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読み誤る漱石論者たち 阿刀田高⑤ 神の論理?

 夏目漱石の『行人』のあらすじをきちんと理解している人を私は知らない。多くの人が「塵労」にフォーカスして、一郎を主人公にしてしまう。物語の中で一郎は二郎に観察される対象でしかなく、主人公は飽くまで二郎である。これは『坊っちゃん』の主人公が「おれ」で『それから』の主人公が代助であるくらい確かなことだと私は考えているが、『彼岸過迄』の主人公が田川敬太郎だというところから、読者を混乱させているようだ。確かに『彼岸過迄』に似て、「塵労」のHさんの手紙の中に二郎は参加できない。『こころ』の「先生の遺書」に「私」は参加できない。しかし「私」が「先生の遺書」を読み、二郎がHさんの手紙を読まなくては物語が成立しないので、『行人』の主人公は飽くまで二郎である。この点、やはり阿刀田高はシンプルに読み誤る。

 小説〈行人〉は、Hさんの長い手紙でプツンと終わり、二人の長い旅はなお続いているみたい……。はっきりとした解決はなにも示されていない。 仕方ないから勝手読みするならば、この作品の実質的な主人公・長野一郎は、この宇宙のロゴスを、この世を統べる絶対的な摂理を、神の論理を探していたのではなかろうか。(阿刀田高『漱石を知っていますか』新潮社・2017年)

 中学生か、というくらい杜撰な読みだ。この読みをプロの編集者が許したとすれば情けないことだ。「先生、Hさんの手紙を読んだ後の二郎さんの感想らしきものが二か所みつかりますが」そう言って、諭さないものだろうか。

 この記事でも書いたように『こころ』においてははっきりと話者の現在が先生の遺書の後にあることが解り、その点を取り違えているのは精々高校生くらいまでだ。大人で「最後は暗かったな」と感想を述べている人はそんなに多くない。無論大人と云っても色んな大人がいるのであれだが、『こころ』において話者の現在が先生の遺書の後にあることが解らなければ、そもそも一直線に流れる時間進行の物語しか受け入れられないということなのだろう。

 その点確かに『行人』の現在は分かりにくい。さりげない。しかしそこを摑まなければ『行人』を読んだとは言えない。それなのに「仕方ないから勝手読みするならば」とは一体どんな理屈だ。カツカレーが出て来た。カツカレーと云うものを理解できないから、仕方がないからカツだけ取り出して、衣を剥がしてウスターソースをかけて箸で食べた、と自慢しているようなものだ。普通に食えよと云いたくなる。『こころ』は「私」が先生を全肯定する話であり、先生がKを自殺に追い込む話ではない。同様に『行人』は二郎が兄に対して相応の尊敬を払う見地を具える話であり、一郎が神の論理を探す話ではない。

 揚げ足りのような言い方になって申訳ないが一郎の求めていたものは神の論理ではなく、禅的な悟りである。「どうかして香厳になりたい」と云っている。「香厳撃竹大悟」を知らない……として、どうして調べない?

 また『行人』の粗筋が掴めていないという点で、きっちり説明しておくと、……『行人』のメインストーリーは「お貞の嫁入り」である。それさえも理解できないで一体何を語ろうというのか。どうか目を覚まして欲しい。







[付記]

 古代の神は全智全能と崇められている。ことに耶蘇教の神は二十世紀の今日までもこの全智全能の面を被っている。しかし俗人の考うる全智全能は、時によると無智無能とも解釈が出来る。こう云うのは明かにパラドックスである。しかるにこのパラドックスを道破した者は天地開闢以来吾輩のみであろうと考えると、自分ながら満更な猫でもないと云う虚栄心も出るから、是非共ここにその理由を申し上げて、猫も馬鹿に出来ないと云う事を、高慢なる人間諸君の脳裏に叩き込みたいと考える。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 漱石はキリスト教的絶対神というものを認めていなかった。漱石が神を持ち出す場合はほぼ「皮肉的な用いられ方」である。

戦争を狂神のせいのように考えたり、軍人を犬に食われに戦地へ行くように想像したのが急に気の毒になって来た。(夏目漱石『趣味の遺伝』)
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒 両隣 りにちらちらするただの人である。(夏目漱石『草枕』)
守る神あり、八百萬神。(夏目漱石『従軍行』)
「雅号は好いよ。世の中にはいろいろな雅号があるからな。立憲政体だの、万有神教だの、忠、信、孝、悌てい、だのってさまざまな奴があるから」
「なるほど、蕎麦屋に藪がたくさん出来て、牛肉屋がみんないろはになるのもその格だね」(夏目漱石『虞美人草』)
 例えば感覚的なものと超感覚的なもの(あるかないか知らないが幽霊とか神とか云う正体の分らぬものを指すのです)に分類する。(夏目漱石『文芸の哲学的基礎』)

 まあ、漱石が神を持ち出してもそう真面目に受け取る必要はないということです。



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