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これが今なのだ 芥川龍之介の『戯作三昧』をどう読むか⑬

 2024年2月21日、そんな日付で始まる小説があったとしたら、それは必ず空想科学小説だった。今そんな馬鹿馬鹿しい日付が小さくタスクバーに表示されている。しかしこれは未来記ではない。とても信じられないことながら、これが本当に今なのだ。

 佐藤春夫の『のんしやらん記録』は掲載誌『改造』のテイストに沿ったものか、三十九世紀の未来を描くディストピア小説のようなものになっている。そこには確かに時代がついていて、ラジオはあってもテレビはない。百万長者などという概念が出てくる。しかし高層ビルはある。つまり佐藤春夫が生きていたその生々しい時代を足掛かりに精一杯想像した未来が描かれている。確かに当時百万円とは途方もない金額であったのであろう。
 2024年2月21日の今、百万円などほぼ小銭である。

「これは昨日描き上げたのですが、私には気に入つたから、御老人さへよければ差上げようと思つて持つて来ました。」
 崋山は、鬚の痕の青い顋を撫でながら、満足さうにかう云つた。
「勿論気に入つたと云つても、今まで描いたものの中ではと云ふ位な所ですが――とても思ふ通りには、何時になつても、描けはしません。」
「それは有難い。何時も頂戴ばかりしてゐて恐縮ですが。」
 馬琴は、絵を眺めながら、呟くやうに礼を云つた。未完成の儘になつてゐる彼の仕事の事が、この時彼の心の底に、何故かふと閃いたからである。が、崋山は崋山で、やはり彼の絵の事を考へつづけてゐるらしい。
古人の絵を見る度に、私は何時もどうしてかう描けるだらうと思ひますな。木でも石でも人物でも、皆その木なり石なり人物なりに成り切つて、しかもその中に描いた古人の心もちが、悠々として生きてゐる。あれだけは実に大したものです。まだ私などは、そこへ行くと、子供程にも出来て居ません。」
「古人は後生恐るべしと云ひましたがな。」
 馬琴は崋山が自分の絵の事ばかり考へてゐるのを、妬ましいやうな心もちで眺めながら、何時になくこんな諧謔を弄した。

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 さしてわざとらしくもなく、芥川はここで「昨日」と書いてみる。書いたのは大正六年、書かれた昨日は天保二年だか三年だか曖昧な九月のある日の事、そんな遠い昔にも「昨日」という生々しい日々の連なりが確かにあったのだ。そんなことを私は百九十三年後の未来から眺めている。

 佐藤春夫が持ち出した三十九世紀という途方もない未来ほどではないにしても、これは何という時間の隔たりだろう。それでもここに書かれていることは明日にでもどこかで繰り返されそうな景色ではなかろうか。
 何なら今、何の衒いもなく、私自身が馬琴と崋山を古人として眺めてみてもいい。

 とてもかなわない。子供程にもできていない。そして芥川はやはり遥かな高みにある……。

 自作を芥川作品と比較できるほど傲慢にはなれないが、芥川作品を読めばいつでも反省と感心だけはできる。そして少しずつコツのようなものを手に入れることさえできる。例えばこの場面で書かれているのは、百年後にも繰り返されかねない二百年前の過去なのである。芥川は空想未来小説の形式を利用することなく、少なくとも百年後の未来を言い当てていないだろうか。

 つまり芸術の本質はそうしたものなのだと。

 何でも王義之で片づけていいものかどうかは解らないが、現代の書家で、王義之なんか全然大したことはない、へたくそだ、自分の方が断然すごいと言い張る人は存在するものであろうか?

 森鴎外を読んでなおかつ自分で何か書こうという人は悉くどこかおかしいと私は考えているが、そういう意味でどこかおかしいからこそ書けるのであって、森鴎外より優れているから書けるというわけではないのではなかろうか。
 
 真面目に向き合えば、昔から存在する芸術分野には、必ず古人が聳え立っている。芸術とはそうした聳え立つ古人とまさにこの今向き合う作業でもありうる。芸術とは一面において、そんなことが可能かどうかは別として、古人が個人として到達したものをかすめ取り、さらに先に進もうとする頭のおかしいふるまいである。だからこそ芥川は崋山に「子供程にも出来て居ません」と言わせた。馬琴は「古人は後生恐るべしと云ひましたがな」と混ぜっ返す。

 ここは芥川の意地であろう。漱石は尾崎紅葉を読んで「あのくらいなら自分でも書ける」と書かないうちから嘯いた。芥川は中学生で既に「近代の大文豪其名海内に轟ける芥川龍之介」なので、本心では馬琴など目じゃない筈である。この当時見ているのはゲーテやロマン・ロランであり、馬琴はとうに卒業していた筈だ。

