出でたる」態のものを指していふ也。情籠りて云々は上田敏、若きころの文章である。(『もの思ふ葦(その三)』)
 
こういう文章を書いたからといって、実際に優れた文章家であるとは限らない。他人の悪口だけが上手で、自分が何かやるのはからきし出鱈目という人間はいくらでもいる。
 
 猿蓑は、凡兆のひとり舞臺だなんていふ人さへあるくらゐだが、まさか、それほどでもあるまいけれど、猿蓑においては凡兆の佳句が二つ三つ在るといふ事だけは、たしかなやうである。(中略)凡兆の名句に師匠が歴然と敗北してゐる。手も足も出ないといふ状況だ。あつしあつしと門々の聲。全句で既に、わかり切ってゐる事だ。藝の無い事、おびただしい。
(『天狗』)
 
 中略の間に二人の句が並べられている。『市中は物のにほひや夏の月』『あつしあつしと門々の聲』である。太宰への反論という訳ではなく、これが「所謂、つき過ぎてゐる。」のは間違いない。しかし、こういう場合芭蕉は凡兆に対してなにやら批判的であったり、指導的な意味を込めている筈だと考えてしまう人が圧倒的に多いのではないだろうか。
 先生が生徒に、参りました、降参です、と言っても、それを客観的に見ていれば、ここで生徒が直ぐに天狗になってはいけないのだろうな、と逆転の筋書きを読む筈である。後で窘められる為に付け上がる天狗を、凡庸な物語のひな型としていつの間にか記憶しているからである。
 とりあえず、嗅覚で捉えた夏を、聴覚と視覚で捉え直したのだという説明は成り立つだろう。また、思いがけず良い句が出たので、それを引き立てたという弁疏も可能であろう。凡兆も去来も猿で、ただ蓑を欲しがっているだけなのだと言わんとしているという過剰解釈がないとは言えない。
 猿にとっては天狗になるのも、天狗にならないのも難しい。蓑を背負った猿が木から木へと飛び移れば、天狗に見えなくもないだろう。そういうことは人間にはできない芸当である。見事見事と拍手して見上げるしかない。少なくとも太宰は去来をそう見下している。

 芭蕉は連句に於いて、わがままをする事がしばしばある。まるで、投げてしまふ事がある。浮かぬ氣持になるのであらう。それも知らずに、ただもう面白がつて下手な趣向をこらしてゐるのは去来である。(中略)見事なものだ。滅茶苦茶だ。去来は、しすましたり、と内心ひとり、ほくほくだらうが、他の人は驚いたらう。まさに奇想天外、暗闇から牛である。始末に困る。芭蕉も凡兆も、あとをつづけるのが、もう、いやになつたらう。それとも知らず、去来ひとりは得意である。(同前)
 
