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養花天やぶさかなるもこひわたる 芥川龍之介の俳句をどう読むか112

花曇り捨てて悔なき古恋や

西鶴は一代男がいるんだが困つたこんど日曜でも午から遊びに来ないか

 偶感

花曇り捨てて悔なき古恋や


[大正六年五月十七日 松岡譲宛]

 この古恋とは

 この恋で、捨てられていないし、この時点で未練は残っている。この句はまた思い出されて手紙に添えられる。未練が残っているから花曇りの句が五月半ばに詠まれているのだ。何とも季節感のないことだ。

花曇り御八つに食ふは團子哉   漱石

 芥川は案外漱石の俳句には馴染んでいなかったかもしれない。先にこんな句を読んでゐたら、

花曇り捨てて悔なき古恋や

 とは詠めないのではないか。俳句という遊びは、色恋の恨みつらみを述べるのにははなはだ向かない形式である。色恋の恨みつらみを俳句に詠むと阿呆に見える。

此句の仲間に「窓に入るは目白の八つか花曇」といふのがある。

漱石俳句研究

 と寅日子、寺田虎彦が漱石の団子の句について真面目に語る。大胆で大まかなところがいいと褒める。随分ひいき目である。ひいき目ではあるが、芥川の未練がましい句よりは、漱石の句の方がやはり良い。『坊っちゃん』『それから』『明暗』と大塚楠緒子への思いを引きずり続けた漱石も俳句の形というものをしっかりわきまえていた。

 ところで、

花曇り捨てて悔なき古恋や

 この句、芥川の悪いところの出た句である。

広辞林

 古恋という言葉、そのものがものすごく古い。和歌の言葉であり、俳句にはまあ見ない。そういう意味では我鬼先生が古(いにしえ)を恋ふる人であり、ほととぎすなのである。

御廟もる巨勢野にかたる古戀や 


日本俳書大系 第9巻(蕪村時代第2) (中興俳諧各家集)

 このくらいか。

 何しろ芥川は古に恋ふる男なので、古恋と詠み、古に未練があるのである。

 

