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バランスが悪い 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む85

※見出し画像「昭和天皇」

覗かれたいはず


 この突然の社会的地位の喪失という恐怖は、『禁色』に於いては、ホモセクシュアルであることの露見と強く結びついていた。三島にとって覗き見とは、彼のセクシュアリティに対する社会の側からの覗き見的な興味への一種の対抗的な、防御的な「見返し」だった、とも解し得るであろう。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 とも解し得るであろうと書かれているのでここは誤りとは言い切れないし、他人のセクシュアリティを根拠もなく彼是と論ってみても意味のないことである。しかし作品の解釈として「『禁色』に於いては、ホモセクシュアルであることの露見と強く結びついていた」と読んだとして、作者もまたホモセクシュアルであることの露見を恐怖していたと勘違いしなければこんな言いぐさにはなり得ないので、あくまでも作品の読みとして誤りを指摘しておきたい。

 そもそもホモセクシュアルであることの露見を恐怖している作者は『仮面の告白』や『禁色』を書かない。書けない。だって書かなければばれないけれど書けばばれてしまうから。当たり前の話だよね。ホモがばれたくなければホモの話は書かない。何故なら小説を告白と見做す人というのが圧倒的に大多数で、たいてい何を書いても作者のことだと思い込まれてしまうから。

 そして三島由紀夫の『仮面の告白』や『禁色』は覗かれたがりの作品であり、恥ずかしめられることによる快感が求められた作品である。

 前者はタブーを話題に注目されようとした意欲作であり、『禁色』はその悪ふざけを一歩進めたもので、谷崎潤一郎の『痴人の愛』のようなものである。谷崎潤一郎は悪魔的と呼ばれた変態性欲を売りにひたすら女を書き続けた。そのことで思想性・政治性を回避したとも言われる。三島由紀夫の『仮面の告白』や『禁色』にも敢えて言えばそうした要素がある。

 思想的にはノンポリなので『英霊の声』は書けない。天皇の人間宣言に不満を漏らすことも憤ることもできない。その当時の空っぽさ加減は『盗賊』によく表れている。

 三島にとっての覗き見の意味は『午後の曳航』や川端康成の『眠れる美女』などとの比較においても見ていかねばならないところであろう。しかしやはり三島は覗く側ではなく覗かれる側の人間である。多くの三島の写真、映像を眺めて行ったとき、石原慎太郎が云うところの「無理」、あるいは深沢七郎が見ていた「格好つけ」がやはり印象に残る。三島由紀夫は見られること、被写体であることに強く関心があり、常にみられることを意識していたように思われる。その見られたがり、見せたがりの性質がなければ、そもそも物書きになどならないだろう。
 その見られたがり、見せたがりの性質、見られて「いや~ん」と恥ずかしがる快感というものが『仮面の告白』や『禁色』を読めばはっきりと感じられると思うのだが、どうも平野はそうは感じなかったらしい。

 見られることが快感なのだから「社会の側からの覗き見的な興味への一種の対抗的な、防御的な」ものというのはそもそも存在しないのではないのではなかろうか。

 そして理屈を言えばもし「見返す」としたら、三島は小説の読者というものを描いてみればよかったのである。雑誌編集者、新聞記者でもいい。しかしこれまで三島を一番覗いてきたのは読者であろうから、読者の生活を暴露することで対抗的な、防御的な姿勢となる。

 もちろん三島はそんなものには興味がない。自分の話がしたい人は他人の話には興味がないのだ。例外的に、仕方なく、私は今平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読むという形で平野啓一郎の話に傾聴している形ではあるが、これはあくまで三島由紀夫作品に対する粗雑な解釈が認めがたいという理由があってのことで、平野啓一郎が政治に関する頓珍漢なポストをしていても全然気にならない。

 従ってやむを得ず添削するなら、
 

この突然の社会的地位の喪失という恐怖は、『禁色』に於いては、ホモセクシュアルであることの露見と強く結びついていた。三島にとって覗き見とは、彼のセクシュアリティに対する社会の側からの覗き見的な興味への一種の対抗的な、防御的な「見返し」だった、とも解し得るであろう。

 このようになるだろうか。


バランスが悪い


 従って、この不意に犯罪に巻き込まれてしまう逸話は、この大作の最終巻に於いて、本多が結局、決して現実から超越した「認識者」たり得ないことを結論づけており、それこそが、阿頼耶識の「究極の道徳的要請」としての現実世界の存在理由なのである。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 これ読んで意味が解る人?