 この理屈をなぜ凡兆に当てはめられないかと考えてみる。鮮やかな良い句を作ることが芭蕉の狙いではない。弟子のうち最も華麗だったと言われる其角にわびさびがあるのかと問われた芭蕉は、あると答えている。凡兆にもあると答えるだろう。去来にも、やはりそれはあるのだ。ただそれは去来の、凡兆の手柄ではあるまい。芭蕉という師匠、批判者がセットになって、凡兆の小気味良さがわびをもち、去来の滅茶苦茶がさびを持ち得たのではないだろうか。
 太宰の“こころ"などを読み解こうとすると、人は強烈な自意識と、鎧、様々に張り巡らされたブービー・トラップにうんざりする。自嘲しているかと思えば、自嘲している自分というものを十分意識していて、なあんだ案外計算高い奴だなと気が付く。しかし、その計算高いのも、自分の弱さをどうにかして守ろうといういじましい算段なのだと知れて、ちょっと同情してしまう。そうして同情されることを期待しているのだろうと、誰某に咎められたと愚痴を零す。そういうぐるぐる批判の外側で、古典に学び、技巧を駆使する作家としての意識もあれば、自身の作家性などとは一切関係なく、ただ苦悩を吐露しているふりもある。観察者がどこで追求を止めるかで、太宰治像というものの描き方は決まる。
 ただ太宰が(一面的な傲慢さを隠す為であるにせよ)文章を書く上で、あらゆる権威を疑ってかかったことは間違いがない。日本の文学者など、みんな馬鹿にしているのが分かる。佐藤春夫、井伏鱒二という師を始め、幸田露伴、尾崎紅葉、徳富蘆花、志賀直哉、島崎藤村、…… もう誰彼となく切り捨てている。ドストエフスキーがいい、などと言う日本人の殆どは、単に日本文学というもの全体に批判的であるに過ぎないということがある。太宰は自分を軽蔑し、自分の作品を読みもしない青年が来易いからというだけの理由で自分を訪ねて来ることを『困惑の辞』で書いている。ゲーテや漱石、鴎外でない自分に対してではなく、太宰は自己批判を繰り返していた。太宰の文学は常にぐるぐる批判者の視点を持つことで成立している。なかなか偉くならない。謙遜と有頂天を組み合わせると偉い文豪が出来上がる。太宰はなかなか偉い文豪にならなかった。
 謙遜も有頂天も自意識が欠如した状態である。自分が本当に立派なことをした時、「いやいや、それほどでもありませんよ」と謙遜するのは単なる上辺だけのことで、「下らないことをしやがって」と誰かに批判でもされれば、「真似出来るならやってみろ。よく知りもしないで偉そうに言うな」と憤慨するに違いない。躁鬱どちらの感情にも強烈なリアクションを起こすのが、太宰の肝である。小説ではもっぱら鬱を押し出しているが、太宰を舌先三寸で女子供をだまくらかす極悪人だと考えている人は、随筆の明るさ、健全さ、を「証拠」のように指摘するだろう。そんなものは証拠でもなんでもない、ということが別の随筆を読めば分かる。そしてまた無限のぐるぐる批判の渦に飲み込まれてしまうのだ。
 太宰が「自分は天狗になっていた」と書いたら、「ああ、反省をしているんだな」と受け取ってはいけない。「反省をしていることを正面に出して、いかにも自分は正直でけして思い上がってなどおりませんと傲慢にも主張しているに違いない」と受け取るべきなのである。何故なら、太宰は登場人物の心をそういう風に分析してるからである。こういう批判の仕方をすれば、どんな善行も醜くく思える。
 庄司薫氏の『さよなら、怪傑黒頭巾』に政略結婚する登場人物が出て来る。二人はデパートの家具売り場で、ベッドを選ぶ。新郎は新婦がベッドに腰を下ろしてスプリングの具合を確かめると、自分も真似をしてはしゃぐ。いかにも浮かれた新婚さんを演じるのだ。そのわざとらしさに、新婦は忿る。新郎は、君と結婚出来るのが嬉しくてはしゃいで何が悪いと開き直るが、新婦は納得しない。そういうプロットだったと記憶している。ベッドにぼよんぼよんで忿られたら無邪気な新郎が可哀想だと思う人と、ベッドにぼよんぼよんなんてあんまり女を馬鹿にしてるわと忿る人が両方いて可笑しくない。無邪気とわざとらしさの区別は難しい。だが太宰の文学は「ベッドにぼよんぼよんなんてあんまり女を馬鹿にしてるわ」という視点を持つことのできる人のものである。
 太宰の自意識はおためごかしを排除し、微妙なものの微妙さを追いかけることで“批判者故の正しさ"をキープする。こういう相手が凡兆を持ち上げ、芭蕉を批判しても素直に受け取る訳にはいかない。例えば太宰は、この文章を書きながら凡兆を全然認めていなかったという可能性もある。「なるほど凡兆の方が芭蕉よりもいいなあ」と真っ正直に理解したつもりの読者に対して、こころの中で嘲り笑いを浮かべているかも知れないのだ。「なんだい、だらしないことだ。私が凡兆を持ち上げれば、凡兆が良いと言い出し、もし去来を立てていたら、たちまち去来は凄いなどと言うつもりじゃないだろうねえ。そうしてみると、実は芭蕉の名声も、おまえさん達提灯持ちに支えられた中身のないものだったんじゃないかね?」などと考えていれば、『天狗』は一回捻った芭蕉批判ということになる。
 そう考えるのには、理由がある。太宰はけして凡兆を持ち上げ過ぎるつもりはないのだ。凡兆を一瞬持ち上げるのは芭蕉批判の為である。そして芭蕉の先にあるものを批判する為である。
 
俳句は樂燒や墨流しに似てゐるところがあつて、人意のままにならぬところがあるものだ。失敗作が百あつて、やっと一つの成功作が出来る。出来たらそれもいいはうで、一つも出来ぬはうが多いと思ふ。なにせ、十七文字なのだから。
 