倭訓栞 3

 古恋で調べるとなかなか活字に出会えず読むのに苦心する。古に恋ふる男でなければなかなか読むこともかなうまい。


俳諧拾万集 春の部


俳諧拾万集 春の部


俳諧拾万集 春の部


俳諧拾万集 春の部

 このように花曇りに「晴れる」と合わせる月並みに落ちなくてよかった。実際晴れていないのだから。


近世俳話句集
舞田靑要今宵も客勝手ではいざ宵寐せむ後月三五の珠に瑾なし雲もなし望翌の爲に挽歟團子の粉もち月外前望筆扇面瑾
裝響無田事今宵も客勝手ではいざ宵寐せむ後月三五の珠に瑾なし雲もなし望翌の爲に挽歟團子の粉もち月前望望さ月三五万珠子瑾今宵も害勝手海空ていけ雪屋ハナル前素外マもあるのみなとの壁高等教育大学水野外雲もしろふし筆扇面
橋遇佛雁白堂短短橋邊歸雁册册かへる鴈山たちこゆるひとつらの面影のこすみねのかけはしこねのたけそし不自居らとちさす乞といい(同)すゞしさのひとりにあまる菴かな武藤不樗白堂郞氏藏) 2
短册千世〓〓と雀も祝ふ若菜か藤第抱郞氏蔵なくとをも居馴染むころや十三夜同
室短短册册千世〓〓と雀も祝ふ若菜かなるせくとウくも鴈も田に居馴染むころや十三夜庆副樂お茶れ(同)武藤梅九ゝ翁抱室郞氏藏)
自賛ありといへばなくてもありぬ初がすみ素池子一氏蔵)元日のこゝろを檗
あうといてそな檗自〓えるのふうと賛ありといへばなくてもありぬ初がすみ元日のこゝろを奈架檗(小池子一氏藏)素
解題555-7誹諧根源集寛政十二年板中本二册近世に至つて江戶談林の再興を企圖した谷素外は、近世に至つて江戶談林の再興を企圖した谷素外は、俳諧卽滑稽の字義に拘束されて其の俳風が甚に時世に懸隔したので大をなし得なかつたが、和漢の學に通じた博識は俳諧學者としていろ〓〓重要な仕事を遂げしめたのであつた。『誹諧根源集』は素外が俳諧の起源に關して自己の見解を示さうとしたものでないが、和漢の文献に徵して其の根本資ので大をなし得なかつたが、和漢の文献に徵して其の根本資史記滑稽傳通俗解は彼の門人山田保大が全文を國譯し、そ右傍には片假名を以て讀み方を記し、左傍には讀み方と紛れしめざるように料を提供した点に於て、後人を裨益する處が多大である。その讀みと訓とを同時に理解させる爲め、の讀みと訓とを同時に理解させる爲め、右傍には片假名を以て讀み方を記し、左傍には讀み方と紛れしめざるように平假名を用ひて、文中の熟語を平易な言葉に譯解したので、俳諧卽滑稽として其の字義を釋明す可く有効な方法であるが、讀者をして煩勞の感を起さしめない事もない。寧ろ本文の解說に止めた方がよかつたらう。杜子美の俳諧躰二首及び范至能の同聯句は漢詩にかうした見本のある事を知つて置くのによい。『古今集』その他の救選集から誹諧歌の全部を拔き書きして載せ、『菟玖波問答』や『菟玖波集』の連歌の俳諧を抄出し、『犬子集』以下の俳書から古俳諧を摘錄してあるが、誹諧文字の辨〓に誹諧の大意の簡にして要を得た最後の一卷が、本書の使命を果す上に却つて効果がありはしないかと思ふ。跋は歌人の千蔭である。原本は五卷各分册になつて居るが、覆刻用に供したのは滑稽の二卷に合せたもので本文は全く同一である。但し別に『誹諧古言躰』と改題してところ〓〓板木を削つて鷄談窓の藏板とし平假名を用ひて、文中の熟語を平易な言葉に譯解したので、るが、解錄してあるが、跋は歌人の千蔭である。に合せたもので本文は全く同一である。
た後刷本が流布してゐる。これは後の書肆のよく行つた新板本と見せ掛ける手段で、著者素外のあづかり知らざるところであらう。又、天保十二年板の『誹諧根源集補闕』一册は湖上和月といふ者の著であつて、素外の遺稿ではない事を注意して置きたい。日系大書俳本玉池雜藻文化十年板小菊本三册神田お玉が池に一陽井とよぶ庵を結んで居たので、素外はその隨筆を『玉池雜藻』と稱したのであるが、後刷本を見ると『滑稽著聞集』と改題されてゐる。これは著者を無視した書肆の仕事として甚だ不愉快なことである。素外は歌人の千蔭とは『誹諧根源集』の跋で知られるように、五十年來の知友であり、奇人凉袋とも旅行をともにしたりして交際があり、『田舍源氏』の作者として又考證家としての業蹟がある種彥の如きも、素外の藏書を借りて寫本としたものゝ傳はつて居る風に、學者文人に接近してその博識にかねるに見聞の廣きを以てしたから、その隨筆も俳諧に關する事のみにかた寄らずして甚だ面白く讀まれるのである。歌となく連歌となく讀書中の雜抄にも一見識を思はせるところがあつて、內容は多方面に渉つてゐる中にも、その常に敬慕する談林派の梅翁宗因に就いて、つとめて其の人物の酒脫にして逸事の掬すべきを紹介してゐる。かの梅翁が葺屋町の芝居にて或人の「子はまさりけり竹之丞」の上五文字に煩へるを見て、無造作に「おや〓〓〓〓子はまさりけり竹之丞」と冠を置いた時、芭蕉が同席して感嘆したように書いた本もあるが、素外は「一座手を打て感吟の聲暫し止まざりしとぞ」と記せるのみである。勿論芭蕉には敬意を拂つてゐるが、老鶯の題を「うぐひすや竹の子藪に老を啼桃靑」の句で夏季とするが、「うぐひすも老をばかくす太谷かな宗因」の先作あるをかゝげ、連俳共に鶯に老を讀むは春季であると主張するあたりに、宗因の肩をより多く持つたところが見掛けられる。『酒滴余談』といふ後編は嘉永六年板で、時には『玉池雜藻』の續編として本書に添へたものを見るが、本集の底本は三册本であるし、續編の方は本文に格別の記事はないので採錄を見合せる事にしたのである。文化七年板文化七年板中本一册枇杷園隨筆芭蕉と其の高弟との逸事を隨錄したので著者士朗の目に觸れたものもあるが、多くは門人が旅行中見聞したところを物語れるまゝに筆記して置いたので、卓池夜話とか秋擧夜話とか註記してあるのがそれである。芭蕉の眞蹟「万菊丸鼾の圖」は凸版に縮寫した爲め明瞭を缺くが、一寸めづらしいもので、寛政十三年板の『花は櫻』に摸寫されたものと同一である。竹二坊の『はせを翁正傳集』に載するのは、たゞその格好を寫したものに過ぎない。文中『土芳隨聞抄』とあるのは『三草子』の別本か、それとも其の稿本であるかゞ〓究ものである。芭蕉の遺文として揭ぐるものにも、他に全く所見なく眞僞を鑑別に苦しむものがあるが、士朗の見て以て信を置いたものだから殊更疑ふにも及ぶまいと思ふ.丈草の潘川宛書翰は長文ではあり、文脈のつゞき工合に不可解なところがあつたりするが、前年伊勢の桑名で千葉吐月氏所藏の同じく潘川宛の手紙を見たものと、其の瓢々乎たる書き振りが髣髴として同時代のものといふ事が直覺される。『琵琶園隨筆』の方の丈草書翰で去來の人物評に「此人も昔は具足を賣て傾城にかゝりいとて、其角なども大ほめのよし、自分にも笑ひ申い」の一條は謹厚な去來としては一寸思ひ寄らない情話である。琵琶園は居常琵琶を愛した士朗の庵號である處から、本書の標題に用ひたのである。中本一册解芭蕉 葉ぶね文化十四年板中本一册題鶯笠は後鳳朗となつた肥後の對竹である。江戶へ來て一家をなす野心を持つて居たが、俗俳を支配して行くにはたニ
四ゞ技倆ばかりでは不可である事を知つたので、先づ傳統的背景のいはれなきを主張し、二別三變なる說を以て正風の俳諧を唱へたのが此の『芭蕉葉ぶね』の根本問題なのである。しかし蕉門の遺書を通じて其の直旨を承けたといつても、人の容易に服す可からざるを苦慮して「われ筑紫のはてに生れ、越人の傳統をうけ繼ぎ」たるが如く假託し、百年の後その馬脚をあらはす事になつたが、當時の人はそのいふまゝを事實と信じたらしく、且つ又傳統の如何によらず、その論は時弊をうがつて居つたので其の門に歸依する者あり、一茶時代の後、梅室·蒼虬と共に三大宗匠たる位置と勢力を占める事になつたのであるから、『芭蕉葉ぶね』一卷は鶯笠卽ち鳳朗の世間的に知らるゝ第一門となつた譯である。一茶が本書の校合者であるのはどういふ事情からであらうか。廣陵の跋に「或人、鶯笠庵に遊ぶ日、此書を反古溜の中よりぬすみ來れりとて袂より出しつ」とあるのが一茶その人の事であるか。一茶ならばやりかねない仕事である。今日は校正といへば編著者の意を汲んで行ふのであるが、むかしは著者の爲めに校閱者として同格、或はそれ以上の者と見られたので、これを以て一茶が鶯笠の著述の校正に傭はれた如くに誤解してはならない。それと著者が廣陵となつてるが、これは出板者といふ程の意味であつて實際の著述者の鶯笠である事は疑ふべくもなからう。題名は朱拙の『芭蕉盟』にならつて、下心に芭蕉の助け船による事をふくめた事が凡例にあるので解る。日俳本系大書隨隨齋諧話文政二年板大本二册一讀して趣味の淺からぬ材料の扱ひ方に洗鍊されたところあり、然も事實を撓めて興味本位のものとしようとする無理がなく、考證的な記事をも廻りくどからず卒直にそして平明に記述したものとして、成美の『隨齋諧話』を措いて他に近世の俳話集にこれが同價値の書を求め難い、成美は富裕な遊俳であつたから望むところをほしいまゝにし得た齋諧話大本二册らうが、よく俗に落ちずして古書を愛し、その癖にとらはれて學を街ふところがないので、」學と識と俳の三者相向上して本書の內容をすぐれたものとなしたのであらう。貞德の『紅梅千句』に就いて其の發句の考證もあれば梅翁傳の紹介もあるように、俳諧の諸派に對してより好みはないが、芭蕉には常に關心して居たと見えて、其の傳記資料たる可きものが隨所に記し止められてある。四山瓢の一つ小瓢と銘と文章を臨摸して載せ、素堂が發願者としての芭蕉庵丹建勸化簿の寫しの如きもの、或は眞なりや否やを疑はれもするが本間道悅に醫を學べる時の誓紙には、書判をまで町嚀に影寫してある。行脚の掟は半信半疑のものながらとして、富久角左衞門の許に藏するを轉寫して居るが、文章に誤脫があるので成美の疑ひを挾んだのも無理ならぬ事を思はしめる。成美の珍本扱ひして居るものが今日では平凡の書となつて、全編種彥の考證の如く行屆いてゐるとは云ひ難いが、それは立場の上の問題であつて、古書の比較的に入手される今日でも『隨齋諧話』の引用書に通じた者はさう多くはあるまい。成美の文集は『四山藁』と題した二册本であつて、これは序跋その他のものを歿後にその遺子の編輯したものである。本書の序文は雪門中の藏書家八朶園寥松が書いてゐる。挿入の圖版は原本所載のものより縮寫されて居るから、そのつもりで見て頂きたい。嵐亭誹話文化十年板大本二册解古俳諧の註解中で疑問の存するもの、及び季題に取扱はるゝものゝ訂誤を主として記述してあるが、偶然の發見を得々として然も輕卒に斷じ去つたのでなく、愼重に考へてみた上で自說を述べてゐる學者的の態度に、著者の人格が閃いてゐる。嵐亭は雪門でその嗣號を許す事を重視する庵號であるが、先代の嵐亭富屋から別號新月庵二世と共に讓られたのであらう。一に奚疑と稱して潤氏が本姓である。その說で臆斷と思はるゝのは『虚栗』の飽やことしの一卷は五十四句
日であるから、「もと源氏行なりしが、六句脫せしを見ゆ」とある一項である。これは『其角七部集』を準據としての誤解である。『虚栗』の原本は歌仙三十六句であるのを七部集の覆刻者が次の詩あきん人の卷から十六句書き紛れたのを知らずして失策をかさねたのである。その他の說では芭蕉翁門人六感の語を一笑に附し、二十五ヶ條を支考の僞作と斷じてゐるなど孰れも論據がある。『曠野』の「宮司が妻に惚れられてうき」は私もグウジと讀んで居たが、『紅梅千句』の「宮司が妻に」ミヤジと振り假名があるので誤りを知つたが、『嵐亭俳話』に早く指摘してゐる事は氣附かなかつた。『毛吹草』にもミヤジの振り假名がある。猶「はせを翁眞蹟詠草二卷」の歌仙は果して芭蕉の捌いた連句か否かは解決を要する一問題であらねばならぬ。本文の中扉に『嵐亭俳話富屋』とあるは「奚疑」とす可きを誤つてさしかへを忘れたのである。古學截斷字論天保五年板中本二册貞門·談林·蕉風の推移は動かし難いけれど、その說の一所に停頓して三時代に於ける發達の見られないのは、切字を中心としての俳諧語法の〓究である。連歌道の傳授を承けたまゝ株守して俳諧特殊の見解は絕無と稱してよい。芭蕉のいろは四十七字皆切字の說も見方によつては當座迯れの言葉といつても辯護し難い。秋成の『也哉鈔』に至つて系統立られたが、その後成元の『俳諧手爾波抄』が音義說による解釋をしてから、古學者の語法〓究の爲め影響を受けつゝも切字の何たるかに就いて、確乎とした意見を持つた俳人はなかつた。北元の『古學截斷字論』は宣長の『詞の玉の〓』に據つた說で、序論を見ても連歌以來の旧說を脫して進んだ考へ方である事が解る。本文は『桐一葉』及び『有也無也の關』の如き芭蕉に假托した傳書、支考の『古今抄』その他竹亭の『をだ卷』より元木阿彌の『饒舌錄』に至る主要な諸書を批評して、七部集中の發句を例證として切字の一般を〓說したので、北元の發明と見らるゝ處はないが、傳統的な頑愚なてにをは論よりは遙かに進歩して學問的の組織を有してゐる。一名を『古學臺發抄』と稱してゐる。北元は鴨氏橿之本は庵号で、蓼太の門人午心の弟子である。其の生家は今のはい原の主家となる紙屋で繪草紙なども板行してゐたが、その弟に家業を托して俳諧を以て渡世し、『戀の栞』などの著作がある。此の切字論の後『玉のひかり』又は『俳諧作例集』の如き、和蘭語法より開けた新語學に基いた切字に關する書は、明治の初年になつて著作されたのであるから、明治以前の俳諧語法の書は切字論を以て終了したものと見られない事もない。俳諧茶話嘉永七年板中本一册『俳諧多識編』の著者で本草學に造詣のあつた樽柯の子で、三世東杵庵をついだ顧言とその弟子との問答を一柯の筆記した書である。顧言は松本氏、醫道には天蹊と稱して居た。忍川巢連の家元で蓼太系統であるが、樨柯の時雪門を脫退して了つたのであつた。樨柯から家學を承けたので其の說もまた穩健である。其角の難句を釋明した說の多いのは樨柯の稿本『五元集小觿』から出てゐるので、「小觿の解」にといふ語がところ〓〓に見えて居る。『枯尾花』の芭蕉終焉記に「三更月下入無我」は『江湖風月集』の偈に「三更月下入無何」とあるを、「其角、記記の一失にて、何を我に書誤りたる也」といふ首肯す可す說もある。切字に就いて〓柯の『猿簑逆志抄』の解釋に不審あるところを質疑し、顧言のこれに對する答辨も古學の一通りを知つた者でなければ云へないが〓略に過ぎないので、北元の『切字論』のような組織的なものではない。門答を筆記した一柯は宮地氏、可磨齋の二世である。茶話の題名は序文に「かの茶てふものはよく人の渴を止むれど-茶話も又よく俳諧の渴を止めんや」とある如く、輕い意味の「茶ばなし」を取つて用ひたのである。小册子であるが讀んで多少得る處があるであらう。解題
