見出し画像

岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する189 夏目漱石『明暗』をどう読むか 38 縦に読もう


彼は向うの短所ばかりに気を奪られた

「ええ一週間ぐらいはここで暮らしてもいいんです。しかし臨時にちょっと事件が起ったので……」
「はあ。――しかしもう直です。もう少しの辛防です」
 これよりほかに云いようのなかった医者は、外来患者の方がまだ込み合わないためか、そこへ坐って二三の雑談をした。中で、彼がまだ助手としてある大きな病院に勤めている頃に起ったという一口話が、思わず津田を笑わせた。看護婦が薬を間違えたために患者が死んだのだという嫌疑をかけて、是非その看護婦を殴らせろと、医局へ逼った人があったというその話は、津田から見るといかにも滑稽であった。こういう性質たちの人と正反対に生みつけられた彼は、そこに馬鹿らしさ以外の何物をも見出みいだす事ができなかった。平たく云い直すと、彼は向うの短所ばかりに気を奪られた。そうしてその裏側へ暗に自分の長所を点綴して喜んだ。だから自分の短所にはけっして思い及ばなかったと同一の結果に帰着した。

(夏目漱石『明暗』)

 そういえば津田の長所と短所って何だろう。

【短所】

・安月給
・見栄っ張り
・不潔
・金銭管理がいい加減
・ねちねちしている
・未練たらしい

【長所】
・ハンサム
・背が高い
・英語とドイツ語が読める

 ここに看護婦を殴らせろといった男とは反対の性質が加えられることから、檄しやすくはなく、陰謀論にも陥らないということになろうか。ここで言われている「自分の短所にはけっして思い及ばなかった」というところの短所とは一体なんなのだろうか。

 確かに看護婦を殴らせろという話は「滑稽」ではあるものの、そこには医療過誤と患者の死という事実がある。それを笑い話にしてしまうのは不謹慎とも言えなくもない。

 あるいは『明暗』における津田の振る舞いをずっと眺めてきて感じてきたことの一つが「不真面目さ」であった。痔瘻の手術は仕方がない。それで会社を休むのは当然と言えば当然だ。湯治も本当なら許されることだろう。しかし湯治にかこつけて昔の女に会いに行くのはやはり不真面目である。会社から見ても働く気がなさそうに思えるのではなかろうか。民間の会社では津田のようなものは通用すまい。

 私にはこの津田の不真面目さが「劣化した則天去私」のように思えてならない。何故か漱石はこんな男を描こうとしているのだが、そのあまりに崇高でないところ、余りに卑俗なところが目立ち過ぎているように思えるのだ。それでも看護婦を殴るよりはいいだろうという話にはならない。

また吉川夫人の事を考え始めた

 医者の診察が済んだ後で、彼は下らない病気のために、一週間も一つ所に括りつけられなければならない現在の自分を悲観したくなった。気のせいか彼にはその現在が大変貴重に見えた。もう少し治療を後廻しにすれば好かったという後悔さえ腹の中には起った。
 彼はまた吉川夫人の事を考え始めた。どうかして彼女をここへ呼びつける工夫はあるまいかと思うよりも、どうかして彼女がここへ来てくれればいいがと思う方に、心の調子がだんだん移って行った。自分を見破られるという意味で、平生からお延の直覚を悪く評価していたにもかかわらず、例外なこの場合だけには、それがあたって欲しいような気もどこかでした。

(夏目漱石『明暗』)

 津田の「短所」ではないところで津田に奇妙なマイナスイメージを与えている要素に、津田が四十がらみの肥った吉川夫人に異性としての興味を持っており、コントロールされたがっているという妙な変態性がある。

 もしも吉川夫人が太っていなければ、そして津田が受け身でなければ、さらに吉川夫人が若く、人妻でもなければ、津田が変態と呼ばれることは無かろう。しかし津田は変態である。