 最後にまた自己批判があるにはあるが、やはり太宰は去来・凡兆・芭蕉という名に聞こえた俳人を評論している訳であり、そういう太宰の態度を分の過ぎた行為と受け止める人がいても可笑しくはないだろう。では誰にその批評が可能だろうか。現代の賢明な読者の皆様に? 芭蕉一人に? 太宰の文脈は、読者にはもっと素直に謙虚にただ微妙なものの微妙さを読むことを求めている。芭蕉にも審査員の資格を認めていない。自分にも。
 いやいや、太宰という人は、自分にだけその特権的な視点を無根拠に与えた我が儘で独りよがりの作家なのですよ、と太宰自身が反論するかも知れない。だからと言って、太宰が清廉潔白、公正無私の人だという証拠にはならない。何度も言うが、太宰という人は切りがない人である。しかし一つ言えることは、太宰が、ある微妙なものの正確さを求めることから生じる恥ずかしさを書くことの不可能性として意識していたということである。また必然の動きや頓才では支配し切れない文学という現実を見据えていたのである。ああ、一つ言うと断って、二つの事を言ってしまった。やはり、文学は支配し切れない。
 
6 レトリックとは何か
 
 ここで改めて微妙さを求めるレトリックの発生する理由について考えてみよう。何故微妙さを求めるレトリックが発生するのか、という問いは、既にレトリックに関する私の認識を含んでいる。レトリックとは使いこなすべき技術で、発生するものではないと考えて考えられないことはない。
 全ての文章にレトリックというものは内在されている。レトリックを完全に排除した文章などというものはあり得ない。けれども「レトリックを多用した文章」であるとか「レトリカルな文章」と呼ばれるものがある。反対に「レトリックを最小限に抑制した文章」というものもある。しかし本当に作者はレトリックを支配しているのだろうか。人はレトリックを「使いこなせる」ものなのだろうか。 1945年8月9日、つまり長崎に空から原爆が落っこちて来た日、思想犯として(疥癬と栄養失調で?)長野監獄で憤死したマルクス主義者、戸坂潤の『論文の新しい書き方』という文章には、こういうくだりが出てくる。
 
 処で、事物には凡て表と裏とがある。事物を処理するためには、表と裏の両面から這入って行かねばならぬ。之は論文の作文法の問題ではなくて、事物そのものの性質が文章に対して一般的に要求する処だ。反語や逆説やアフォリズムという作文様式は、この要求から使われるのであって、特に反語や逆説やアフォリズムを使って見たくなったから使う、というものであってはならぬ。又そういうことは、本当は不可能なのだ。こうしたものを何か便宜的なものと考えている人があるとすれば、浅墓の極みである。物を少し親切にリアリスティクに掴もうとすると、そう棒ちぎりを振り回すようには行かなくなる。(『近代日本思想大系28 戸坂潤集』P.432・筑摩書房・1976年)
 
 修辞という言葉の語源は『易経』にある通り、君子の徳として日頃使う言葉に誠を与え、正しく使いこなすことである。西洋のレトリックは、修辞学教師アウグスティヌスの場合にそうであったように、聖書をより正しく解釈する便宜理論であった。或いは後期ストア派にまで溯って考えると、意外な結論を論理的な真理として導くテクニックであったと解釈できる。
 戸坂の文章は小説に関して述べられたものではないが、そう耳新しい内容がある訣ではない。しかし、戸坂はここで“新しい"ことを述べているつもりなのである。その新しさとは、主体が文章様式を決めるのではなくて、対象が文章様式を決めるという発想なのだろう。この論旨そのものが逆説の形式になっている。そこから先には「事物そのものの性質が文章に対して一般的に要求する」を翻訳調の文章であるとは認めるが擬人法だとは認めない解釈と、あるいはこれを擬人法として扱う解釈の二種類があるように思われる。
村上春樹は『回転木馬のデッドヒート』のモチーフについて「この話は書かれたがっている」と認識した。或いはそうレトリカルに表現した。戸坂の言う「要求」というのも主体の受け止め方の問題なのだろう。「事物そのものの性質が文章に対して一般的に要求する」を翻訳調の文章であるとは認めるが擬人法だとは認めない人は、戸坂の文章がそれほどリアルには感じられないが妥協して理解してしまう人だ。もう一方のタイプの人は、戸坂の文章にひっかかりを感じ、理解することを保留にするだろう。何故なら、「事物そのものの性質が文章に対して一般的に要求する」までは翻訳調でいいとして「特に反語や逆説やアフォリズムを使って見たくなったから使う、というものであってはならぬ。又そういうことは、本当は不可能なのだ」という箇所は筆の流れに見えないだろうか。「リアリスティックに物事を掴もうとすると」という前提つきでも、「不可能」と言い切っていいのだろうか。本当に「不可能」なら、何か理由がある筈だ。(尤も殆どの場合レトリックというものは、受け手の寛容さによって支えられているとみなされるべきであろう。また妥協を許さないと見える人がどこまでも妥協をしていない訳ではない。必要に応じて頑固さを使い分けているに過ぎない。)
 丸谷才一が三島由紀夫のレトリックを批判した際に、あるいは柄谷行人が高橋和己のレトリックを批判した際には、この戸坂の文章にあるような内容について何度も繰り返して考えるべきであると私は思った。現実から乖離しているとみなされるようなレトリックというものがある。或いはただの言葉遊びに過ぎないという言い方がある。戸坂潤が三島由紀夫や高橋和己のレトリックを目にしたら、あっさりと、単なる言葉遊びだと決めつけてしまう可能性がないではないなという気もする。