系大書俳本日不不白翁句集寬政十年板中本一册表千家の茶道を以て權貴の門に出入した川上不白の句集である。不白は京都の宗家千如心齋の許で日夜の修行·功夫にその道の奥儀を究めたので、茶人式の佗びた持味を其の俳諧に表現してよい筈で、さうした傾向の見られないのは蓼太に就いて、その平俗な手振りに染まつたとばかりはいへない。茶人と雖時代を背景として生活するから、世間と沒交渉であり得ない爲めであるが、不白は又大德寺の大龍和尙に參じたので、茶味禪味に徹したに疑ひないから、かうした微溫的な心境に安んじて居たのは解らない。それは措いて不白その人は三駱の序文にあるように、紀伊新宮の人で川上氏、如心齋に入門の日は默雷庵宗雪といひ、江戶に表千家を弘むる爲め、駿河臺に默雷菴を、又柴崎の傍に蓮華庵をいとなみて、「左に酒瓶を提げ、右に茶筌を曳て一たび不審奄の紫旗を」ひるがへしてより、世間風を望んでその門にすゝみ入り、茶道の大家となつたのである。俳諧は沾州に江戶座を、また五色墨の珪琳に就いた事もあるが、蓼太の雪門に會して殊に有名となり、此の句集も同門三駱によつて編集されたのである。文化六年十月廿九日、年九十三を以て物故した。近世の茶人として俳諧に席を列した特殊な人物として、その句集を本集に收めたのである。白翁句集中本一册能能靜草文化六年板大本一册俗を遁れて隱者の如き生活をした晩年の淋しさにくらべて、その俳諧には江戶の世相の反映して明るい氣分があるのは莊丹の『能靜草』である。「かくれ家も今は求めじいづくにも老のすみかは靜也けり」の境涯を自得して武藏野の與野で、能靜翁とよばるゝ前の莊丹は蓼太門に人となつて『猪武者』を撰し、それには成美が良治のおさな名で入集して靜草大本一册ゐるさうである。高柳氏、菜窓と號したが、『猪武者』は初号の雪奴か、或は梅郞の時代のころの著であらう。成美はそれより五十年の風交あつて『能靜草』の序に過ぎしむかしを振り返つて、「かゝるひさしきまじはりもめづらしからずや」と述懐してゐる。江戶氣分のある發句として江戶半太夫の襲名に「はる霞いほり看板幾代へむ」また唐崎新之助の輕飛に「ほめたりや蝶のふるまひ下り藤」の類で、尙、集中にこれを拾ふ事が出來る。附錄の「若葉の晴紀行」はつね〓〓信仰する日蓮の廟所身延山へ參詣の小旅行記である。寛政十二年八月の獨吟歌仙を添へて、句數のすくない割には賑かに編輯されてゐる。莊丹は芭蕉·其角·嵐雪三家の發句撮解に、和漢學の智識を示してゐるが、學問癖のあつた人としては俳諧はすなほに又おだやかである。文化十二年二月十四日故人となつた。享年八十。成美がその年の十二月殁したのは生前の交際に思ひ合はせて一奇である。をのゝえ草稿文政六年板中本一册松窓乙二の句集は門人一具·古翠の共輯で小菊本二册が出板され、その續編は一具が輯めて『乙二七部集』の中に收めてある。前者は「蕉門句撰』と題筌を改めた後刷本もあつて廣く流布して居る。『をのゝえ草稿』はそれと異つて乙二の子の十竹及びきよ女が相圖つて、父の病中その句稿の出板を企てたものである。乙二は刻成つて後、文政六年七月九日享年六十九で歿したのであるから、流布の句集よりも乙二の心境に接するに適當のものである事が知らるゝであらう。をのゝえは松前渡の紀行の題名でもあり、また筥舘に構へたその社中を斧の柄と稱したので、乙二の生涯に取つて思ひ出の多分な題名である。乙二の句は蕪村に私淑してその發句解さヘ口述した程なので、天明の遺響をおびて高邁なるところがあり、近世の俳人としては最もすぐれたものである。殊に『をのゝえ草稿』には四季別の外に海外の部九解題
一一を設けて、胡沙吹く蝦夷といはれた北海道の風物を詠じた作を錄してあるので、豪宕なるが如くして哀愁の迫るものた覺える。序者は「坊が其先はいさしらず、いその上ふりにし代より我家のけんざにて」とある通り、乙二が修驗者として扶持を受けた白石の城主片倉鬼孫である。跋文の松井元輔は仙臺の儒者で、きよ女の婿として俳諧を乙二に學んだ人である。本集には『松窓乙二句集』を覆刻する豫定であつたが、『をのゝえ草稿』の所藏者龜尾英四郞氏がわざ〓〓〓參參して貸與されたので、氏の許諾の下にこれを收容する事に變更したのである。系大書俳本日萍萍窻集文化九年板大本一册伊豫松山の富裕な町人廉屋三右衞門として大年寄を勤めた人望家であるが、老後安藝の御手洗に靜閑な一庵を結んで、近世の俳壇に知られた樗堂その人の句集である。樗堂は栗田氏、初め蘭芝と号して曉臺系統である。一茶が寛政七年の正月にその二疊庵をたゝいた時は松山に住んで居て、『たびしうゐ』には「大かたは散そめて花のさかり哉樗堂」の句を錄してあるが、『三韓人』で見ると文化十一年の「八月二十二日、叟身まかりぬと聞て筆の落るもしらずおどろく折から」その年二月二十日附の書翰が屆いた。それに「老はことの外に衰たり、活て居ると申ばかり」とあるのも致死期の豫言の如くあはれに聞える。「此次は我身の上か鳴烏一茶」といたんで「大事の人をなくしたれば此末つゞる心もくじけて、たゞちにしなのへ歸りぬ」と一茶は悵然その筆を投じてゐる。樗堂と一茶とは風調はもとより、性格の上にも一致點があらうとは思へないが、樗堂の爲めその行脚中に受けた恩誼を忘れ難く、かくもその死に對して力を落したのであらう。『萍窻集』には適勤とはいへないが、線のしつかりした平明調の句々を收めて、門人鹿門·才馬の共編で刊行されたのである。奥附の「藝州御手洗山本町、肥前屋嘉兵衞藏板」とあるのは板元の意味でないが、松山で窻集大本一册樗堂の句稿は松山に保存されて、板にならずして邊鄙な御手洗あたりに此の句集の藏板されて居たのがめづらしい。前年·碧梧桐氏の好意で借受け通讀したが、發句·連句の數册となつて居て『萍窻集』に收めてあるのは其の一部分に過ぎない事を記憶して居る。層龍之技文化九年板大本一卅靜嘉堂文庫の『輕擧觀句藻』は通人抱一の全生活を知る唯一の記錄である。其の句藻の拔抄が『屠龍之技』である。風凉しき玉川のほとり蒼い森の中の靜嘉堂文庫に於て、私は松井簡治氏の好意で一日その『輕擧觀句藻』をくりかへして漸く解題を取つたに過ぎないので、輕卒に「屠龍之技』との比較評をなすのは憚られるけれど、此の『屠龍之技』一卷あれば抱一殊にその發句を理解するだけなら、大部の句藻二十卷を通讀せずとも敢て不足しない事はいひ得る。けだその自信を以て文壇の巨擘である鵬齋及び蜀山の推讚的序跋を附して板行し『屠龍之技』は抱一の自選句帖であつて、したのであるから、通人としての彼といふよりは趣味生活、つまるところが江戶座の俳諧から來た酒落に生きる人としての全幅が展開されて居るのである。屠龍は抱一の別號である。雨華庵、又は鶯村、時には庭柏子、或は輕擧道人の号を用ひたが、俳諧には屠龍で通して居たので此の句集の題名としたのである。酒井家の第二男で〓と俳諧とに生涯を了つた人である事はいふまでもない。『屠龍之技』はその板下が婉轉たるその筆觸の美快よき彼の自筆である事も、句帖として愛好される一理由である。本集には帝國圖書館に藏するものを底本とした。抱一の歿年は文政十一年十一月二十九日である。享年六十八。之技文化九年板大本一卅解題二
一二系大書俳本日成成美家集文化十三年板中本二00成美の性格はその号の如く美しい。金持のほこらしいところ、富におごるところ、傲岸なところが少しもないか5、一茶のような階級意識の强い人間にも慕はれたのである。彼が接する人々に對して分け隔てをせず、俳諧の作に選に、閑居はして後も嘸忙かしかつたらう中で、望まるれば拒まず必らず書いて遣つたと見えて同時代の俳書には彼の序や跋や、少くともその發句のかゝげられないものは無い位に流行したのであつた。もと〓〓江戶座で培はれたのであるし、札差といふ派手な家がらからして其反映の句作にあらはれる可きであつて、彼の家集を見ればすなほに又おだやかに、高らかな笑ひも、利いた風の酒落もないので案外に思はれる。前々からの解題に成美の事はいく度か書いたように、これは彼の性格から來てゐるのである。成美は俳諧を以て佗び、澁味、そして寂の世界であることを性格の上に躰得して居たから、考察の仕方では故意に風流を街ふところの月並者流にも見られようが、此の家集を靜かに誦する時はさうした考へ方のあやまりである事が明瞭になるであらう。『成美家集』二卷その男諫圃·子强の校合及び門人久減60%警補補の美定その年に板行されたのである。そして殁したのは文政十三年十一月十九日、享年は六十八であつた。美文化十三年板中本二00曾曾波可理文化十四年板中本一册男性的な線の力がその〓と字と一致して蕪村の粗末なものよりは、俳〓として豪宕味のあるのは巢兆の特色である。その句集『會波可理』は生前春夏の部を自撰仝筆として板下を書いたまゝであつたのを、門人國村が秋冬の部を補波可中本一册記して出板したのである。鵬齋と抱一の序文中、抱一の「秋香庵巢光はもと俳諧のともたり」といつて互ひに句作を見せ合ひ、「彼に問へば彼譏り、我にとへば我笑ふ」とて相許さず、しかも「われ〓けばかれ題し、かれ〓けば我讃す」よく巢兆のといふ心境一如の下に「かれ盃を擧ればわれ餅を喰ふ」といふのも對句のため多少潤色はあるとしても、性格を語るものと稱すべきである。板本を見れば解ることながら春夏と秋冬とは同筆なる如く見えて、一は巢兆であり、一は國村であり、その筆致の酷似せる事奇異なる程である。『曾波可理』の句には巢兆の〓題になるべきもの、たとへば「隣家看白」との前置があつて「夜ざらしの二布干なり天の川」の如き、一句としてはたゞ平板の敍景に過ぎないち、それを巢兆の〓題として鑑賞すれば野趣の限りなきを覺えしむるものがある。彼の句はどこまでも〓人としての彼を看却してはならない。-巢兆は文化十一年十一月十七日故人になつたが、『曾波可理』の刊行はそれより三年の後である。枇杷園句集文化十四年板中本二册士朗は常に「日〓に狂险すること三百余句」一年を通じて「自得のものわづかに八九、余はみな棄つ」といつて長歎したが、その年〓「自得の八九を拾ひて」門下の卓池·椿堂·蕉雨·宇洋·松兄の共に輯めた『枇杷園句集』には、その分擔責任者が四季及び雜のそれ〓〓終りに署名して居る。士朗の句集には『枇杷園類題發句集』小本二册あるが、士朗の歿後に遺弟梅間の編輯したもので、詞書は文集に讓つて省略し、文政八年の出板なので、句集としての價値·體裁ともに本書にすぐれる處がある爲め、類題發句集の方は參照したまでゝ『枇杷園句集』を採擇したのである。士朗は國學を本居宣長に學び、醫者としても德望があつたので、俳壇的には梅間の讚仰の言葉に「芭蕉翁已來の一大家」とある如く三二解題
一四極端の崇拜者があり、勢力はその身名古屋にあつて江戶·上方を支配する程であつたが、實際句作の技倆はその師曉臺を凌ぐには至らないので、或は虚名を賣りて貧事の甚だしきを罵る者がある。『秋の夜のあけてもしばし月夜哉』は士朗の持句で短冊などに揮毫したものを再三見るが、本書の序文に「盖ッ其賞心殊在11月下〓ニ其ノ所詠最多"」とあるように、しきりに月夜の美感を詠じてゐる。文化九年五月十六日、七十一才を以て殁した。士朗の人物評は前に解題中に紹介したから再びいふまい。日系大書素檗句集文政六年板中本一册藍碧の水を湛へた湖上は冬になつて一めんの氷となる。さうして諏訪湖畔の人々は素檗の家に寄り合つては俳諧の會をした。素檗の家は嶋屋太郞右衞門とよぶ一町構への油屋であつたと聞く。彼は髪を剃つて福〓とよび、藤森氏である。その妻は曾良の生家から嫁いたので、曾良の持ち戾つた芭蕉の色紙の殘り一枚を曰人に送つた事などが曰人の手記に見える。俳諧は曉臺に接近した關係があつて、後には士朗を信じて『五七集』にその作が散見し、士朗の格調に化せられた傾向があるので、人によつては士朗の系統に入れてゐる。素檗の發句は士朗と同じく感激性に乏しいからピンと響いて來ないうらみはあるが、その俳〓は獨自のもので、巢兆のごつ〓〓して癖のある線ではなく、ふつくり圓味を持つて野性の人物をとぼけて滑稽的に描くに長じてゐる。『素檗句集』のさし繪に依ても、一筆がきで擲りあげたらしく一見粗笨のようで、いかにも俳趣のある〓風であることが見られよう。士朗も〓をよくしたし、句集の序を寄せた嵐外もなか〓〓巧みであつたが、素檗ほどの特徴は持つて居ない。跋の若人は同じ諏訪の人で曾良の日記それは『雪まろげ』とは別稿で、細道行脚の日附や泊り〓〓の事を控書にしたものを持ち傳へたといふ。素檗の殁したのは文政四年二月二十六日である。梅室家集天保七年板小菊本二册その家は加賀藩の〓刀御用で藩から俸祿を受けてゐたが、梅室は俳諧師になるのが第一の望みで文化元年に致仕したのであつた。それより師闌更から槐庵の号を許され、二條家から左記の如き花の下の允許を得るまでの努力は決して凡人業でなかつた。同五年十るように生前の出板で門人林曹月一日、享年八十四で歿した梅室素信が校正したのである。開卷、「元が、翌年には『梅室翁紀年錄』俳諧之達者中興之器也日や鬼ひしぐ手を膝の上」とあるのでうんざりさせられるが、といふ一代の年譜が單行本で出宜爲花下宗匠板になつたので、その偉人視さ御印あたまから罵倒してかゝる前にれるの甚しかつた事が推測され嘉永四辛亥四月逐一讀んで見たら、流石に一代る。『梅室家集』は扉に自撰とあを風靡した人物である。愛誦すべき吟のある事を頷くであらう。梅室の句集には鶯宿輯の嘉永六年板『類題發句方圓集』がある。細長い橫本一册で別号方圓齋を標題にしたものである。又、柳壺編の安政四年板『西暦4梅梅發句集』小本二冊がある。二書共に歿後の出板なので疑問の起つた時對校するに止めたが、その附合集は別に板行されて居る。梅室は櫻井氏、雪雄、後に素信物と素芯号したので、その梅室は何々庵と稱すると同じく、素信が通号なのである。大坂の天來が『七草』を以て論難し、これに對して双方の難書が板行されてゐるが、天來の方が頑迷說で梅室は寧ろ進んだ意見を持つて居たのである。『梅林茶一五解題