 いる?

 解るの?

 へえ、凄いね。

①「不意に犯罪に巻き込まれてしまう逸話は、この大作の最終巻に於いて、本多が結局、決して現実から超越した「認識者」たり得ないことを結論づけて」いる。

 これはまあ解るね。

 本多自身も歴史には関与できないとか、望んだものは手に入らないとか妙な理屈は捏ねていたけれど、自分は現実から超越した「認識者」であるとはそもそも言っていなかったので、当たり前のことが言われているわけだけれど、何が言われているのか完全に解らないわけではない。

 しかし、

②それこそが、阿頼耶識の「究極の道徳的要請」としての現実世界の存在理由なのである。

 これは完全に解らない。阿頼耶識の「究極の道徳的要請」って何?

 本多が覗きで捕まる。

 本多は現実から超越した「認識者」たり得ない。

 ここまではいいとして、本多個人が現実から超越した「認識者」たり得ないという一つの事実が、阿頼耶識の「究極の道徳的要請」とまで拡大されなくてはならないものであろうか。

 宇宙の万有を保って失わず、万有が展開する際の基体であるもの、それが阿頼耶識であったとして、阿頼耶識そのものは、そもそも現実世界の存在理由には関与していない。

 なぜ何もないではなく何かがあるのか。これが「世界有」の問題であるとしたら、この問題を一人の痴漢が証明することはできない。

 この本多が覗きで捕まったことを阿頼耶識の「究極の道徳的要請」としての現実世界の存在理由と結び付けるやり方、いわゆる何でもないような出来事を極限まで抽象化して理解しようとする態度は平野啓一郎の『三島由紀夫論』において繰り返し行われてきた。しかしここまで過剰に解釈されたケースはなかった。

 仮に本多が見事逃げおおせていたら、世界はなくなってしまうのだろうか?

 要するにこれは賭けとして成立していない。

 理屈のバランスが悪い。

 おそらくこのことに平野は自覚的で、こうも言いなおしている。

 つまり本多は、前三巻とは違い、その晩年に於いて、人生に引っ張り出され、いかなる距離も否定されて、否応なく現実を生きさせられているのである。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 この解釈は本多が覗きで捕まったという出来事を無理なく捉えている。「生かされている」ではなく「生きさせられている」という喉がかすれたような表現も良い。これから暴力的に支配されながら圧倒的に惨めな生活、透よりも長生きするだろうという希望だけを生きるよすがとして過ごす日々は、まさに「生きさせられる」というべきものであろう。


焦点の当て方が違う


 本多が覗きで捕まったのは、あの男が女をナイフで刺して、さして意味なく事件にしてしまったからである。

 事件の本質(?)みたいなものを突き詰めるとすれば、そもそも、

・何故男は女を刺したのか?

 というところに焦点を当てて、考えるのが筋ではなかろうか。覗きをしているところに警察官がたまたま現れて捕まったわけではないのだ。傷害事件が起きたから大事になったのだ。

 何故そんなことになってしまったのか。

 本多の側に覗きの趣味が残っていて、恐らく肉体的には枯れていたとして、それでも見たいという欲望が残っていたという事情があったことは事件の要因にはならない。


指を使っただけだ


 その意味では、変質者が、エロティシズムと一体化しつつ、相手の女性をナイフで刺すという設定も、作者の考える"最も現実的なもの"としての苦痛の導入と解釈することができよう。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 この解釈はどうもぴんと来ないものである。

 まずこの男を「変質者」として簡単に片づけ過ぎであるし、「エロティシズムと一体化しつつ」という表現はほぼ中身がない。観念と一体化する? それでいて手が動く?