必要なことは、クリティシズムの機能が何よりも認識論的なものだという根本着眼である。
 
 私はある種のレトリカルな表現が、突飛な外見に拘わらず、より正しい認識と表現を求める不可能性への試みであると考えている。しかし、対象が表現を支配することはないのではないかと疑っている。或いは、『易経』式の修辞よりも、言葉遊びの浮遊感覚を楽しむストア派のレトリックの方がポスト・モダニズムの批判に対してタフであり、時に思いがけない微妙な真実を言い当てる可能性を秘めているとさえ感じる。微妙なものの微妙さを表現の中に求め工夫するのは、大砲の機能でも兵士の性欲でもなく、真摯な文学者の意志である。
 
7 書く資格のなさ
 
 全てを肯定できる詩的情熱に満たされ、真実を直感したと告白する人は嘘を言っているのではないだろう。しかし、そう思い込む人が大勢いて、そういう人の思い込みが大抵は空回りしているのも事実である。厳しい言い方をしてしまえば、村上龍と云う希有な天才を除けば、誰も足の指の先から記憶を呼び戻してまで小説を書くことは出来ない。
 数年来不況の極みにある文学界では特に、読まないで書こうとする病を持つ新人の卵に対して手厳しい。新人賞の応募者が定期購読者の数を超えた文藝雑誌が廃刊となり、足の指の先から記憶を呼び戻して書くことができない人が棒ちぎりを振り回すように失敗作をちゃっちゃっか書いていると言って、小説を書きたがる素人を批判する声は益々大きくなった。しかし吉目木晴彦氏が小島信夫氏との対談で明らかにしているように、昔も多くの作家はデヴュー前には同時代の文学作品を(馬鹿にして)読んでいなかった。読まないで書こうとする病が批判されるのは新人の質が落ちているからではなく、新人以前の人に「誰でもが小説を書くことができる」という思い込みが広がっているからであろう。
 そしてまず問題にすべきなのは、「誰でもが小説を書くことができる」という思い込みが広がっていることではなく、例えば芥川がそうであったように、文学者の、文学愛好者へ対する高慢ちきな嫌悪感の方ではないかと思う。
 読まないで書こうとする病、誰でもが小説を読むことができるように誰でもが小説を書くことができるという安易な思い込みに対する批判は、出版サイドから家畜人としての大衆に対する「書かないで読むという病に罹れ」という命令にも聞こえる。本が売れないで困っている職業作家の悲鳴にも聞こえる。しかしそんな揚げ足取りが届かない位置から、やはり芥川は書く資格のない者が書くことを批判している。
 誰かは書くべきであり、誰かは書くべきでないとして、書いてもみないうちからどうしてそのような区別が可能だろうか。或いは人はどのようにして良い読者に落ち着くことができるのだろうか。
 書かないで読むという行為は、みっともなくはないと思われている根拠は何だろう。そもそも人は『関東大震災』という題名であれ、何であれ小説などを書くべきではないのだろうか。この地上のあらゆる人々が、原動機付自転車にミネラルウォーターのペットボトルを積み込んで被災地へ向かうように、自分に可能な範囲で精一杯の小説を書くことがみっともない根拠はどこにあるのだろう。
 そういう問題に実存主義的な立場から肯定的な答えを出している人々もいる。一人一人の世界内存在的実存へのチュチェ的なアンガージュマン(?)が肝心なのであれば、へぼ将棋やへぼサラリーマン川柳同様、誰でもが実存主義的小説を書くことが許される。そういう答えには一応の尤もらしさというものがない訳ではない。しかし主婦のメルヘン童話なり、定年退職したサラリーマンの自分史なりというものは、単なる暇つぶしの代謝行為であり、辻のパースペクティヴ小説や、{役立たず}の藝術小説と同列に論じることはできないのではないか、という感情を一端は切り捨て、そこからはい上がって来るものだけをより分けるべきであるのだろうか。
 どのような動機で、どのような偶然に支配されて書かれたにせよ、肝心なのは面白いかどうかということだけであると私は考える。楽焼が偶然の産物かどうかということは別として、寺山修司が主張した通り、酔っ払いの戯言が的を得ているという偶然がないでもない。
 ところで、そもそも私の疑問は図書館や大きな書店に入った瞬間に感じるある種の不快感から発している。図書館や本屋に出入りする度、私はいつも「本は多過ぎる」と感じている。洒落にならない量であると思う。だから誰かは書くべきであり、誰かは書くべきではないと考えている。また書かれるべき小説があり、書かれるべきではない小説があるのではないかとも考えている。しかしそれをトーハンやニッパン以外の誰がどう区別するべきなのか、正確な答えを得られなかった。
 例えば森鴎外は、年老い目の弱くなった祖母の為に『即興詩人』を大きな活字で出版してもらった。兎に角矢鱈と聳え立ちながら、その圧倒的な迫力故に後世に影響を及ぼさなかったと言われる『即興詩人』であるが、少なくとも鴎外の祖母と鴎外の二人の間では、それは書かれるべき(翻訳)小説であり、読まれるべき本であったのだ。しかし『即興詩人』には別の使い道もある。『暗夜行路』を写経して小説家になる人はいるかも知れないが、『即興詩人』を書き写しているとつい良い読者に収まってしまうのではないかと私は期待して居る。鴎外も昨今の文學界を予測し、憂え、お手本として写すのに便利なように、大きな活字にして立ちはだかったのではないだろうか。
 