一六談』でその新らしい俳論を見られる。系大書俳本日鳳鳳朗發句集嘉永三年板六東米二册越人の傳統云々がうそだとすれば鳳朗は誰の系統になるかといふと、道彥に師事して其の引立てゞ顏を賣つたのだから、關東正風の一人であると見てよい。鳳朗は熊本藩の浪人で肥後五丁の〓の惣庄屋永井卯七兵衞の子といふ說がある。時に柱川源吾と變名して素性を包んで居たらしいが、田川氏で知られてゐる。對竹は肥後在國からの号で、江戶に來て鶯笠といひ鳳朗と改号したのである。別号は自然堂である。天保二年十一月二十八日江戶で歿した。享年八十四。鳳朗の句は俳系から來た特色はなく、時流を巧みに泳ぎ廻つたので、その多くは人情味を覘つた技巧句であるが、寫生句にはとき〓〓よい句にぶつかるので、『鳳朗發句集』もまた捨てられないのである。生前の句稿は上總の船中で「わだつみの神にかくされ」とあるから難船して海中に投じたものらしく、その後續集を拵へて持つて居たが、これは「難波の旅寐にて相やどりの子にうばはる」と如息の序に記してある。『鳳朗發句集』は句稿によらず、殁後四馬が主となつて逸淵及び遺弟の雀翁·詠久が編輯校合したのである。奧附にある後篇は嘉水五年八月、同じく西馬の編輯板されてゐるが、正編で充分であると思ふから採錄しなかつた。その他に異本が存在するかも知れないが見あたらなで出いので、右の前後二編のみであるまいかと思ふ。五百分儿童句翁句弘化四年板中本二册朗發句集六東米二册弘化四年板中本二册豪奢の生活を睨まれて江戶拂ひになつた藏前の抱儀が、京都から蒼乳を江戶に招く時、金二百兩を旅銀として屈けたさうである。その出迎へに抱儀が料理人まで引つれて行つた事は『金澤紀遊』に出てゐる。蒼虬の全盛はその一事で窺はれよう。加賀藩に人となつたが「藩中高祿の士たり」とあるから、梅室のような〓刀と同視されないが、闌更を師として京都に出て、俳諧師となつた徑路はよく似てゐる。成田氏、南無庵の嗣号に就いて師の未亡人得終尼と不和となり、尼みづから南無庵の文臺を立てゝ爭つたが、遂に蒼虬の名聲を壓倒する事が出來なかつた。天保十三年三月十三日、年八十二で歿した。その生前『對塔菴蒼虬句集』二卷を門人に托し、梅室の序文を添へて天保十年に出板したが、本集に收めたのは歿後、門人梅通の訂誤したもので、梅室の序文はない代り、蒼虬の小傳を附して校合も屈いてゐる。その他江戶の祖〓がその十三囘忌に『蒼虬翁發句集』二册を編輯してゐるが、嘉永七年板の小本で句數も尠い。蒼虬の發句は梅室取び鳳朗よりはやゝつぶが揃つて、「柴の戶を左右へ明て花の春」の卷頭も梅室の「鬼ひゝぐ手」の如き俗も厭味もない。しかし嚴格に批評すれば天保といふ時代はこゝにも暗い影をさして、俳諧を俗了させた一人といふ汚名は永久にそゝぎ難いのである。蒼虬は梅室·鳳朗と共に一茶時代の後期三大家といふのが通說であるが、作品の上からは蒼虬に最も好き位置を與へるのが公平にして至當の見解であるまいか。(勝峯晋風)解題一
日本俳書大系第十四卷近世俳話句集目次誹諧根源集一玉池雜藻五一枇杷園隨筆三芭蕉葉ぶね一四一隨齋諧話一五嵐亭誹話二三五古學截斷字論三五俳諧茶話二八比不白翁句集三二能靜草11120目をのゝえ草稿三見元萍窻集天八五屠龍之技
系大書俳本日蒼虬翁句集鳳朗發句集梅室家集素檗句集枇杷園句集曾波可理成美家集誹諧根源集素外-扇面筆蹟不白·抱一·樗堂·梅室-短册滑·稽素外著素檗-軸ナール五七七五七三二四五老三三〇げ
誹諧根源集序書〓來求序ヲ於余一余與翁比隣ニノ而相善シ不敢テ辭一乃題是〓言〓〓シ〓其責ヲ爾。寬政庚申七月甲午北山山本信有撰倭歌ハ者誹諧ノ之藍詞シ也從古巳來以テ能盡シ人情〓以テ能感ニーシム異類〓矣階〓メタル花間ノ流鶯咯々タル水際ノ游蛙莫」不可皆吟詠一〓 綿聯傳布シテ其〓無の墜ル「矣然モ人情率ヲ好け簡惡ハ煩ヲ去冗〓〓〓〓〓〓〓〓歌歌數十百言雖麗ニシ而巧ナリト却テ不若一言ナル者之簡ニノ而雅ナルニ雖則簡雅セト俗耳接スレバ-針砭不啻ナラ於是ニ乎達者亦一變シ之ヲ今ノ所謂謂諧異"矣其體居"簡"而不失ニ本原ノ其辭混レ俗ニ不離ニ風ニ雅)上"s"臺皇代言禁之之下下ニシ之。〓術秤說。之壇ヲ凡古今ノ世態近遠ノ方俗籠罩シチ乎僅〓十七字ノ之內一有無涯〓餘味無〓窮〓餘趣自ツム非セルシ斯斯道一者不必シモ知ニ其然"〓蓋公矦貴威玩〓〓之ヲ則足以以ジジ情情識識ニ苦士庶人遊ニュート此藝則則柔敦厚化鄙野一至ニシシム文雅一無用ノ之用有一「補於世〓"猶猶輩ノ屬詩ノ也素外谷翁以誹諧フ爲二家ヲ於江戶一從遊甚多シ甞テ慨嘆"世ノ誹人不明ニー此此道ノ本源〓或ハ有趣ニ乎邪經一著シ根源集五卷フ博弘旁及探究シ此道所フォルニ爲門人弟子ノ揄揚ス風雅ヲ抑3欲ヒバ知シ、翁ノ精ニ乎此藝ニ勤セルヲ乎此業に則ヒテ卷ヲ可自ヲ識也翁一日携、此北山山本信有撰有信北山華溪稻貞隆書貞隆誹諧歌は、古今和歌集に撰み載られしをはじめとして、代〓の撰集の中にも其部を立給ひしにや。しかありし後は、家〓の集にも稀に見え侍る也。抑俳諧てふ事は滑稽とて、こと國の史記又漢書に普く擧出せしを、八雲御抄·奥儀抄等に其名目を委しくわいだめ置給へり。又誹諧連歌は、はいかい哥の本末をつらね歌となしたるなれば子細なし。いにしへは和歌に誹諧あれば、連哥にもはいかい有て別事にあらざりしを、永止の比、山崎の隱士宗鑑、犬筑波といふ集を編して印行し、天文の比、伊勢の荒木しかありし後は、
おもふに、幸ひ門人山田保大、漢史を好みて、この道に志ある童蒙のため史記滑稽傳通俗解をなし置るに予考訂して、世に俳諧の文字の出所となすものなれば先ヅ是を卷首とす。又漢土に俳諧体の詩、同聯句有。何れの誹書にも只滑稽傳ばかりを引てこれを出さず。よて未練の人、滑稽又俳諧といふは辯舌利口にして諷諫せし事を、吾朝にて和歌の一体となし、古今集に撰み入給ふと覺え來れるもあれば、是又右の後に載す。次に古今和歌集をはじめとして廿一代集中のはいかい哥を出し、夫より連歌の發り、將誹諧の起りに用ある事を、古書·古說に寄て悉く擧あらはし、誹諧根源集と題す。此集、始めにいへる如く童蒙初學の爲に編したれば、聞え安からん事をむねとす。必や識者に見せむとの書にはあらざる而已。江戶誹談林七世一陽井素外述日書系大田守武獨吟千句に誹諧連歌の式を定めてより、いつとなく連誹二ッと成。はいかいにては此兩士を誹書·誹式の始めとせり。其後寬永の比、京師の松永貞德はじめて誹諧宗匠の免許を蒙り、此道大に開く。又我祖とする西山宗因は里村昌琢の門人にして、浪華天滿宮の連歌所を預かり、誹号は梅翁とて守武の古風を慕ひ、且莊子の寓言によりて格調一家をなす。これ寛文より延寶の比也。夫より貞享·元祿にうつりて誹諧の風調一統に變じ、親句すたれて疎句のみとなる。今家〓流風あれど槩元祿の調に寄歟右延寶年中迄は、誹師といへども歌人·連哥師より出て其源に委しく、はいかいをよく悟して〓へを傳へられしにや。元祿の人も其〓へをとれば、句作は延寶にたがへど、意は誹諧によく貫通して名譽の人多く、今の世迄賞し聞ゆる也。又元祿の後漸星うつりて、延寶以前の誹諧を一向に古風と心得、親疎の事をも辨へず、誹諧の本をも糺さで弄ぶ人も多きにや。近來阪昌周、連歌辨義を撰まれ、古きを詳らかにして今にしめさる。誹諧も初學の人に其興りをしらしめ、俳諧は滑稽なる事を悟さむと寬政九年丁巳季春誹諧根源集卷之一誹諧根源集目錄卷之一滑之卷一史記滑稽傳通俗解一杜子美俳諧體之詩一范至能俳諧體聯句卷之二一廿一代集中誹諧歌井頓阿誹諧歌兼容に稽之卷一莵玖波問答連歌之始元一莵玖波集連歌之誹諧徳ノ四一誹諧先達之連歌井發句一和歌連歌家誹諧之發句卷之五一俳誹文字之辨井誹諧之大意史記滑稽傳通俗解ジユンウコンコツケイ○淳于髡は。齊國の贅增なり。長七尺に滿たず。滑稽にしごシバ〓〓ショコウ七九て辨多し。數諸侯に使して。嘗て屈辱せられず。齊たび〓〓かゞめはづかしめ中ウ.チノヨホッテン;の威王の時。隱を喜む。隱は隱語なりなぞ〓〓のどし淫樂長夜の飮を好み。サクハウラン自ら治めず。政を卿大夫に委ね。百官荒亂し。諸侯に並すきみみだれび侵されて。國の危亡。旦暮にあれども。諫るものなし。淳于髡隱を以て說て曰。十1ハ〓國中に大なる鳥あり。王の庭にrK 1カ止り。三年輩ず。又鳴かず。これを何なる鳥とおもひ給·シああり。王の曰此鳥飛ばずんば論なし。もしも一たび飛さとりての給ふ也ぶならば。天に沖らん。又鳴"ずんば論なし。もしも一たオドロカび鳴"ならば。人を驚さんと。こゝにおゐて。國中諸縣の令長。七十二人を召集め。其うち賞したる者一人。誅しイたる者一人あり。兵を奮ッて出ツ。諸侯大に驚き。侵し置たる地を。みな齊にかへす。威の行るゝ事。三十六年な玉
ロニ:歩1り。威王の八年に。楚國大に兵か發して。齊を攻んとす。キヤウコク威王淳于髡を使として趙國へつかはし。救の兵を請しむ百斤。車馬十駟ル齎ふ。るに。金淳于髡天を仰で大に笑カケヲコト〓〓ひ冠の纓索く絕ツ。王の曰先生これを少しとおもふ;シントて笑ふか。淳于髡曰しからず。臣今者東方より來る時。道の傍にて。田に穰する者あり。一豚CIC·ソじ)蹄。酒一盂を操て。ロ祝して曰甌窶は篝に滿ち。汙邪は車に滿ち。五たかくせまき所はからひくき所のたきゞコノ、ンシユクジヤウ!穀蕃熟し。穰〓として家に滿んといへり。其持ッところしげくみのり山のどく竹は狹にして。欲る所は奢なり。故に笑ふといふ。あつりこゝに:,ジュンウコンソレ淳于髡夫より。おゐて。王黃金千鎰。白璧十双。車馬百駟を。益し齎ふ。七六イ趙に往て救を請ふ。趙王これに。精兵さぐりたるつはもの(千円十万。革車千乘をあたふ。楚これを聞て驚き。夜兵を引チて去る。齊王大に悅び。後宮に置酒して。淳于髡を召て。タ、ンIC酒を賜ひ。問ふて曰。先生幾を飮で。能く醉をなすぞ。日三、〓對て曰。臣一斗を飮でも醉ひ。一石を飮でも亦醉べし。ンエリ々王の曰。先生一斗を飮で醉ならば。安ぞ能く一石を飮んマや。淳于髡曰。大王の前に酒を賜はらんに。傍に執法あは、シン:)フり。後"には御史ありて。髠。恐懼俯伏して。飮ときは。おそれおのゝきひれふし一斗に過ずして。徑に醉べし。공親に嚴客のり。髠うじ、拳講鞠騰して侍り。餘瀝を賜ひ。しば〓〓起て飮ときは。二斗に過ずして。徑に醉べし。又朋友の交りふかきが。久しく相見ざるに。CLEP卒然として逢ひ。よろこび歡然として故をいむしじ당私情語りながら飮ときは。五六斗ばかりにして。徑リ」アノに醉べし。又州間の會に。男女雜りて。酒をめぐらし。手はんくはの所ジ·チノを握れども罰なく。目胎ども禁ぜられず。前に隋耳あめづかひおとしたるみゝの玉り。後々に遺簪あり。髠。竊にこれを樂んで。飮ときは。八斗ばかりにして。醉十"に二ッ三ッならん。それより。日七十暮れ。酒酣になり。男女席を同くし。履鳥交錯し。杯盤ダウジヤウシヨクメツン狼藉となり。堂上燭滅し。髠ひとりとゞめて。主人はざしきともしびきへ:キヤウタクキコ客を送り出で。羅繻襟解け。微しく〓澤聞ふ。この時にあたつて、髠が心。最歡んで。能一石を飮べし。故に曰。サケキハマルトキハミダルタノシミキハマルトキハカナシム酒極則亂樂極則悲といへり。萬事かくのごと三シしと。以て諷諫す。王の曰。善とて。長夜の飮を罷め。髠シユカクシ1を。諸侯の主客となし。宗室置酒の時は。髠を側に在らアヤマチ코べしといふ。王の曰。寡人が過此にとゞまれり。これ王の身をいかんせん。優孟曰。願くは。大王の爲に。六畜を葬ロらんには。瓏竈を以て椁とし。銅歷を棺とし。齎ふるに·ソ薑棗を以し。薦るに木蘭を以し。祭るに糧稻を以し。衣するに火光を以し。これを人の腹膓に葬らんといふ。こゝにおゐて。王馬を大官に屬し。やくにん3·天下に聞ふる事なか舌チソンシユクガワらしむ。又楚の相に。孫叔敖といふ人ありしが。優孟が善待したり。叔敖病て死なんとする時。賢なるを知て。ニ其子に屬して曰われ死せば。汝かならず貧困すべし。往いひつけまづしくくるしむて優孟に逢て。孫叔敖が子なりといへ。困をまぬかるべしといふて死しぬ。數年ありて。其子窮困し。薪を負ふて世をわたりしが。優孟が家に往き。われは孫叔赦か子なり。父死する時。われに屬するには。貧困せば。君にまみへよといひたりといふ。優孟曰。汝遠く之〓ななれれと叔敖が衣冠をなし。掌を抵て談語し。歲餘T O夫より。シユクガウ王の左右。別事あたはず。叔敖か像をなすに。にして。ある日。王置酒する時。優孟來りすゝんで。壽をなす。七しむ。ウバ○優孟は。楚の樂人なり。長八尺。辨多し。常に談笑を以て諷諫す。莊王の時。愛する馬あり。衣するに文繡をあやあるぬひもの以てし席に露牀を以てし。啗はするに棗脯を以てす。此クハンクハクタイフ馬。肥を病て死す。群臣に命じて喪せしめ。棺椁。大夫の禮を以て。葬らんとす。左右あらそふて。不可なりと〓す。王。令を下して曰。馬の事を諫るものは。罪死にあ+1たるべしとなり。優孟これを聞。殿門に入り。天を仰で大に哭す。王驚て其故を問ふ。優孟曰。馬は。王の愛し給ダウ〓〓ニ元七大ふ所なり。堂〓たる楚國の大なるを以て。何を求てか得たまはざらん。然るを。大夫の禮を以て葬らんは。薄かる千Nob願はくは。人君の禮を以て葬らん。王の曰いかん。日文、カウフウヨシャウ對て曰。彫玉を棺とし。文梓を椁とし。梗楓豫章を顯湊あやあるよき木木口を石セイチャウッ子となし。田卒を發して壙を穿ち。老弱土を負ひ。齊 趙の垣の如くつむたみバ日生兩國を。前に陪せしめ。したがはせ韓魏の兩國を。後"に翼衛せしめ。たホ1フ廟食に大牢を以し。萬戶の邑を奉ずべし。諸侯これを聞かば。みな大王の人を賤しめて。呂1セ馬を貴び給ふ事を知る
