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芥川龍之介の『彼 第三』をどう読むか③ やはり『彼 第三』はあるのか?

 多分、多分だが『彼 第三』はない。

 仕方ないから『あの頃の自分の事』を読もう。

 以下は小説と呼ぶ種類のものではないかも知れない。さうかと云つて、何と呼ぶべきかは自分も亦不案内である。自分は唯、四五年前の自分とその周囲とを、出来る丈こだはらずに、ありのまま書いて見た。従つて自分、或は自分たちの生活やその心もちに興味のない読者には、面白くあるまいと云ふ懸念もある。が、この懸念はそれを押しつめて行けば、結局どの小説も同じ事だから、そこに意を安んじて、発表する事にした。序でながらありのままと云つても、事実の配列は必しもありのままではない。唯事実そのものだけが、大抵ありのままだと云ふ事をつけ加へて置く。

(芥川龍之介『あの頃の自分の事』)

 なるほど「ありのまま書いて見た」と書きながら「小説と呼ぶ種類のものではないかも知れない」「何と呼ぶべきかは自分も亦不案内」としてどうしても随筆と書かない。

 我々は一しよに大学前の一白舎の二階へ行つて、曹達水に二十銭の弁当を食つた。食ひながらいろんな事を弁じ合つた。自分と成瀬との間には、可也懸隔のない友情が通つてゐた。その上その頃は思想の上でも、一致する点が少くなかつた。殊に二人とも、偶然同時に「ジアン・クリストフ」を読み出して、同時にそれに感服してゐた。だからかう云ふ時になると、毎日のやうに顔を合せてゐる癖に、やはり話がはずみ勝ちだつた。すると二人のゐる所へ、給仕の谷がやつて来て、相場の話をし始めた。それも「まかり間違つたら、これになる覚悟でなくつちや駄目ですね」と、手を後へまはして見せたのだから盛である。成瀬は「莫迦だな」と云つて、取合はなかつたが、当時「財布」と云ふ小説を考へてゐた自分は、さまざまな意味で面白かつたから、食事をしまふまで谷の相手になつた。さうして妙な相場の熟語を、十ばかり一度に教へられた。

(芥川龍之介『あの頃の自分の事』)

 ん? 何かおかしい。「立ちながら三人で、近々出さうとしてゐる同人雑誌『新思潮』の話をした。」とあるからこれは大正二年の十月の話の筈だ。第三次『新思潮』は大正三年二月から始まり十月で廃刊になる。その前の十月なら大正二年だ。

 また「ジアン・クリストフ」を読んでいる。

 そして「十一月もそろそろ末にならうとしてゐる或晩」、

 我々は喫煙室の長椅子に腰を下して、一箱の敷島を吸ひ合ひながら、谷崎潤一郎論を少しやつた。当時谷崎氏は、在来氏が開拓して来た、妖気靉靆たる耽美主義の畠に、「お艶殺し」の如き、「神童」の如き、或は又「お才と巳之助」の如き、文字通り底気味の悪いFleurs du Mal を育ててゐた。

(芥川龍之介『あの頃の自分の事』)

 いやいやいや。

 谷崎の『お艶殺し』『お才と巳之助』は大正四年、『神童』は大正五年の作だ。つまり「近々出さうとしてゐる同人雑誌『新思潮』」とは第三次『新思潮』ではなく大正五年の第四次『新思潮』ということになる。つまり「近々出さうとしてゐる同人雑誌『新思潮』」は正確には「近々再び出さうとしてゐる同人雑誌『新思潮』」でなくてはおかしい。

 高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」などの影響であつたらうと思ふ。

(芥川龍之介『愛読書の印象』)

 つまり、

・「当時」とは高等学校二年から大学卒業までのながーい期間を指している
・『彼』の「僕」は読んでいない「ジヤンクリストフ」を「彼」に貸したのであって、「ジヤンクリストフ」を読み始めるのはその翌年以降
・芥川龍之介は認知症である
・『彼』の「彼」が死んだのは実は大正六年
・谷崎潤一郎と云うのは架空の存在
・芥川龍之介は「ジヤンクリストフ」を読んでいない
・小林十之助がどこかで数字を胡麻化している。
・『彼 第三』に種明かしがある

 このいずれかが真実であろう。

 一番可能性が高いのは、

・谷崎潤一郎と云うのは架空の存在

 であろうか。


 この人が一番疑わしいんだよなあ。



行って来ました浮世の裏へ 大淵善吉 著駸々堂書店 1922年


赤門生活 南北社 編南北社 1913年


職業別電話名簿 東京・横浜 日本商工通信社 編日本商工通信社 1925年

 一白舎で二十銭の弁当と云うのも怪しい。一白舎はハイカラなのでカレーライスくらい食べないと。


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