8 読まれない本を書くこと
 
 出版を拒否された傑作がある。沼正三氏の『家畜人ヤプー』は最初某出版社に持ち込まれ、社内でも色々意見が分かれ、そして結果的には出版を拒否された。それは『家畜人ヤプー』に足の指の記憶が盛り込まれていないからではなく、また思い込みが激しいだけで表現が空回りしている素人の杜撰な作品であったからではないだろう。恐らく編集者は派手な演出に目を眩まされて、そこに書かれている微妙なものの微妙さを受け止める事ができなかったのだ。これはたった一度の奇跡的な偶然ではない。このような事態はしばしば起こり得る。
 しかし埋もれ木に花が咲いた。ここに因果律の文脈で記述された歴史観への疑問が生じる余地がある。
 そもそも「本は何故売れるか?」という問題がある。本屋で立ち読みをして面白かったらもう買わなくてもいいのである。面白そうだったり、ご贔屓筋だったりして買う訳である。(そもそも贔屓の作家との最初の出会いというものは、専ら恣意的な現象ではないだろうか。)面白そうで、実際に面白くない本であっても、本を買ってしまったらそれは売上記録となり、宣伝になる。従って面白くない本が、後にどれだけの苦情を処理することになるかは別として、宣伝だけで売れてしまうということがなさそうではない。また、面白い本が売れるとも言い切れない。面白いかどうかは、読んでから決まるのだから、売れなければ面白さは分からない。
 従って「売れる」→「面白い」という因果律も「面白い」→「売れる」という因果律も両方成り立たない。これは出版という現象にも当てはまる理屈で、面白い作品が出版されるとは限らないし、出版されるのが面白い作品だとは限らない。この理屈は出版業界の関係者にとっては常識である。つまり、 面白くなくても売れる本を出版すれば出版社には利益が出るのだから、必然面白いものよりも「面白そうなもの」に価値がある。
 或いは『家畜人ヤプー』も、面白そうだから出版され、面白そうだから売れたのであり、『楢山節考』と並ぶ傑作として三島由紀夫に認められるまでは、『家畜人ヤプー』のその微妙な面白さそのものには誰も気がついていなかったのかも知れない。或いは三島由紀夫でさえ、『家畜人ヤプー』のその微妙な面白さを理解していなかったかも知れない。『即興詩人』同様、『家畜人ヤプー』も聳え立つばかりである。
 芥川龍之介と云う作家は一般に聳え立っているとは言われない。昔から教科書に使われ、小学生か、遅くとも中学生までに〈卒業〉されてしまう作家の一人だった。(同じく気軽に〈卒業〉され易い作家に太宰治という作家も入るらしい。)しかし、その芥川自身が、百年後には自分の本が図書館の片隅で埃を被って誰にも読まれないでいる姿を思い描いていた。こういう予測というものは得てして外れるもので、実際には芥川は今でも読まれ続けている。芥川が酷評した稲垣足穂の人気もここしばらく続いている。しかし、読まれているから、売れているからと言って、一語一語味到されているかどうかは確かではないし、微妙なものの微妙さが伝わっているとも限らない。さらにこうも言える。書いている本人が、自分の書いている文章を理解しているとも限らない。今目の前にないもの、これから訪れる崩壊、後に書かれる批評、そういったものに対して聳え立つことのできる小説は、歴史の一回起性を否定し、因果律を否定してしまう。しかし、そんな不適切なからくりを限界制御することはできない。
 傑作が出版を拒否されることが奇跡的な偶然ではない。寧ろ偶然とも、或いは好意的に奇跡とも呼び得る経過を経なければ、面白い本が読まれることはない。しかもそれがどの時代の空気を呼吸し、生き返るかは予測がつかない。小説が百年後に読まれる為に、芥川が仕掛けたからくりは、激しい社会情勢の変化や戦争、そして大地震という事件を題材にしないという方法であった。それは恐らく、微妙なものの微妙さを書くことこそが文学だったと心得ていたからであろう。
 