八七九後十世まで絕えず。これいふべき時を知るものなり。タイダウ○優旃は。秦國の倡の侏儒なり。能笑言をなして。大道シクハウTXイシャンに合へり。始皇の時。置酒ありし日。大に雨ふる、陛楯みはしのもとにたつの者。みな沾寒す。優旃見てこれをあはれみ。汝等休まおっくワス、んと欲るかと問ふ。皆對て。休む事を得ば。幸甚なら冷ノんといふ。優旃曰。われ汝等を呼ぶとき。はやく諾といへと紗デンジヤヴコトプキし。しばらくありて。殿上壽を奉り。萬歲を呼ぶとき。優旃檻に臨んで。;大に陛楯郎と呼ぶ。郞等諾方ノタ七十と對ふ。優旃曰。汝長なりといへども。何の益あらん。サイ、イサイハイ幸にして雨立す。我短なりといへども。幸に休居すといち、こゝにおゐて。始皇。陛楯の者をして。半代らしむ。ヨウチンサウ又始皇。苑囿を大にして。そホ東は函谷關に至り。江東西は雍陳倉に至らんと欲す。優旃曰善し。多く禽獸を。其うアロちに縱し。東方より。寇の來"らんとき。糜鹿をしてふせが긋しめんに。不足はあらじといふ。始皇故を以て輕止す。シホツとゞまりやむ又二世皇帝立て後。シ城に漆んと欲す。優旃曰善し。城つて、之に漆する事。百姓は。其費を愁ふべけれども。佳なる哉。シユクガウフクセイ三十五王見て大に驚き。叔敖復生したるなるべし。相となすべカしといふ。優孟曰。歸りて婦と計り三日過て來るべしといひて。三日の後又來る。王の曰。婦は何といひたるぞ。동남優孟曰。婦が申たるには。楚の相とはなる事なかれ。孫ッオサ叔敖相となり。忠を盡し。廉をなし。楚國を治め。王。マ+)覇たる事を得たれども。死しては其子。錐を立るの地もなく。貧困し。薪を負ふて世をわたる。叔敖がどくんば。サツウ自殺するにしかずといへりとて。方ナイ汐ツ聲をあげて歌ふ。多山居田を耕し。苦んで食を得がたく。起て吏となり。身マイ貪鄙なれば。財を餘して。耻辱を顧ず。身死しても。家むさぼりいやしくシツトメゆ室富り。又恐くは。賊をうけ法を枉げ。姦をなして。大野イ罪に觸れ。身死して家滅す。い伝気貪吏安ぞなるべけん。いもT念ふに廉吏となり。法を奉じ職を守り。死を竟て。敢て非を노なさざれども。廉吏も安ぞなるべけん。楚の孫叔敖。廉を持て死に至れり。まさに今。妻子薪を負ふて食ふ。なウるに足らずと歌ふ。こゝにおゐて。王優孟に謝し。叔敖ホ歩が子を召て。寢丘といふ所。四百戶に封じ。其祀に奉ず。漆城蕩〓として。タウ〓〓冦來るとも。ノ上る事あたはじ。顧に。すべ〓〓次カツ姿うつりて。陰室はなじかたからんといふ。二世笑ふてかくしごと止む。プサイハイ喜○漢の武帝の時。幸せらるゝ倡に。郭舍人といふ者あり。からッシ言を發し辭を陳る事。大道に合ずといへども。能人主をミカドラサナキトキ和說せしむ。帝少時。東武といふ所の侯母。帝を養ふ。オホム子ミカドサウ子ン帝壯年に至りて。これを大乳母と号す。率一月に再朝づたしハ名ジヤウショす。或は帛を賜ひ。或は食を賜ふ。乳母上書して。誰某19三カ、七六帝の曰。が有する公田。願くは假倩せんといふ。乳母これを。得たくおもふかとて賜る。乳母がいふ所。聽され''チ少 ウチずといふ事なし。又詔して。車に乘て。馳道の中を。おなりみち行事やゆるさる。此時にあたつて。公卿大臣。皆乳母を辛ヲドジウッヤチヤウアン敬ひ重んず。乳母が家の。子孫奴從者に至まで。長安のうちにて。横暴なり。道に當て。人の車馬を掣頓し。人フ泣ウチシくの衣服を乞ひ奪ふ。此事。中に聞すれども。法に致に忍かるンよつて有司奏して。びず。乳母が家室を徙して。スルート邊に居三九六らしめんとす。帝これを可す。乳母入て帝の前に至り。面見して辭せんとおもひ。先郭舍人に逢て。泣を下す。クマやユ舍人日。すなはち入て見へ。辭して去る時。疾く歩み。シバ〓〓カヘシ數還り顧よと〓ゆ。乳母。其ことばのどく。謝し去るびく〓シバ〓ヽカヘリミ時。疾く步み。數還顧る。郭舍人罵て曰。老女子何サッ子ンナヲナンヂチ·モぞはやく行ざる。陛下今すでに壯年なり。尙汝が乳を須千千て活給はんや。しかるに。尙何ぞかへり見るぞといふ。て にを下し。乳母こゝにおゐて。帝憐み悲むの心おこり。詔ウを徙す事をとゞめ。轡する者を罰謫す。つみつ〓ブト十○武帝の時。齊人に。東方朔といふ者あり。古の傳書をグハイカ好み。經術を愛するを以て。博く外家の語を。觀る所多し。東方朔。はじめ長安に入り。公車に至りて。上書せグしに。凡て。奏牘三千なり。公車の令兩人。其書を擧るヲタジヤウハウに。數多く。重く。漸に勝たり。帝これを。上方より讀ッミコトノリみ。止る時は。その所に乙し。二ケ月にして讀盡す。詔しイラ, 2子カタハラT 。拜して郞となす。常に側に侍す。しば〓〓前に至てン談語するに。帝よろこばざる事なし。前に食を賜へば。ニ三元七分飯巳で。餘肉をみな懷にして去る。衣こと〓〓く汚る。九
數シバ〓〓ケンハク兼クマに、クサク々トラセンハクかとりきぬ帛を賜へば。になひゝへ擔揭して去る。徒に。賜ふ所の錢帛モ)シヤウフチヤウアンチウカウヂヨトフを用て。少婦を。長安中の好女に取る。おほむね婦をとめかけかほよきサイミニサラタイ一歲ばかりにして棄去り。る事。あらためて更に婦をとる。賜ふとセンザイもちじツショラウナカバキヤウジンころの錢財。みな女子に索す。帝の左右の諸郎。半狂人1カハウサクと呼ぶ。帝これを聞て曰方朔をして。事にあらしめば。カレショナナンヂライヅクンヲ彼が行ひをする者なからん。若等安ぞ及ばんやといふ。ンラサシマツシヤ東方朔。其子を任じて郞となし。又侍謁者となす。1ツあるとき謂て曰。人みな。先生を狂人なりとすと告。ジ朔曰。イニシヘスナハチシンザンサの人。1古乃世を深山のうちに避く。朔がごときは。ユルチヤウテイほゆっザ七十所謂。世を朝廷の間に避るものなりといふ。時に坐席のうタケナハヨゆかつ湯リクチンち0酒酣なり。地に據て歌て曰。俗に陸沈して。世をキンバ(チ)サキウデンウチマツタウ金馬門に避く。宮殿の中。以て世を避け身を全すべし。ナンカナラズシンザンウチカリヨそ い何ぞ。必しも深山の中。高廬の下のみならんやといふ。時くきのいほりすのめクハイシウかつたシヨセンセイワイド七七ナンに。宮下に會聚する。博士諸先生。論議して與に難じてあつまるソシンチヤウギバンジヤウシエワタケイシ、ウ蘇秦張儀は。クンキ日。一たび万乘の主に當ッて。卿相の位を都べ。ス多澤。後世に及ぶ。コウセイヲ今子は。シセンワウ先王の術を修め。ショヲセイジン聖人ドうるほひシシシヨヒヤクカニトフウシヤウアイの義を慕ひ。カノ詩書百家の言を。諷誦する事。勝て數ふべナッ、1.0からず。チクハク竹帛に著し。ミヅカラモツ自以て海內双なしとおもへり。すカイダイナラピかきものハクプンベンチノッッなはち博聞辨智なりと謂ッべし。しかも力を悉し。忠をセイテイーカ盡し。聖帝に事へて。數十年を積み。スチノツかく官は郞に過ず。三スキウニキ位シノゲキス にホモリイカッソノユヘナンは執戦に過ず。サツ意に。なを遺行あるか。しのこしたること其故何ぞや。朔マ·ト强シヨカレ日。これ固に子が能く備にする所にあらず。ジ彼も一時なシジ三チヤウギソツノり。此も一時なり。豈同じかるべけんや。張儀蘇秦が時シウシツシヨコウチヤウヤヲマツリゴトッ周室大に壞れ。かつは。諸侯朝せず。政を力め。權をあらそアイキンヘイモノチすゝンニひシあらそふ相禽するに兵を以し。井で十二國となり。いまだ雌1ツシウカルガユヘ雄あらず。士を得るものは彊く。士を失ふものは亡ふ。ウッチホロもう十カウツウソンイタクコウセイ故に。說聽かれ。ヲいふことすること行通じて。尊位に至り。澤後世に及セイテイカミうるほひび。子孫長く榮ふ。タ今はしかるにあらず。聖帝上に在て。シヨコウヒンブクヰ德天下に流れ。諸侯賓服して。威四夷にふるひ。四海のay/た十ウクツガヘ外を連て。席となす事。盂を覆すよりも安く。天下をれんヘイキンカドウハツグ平均に合せて。一家となし。タナゴヽロ動發事を擧る事。なを掌のマロバスゆせつナ·二、うちに運がどし。賢と不肖と。カホ〓牛シミンすれ牛じに何ぞ異ならん。ツウツ今天下の大なると。士民の衆を以て。ハ精を竭し。說を馳せ。なストモフクサウイチカノらび進て。輻湊する者。あつまる勝て數ふべからず。力を悉し義ッ日系大書シカイシュクわん(3)4ウンチチヤウギソシンを慕ひ。衣食に困しみ。あるひは門戶を失ふ。張儀蘇秦いちカツシヤウコウをして。今の世に生ぜしめば。曾て掌故をだも。得る事かろき官アッイヅクン1.シヤウジジラツ台おく能はじ。安ぞ敢て。常侍侍郞を望んや。ティ傳に曰。天下害サイ菑なければ。セイジン聖人ありといふとも。其才を施すところなホドコジヤウカクハドウケンシヤ:からん。上下和同せば。賢者ありといふとも。功を立るカルガユへマトところなからんといへり。故に。時異なれば。事異なり。シカイヅクンウンズヲサ然りとはいへども。安ぞ務て身を修めざるべけんや。シ+サ+一ツルキウカウナ詩に曰。鐘ふ宮に鼓す。雖外に聞ふ。觀九旱に鳴く。聲天につイヤシクヨシチナンサカウィータイ聞ふと。苟も能く身を修めば。何ぞ榮へざるを患ん。太ラチチニツわーい.チ.ブンワウアッソノセツ公は。卵。仁義を行ふ事。七十二年。文王に逢て。其說を。ラチ行ふ事を得たり。エしかふして。ゆ齊に封ぜられ。ホウ七百サイタシシガツオサ歲まで絕えず。これ士の。日夜孜〓として。學を修め。つとめてこうヲコナエヤュンション道を行ひ。敢て止まざる所以なり。今の處士。時に用ひクツゼンとい、クハイゼンじゃられずといふとも。崛然として獨り立。塊然として獨りヲカニキヨユウシモセットサクハンレイヲチ居り。上。許由を觀。下。接興を察。策は。范蠡に同じチノシニガリク、ヘイテイく。忠は。子胥に合し。天下和平にして。義とともに相ウスグノスクナタイスクナマトナン巳ウタガハ扶け。偶寡く。待少き。固に常あるなり。子何ぞ余を疑んシヨセンセイモクゼンシマヌけーやといふ。諸先生默然として。應ふることなし。징建シヤウキウコウカノチヤウレキウチ毛)イソノカタチノ章宮の後閣。重 機の中に。物ありて出ヅ。其狀麋に似たモノヲノミカドユキミグンシン6。以て聞す。帝往てこれを視給ひ。左右群臣のうち。ケイジユツ呂千事を習ひ。經術に通ずる者に。問ひ給ふに。知るものなサツメンミシンシ干カ、し。朔を召て視せ給ふ。朔曰。臣これを知れり。願くは。ピシユリヤウ、ン名サンモリカ美酒梁飯を賜ふて。臣を〓し給へ。言さんといふ。帝可サノタレソレ1ウトコロコウデン者なりとて喰し給ふ。又曰。誰某が有する所の。公田。魚チホキスウキャウクマスナハチモウ池。蒲葦。數頃を。臣に賜へ。乃言さんといふ。帝ゆて+ゝゝイハユルスウガるし給ふ。こゝにおゐて。肯て言て曰。所謂騎牙なり。センニ···カルガユヘスウガ其齒。前後一のどくひとしくて。牙なし。故に騶牙とい+キッツ遠方の國來りて。ふなり。君の義に歸すべきとて。先芻ほんか騶牙のあらはるゝなりと言す。エウ其後。一歲ばかりにしサイハケウドコンヤ品ンシウヰキチカンT O果して。匈奴混邪王。十萬の衆を將て。來り。漢にウッスナハチサクセンザイクマハナハダマッ降る。乃朔に錢財を賜ふ〓と甚多し。朔老に至り。且十十A文ハラシニイハクヱイノ〓セイヨウハントゞマに死なんとする時。諫て曰詩曰營〓たる靑蠅蕃に止ガイティやシンザンゲンンツザンゲンキハマナ愷悌の君子。讒言を信ずる〓となし。讒言る。極り罔コモ〓〓. さん透(カカカウ子イよし汁·ハし。交四國を亂といへり。願くは。陛下巧侫を遠け。讒かつシッテン言を退け給へといふ。いく程なく朔死しぬ。傳に曰。鳥ツチツチナウカナじト一チの將に死んとするとき。其鳴〓と哀し。人の將に死んとす二