 本多自身が指摘しているように、この男は集中を欠いているように見えていた。

 そのとき、男がズボンの尻ポケットへ手をやるのが見えたが、おそらく金を盗まれていないかどうか、常時の最中に気になる心事が本多にはおぞましく、そう思うだけで、折角湧き昇った色情が氷結したように感じられた次の刹那、わが目を疑うような事が起こった。

(三島由紀夫『天人五衰』)

 これで「エロティシズムと一体化しつつ」?

 それは違うだろう。男は女のスカートの裾へ深く手を入れて、喘ぎかけた女と接吻しただけだ。

 それで「エロティシズムと一体化しつつ」?

 どうも私には男の目的が覗き魔を引き寄せ、女を軽く刺すことにあったように思えてならない。第一女のけがは大したことはないのだ。この一連の行動は変質者というよりは、なにかお芝居めいていないだろうか。男の目的はエロスにはない。

 ここにも難しい理屈を言えば言えなくもないようなところがないとは言えない。ナイフで刺すこと、それはあくまで代理行為であり、挿入射精に及ばないのは既に不能であるからであり、六十代にみえた黒いベレエ帽の男は二十年前から既に不能であったにもかかわらずそのことに射して自覚的でなかった本多自身の「影」のような存在であり、黒いベレエ帽は贋物の芸術家であることを象徴しているのだと。

 しかしまだ何か足りない。

 三島由紀夫全作品から黒いベレエ帽の男を抽出して比較検討していくべきであろうが私にはもう時間がない。
 誰かやってくれないか。

 と言うより、平野君、君がやるべきなんだよ。


その男は誰なのか


 それにしても平野は本当に「不意に犯罪に巻き込まれてしまう逸話」と書いてしまって、それでいいのかな。

 みなさんはどう?

 本多は不意に犯罪に巻き込まれてしまった?

 この問題は黒いベレエの老人が何者なのか、というところをはっきりしないと何とも言えないのではなかろうか。

 それは誰だったのか?

 飯沼でも洞院宮でもないとしたら?

 それはやはり天皇でしかありえないのではなかろうか。天皇ならば野菜くずやカラスの死骸を捨て、本多に覗かれても何の不思議もない。だって天皇なのだから。

 天才作家三島由紀夫が考えに考えて決してあり得ない、最もあり得ない、究極の形で天皇を描いて見せるとすればそれがまさに黒いベレエの老人なのではなかろうか。それは「アンティとしての天皇」ではなくまさに「アンチ天皇」である。しかし戯画化にすらなっていない。天皇の性質を裏返しにも持たない、ただ老人というだけしか共通項のないキャラクター。

 否定するのは簡単だ。

 では一体誰が、つまり本多に何やら恨みでもありそうな誰が、本多を覗きにおびき寄せ、事件に巻き込むことが出来るだろうか。そんな摩訶不思議なことが出来るのは、ただの人間ではない。


もう一人の天皇


 しかし冷静に考えれば、やはりベレエの老人は天皇では無かろう。天皇であってさえ、何の打ち合わせもなしに本多に覗かれることなど不可能なのだ。

 それよりもむしろ天皇にふさわしい人物がいる。絹江だ。自分の醜さで世界を反転させ、完璧な美しさを捏造する狂人、それはいかにも怪しげな家系図を頼りに天孫だと言ってみたり、架空なる観念を押し付けておきながらいざとなると人間だと言い出し、それなのに祭祀を止めず伊勢神宮にお参りするような出鱈目さ、その徹底した不純さを神聖と呼んでみる天皇制の核にあるものと似ていないだろうか。

 絹江が天皇でないとしたら、鼠のような小男、本多と同じ覗き趣味の男が天皇だろうか。それはまだ誰にも解らない。何故ならまだ書いていないからだ。


 [余談]

 神戸連続児童殺傷事件の記録を詳細に眺めてみると、どうも酒鬼薔薇君ではない誰か、いわゆる「黒い袋の男」というものが何らかの形で事件に関わっているように思えてならない。


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