 「どうしてそんなにこの子が好きなの?」リーダー・ルイーズがペギーに尋ねた。
 「わかんないわ」ペギーがいった。「黒板の前に立っているときの格好が好きなのよ」 (『倒錯の森』P.62)
 
 例えばサリンジャーの小説の中のこの一言は秀逸である。読みながらそう私は感じた。サリンジャーもそう感じたらしく、作品の中で登場人物たちにもこの台詞は面白がられている。この一言は微妙なものの微妙さを描いている。こういうものが文学の核であるべきではないのかと私は感じた。勿論ここで微妙なものの微妙さを表現しているのは気の利いた台詞であるが、台詞だけが文学の核で、綿密な描写は裏方さんという訳ではない。
 
「汽車の切符を買うたびに、全額払う必要があるのかなと思うのです。自分の手に普通の大人の切符があるのを見ると、ごまかされているような――欺し取られているような――気がしたんです。十五になるまで、母は車掌にぼくを十二歳未満だと言っていました」 (同前P.105)
 
 これはサリンジャーの文章であって、太宰治のものではない。私はこの文章がとりわけ好きではないが、このような繊細な描写がまた、文学の核の一つではないかと感じた。私が感じたものの根拠を説明するのに、二十年前なら、それは「感性」と呼ぶだけで事足りていたのではないだろうか。しかし類型化された「感性」を棒ちぎりのようにふりまわす人々にうんざりした人によって、日本では「感性」という言葉を用いる事が法律的に禁止された。もともと何とも呼べない微妙なものに名前をつけたのだから、「感性」という言葉からは、自分の子供に伽沙鈴(キャサリン)だの或振土(アルフレッド)だのと名付ける親の無神経さのようなものが手入れを怠った鼻毛のように常にはみ出しているに違いない。
 しかし無神経さが文学の敵という訳ではない。サリンジャーは例えば中国料理店で繰り返しデートをすることに、ある種の違和感、おかしさを感じられる人間であった。それだけではない。無神経さに近い冷徹さ、思いやりのなさ、下品さを嗅ぎ取っていた。そしてそれを料理した。
 太宰治に『黄村先生言行録』という小説があり、そこでは老文学者が玉子どんぶりを食べることが恥ずかしいことのように書かれている。太宰にとっては、文学者が玉子どんぶりなぞを食べるという行為は偽物の証明ともなるのだろう。この太宰の基準がどうかということは別として、太宰はやはり黄村先生の玉子どんぶりを小説に料理した。
 
  ついに彼が彼女にキスしたとき、彼女は、仕方なく会社のカクテル・パーティからもどったばかりのところだった。
  それは中国料理店での出来事だった。 (同前P.108 )
 
 このようにして、サリンジャーは二人の下品さを強調する。太宰が玉子どんぶりを食べた老人に赤面したのと同じ、批判性に満ちた態度であるけれど、
 
  それは世間一般の熱の冷めた夫が会社からまっすぐもどって居間をちょっとのぞいて妻にするような、おざなりな熱のないキス だった。 (同前P.108 )
 
 むしろ、こういう表現よりも中華料理批判の繰り返しの方が、憎々しさを表現するのには効果的ではないだろうかとは思う。「それはおざなりのキスだった」と書くことでは満足できない精神が「世間一般の熱の冷めた夫が会社からまっすぐもどって居間をちょっとのぞいて妻にするような」という目の前にありもしない余計な妄想を書かせる。それは悪いことではないが、今ではそういうレトリックこそが才能の不足を補う小器用さと区別がつかない。
 中華料理店でキスをすることがおかしいのは、ある前提の下ではそれが微妙なものの微妙さを突いた演出であるからである。サリンジャーは『フラニー』で巡礼者に感心する女の子の目の前で、デートの相手に蛙の足を食べさせたりもする。そして皿の中で落ち着かない蛙の足にデートの相手の二年生ぶりっこは「じっとしてろ」と毒づくのである。巡礼者を批判しているのである。この箇所、台詞にも描写にも微妙さはない。設定の微妙さが巧みなのだ。
 サリンジャーのジョークを解説しているのではない。
 