三道中の人これを笑ふ。先生應て曰。履はいて雪中に行に。손誰か能く人をして。これを視せしめむ。其上ミは履にしイT 。其下モのところ。人足に似たりとせんといふ。拜せジヲられて。二千石たるに及んで。靑禍を佩て宮門を出往てそ い(モ)主人に謝す。故。官を同じくして。待詔する者と。都門ツ급の外に。祖道する頃に。道路に榮華し。名を當世に立ッ。所謂褐を着て。寶を懷にするものなり。其貧困なる時ツは。人省視る〓となし。其貴に至ては。爭ふてこれに附。諺に曰。馬を相するものは。瘦たるに失し。士を相すヨるものは。貧に失すと。それ此をいふか。ジュンウコンつたしニか○むかし。齊王。淳于髡を使として。楚に。鵠を獻ぜし1テ小火クおおおむ。邑門を出。道にて其鵠を飛し。徒に。空籠を揭て。ワT1ゆ楚に至り。王に見て曰。齊王臣を以て。鵠を獻ず。水上지を過るとき。鵠の渴せるに忍びず。出して水を飮ましむステジ〃る時。我を去て飛で亡たり。吾腹を刺し。頭を絞りて。긋死んと欲れども。恐くは。人吾王を議して。鳥獣の故サツを以て。士に。自殺せしむるといはんか。鵠は。毛物にカして。類するもの多ければ。買て代んと欲れども。是不ㄹるとき。其いふ〓とよしとは。此をいふなり。ブタイシャウグンモイセイ○武帝の時。大將軍衛靑は。衛后の兄なり。封ぜられて。チヤウヘイコウゆ長平侯となり。匈奴を擊ち。吾水の上に至て還る。首をリ斬り。虜を捕て功あり詔ありて。金千斤を賜る。こゝから)に齊人。東郭先生といふもの。方士たるを以て。待詔しウィンチカハてありけるが。衛將軍が車を遮り。拜謁して願くは事をモリチに白んといふ。將軍車を止む。先生言て曰。今。王夫人あシチチサイハイらたに。上に幸せらるゝ事を得たり。しかれども家貧し。今將軍。金千斤を得給ふ。其半を以て。王夫人の親に三九六カナラズヨロコビ賜へ。帝これを聞たまはゞ。必喜給はん。是所謂奇ベンケイ策便計なりといふ。將軍謝して曰。先生幸に便計を〓らコトプキる。〓を請べしとて。金五百斤を以て。王夫人が親の壽シをなす。夫人。此事を以て聞す。帝の曰。此事をなさん〓。大將軍は知らじ。何くより。此計策を得たると問はタイシャウジヤゆニしむるに。待詔者。東郭先生より。受たると對ふ。すなイはち先生を召し。拜して郡都尉となす。先生。久しく待ンキ詔したるにより。貧きづしくくるしみうへこゞへ困飢寒して。衣敞れ。履完からず。コト〓〓雪中に行に。履上ミありて下モなし。足盡く地を踐めり。〃,テカいふ。太守諾す。召て殿下に至る時。詔あり。問て曰。ヲ何を以て。北海を治め。盜賊をして。起らざらしむるや。コト〓〓クヘイカ牛太守對て言す。臣が力にあらず。盡陛下の神靈。威武の變化するところなりといふ。帝大に笑ッて。於呼。いづチャウジヤ소くにか。長者の語を得て。これを稱するや。誰にこれウを受たるぞや。對て曰。文學の卒史に受たり。帝の曰。今いづくにか在る。對て曰。宮府の門外にありと。すなcryはち召て。王先生を水衡の丞となし。大守を水衡の都尉となす。十十分ン分○魏の文侯の時。西門豹といふ人。鄴の令となり。鄴に往て。長老を會し。民の疾苦する所を問ふ。長老曰。河긋Beer伯の爲に。婦を娶る事に苦しみ。故を以て貧といふ豹じん긋ヂヤウサイ其故を問ふ。對日。鄴の三老延椽。常歲百姓を賦歛し。數百万の錢を收取り。其うち。二三十万を以。河伯のた모めに婦を娶り。其餘れる錢を。祝巫と分て持歸れり。娶み こる時に當ッて。祝巫。人家の女の。好ものを視て。これ品河伯の婦たるべしとて。娉し取て洗沐せしめ。新に。繪夏、信にして。吾王を欺なり。他國へ奔亡せんと欲れども。ツ19アヤマチン吾兩王の。使の通ぜざるを痛む。故に。來りて過に服し。乞九十ツウ品頭を叩て。罪を大王に受るなりといふ。楚王の曰。善し。セイワウ齊王に。信士ある〓と。かくのごとき哉とて。厚く賜す。平ハ;バ財。鵠の在し時より倍せり。一八一八·ト十ブンガク○武帝の時。北海の太守を徵す。文學の卒史。王先生とていふもの。太守に請ふて。倶に行かば。君に益あらんとタして實少し。いつた。皆曰。王先生は。酒を嗜み。多言に恐くは。與に倶にすべからずといふ。太守曰。先生意にツ行んと欲す。逆ふべからずとて。遂に與に倶に行き。詔を宮府の門に待ッ。先生酒を飮み。日に醉て。太守を視マット、ず。太守入て。拜せんとする時。見て曰。天子君に問給ヲチたにb何を以て。北海を治め。盜賊なからしむとのたまは:エ)ヲノ〓〓ゞ。何と對へ給ふぞといふ。太守曰。賢材を擇み。各こン害れを任ずるに能を以し。異等を賞し。不肖を罰すといたがふとおなじき自譽。自功に伐るとはん。先生曰。かくのどきの對は。テカ、いふ物にして。不可なり。願くは。これ臣が力にあらず。コト〓〓クヘイカ悉陛下の神靈。威武の變化する所なりと。對給へと二三
ゴニク更に好を得て。後日送らんといへとて。卒吏をして。大あらため〃+ウ巫嫗を抱て。河中へ投ぜしめ。頃して曰。巫嫗何ゆへになげいれけ久しきぞや。弟子趣とて。一人を河中へ投じ。頃ありて。おもむけア弟子何とて久しきぞやとて。復一人を投じ。凡て三弟子を廿三シこ·もり投じて。日。巫〓弟子ともに。女子なるが故に。白ことBissのあたはざるなるべし。三老を煩はす。爲に入て。これたいぎながらレクを白せとて。三老を河中に投じ。豹すなはち禮を正して。ッツ河に嚮て立て。待こと久し。傍に觀るもの。皆恐れ驚く。ガウチヤウ豹顧て曰。巫嫗三老還り來らず。奈何せん。延椽と豪長ジャ者と。一人ヅヽ入て。白せといふ。みな頭を叩て。額をチナガ汐ク破り。血流れ。色。死灰のごとし。豹諾して。又待ッこシン五六と須臾なり。須臾ありて。延椽起矣。河伯が。客をとゞめ置事の久しきを狀せよ。若等。皆罷去て歸れといふ。シかきつけ吏民大に驚き恐れ。是より後。河伯の爲に。婦を娶事をいふ者なし。三五綺穀衣を治し。間居齋戒せしめ。齋宮を河上に治し。緹しづかにをきものいみものいみのいへ五反絳惟を張り。女を其うちに居き。牛酒飯食を具へ。:行こ云文と十餘日。ともに粉飾し。女を嫁せしむる床席のどくけはひかざりよりBB五九1/20六〇大し女を其上に居らしめ。河中に浮ぶ。始は浮んでゆき。數十里にして沒す。こゝにおゐて。人家の好女あるもの。らくクィフシユッ炒大巫祝が。河伯のために取らん〓とを恐れて。遠く逃れかみ곳マス〓〓スクナくる。故を以人益少し。貧困の從來る所なり。民人俗語に。河伯のために。婦を娶らざれば。水來りて漂沒ヲし人民を。溺らすと云傳ふといふ。豹日。河伯のためシ六九大に婦を娶り。三老。巫祝。父老。みな女を。河上に送る時。ニ少來り告よ。吾も亦往て送らんといふ。みな諾す。しかふして其時に至り。豹往て會す。其巫といへるは。老女子きで、S.Dなり。年七十。弟子の女。千人ばかりを從ふ。みな繪のカッ單衣を着て。大巫の後に立ッ。豹曰。河伯の婦をつれ來れ。其好醜を見んといふ。すなはち女を將て。帷中より出來る。豹見て。三老。巫祝。父老を顧て曰。此女Bissか好からず。大巫嫗を煩はす。たしぎながら爲に入て。河伯に報ぜよ。俳史記滑稽傳通俗解終杜子美詩集卷之十八事文類聚劉辰翁會孟評點上〓元紀〓呉〓下ノ節〓物〓俳-諧-體三-十-二-韻范至能歲後斗-野豐〓年婁ナリ、吳〓臺樂〓事拜ハス、酒-鑪先ツ登ル鼓鼓旗亭先ッ擊ケ鼓ヲ不f〓臘月卽有燈市ニ珍奇ナル者卽〓〓巳マ以テ迎〓節意〓燈〓市蚤投〓ヲ、數人醵買之フ相與ニ呼テ〓ヲヲ彩勝ナル者得燈價ニ喜〓膏-油ノ賤ルヲ、祥ハ上ロニ雨雨雪雪〓〓〓〓ヲ〓〓管坊巷以連枝ノ竹一ノ經遊花燈檣-仙-子ノ洞、成ニ、洞門 多4所數千里菌-蓄化-人-城、最モ多ッ舟人接ニケッ〓檣ノ之表(萬ニ橋-星訴ニシュ協成炬疑〓龍_見なか、一六分望以、之ヲ如シノノノスカトヽ橋燈小家廳獨-踞シ、大最高-開鹿變-推シュタルフィニルティ輝シテニ雲-母、瑠璃廉レ垂テ晃ニ、水、精フ、瑠璃萬-聰花-眼密ニ、萬眼燈以屏風簾碎羅紅白ヲ相間、砌成ニ工夫ヲ妙ナリ天下一多"ノ〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓千-隙玉-虹明サリ、琉璃毬燈每一一〓映成ニス一花〓亦妙ナリ天葡萄下一〓〓〓〓丹-房挂、〓子子燈葡、葡綠-蔓榮フ、燈方-綠繙シ-史-生絹糊ンに方燈圖書ス圓-魄綴ル門-衡、燈月册一、史册ノ故事村人喜看ル擲〓燭騰け空〓穩カニ、小変燈時〓推-毬)袋レ地輕シヽ大衰映〓光魚隱レ見ル、瑠擲空中-=燈璃壷瓶貯けヲ養化馬騎魚ヲ以テ燈映に之轉-影騎縱-橫燈輕-薄行-歌〓過ニ、〓-狂民間皆鼓樂ス謂フ之ヲ社火不-社-舞呈ス、〓可無シ記、大抵以シ滑稽〓取以笑3村-田簑-笠野ヒク、一五戯ニ作ヲ俳-諸-體フ遣スル悶ヲ二首養字去異-俗呼可レ怪ム、斯レ人難ニ竝竝居家〓々養烏鬼フ、聲最モ怪ム決テ無〓用用養養ヲ代シノ字一之理且"烏蠻ノ鬼稱シ烏鬼、亦一頓可ナラン乎鸕鶿自ヲ是不必シモ謂黃魚爲ス所捕自不相悖一ラ新知漸ク々食一貫-魚一、舊-識難爲態ノ、新-知已ニ暗ニ疎ナリ、熟ン漸ク壓つ未ミノ能ク遽リニ舍ニ其形容世態深ク治シテ生ヲ且"耕-鑿シ、只得心心〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓倍〓覺語味ヲ有ハ不不〓關レラ渠に、賴ル此事不シー1.關レイ渠渠耳西ノカ歷〓〓〓〓坂〓、南ノガ留白〓帝城一、於-菟侵シー客ー恨フ、粗〓〓作〓〓〓〓〓、蒸裏如千室尙尙ニ小意謂送者縱橫似タルヲ家々如キニ此王三、粗粒作スニ人情則便ヲ矣瓦-ト傳、神-語〓、番〓田費、大-聲→、是-非何ルノ處ニカ定メシ、分を高い枕ヲ笑〓浮〓生〓〓語〓可ナリ第無シ上千渉ヘル〓公自注頃幾自秦渉隴從同谷縣出テ遊蜀留滯滯於巫山也
六日俳本系大書樂村田街-市管-弦〓シ、街市細樂里-巷分シ題-句フ、燈ラ毎ニ四門題スタ好好ヲ其作ッ長上官府名額多以テ官〓曹別シ扁〓名〓、絹或琉璃映ス燈旱-船遙似タリ浮ヲニ、夾テ道ヲ陸行シ爲ニ競渡ノ水壓力水-偏近ク如レ生ケルヂ、鉗-〓〓〓〓牢之樂〓謂フ之フ〓早船、心燈獄山棚多〓一時戶フ、嘲-嗤繪ジ樂〓棚、下燈可シ謝請之人ノ-觀-現-瑤席隘ャク、喝-道綺-叢爭ソフ、禁〓鑰通〓三-鼓一、歸=〓任〓五〓、〓〓、桑-春春-眷重自ニ騰臓 即入〓〓次次繭勸メ、所以ヲリ爲ス蚕事ノ之兆「花-蝶夜-蛾迎マヽ太白蛾花無シ貴賤一悉〃紅〓ノ〓子ノ鵞〓毛ヲ剪シ〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓載ス之亦以テ迎春春鳬-子ヲ描ジチ丹-筆一、相餽遺ス英、風邪ニ鳥風味毛モン山陰22:0雪花、寶糖、珍シ、〓·枚、リー、由吳中謂フ之ッ寳烏-膩"美サ論-錫ヨリ、與夜蛾並と載、俗言ファ法去烏賦烏賦糖卽。白糖撚〓粉〓〓樂〓意、糖鎚〓特ニ爲ニ脆脆子〓樹秤臨-膊ノ聲、炒ニ糯米ノ以テトニ俗名一筵〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓。〓〓。 大婢字要〓北人号〓糯米花俗謂フ正正百百艸靈ナリト故ニ帚葦針箕輸〓誠ヲ、之屬ヒ皆トーム爲ヲ多婢子ノ之輩爲之箒〓ト拖〓裙ヲ驗アリ、敝帚繫一緒以テ卽ヲ古ノ紫姑今謂フ之ヲ微ナル〓ハトニ名〓〓〓姑〓-〓-詩落)筆ヲ驚ク、大仙俗名 答箕姑如シ針ノ属ファ尾ニ、以」トト、何テ其尾相屬ヲ爲〓〓俗名シ〓姑〓賤キ〓ハ及ニ葦ノ分シール莖、葦莖分合爲ストヲ名シ革姑〓末〓俗難;可-止一、佳〓辰且ッ放-行ス、此_時紛ジー〓〓、〓〓、有〓客靜〓リ柴〓〓、幸〓甚歸シ長-鋏一、居-然トノ照短-榮→、生-涯唯病-骨、節〓物尙ヲ〓-情、掎-撫成ヲ俳體フ、咨-詢逮ジ里-叱ニ、誰カ修ニモニ與ノ地ノ志ノ聊ヲ以テ助ジン譏-評誹諧根源集卷之二誹諧歌之部古今和歌集卷第十九注は季吟八代集抄又一說を記す題しらすよみ人しらす梅花見にこそきつれ鶯のひとく〓〓といとひしもをる素性法師山吹の花色ころもぬしや誰とへとこたへすくちなしにして藤原〓行朝臣いくはくの田をつくれはか郭公しての田長を朝な〓〓よふ七月七日たなはたの心をよみける藤原兼輔朝臣イニいつしかとまたく心をはきにあけて天の河原をけふや渡らん待に跨くを添て也いそきありく体也題しらす凡河內みつねむつこともまた盡なくに明ぬめりいつらは秋の長してふよは僧正遍昭秋の野になまめきたてる女郞花あなかしかまし花も一時こと〓〓し也よみ人しらすてにィニ秋くれは野邊にたはるゝ女郞花いつれの人かつまてみるへき秋霧のはれてくもれはをみなへし花のすかたそ見えかくれする花と見てをらんとすれは女郞花うたゝあるさまのなに社有けれうたての意也寛平の御時きさいの宮の哥合の歌題しらすよみ人しらすおもへともなをうとまれぬ春霞かゝらぬ山のあらしとおもへは平貞文春の野のしけき草葉のつま戀に飛たつ雉のほろゝとそ鳴きのよしひと秋の野に妻なき鹿の年を經てなそ我戀のかひよとそなくみつね蟬のはのひとへにうすき夏衣なれはよりなむ物にやはあらぬたゝみねそたてしイニかくれぬの下よりおふるねぬなはのねぬなはたゝしくるないとひそよみ人しらすことならは思はすとやはいひはてぬなそ世の中の玉たすきなるかけたる事也おもふてふ人の心のくまことにたちかくれつゝみるよしもかな思へともおもはすとのみいふなれはいなゃおもはしおもふかひなし我をのみ思ふといはゝあるへきをいてや心はおほぬさにしてあれこれの手をかくるものといふ意也われを思ふ人をおもはぬ報ひにや我おもふ人の我をおもはぬ一本ふかやふおもひけむ人をそともに思はましまさしゃむくひなかりけりゃは本よみ人しらす出てゆかん人をとゝめんよしなきに隣のかたにはなもひぬ哉出行するにはなひれはいむ事也くれなゐに染し心も賴まれす人をあくにはうつるてふなり紅の色は灰汁には頓てうつろひかへるもの也。倦を灰汁にいひなせりいとはるゝ我身は春の駒なれや野飼かてらにはなち捨つる鶯のこそのやとりのふるすとや我には人のつれなかるらん二 在原むねやな妖風にほころひぬらし藤袴つゝりさせてふきり〓〓す鳴あす春立んとしける日隣の家のかたより風の雪を吹こしけるを見て其隣へよみて遣しける〓原深養父冬なから春の隣の近けれは中垣よりそ花は散けろ題しらすいそのかみふりにし戀の神さひてたゝるに我はいそねかねつる枕より跡より戀のせめくれはせんかたなみそとなかにをる形前一千戀しきかかたもかたこそありときけたてれをれともなき心地するありぬやと心見かてらあひ見ねはたはむれにくきまてぇ戀しきあはて有ぬへきやと也みゝなしの山のくちなしえてし哉おもひの色の下染にせむといふイニ足曳の山田のそほつおのれさへ我をほしてふうれはしきこと水ニしかけしかゝし也我にあはまほし也きのめのとふしのねのならぬおもひにもえはもえ神たにけたぬむなし煙をきのありともあひみまくほしは數なく有なから人につきなみまとひ社すれ小野小町人にあはむつきのなきにはおもひをきて胸はしり火に心やけをり便りなき也寛平の御時きさいの宮の歌合のうた藤原興風春霞たなひく野邊の若菜にも成見てし哉人もつむやと誹諧根