「それは後生も恐ろしい。だから私どもは唯、古人と後生との間に挾まつて、身動きもならずに、押され押され進むのです。尤もこれは私どもばかりではありますまい。古人もさうだつたし、後生もさうでせう。」
「如何にも進まなければ、すぐに押し倒される。するとまづ一足でも進む工夫が、肝腎らしいやうですな。」
「さやう、それが何よりも肝腎です。」
 主人と客とは、彼等自身の語に動かされて、暫くの間口をとざした。さうして二人とも、秋の日の静な物音に耳をすませた。

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 庄司薫も村上春樹も、そのスタート地点では「古人と後生との間に挾まつ」ていた。『ウォーク・ドント・ラン 村上龍VS村上春樹』において、村上春樹は、「これまでの小説のスタイルみたいなものが崩れちゃっていたわけでしょ。だから身の回りの物を集めてやっていくしかなかった」というようにその時点での小説の行き詰まりのようなものを指摘した。それ以前の小説と云うのは狭い意味では「高橋和巳しかいない」と言われるような文学史だった。もっと大雑把に言えば「彼」も「私」も「個人名」も疲弊していた。「どこかの馬の骨のどうでもいい話」が延々と紡がれていた。世界的に見るとグレート・アメリカン・ノベルというものがやはり行き詰まり、ゴシックに回帰したり、ホワイトトラッシュの悲哀が書かれたりしながら、メインストリームとしては、物語性を獲得するために「何かを探すという明確な目的を持った主人公」というものの必要性が問われていた。そしてどこか推理小説的な要素を持った『羊をめぐる冒険』が書かれ、以来村上春樹は「何かを探す」物語の書き手として世界を席巻することになる。

 しかしその約十年前には庄司薫がジョイス、プルーストの到達したところをかすめ取るようにして、目の前で起きていることを主人公がリアルタイムでかなり適当に語り続けるという饒舌体と呼ばれる独特の文体を駆使して、なんならサリンジャーのパクりだとまで言われながら、全く新しい小説のスタイルを確立したかに見えていた。しかしこの不思議な作家は薫君四部作と数冊のエッセイを残して、鮮やかに総退却してしまい、若者が読むべき小説は新潮社の銀色のカミュと中央公論のサルトルと岩波の赤帯だけになった。

 平野啓一郎のデビュー前には「J文学」なる奇天烈なものが流行らせられようとしていた。そういうものとはできるだけ距離を取り、本物の教養を武器にして書いていきたいと言わせるような状況があったのだ。

 川上未映子はある意味では村上春樹の対抗馬的作家であるかもしれない。二言目には「予言」と言い出す男性作家をあざ笑い、肉体や家庭や金というあくまでもリアルなものを突き詰めながら、確実に読者を獲得し続けている。村上春樹的賺しや華麗な比喩がない代わりに、「おまんこつき労働力」といった彼女にしか書けないワードを吐き出す。

 時代時代にこうした恐るべき後世が誕生して古人になる。

 芥川が『思潮』から始まったことは偶然ではない。芥川も谷崎同様「新」、つまり「サムシング・ニュー」であらんとした。その立場はまさに「古人と後生との間に挾まつて、身動きもならずに、押され押され進む」というそのものである。そんなことは馬琴も村上春樹もやってきたのだ。おそらく村上春樹も川上未映子の作品を読み「稚拙な点を挙げればきりはないが、とにもかくにもこれは自分には書けない作品である」というおそるべき後世を感じていることだろう。

 芥川は多分川上未映子を知らない。しかし「古人と後生との間に挾まつて、身動きもならずに、押され押され進む」という自分の現在が、芸術の本質的なものだということを確信していた。だから百年前の現在に、「まづ一足でも進む工夫」という最も肝心な言葉を置いたのだ。

 勿論そんな言葉は精神的に向上心のないものには無意味だ。「まづ一足でも進む工夫」を怠り、audibleで聞き流して「つまらなかった。星一つ」とやっている人には決して届かない言葉だろう。冗談でもなんでもなく芥川は『戯作三昧』で読者を選んでいて、あなたたちは置いて行かれたのだ。

 考えても見れば「まづ一足でも進む工夫」は師、漱石の教え、

勉强をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になる積でせう。僕も其積であなた方の將來を見てゐます。どうぞ偉くなつて下さい。然し無暗にあせつては不可ません。たゞ牛のやうに圖々しく進んで行くのが大事です。文壇にもつと心持の好い愉快な空氣を輸入したいと思ひます。それから無暗にカタカナに平伏する癖をやめさせてやりたいと思ひます。