 「君が着てるのは立派な水着だね。ぼくの好きなものがあるとしたら、それは紺の水着なんだよ」
シビルは彼を見つめた。それから彼女の突き出ている腹を見下ろした。「これ黄色なのよ」彼女はいった。「これは黄色なの」

 
「コネチカット州のワーリィ・ウッドよ」そういって彼女はおなかを突き出しふたたび歩き始めた。
「コネチカットのワーリィ・ウッドか」若者はいった。「そいつはもしやどこかコネチカットのワーリィ・ウッドの近くじゃないかな?」
 
 この二つの陽気なジョークは、『バナナフィッシュに最良の日』の冒頭に出てくる。さてこの有名なジョークだが、私は最初これを「あからさまな錯誤」というありふれた技巧として受け止めた。勿論実際にはどのようにかして笑ったに過ぎない。私同様このヴァリエーションを既に別の機会に気軽に笑った経験がある人は少なくない筈だ。しかし、結末を読んで混乱した。 『バナナフィッシュに最良の日』は早とちりな解説者によって「頭のおかしい男が訳の分からないことを言って自殺する話」と平たく要約されても可笑しくない話なのである。
 ここには微妙な問題がある。私は最初頭のおかしい男を笑ったのである。この引用をボケとみなすことは「色盲差別」であり「精神異常者差別」なのだろうか。
 
 「ぼくの脚は二本ともまともなんだ。だのに、なぜどいつもぼくの脚をじろじろ見るんだか、さっぱり見当がつかん」若者は言った。
 
 確かに脚はまともだろうが、この台詞は正常ではない。ここにある異常さは、周囲の神経を尖らせる警戒音を発している。冒頭の引用のようには笑えない。ただ、そうしてみると、頭の可笑しい人間の行為が全て顔を背けるべき悲しい出来事に繋がると考えることの方が貧しい差別的な発想なのではないかと思えてくる。「この男は頭が可笑しい」という先入観を無視すれば、冒頭のジョークは笑える。「この男は頭が可笑しい」という先入観を無視しても、「脚を見るな」の引用部分は笑えない。
 結末から振り返ってみると、いかにも『バナナフィッシュに最良の日』は良くできた話である。微妙なものの微妙さを表現していて、「頭のおかしい男が訳の分からないことを言って自殺する話」という平べったい要約を拒否したくなるまで真面目な読者を解放しない。だまし絵の構図であり、読者の視座によって雰囲気が変わる。例えばこういう構成の微妙さ、粗筋や梗概を拒否する神経質さというものが、何か価値のあることに感じられる。
 
 
9  文学的問題を列挙せよ
 
 しかしそもそも何が問題であるのかが一向に分からない、と火掻き棒を突き付けられたとして、まずは、火掻き棒を下ろしたまえ、と言うしかない。
文学的問題と呼び得るものが、芥川に『関東大震災』という作品のないという事実の中にある。
 芥川の全作品中、私が最も好きなのは『芋粥』の中のきつねの使い方である。きつねを捕まえて伝令を頼むのであるが、この部分を筋に搦めて要約することはできない。或いは引用も用をなさない。きつねの伝令など実際は役に立たない筈なのだが、小説としては見事に役に立っている。しかし、きつねに何か政治思想なり哲学なりが込められているのではない。言わばきつねは演出の一つである。芥川は微妙なものの微妙さを追いかける文学者であったと思う。また、小説にしかできないものを意識しつつ書いた人だと思う。芥川は関東大震災を小説に書くことを、小説で戦争をするような、又日頃の大小便について書くくらい幼稚で下品なことであると考えたのではないだろうか。それはもう小説ではない。
 アランの『芸術に関する101章』にはこんな事が書かれている。


    彫刻がおしゃべりになると、私は、そっぽを向く。音楽が描写をすると、私は、そっぽを向く。(中略)どの芸術に対しても望みたいことなのだが、他のジャンルの言語を使って片言を並べるよりも、おのおのの芸術に固有の言語を使って、はっきり語ってもらいたいのだ。
 (アラン/斎藤正二訳/『ちくま哲学の森6 詩と真実』1989年/)
 