 この場面では吉川夫人が病室にやってきて「ほら、ガーゼを取り換えるところを見ててあげますからね」とでも言われたがっているかのようである。この時漱石は既に数人がかりでの浣腸などを経験していて、あるいはそうした医療プレイにぞくぞくするような感覚があったのかもしれない。医療において患者は全くの受け身で、時には激痛に耐えなくてはならない。下半身の外科的手術ではどうしても生殖器が丸出しになる。無論そんなことを歓んでいる余裕はないが、例えば私が股間近くの粉瘤の手術を受けた際、看護師さんが気の毒に思ってか生殖器の上にガーゼのようなものをかけてくれたのだが、激痛で体が動くたびにガーゼがずれて、とうとう生殖器は丸出しになってしまった。看護婦さんも私の体を押さえつけるのに必死で、二度とガーゼをかけてくれなかった。もしも私が不真面目で劣化した則天去私ならその生きたまま肉をえぐられる激痛の最中、患部から膿を絞り出す拷問の最中、その行為全体を俯瞰で眺めて変態性欲と結びつけることが可能だったかもしれない。

 しかし現実的にはその粉瘤の手術の間、私は長時間の海水浴の後のような状態だった。現実とはその程度に色気のないものだ。しかし津田ならそうではなかったのではなかろうか。

 お延に見破られたいという感覚も、どこかマゾヒストのものである。

彼はただ行ったのである

 彼はお延の置いて行った書物の中うちから、その一冊を抽いた。岡本の所蔵にかかるだけあるなと首肯かせるような趣がそこここに見えた。不幸にして彼は諧謔を解する事を知らなかった。中に書いてある活字の意味は、頭に通じても胸にはそれほど応えなかった。頭にさえ呑み込めないのも続々出て来た。責任のない彼は、自分に手頃なのを見つけようとして、どしどし飛ばして行った。すると偶然下のようなのが彼の眼に触れた。
「娘の父が青年に向って、あなたは私の娘を愛しておいでなのですかと訊きいたら、青年は、愛するの愛さないのっていう段じゃありません、お嬢さんのためなら死のうとまで思っているんです。あの懐しい眼で、優しい眼遣いをただの一度でもしていただく事ができるなら、僕はもうそれだけで死ぬのです。すぐあの二百尺もあろうという崖の上から、岩の上へ落ちて、めちゃくちゃな血だらけな塊になって御覧に入れます。と答えた。娘の父は首を掉って、実を云うと、私も少し嘘を吐つく性分だが、私の家のような少人数な家族に、嘘付が二人できるのは、少し考えものですからね。と答えた」
 嘘吐という言葉がいつもより皮肉に津田を苦笑させた。彼は腹の中で、嘘吐な自分を肯う男であった。同時に他人の嘘をも根本的に認定する男であった。それでいて少しも厭世的にならない男であった。むしろその反対に生活する事のできるために、嘘が必要になるのだぐらいに考える男であった。彼は、今までこういう漠然とした人世観の下に生きて来ながら、自分ではそれを知らなかった。彼はただ行ったのである。だから少し深く入り込むと、自分で自分の立場が分らなくなるだけであった。

(夏目漱石『明暗』)

 果たして津田はこれまでに「嘘吐な自分を肯う男であった」というほどの嘘をついてきたであろうか。

 お延に対しては隠し事をしている。貰うつもりがないのに嫁に貰った。そして親の財産を誇張した。ドイツ語の経済書という見栄も嘘だ。

 お秀に対する心無い感謝の言葉も嘘と言えば嘘だ。

 吉川夫人と津田のと関係を吉川はどの程度知っているのであろうか。そこにも隠し事という嘘があろうか。「生活する事のできるために、嘘が必要になるのだ」とは現代のサラリーマンにとっては当たり前の考え方だろう。サラリーマンとは人を騙してなんぼという商売だ。嘘つきだけが出世する。正直者ではやっていけない。昔は殿様に対する忠義、正直に価値があった。瓦解によりそんな価値観はなくなった。

 津田はそんな時代性も帯びているのかもしれない。

 劣化版則天去私だから嘘が平気という側面もあるのだろう。何だか解らない。少し疲れた。

 

[余談]

 何日か前、寅さんなみの物凄い商売人と出会った。もう話を聴いていると本当のことを言っているとしか思えない。ネットを調べても何の情報もない。

 私がばらしてしまおうかな。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?