漱石全集 第13卷 (書簡集 續)

 こんな大正五年八月二十一日の手紙の教えに沿うものであろう。この手紙でさえ「牛のようにずんずん」と読み間違えられて世間に流布している現在、この馬鹿馬鹿しい時代にあってこそなお、「まづ一足でも進む工夫」が必要なのであろう。


「まづ一足でも進む工夫」それはいわば積み立てNISAのようなものだ。それはロボアドバイザーでも構わない。

 ともかくコツコツやるしかないのだ。その日その日にできることを精一杯やる。そして風呂に入って寝る。人間にできることはいつの時代もその程度のことなのだ。

「八犬伝は不相変らず、捗がお行きですか。」
 やがて、崋山が話題を別な方面に開いた。
「いや、一向捗どらんで仕方がありません。これも古人には及ばないやうです。」
「御老人がそんな事を云つては、困りますな。」
「困るのなら、私の方が誰よりも困つてゐます。併しどうしても、之で行ける所迄行くより外はない。さう思つて、私は此頃八犬伝と討死の覚悟をしました。」
 かう云つて、馬琴は自ら恥づるもののやうに、苦笑した。
「たかが戯作だと思つても、さうは行かない事が多いのでね。」
「それは私の絵でも同じ事です。どうせやり出したからには、私も行ける所までは行き切りたいと思つてゐます。」
「御互に討死ですかな。」
 二人は声を立てて、笑つた。が、その笑ひ声の中には、二人だけにしかわからない或寂しさが流れてゐる。と同時に又、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 この時芥川が思い描いていたことの中には精々『明暗』と討ち死にした漱石のことまでしかなかったかもしれないが、私には後生畏るべしの二葉亭四迷に当てられて、シェイクスピアと討ち死にした坪内逍遥やら、大量の遺作を残して死んだ芥川自身のことやら、そして『豊饒の海』と討ち死にした三島由紀夫のことなどが思い浮かぶ。

 しかし見よ。芥川はなおもやすやすとしなだれかかる読者を突き放して「二人だけにしかわからない或寂しさが流れてゐる」と書いてしまう。本当にひたむきに自分の作品と向き合い、日々努力を続け、自らの足らないところを知り、一向に捗らない人間でないとこの寂しさも興奮も理解できるはずはないのだと、なんともまあ手厳しく読者を跳ねのける。

 夏目漱石も芥川龍之介も全然読めていないのに、それでどうするつもりなのだと言いたげだ。「二人だけにしかわからない或寂しさが流れてゐる」とは「精神的に向上心のないものには到底解らない或寂しさが流れてゐる」ということだ。「有料記事を読まないものには到底解らない或寂しさが流れてゐる」ということでもある。

 これまでもかなり賺した作品はあったが、ここまで「読者」という存在を厳しく問い詰めた作品は外に無かったはずだ。

 あったかな?

 ないな。

 ない。

 というわけで「まづ一足でも進む工夫」の継続が大切だ、小林十之助の本を買うことが肝腎だという事が分かったところで今日はここまで。

[余談]

 なんか嫌なことがあった?

 そう聞きたくなるくらいこの作品は読者に厳しい。

 それが百年後の今でも面白いと言えば面白い。


歌境心境

この屏風の出來た所以と云ふのは芥川君が二度目に長崎に往つて滯在中、照菊が銀屏風を持つて我とゐて、誰かに書いて貰ひたいと云ふのを聽いた、崎陽に於ける芥川門下の二秀才、蒲原春夫と渡邊庫輔の二人が、芥川君を勸めて照菊の屋形に連れて往き、銅座町の永見夏汀君の家から筆や硯を取り寄せて、その場で直ぐに書いて貰つたものなのださうで、その時の樣子も今度二人から詳しく聽いた。

歌境心境
吉井勇 著湯川弘文社 1943年

佐佐木茂索氏の「僕の澄江堂」にもよく現れてゐるが、芥川氏は句もやり、旋頭歌なども器用にものし、書も多分六朝風を學び(此の點僕は皆目無學で間違つてるかもしれぬ)その他書齋座右の趣味、とりわけ、僕の乏しい面接の記憶には、あの小型の長火鉢で松の實を焙つて薦めて吳れたことなどが、いつとうハッキリと殘つてゐるのだが、それこれと考へると、氏には東洋趣味が旺溢してゐたやうだ。而も僕には氏を目して東洋風の文人とする氣持ちがどうしても持てない。


ちりがみ文章
十一谷義三郎 著厚生閣 1934年

 どうしたんだろう。夜みたいに外は真っ暗だ。

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