八よひのまに出て入ぬろみか月のわれて物思ふころにもあるかなそへにとてとすれはかゝりかくすれはあないひしらすあふさきるさに世中のうきたひ〓とに身をなけは深き谷こそ淺くなりなめ在原もとかた世中はいかにくるしと思ふらんこゝらの人にうらみらるれはおほく也よみ人しらすなにをして身の徒に老ぬらん年のおもはむ事そやさしきおきかせ身はすてつ心をたにもはふらさしつゐにはいかゝなるとしるへく放ちやらし也千さと白雪のともに我身はふりぬれと心はきえぬものにそ有ける題しらすよみ人しらす梅花さきての後の身なれはやすきものとのみ人のいふらん法皇にしかはにおはしましたりける日猿山のかひに叫ふといふ〓とを題にてよませ給ふけるみつねわひしらにましらなゝきそ足曳の山のかひあるけふにやはあらぬ題しらすよみ人しらす世をいとひこのもと毎に立よりてうつふし染のあさのきぬなり五倍子染也つるはみ色とも云僧尼の服也さかしらに夏は人まねさゝの葉のさやく霜夜を我獨ぬる平中興わった逢ことの今ははつかに成ぬれは夜ふかからてはつきなかりけり左のおほいまうちきみもろこしのよし野の山にこもるともおくれんと思ふわれならなくによしのは深き山也其山かもろこしにありとも也なかき雲はれぬあさまの山のあさましや人の心を見てこそやまめ伊勢浪花なるなからの橋もつくるなり今は我身を何にたとへむなからの橋は古き事にいひたるに新らしく造ると也又一說盡る也とよみし人しらすとはイニまめなれとなにそばよけくかるかやの亂ぞあれ〓あしけく〓なし人のまことかましくみゆれと底の心さもなきは何のよき事そと也おきかせ何かその名のたつ事の惜からんしりてまとふは我ひとりかはいとこなりける男によそへて入のいひけれはくそよそなから我身にいとのよるといへはたゞいつはりにすくはかり也題しらすさぬきねきことをさのみきゝけむ社こそはてはなけきの杜と成らめ大輔なけきこる山とし高く成ぬれはつら杖のみそまつつかれけるよみ人しらすなけきをはこりのみつみて足曳の山のかひなく成ぬへら也枴人こふる事をおも荷〓になひもてあふこなきこそわひしかりはれ逢期にそへて也後拾遺和歌集卷第二十題しらす花ちりたりとイニ笛の音の春おもしろく間ゆるは花のちりたりと吹は也けり橘季通みちのくにゝくたりて武隈の松を歌によみ侍りけるにふた木の松を人とはゝみきと答へんなとよみて侍りけるをつてにきゝてよみ侍りける僧正深覺はゝイニたけくまの松はふた木をみきといふはよくよめるにはあらね成へしよくかそへよむには也題しらす源道濟さかさらは櫻を人のをらましや櫻のあたはさくらなりけり藤原實方朝臣また散ぬ花もや有と尋みんあなかましはし風に散すな隣より三月三日に人の桃花をこひたるに大江嘉言桃のはな宿にたてれはあるしさへすける物とや人のみるらん好色を桃の味にそへて也三條太政大臣のもとに侍ける人のむすめを忍ひてかたらひ侍けり女の親はらたちてむすめをいとあさましくつみけるなといひ侍けるに三月三日かの北の方の三日のよのもちゐくへとて出しけるによめる藤原實方朝臣淀野みかのよのもちゐはくはしわつらはしきけはよとのにはゝこつむ也新枕三日めに餅祝ふ事也夜殿に母の娘をつむ事を添てよめる也みな月秡をよみ侍りける和泉式部思ふことみなつきねとて麻の葉をきりにきりてもはらへつる哉ひるくひて侍ける人今は香もうせぬらんと思ひて人のもとにまかりたりけるに名殘の侍けるにや七月七日に遣しける皇大后宮陸奥君かかす夜のころもそたなはたはかへしやしつるひるくさしとて小一條院入道前太政大臣のかつらなる所にて歌よませ給ひけるに紅葉をよみ侍りける堀川右大臣もみち葉は錦にみゆと聞しかとめもあやにこそけふは成ぬれ紅葉の散果たるに風のいたく吹侍りけれは增基法師茨積る庭をたにとてみるものをうたて嵐のはきにはく哉人のすみ奉らんいかゝといひたりけれはよめるよみ人しらす心さし大原山のすみならは思ひをそへておこすはがりそ題しらす天台座主源心雲井にていかて扇とおもひしにてかくはかりになりにけるかな手をかくるほとに也物をかくに添て也法師の扇を落して侍りけるをかへすとて和泉式部はかなくもわすられにける扇哉おちたりけりと人もこそ見れ題しらすさなくてもねられぬものをいとゝしくつきおとろかす鐘のこゑ哉七月はかり月のあかゝりける夜女のもとに遣しける少將藤原義孝忘れても有へきものをこの比の月夜よいたく人なすかせそ好10を起させる心なるへし三條院御時うへのとのゐすとて近く侍りける人〓〓枕を落してまかり出けれは書付て殿上に遣しける小六番〓髮道芝やおとろのかみにならされてうつれるかこそくさ枕なれ人の草あはせしけるに朝顔かゝみ草なとあはせけ一九誹諧根
二〇けふかくる袂にねさせあやめ草うきは我身にありとしらすや泥の事也憂に添たりともしをよめる橘俊綱朝臣ともしして箱根の山に明にけりふたよりみよりあふとせしまに鹿をよせて射るか度かさなるをいくよりといふ也みな月晦日かたはたをりの啼を聞てよめる江侍從夏のうちははたかくれてもあらすしてをりたちにける虫の聲哉題しらす輔仁親王妖くれは秋のけしきも見えけるを時ならぬ身と何にいふらんイニナシ萩の露の玉と見ゆるとて折けれとも露もなかりけれはよめる藤原爲賴朝臣うらイニ朝露を日たけて見れは跡もなし萩の上葉に物やとはまし崇德院に百首の歌奉りける時秋の歌とてよめる花園左大臣家小大進つはな生し小野の芝生の朝露をぬき散しける玉かとそ見る家持集につけなぬくとよめり野の花を見て道にとゝまるといへる心をよめる僧都範玄落にきと語らはかたれ女郞花こよひは花のかけにやとらん九月十三夜によめる賀茂まさひら暮の秋ことにさやけき月影は十夜にあまりてみよと也けり隔我聞他戀といへる心をよめる顯昭法師あるイニ板ひさしさすやかやゝの時雨こそ音し音せぬかたはわくなれ堀川院の御時百首歌のうちに戀歌とてよめるるにかゝみくさかちけれはよみ人しらすまけかたのはつかしけなる朝顔を鏡草にも見せてける哉入道攝政かれ〓〓にてさすかに通ひ侍ける比帳の柱に小弓の矢を結ひ付たりけるを外にてとりにおこせて侍りけれは遣すとてよめる大納言道綱母おもひ出つる〓ともあらしと見えつれとやといふにヽそ驚かれぬろ人を驚かするにやと呼かくる事を矢にそへてよめも人の長門へ今なむくたるといひ侍りけれはよめる能因法師し浪の立なからたに長門なるとよらの里のとよられよかし立よられよ成へしめのとせんとてまうてきたりける女のちのほそく侍りけれはよみ侍りける大江匡衡朝臣はかなく思ひけるかなちもなくてはかせの家めのとせんとは智にそへて也匡衡は江家とて儒業の家也返し赤染衞門さもあらはあれやまと心しかしこくはほそちにつけてあらす斗そヂ才たにかしこくは也系大書俳本日千載和歌集卷第十八花のもとによりふしてよみ侍りける道命法師あやしくも花のあたりにふせる哉をらはとかむる人やあるとてあやふみなから也卯の花をよめる源俊賴朝臣うのはなよいて〓〓〓〓しかけ鳥の浪もさこそは岩をこえしか所未考五月五日菖蒲をよめる道因法師藤原基俊笛竹のあな淺ましの世中やありしやふしのかきり成らんありし夜寐たろか君とふす事のかきり成らんと也旅戀これめ同し百首の中也源俊賴朝臣したひくる戀のやつこの旅にても身のくせなれや夕とゝろきは百首歌奉りけるに戀の歌とてよめる待賢門院堀川逢事のなけきの積るくるしさをおへかし人のこりはつるまて木をこりてつみておへの心也六波羅密寺の講の導師にて高坐に登るほとに聽聞の女房足をつみ侍りけれはよめる良喜法師人の足をつむにてしりぬ我方へふみおこせよと思ふなるへし山寺にこもりて侍りける時心ある文を女のしは〓〓遣はし侍りけれはよみて遣しける空人法師おそろしやきそのかけちの丸木橋ふみ見るたひに落ぬへき哉賀茂社に籠りて侍りけるに政平のつねにまうてきて歌よみ笛吹なとして遊ひけるかたはらなる局にこもりたる人をもしりてそなたへもまかりなとしけるか其人出て後久しくまうてこさりけれはつかはしける心覺法師笛竹のこちくと何におもひけん隣に音はせしにそ有ける胡竹を此方來 添て文選思旧城序に隣入有吹笛者發ん「聲寥亮ト云云あつまのかたにまかりけるに八橋にてよめる道因法師八橋の渡にけふもとまる哉爰に住へきみかはおもへとは··身かは三河に添て女をかたらひ侍けるをいかにも有ましき事也思ひたえねといひ侍けれはよめる安性法師つらしとて扨はよも我山烏かしらは白くなる世なりとも烏頭白は史記燕丹か古事也阿彌陀の小児の文字を歌のかみに置て十首讀侍りけるに奥に書付侍ける源俊賴朝臣かみにをける文字はまとの文字なれは歌も闇路を助さらめや上ニ置る文字は黃泉也山寺にまうてたりける時貝吹けるを聞てよめる赤染衛門けふも亦午の貝こそ吹つなれひつしのあゆみ近つきぬらん午の刻にふく貝也題しらす空也上人夙に勤めを添たり極樂ははるけき程と聞しかとつとめていたる所なりけり拾遺ニ仙慶法師詠と有新千載和歌集卷第十八亭子院にて梅花をよみ侍ける大中臣賴基朝臣ちるまてはきつゝたに見む春雨に我をぬらすな梅の花笠物へまかりける道にて梅花の咲たりけるを折とてよめる良還法師梅かえに苔の衣の袖ふれて花の名をさへ折我身かな花の歌の中に正三位知家たちぬはぬ霞の衣春きては花の錦ををりかさねつる西の國のかたへ修行にまかりけるに美豆野といふ所にてともなひ馴たる同行の侍けるかしたしきもニ誹諧根
1の百首歌に述懷の心を源仲綱ひき〓〓に人は高瀨ののほり舟つなてこさるゝ身をいかにせん車を俊賴朝臣なけきつむ力車の輪をよはみ立めくるへき心地こそせね康資王母とり子して久しくまうてこさりけれはいひ遣しける伊勢大輔たらちねの親をは捨てこはいかに人の子をのみおもふ我子そ返し康資王母人の子の親に成てそ我おやの思ひはいとゝおもひしるらめ題しらす賀茂遠久やはらくる光も塵にましるらん朝〓めすな神の宮つこかひの國へくたるまかり申侍りけるに忠岑君かため命かひにそ我はゆく窪のこほりに千世はうろ也のゝ例ならぬ事侍るとてとゝまりけれはよめる西行法師山城のみつのみくさにつなかれて駒ものとけにみゆる旅かな題しらす津守國冬苗代に心のたねを蒔そへてなくや蛙のやまとことの葉百首歌奉りし時夏秡入道前太政大臣年なみのなかはをこよひこゆる輪に菅貫かけて七十はへぬ題しらす山里にたゝかりそめの薄かきふちする人もなき我身哉九月盡のこゝろを基俊露ふかきお花か袖をひかへつゝなく〓〓秋をとゝめつる哉亭子院御時御前にめしてまゆみの紅葉に簑むしのかゝりたるを題にて歌つかうまつれと仰ことありけれはよめる賴基朝臣もみちはの枝にかゞれるみの虫はしくれふるともぬれしとや思ふ心さしもなくてたゝにやみにける男のもとにつかはしけるよみ人しらすいかなれはしめちか原の冬草のさしもなくては枯はてにけむ題しらす小侍從しのひこし夕紅のまゝならてくやしや何のあくにあひけむ六帖の題にてよみ侍ける歌の中に前大納言爲家我ことくおくのこほりのえひすかけとにもかくにも引ちかへっゝ後法性寺入道前關白太政大臣右大臣に侍りける時系大書俳本日新拾遺和歌集卷第二十1個數心中務卿宗尊親王さひしくて人くともなき山里にいつはりしける鶯のこゑ題しらす大江千里玉柳みとりの枝のよはけれは鶯とむるちからたになし俊惠法師よしさらはしるへにもせんけふはかり花もてむかへ春の山風忠見秋〓とにかりくるいねはつみつれと老にける身そ置所なき雪のふりける朝院の御粥おろしたまはせて歌よめと仰られけれは藤原仲文しら雪のふれるあしたのしら粥はいとよくにたる物にそ有けるめのとの弓のふくろをとりいてゝくたものをとり入ておこせたりけれは藤原實方朝臣をしはりて弓の袋としる〓〓や思はぬ山のものをいるらん法性寺入道前關白家に男女房物語して侍ける程に薰を包みて出されたりけれはあらそひ取て見るにあらぬ物にて侍ける又の日まいりたりけるに昨日の薰の爭ひこそおかしくと女房申ける返事によめる〓輔朝臣玉たれのみすのうちより出しかは空たきものと誰もしりにき旅泊をよめる光俊朝臣夕なきにほつゝしめなはくりさけてとまりけすらひ寄る舟人(マゝ)題しらす從三位行家我戀はめさへいつかはあふみなるやすきいをたにぬるよしそなき入道二品親王性助家五十首歌に後西園寺入道前太政大臣風あらき山田の菴のこもすたれ時雨をかけてもる木の葉哉わらひをけふの日は暮ると山のかき蕨あけは又見む折過ぬまに曉水鷄をきゝてよみ人しらす明るまを猶たゝくこそ夏の夜の心短かき水鷄なりけれ一夜松にて觀音をつくり奉りけるをゆふかけし神の北野のひと夜松今は佛のみそきなりけり冬歌中に從二位行家瀧津瀨にみたれし玉のをたえして水の糸筋氷しにけり柳隨風といふ事を西行法師見わたせはさほの河原にくりかけて風によらるゝ靑柳の糸寳治百首歌奉りけるに前大納言爲家つらき哉山の柚木の我なからうつすみなはに引ぬ心は文保三年百首歌奉りけろに權中納言公雄大井川かへらぬ水のうかひ舟つかふと思ひし御代そ戀しき新續古今和歌集卷第十九百首御歌の中に崇德院御製ねの日すと春の野每に尋れは松にひかるゝ心地こそすれ題しらす賀茂重保あやなくも風のぬすめる梅か香に折ぬ和さへうたかはれぬる灌佛の心を大僧正慈鎭百敷の賀茂のみあれのしめのうちに佛の身をも猶すゝく哉人〓〓遊ひ侍ける所にて隆源法師いたくねふりけれは土器さすとて俊賴朝臣おひしける眠の森の下にこそめさまし草はうゝへかりけれ未勘ひえの山にかたわきてけつり花しける事侍るにかたきの方にをみなへしをつくりたりけるを人〓翫ひけれはねたくて結ひつけける僧都觀〓二三誹諧根源集
