夏目漱石作品中一二を争う美人と思われがちな美禰子だが、果たして本当に万人受けする美人だったのであろうか。その美しさは三四郎にとってだけのもので、ちやほやされているようでありながら、その実かなり個性的な美しさだったのではなかろうか。
与次郎に言わせると美禰子は出っ歯らしい。肌は狐色、九州色である。人の好みはさまざまだろうが、美禰子は万人受けする美人だったのだろうか?「ばかだなあ、あんな女を思って。思ったってしかたがないよ」と与次郎は美禰子に魅力を感じている様子がない。「里見さんを描いちゃ、だれが描いたって、間が抜けてるようには描けませんよ」ともいうが、美人だとは言っていない。
鉄漿の時代にはない美、白い歯の美が強調されている、一重瞼の涼しい目元よりも二重瞼のきりっとした目が新しい時代の女だ、と見做すべきなのだろうか。狐色の肌が評価されるのは、アグネス・ラム以降の事である。色黒が好まれるのは『三四郎』一作のみではなかったか。乱杭歯が大衆に評価されるのは石野真子以降の事である。出っ歯が評価される時代はまだ来ない。
反っ歯を好むのは勝手、黒い肌を好むのも勝手とはいえ、狐色の肌の反っ歯がヒロインになる小説には心当たりがない。北大路魯山人は「昔から狐色に焼くのを最上としておったようだが、ところどころ濃く、ところどころ狐色に丁度鼈甲の斑を思わせるように焼くのが理想的である」としているがこれは餅の話である。
こんな感覚が当時ありふれたものであり、アグネス・ラムが登場するまで続いていたのだろう。
マドンナも色白だ。よし子も色白で背が高い。これは大塚楠緒子のイメージだろうと大体百億兆人くらいが書いている。乳酸菌か。
クレオパトラに擬せられる藤尾もどういう了見か色白である。三千代も蒼白い女である。
『こころ』の先生の奥さん、元お嬢さんも色白の美人である。
どうも先生はお嬢さんの色の白いのが衆目を集めるのがまんざらではなさそうだ。そういえば『明暗』の津田の細君、お延も色白である。
このお延はやはり「美人」という印象を受ける。一重瞼の控えめな美人。性格も健気で大人しい。
そりゃ現代では肌が白いの黒いのとの議論が差別だとやかましいが、むしろ三四郎が、
……と断定しておきながら、その一方で、
こんな青白いよし子にも惹かれるところが妙と言えば妙なのである。いや、そもそも四日市の女が九州色で、美禰子が狐色で、どこの日サロで焼いたのか解らないのが不思議なのである。「私が美禰子のモデルです」と太田静子みたいな人が現れたら、太宰治の『斜陽』のような落ちになって面白いのだが。
私はこれまでこの問題を、いきなり「九州色」と呼ばれる京都で乗り合わせた女、名古屋で同宿した女、そして「関西線で四日市の方へ行く」ことからどうやら和歌山辺りに里があるらしき女の問題と併せて、「九州出身でもないのに九州色問題」に置き換え、さらに「京都出身なのに九州顔の明治天皇問題」に置き換えて論じてきた。明治天皇が九州顔なのはおかしい。和歌山の女が九州色なのはおかしい。呉に住んでいたから黒くなるわけではなかろう。この四日市の女を九州色とすることには無理があり、明治天皇が九州顔であることにも無理がある。
つまり私はこれまで極私的な「三四郎の女性の好み」の問題を、明治天皇すり替え説として論じてきた。夏目漱石のスタンスは何が何でも天皇制反対というようなものではけしてない。昔の封建領主の方が天皇より偉かったと講演しながら、天皇の御幸の際にはわざわざ袴をはいて見物に並ぶなど、「天子様」に対する礼節には保守的なものが見られる。その一方でまた、天皇神話や、天皇の神格化には応ずる気配がまるでなく、軽々しく皇祖に言及することはなく、万世一系という観念にも組しない。
この奇妙な文章はどうも天智天皇を批判しているようにしか受け止められない。無論血相変えて怒鳴り散らすというよりは、すっとぼけた当てこすりである。
桓武天皇の母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠、先帝の光仁天皇は天智天皇の第七皇子、このあたりの天皇は複雑な政争の結果としてあり、とても万世一系などと言えるものではない。しかし、そうした天皇家のいかがわしさと、三四郎の色黒好みはどう関係しているのだろうか?
あるいは全く関係のないものなのだろうか?
いささかこじつけじみてはいるが、時代背景を考えると、三四郎が色黒の女性を求めることと、皇室問題とは全く無関係であるとは思えないのだ。
美禰子がよし子の縁談の相手に貰われていくことも、単なる偶然とは思えなくもない。
年齢も近い。ただこうして「陰謀説」じみたことを書き連ねていても、今一つすっきりしないので、この問題はペンディングとしたい。今のところこの「美禰子は美人なのか? 三四郎の好みが変わっているだけではないのか?」という問いは→「何故三四郎は色白のよし子にも惹かれながら、女の色は狐色でないと、などと断定したのか」問題と置き換えられ、その答えは明確ではない。
①なにやら皇室問題と無関係ではないような感じがなくもない
②しかし白黒つけられる感じもしない
……としておこう。本の売れ行きが芳しくないので、今日は気分が乗らない。
【余談】反っ歯について
三島由紀夫が『仮面の告白』で反っ歯についてこんなことを書いている。
なるほど、人の好みはそれぞれだ。