 芥川の全集には必ず「うんこの手紙」が紹介されているが、あれは小説ではない。太宰は書簡集を出すくらいなら作品集の装丁を良いものにするべきだと主張した。サリンジャーが『サリンジャーを捕まえて』の出版を巡って裁判を起こしたことは有名であるのだろうか。このあたり、まるで動物園の象でも見たがるやうに作家に会いたがる人を嫌った芥川と共通するものがないとも言えない。
 作品そのもの以外で評価されなければ出版が可能でない時代には、作品のみで勝負をしようという青い気概が懐かしい。またその青い気概が、九割の人には理解されない作品を残し、百年後の図書館で埃を被った自らの全集を夢想した秀才芥川龍之介のものであることを考えると、ある微妙な感情にたどり着く。しかしそれはとても微妙な感情なので、描くことが不可能なのである。ああしかし、これは批評に固有な言葉ではないなあ。
 
 
 
 
 
 
 

 
 
※1
サリンジャーのくるぶしへのこだわりが最もはっきり表現された作品は『ナインストーリーズ』の中の『コネティカットのウィグリおじさん』のこの部分である。
 
……そんな時でも、あの人面白いこというのよ。『かわいそうな足弱おじさん』ですって。わかるでしょう。『おじさん』ってあたしのくるぶしのこといってるのよ。『おじさん』と『くるぶし』と発音が一緒でしょう。だからそういったのよ。本当に素敵な人だった。 (『コネティカットのウィグリおじさん』P.34)
 
ただし、それが全てではない。サリンジャーは「なぞり」の面白さを工夫した作家のように思える。例えば『コネチカットのウィグリおじさん』には
 
……アラスカで餓死した四人の男のことを書いているという話だわ。主人はその本の題名も覚えていないのよ。でも今まで読んだ本のなかで文章が一番いい本だとかいうのよ。とんでもないわ。エスキモー人の住むような家で飢え死にした四人の男についての話だからあの人が好きなのよ。 (P.37)
 
という文章があるが、『エスキモーと戦う前に』には「気抜けしたようにかがみこんで、彼は裸のくるぶしを掻いた。」「セレナの兄はくるぶしを掻きつづけた。」という文章がある。『笑っている男』には、
 
「ほっといて」彼女は答えた。「お願いだからほっといてちょうだい」わたしは彼女をまじまじと見つめ、それからポケットからみかんをとり出し、それを宙に放り上げながら、ワァーリァ軍のベンチの方へ歩いていった。 (P.70)
 
という「困った時のみかん」が出てくるが、「こまった時のみかん」は『ズーイー』にも登場する。細かく調べあげれば、こういうなぞりはいくらも見つかることだろう。またなぞりなのかなんなのか判断のつかない類似性というものもある。例えば『テディ』には、


彼はツイン・ベッドの一方、すなわち舷窓から奥まった方のベッドからしゃべっていた。ため息というよりはむしろ鼻声になって、あたかも、どのような種類の上掛けにしろ、彼の日焼けして衰弱ぎみの身体では、とても耐えられたものではないといったふうに、いきなり憎らしげに彼は上のシーツをけとばして、くるぶしをすっかりあらわにした。 (P.154)
 
彼は靴下なしで、ひどく汚れた白いくるぶしまでのゴム底靴と長すぎもするし、尻の部分が少なくともひとまわり大きすぎる亜麻織の短ズボンに、右肩に十セント白貨ほどの穴のあいた洗いざらしのTシャツと、それに不釣り合いなほど見事な黒いワニ皮のベルトを身につけていた。 (P.154)
 
という具合に“くるぶし"へのこだわりがさりげなさを装いつつ表現されている。
 
 
 
 芥川は一語一語味到するように自分の作品を読む読者を嫌いではなかった。その芥川に「夏目さんにしてもまだまだだ」と断じられたことを知れば、漱石はやはり腹を立てただろう。芥川が漱石の評に満足していたとは限らない。芥川が師であれば、漱石は見いだされなかったかも知れない。冷静に見て、芥川と漱石はそりがあわなかった。芥川の尊敬していたのは森鴎外である。鴎外には翻訳で『大地震』という小説がある。従って芥川は『関東大震災』という小説を書けなかったのである。
 
太宰はニキビと鉢の広さをわざとらしく嘆いている。これはアバタ面の漱石と、巨大な頭を細い顎に乗っけた芥川への屈折したオマージュではないだろうか。
 
 (黒岩は有名人無名人の区別なく、妾を持つことのスキャンダルを報じたに過ぎない。鴎外の権威を貶めようとしていた訳ではない。たかが妾の住所氏名を公表しただけで、鴎外の人物像を描いた訳でもない。)



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