藤原朝家すみよしと今はたのまし津の國のなにはたかへる所なりけりあひしれりける女の男に髮きられにたりと聞て遣はしける大藏卿胤村千早振かみもなしとかいふなるをゆふはかりたに殘らすや君木綿に添て筑前守にて國に侍けるに日のいたくてりけれは雨の祈りにかまとの明神に鏡を奉るとて添たりける藤原經衡雨ふれと祈るしるしの見えたらは水鏡とも思ふへきかな人のえひをこひにおこせたるにありけるまゝに十九やるとて大中臣能宣朝臣世の人は海のおきなといふめれとまた廿にもたらすそ有ける卄一代集中誹諧歌終草も木も佛になるといふなれは女郎花こそうたかはれけれはたをりの啼けるを聞て頓阿法師秋の夜は露にをりはへたなはたの手にもをとらぬ虫の聲哉長月の比花なしを法印靜賢許に遣すとてよみ入しらすこれを見よ菊より外に此比は花なしといふ人はありとも木賊に露の置たるを見て三菱電女藏人左近しなののやとくさに置る白露はみかける玉と見ゆる也けり冬の比高野に住ける僧のもとへふすまをつかはしたりけれはよみ人しらす寒かりしあらしも今は音はかり嬉しさのみそ身にはしみける題しらす源親房しるらめやあかてひさしぃまき柱ひとま〓〓におもひたつとは戀の歌の中に〓輔朝臣うす衣のいかにはるとも心よく寄あふへくもみえぬ君哉大原へゆくとはなしに戀すれはやせ通ぬるものにそ有ける寄箭戀を前中納言公雄梓弓ひきもとむへき別路をやといひしにもかへらさるらん法橋顯昭まうてきて朝にかへるとて袈裟を忘れたりけるをかへし遣すとて左京大夫脩範名殘をは夜すからこそは詠めつれけさを忘るゝ人も有けり返し法橋顯昭(三二我はいさけさ忘るとも覺えぬをかへすは夜の衣なるへし源通〓熊野よりかへりまうてくと聞てよき炭や侍ると尋けるにあしきよし申たりけれは系大書俳本日芦菴和歌集 四誹諧頓阿法師花を人の折けれはかをぬすむ風たにうきを櫻花ぬしにしられて枝を折哉病ひおこたりて三月盡によめる我身こそ今はかきりと思ひしにかへりて春を惜しむけふ哉曉水鷄をきゝてあくる戶を猶たゝくこそ夏の夜の心短かきくゐな也けれ東へくたりし時醒か井といふ所にて馬眠を覺して短夜の朝のねふりさめか井に耳もおとろく水の音かな月を見て浮雲ににくると見ゆる月影にはや追かゝる村時雨かな駒迎をよめるあふさかや影見るほともなかりけり曳越駒の走井の水はた織を聞て秋の夜は露に織はへ織女の手にもおとらぬ虫の聲哉タ雁かや帋にかくかとそ見る墨染の夕の空の鴈の玉札紙屋紙也狩獵さを鹿よ招く薄にはからるなねらふさつ雄の弓杖こゆ也み歟千鳥なをさりの心なくさの濱千鳥四代まて跡を殘しつる哉年の暮によめる水の面にうつれる影の逆にたつはかへらぬ老のなみかな五錢酒契のみ猶あさ河の舟くらへともにこかれてあふよしもなし夢ぬるときにみるものとてやむは玉の夢をもかへといひはしめけん夢の事をいふ也ちからのかみなる人に車をかり侍しにかねておもき人の仰らるゝ程に遺すよし申侍りしかはいはすともちから車をやるにはやおもき事とは知ぬるものを一夜松にて觀音を作り奉りけるをゆふかけし神の北野ゝひとよ松今は佛のみそきなりけり念佛由侍りし時老ぬれは佛の御名を唱ふるも同し事すと人や聞らん此外家〓之集中ニ稀ニも載之續千載和歌集卷第七む月七日おかしき文とも人〓の許に見ゆる身にはさもなけれは祐子內親王家紀伊春たつと聞につけても春日野のわかなをなとか人のわするゝ題しらす大貳三位袂たに匂はさりせは梅花ひきかくしても折へきものを柳垂門前といへる心を源三位賴政靑柳のうちたれ髮をみせんとやいつへき門にまちたてるらん百首歌奉し時入道前太政大臣空はまたあまけになれや春の夜の月も霞の袖笠をきて二月の比俊惠法師わつらふ事はへりけれはつかはしける大僧正行尊君かため風をそいとふ此春は花ゆへとのみなにおもひけん題しらす信實朝臣まねくとてさのみも人のとゝまらは尾花かもとや所なからん大貳三位みたれたる名をのみそ立苅萱のをく白露をぬれ衣にしてよみ人しらす我〓とくはたをる虫も音をやなく人のつらさをたてぬきにして新北部山のはをいつるのみこそさやけゝれ海なる月のくらけなる哉嘉元百首歌奉し時前大納言爲世よる〓〓は砧の音をさそひきて風そ枕に衣うちける題しらす正三位知家賤の女かきなれ衣の秋あはせはやくもいそくつちの音かな二五誹諧根源集
二六はつ瀨にまうてゝさほ山の紅葉の散たるを見て康資王母さほ山のあらしそやかてぬかせける紅葉の錦身にはきたれと物甲ける人の母に申へき事有てまかりて尋けるにたひ〓〓なしと申てあはさりけれは俊賴朝臣はゝきゝはおもてふせやと思へはや近つくまゝにかくれ行らん題しらす正三位知家ふりかくるひたいのかみのかたみたれとくとたのむるけふの募哉返迎車戀といふ事を從三位賴政のせてやる我心さへとゝめ置てねたくも返すむな車哉題しらす衣笠內大臣ますらおか菅のあみかさ打たれてめをもあはせす人そ成ゆく雁の子を人のをこせて侍けれはよみ侍ける和泉式部いくへつゝいくつかさねて賴まゝしかりのこの世の人のこゝろは題しらす前大納言爲家かち人の野分にあへるふかみのゝけを吹よこそ苦しかるらめ光俊朝臣世を捨て人にも見えすしられねは我こそ今はかくれみのなれ道因法師日吉社の哥合によき哥を讀てまけにけりと聞ていひつかはしける俊惠法師君が歌しかまの市見見かかともかちのなきこそあやしかりけれ誹諧根源集稽卷之三連歌之始元菟玖波問答後普光園攝政良基公御作上略問云、連歌は此芦原國ばかり翫ぶ物に侍るか。ひとの國にも侍る事にや。答云、筑波翁いとと新らしき御尋にもはべる哉。連歌は天竺にては偈と申也。諸の經に偈を說たるは則連哥也。唐國にては連句と申也。我國にては歌をつらねたれば連歌と申にや。むかしの人は續け歌とも申侍りし。問云、連歌はいづれの御代より始まるにや、傳はれるやうも細かに承るべし。荅云、古今假名序に貫之の書る天の浮橋の夷歌といふは則連歌也。中略愚云、此部筑波問答の略文をもて著す。夫が中に引歌又連歌の引句は其原本に寄て出す。但本書の文字を傍にして假名書となすものは、初學のめやすからん爲也。日本紀神代卷上卷ニ陽神左旋陰神右旋をがみは。ひだりよりめぐり。めがみは。みぎよりめぐ分巡國柱一同會ニ一面一る。くにのみはしらをめぐりて。おなじくひとつおも時陰神先唱曰てにあひき。ときにめがみまづとなへてのたまはく。憙哉遇可美少男一焉陽神あなうれしにえや。うましをとこにあひぬ。をがみよろこびずして。不悅曰あれはこれますらをなり。吾是用手鍊まさにまづ當先唱一如何婦人反先言乎となふべし。いかにぞたをやめかへつてことさきだつ事旣不詳宜〓改編や。ことすでにさがなし。むべもつてあらためめぐる於是二神却更べし。こゝにふたばしらのかみ。かへりてさらに。めぐりあひたまひぬ。このたびは。相遇是行也をがみまづとなへての陽神先唱日憙哉遇可美少女一焉たまはく。あなうれしにえや。うましをとめにあひぬ。陰陽始遊合爲夫婦一中略こゝにめをはじめて。みとのまくばひをなす〓愚云、又古事紀には汝者自右廻逢我者自左廻逢なれはみぎよりめぐりあへ。あれはひだりよりめぐり約竟以廻時伊あはむと。ちぎりをはつてもつて。あぐれるとき。し邪那美命先書阿那通夜志愛上袁登古袁ざなみのみ〓と。後伊邪那岐命まづのたまはく。書あなにやしえをとこ阿那邇夜志愛上袁を。のちいざなぎのみ〓とのたまはく。あなにやしえを登賣袁とめを二柱の神の歌、發句·脇句に非ず。此句三十一字にもあらず。短く侍るは疑ひなき連歌と翁心得て侍る也。古の明匠達にも尋ね申侍りしかば、誠にいはれ有とぞ仰られし。又連歌とていひ置たるは先に申侍りつるやう、景行天王の御代、日本武尊の東の夷をしづめにむかひ給ふて、此翁が此ころ住侍りし筑波山を過て、号其國中略謂阿豆麻一也古事紀景行條。曰、そのくにをなづけてあつまといふ。卽自ニ其國越ニ出甲斐一坐ニ折折官一すなはちそのくにより。かひにこえいでて。さかをり之時歌曰邇比婆理のみやにいますとき。うたひてのたまはく。にひばりつくばをすぎて。都久波袁須疑氏伊久用加泥都流いくよかねつる幾布新治筑波過すなはちそ爾其御火燒之老人續御歌一以歌曰のみひたけるおきな。おんうたをついでもつてうたひ迦賀那倍氏用通波許許能用比適波登袁ていはく。かがなべて。よにはここのよ。ひにはとを加袁是以譽其老人一かを。日十日考夜九夜これをもて。そのおきなをほめて。すな給東國造一也はちあづまのくにの。みやつこをたまふ其後萬葉集に入たる萬葉集第八尼作〓頭旬一〓大伴宿禰家持所レンル〓尼續シ未句フィ和歌一首佐保河之水乎塞上而植田乎苅早飯者獨さほかはのみつをせきあけてうゑしたをかるわさいひはひ二〓發句·脇句に非ず。此句三十一字にもあ
二八どにも侍るにや。又さま〓〓のかけものなど出されて、おびたゞしき御會ども侍る也。中略問云、連歌の式目はいづれの比より起る事にや。荅云、中古迄は一二句をつらね、あるひはひとり連歌·有心無心の句などにて有しほどに、ま〓とに式目を作りたる事もなし。然れば文永·弘安の比より、本式醬版 本品牌味は 其のは·新式などいふ物出來侍り、鎌倉には爲相卿、藤ケ谷の式目とて北林と号していだされたり。當坐用ひたる新式は、大納言爲世卿つゞられ侍るにや。しかあれども地下の輩、多く當時の了簡によりて古き式を背く事侍る。翁が存所の式目を出し侍る。もし異なる誤なくば是を用ひらるべきにやとて、懷中より一通を取出し侍りしかば、有の儘に寫しとゞめ侍る也。中略愚云、御作と云ふは此書歟新式後普光院殿問云、連歌に百員など申事はいはれあるにや。聯句は韵字を置ばこそ百韵とも申せ、連歌は定まれる韵の文字なければ、唯百句などこそ申さめ、といふ人のあるは誠に侍るにや。荅云、其事に侍り、京極中納言入道殿も、連歌を百韵と申然るべからず。聯句をこそ韵の文字あればさやうにも申せ、連歌は唯百句などにてあるべしと仰られし。さらば脇句を入韵とこそ甲侍奈流倍思りなるへし家持かやうの事ども次第に多くなり、拾遺·金英などより勅撰に入侍る也。拾遺和歌集卷第十八中將に侍ける時右大辨致方朝臣のもとへ八重の紅海を折てつかはすとて流俗のいろにはあらす梅花右大臣實資珍重すへきものとこそ見れ致方朝臣愚云、右集に連歌十二首出、餘略之。又云、右の十二首は拾遺集雜の賀の哥の次に、何と云部分もなく載られたり。其後後拾遺には入ずして、又金葉集に連歌の名目始て見えたり。金葉和歌集卷第十連歌居たる所の北のかたに聲なまりたる人のものいひけるをきゝてあつま人の聲こそ北に聞ゆなれ永成法印みちの國よりこしにやあるらん律師慶範愚云、右集には十九首有餘、略之。されど唯一句ヅヽ云捨たるばかりにて、五十句百句抔に及ぶ事はなかりき。建保の比より白黑又色〓の賦物題取連歌を、定家卿·家隆卿などめされはべりしより百韻な日俳本系大書家持拾遺·金英などより勅永成法印律師慶範らめ。夫は又唯脇句をこそ申せ、去ながら近比申付たる事にて侍れば、今更本說をたゞしても詮なき事にて侍るんぎゅ。大かたはいはれなき事とぞ承り置し。下略愚云、本式は後宇多院御宇建治二年善阿法師作、新式は後村上院御宇應安五年二條後普光院殿御作也とぞ。又云、右に出す連歌の始元は、誹諧連歌の用のみなれば、委しくは連歌辨義を見るべし。近つきかたき戀をする哉奥山に巢かくる鷹のおとしかひたゝひとゝきのたのしみも夢いかにして百とせ蝶と成ぬらん物ことの心に叶ふ時なれやし月に雲なく花に風な くをちこち霞む宇治の曙うはそくのみやは咎めぬ山櫻なく〓〓をしき春の別路花を見し庭の朽木のふしまろひ阿彌陀講行ひける所に雪の降けれは聽聞の人の中より極樂にゆきにけるとも見ゆる哉空より花のふる心地して法勝寺の花見侍るに人こ酒たうへて山櫻ちれは酒こそのまれけれ花にしゐてや風はふくらんかへるのなくは山吹の花したへともとまらぬ春そ力なきおやにしられぬ子をそまふくる我庭に隣の竹の根をさしてかり人の乘これは黑駒は夜川にや水のからすをつかふらん二九讀人しらす尊氏イニ前大納言爲氏周阿法師用周温/7/世法師連歌之誹諧体之部藤原信藤文和五年三月後普光固良基公御撰文和五年三月菟玖波集卷第十九後普光固良基公御撰雜体連歌誹諧詼諧イニ大內の朱雀門もあるものをひくに驚くけふの あを馬二品法親王北野社千句に鳥のふたつそ羽をかさねたる鶯のあはせの聲はこまかなれ梅のはなを折てつかはすとてあらず拾遺ニ流俗の色とは見えすに梅花見同珍重すへき物とこそしれさえかへりても春そ霞める鶯の子かひすたちを啼あはせ讀人不知弘圓法師空導譽法師法眼顯昭關白前左大臣誹諧根頓阿法師後小野宮右大臣源致方朝臣讀人不知珍導譽法師關白前左大臣
=0けふ關こゆるまきの奥駒本ノマもる小田に近き鹿笛とひすゝめ右のかたにそ千鳥啼なる釣針のさほの河原の夕霧に聞にこそ見ぬ事なれと知られけれ二人むかひて衣うつ音むしり捨るは花さかぬ草栽たつる籬の菊に綿きせてひとあやしくも膝より上のさゆる哉こしのわたりに雪やふるらん死たる鴛に札を附て書付侍けるをしとおもへと誰ころしけむ水鳥はいけなからこそ見るへきにすみをひくかと見ゆる黑髮おもふすぢかきやる文のむすひめにおやにかはるもすかた也けり(五一二灯のあかきかけなる鬼を見て油わたをさしあふらにしたりけるいとかうはしく匂ひけれは灯はたきものにこそ似たりけれてうしかしらの香や匂ふらんあしもてかへる難波江の浪みたれ藻はすまひ草にそ似たりける建久元年上洛し侍りし時濱名の宿たかんなははや末高く成にけり土よりいつる蟬とおもふに前大納言爲氏福原の京にて月くまなかりける夜登連法師文を持て簾の前を過侍けるに文も見つへき月のあし哉六波羅入道前 政大臣大空は手かくはかりもおほえぬに登連法師五歲に成侍るときあそひけるにめのと成ける人御はやわさの夕暮の空と申けるに山の端をこえてや月の出ぬらん藤原爲道朝臣おなし所に見ゆる遠山四の緒のかたはれ月のかた〓〓に讀入しらす中將に侍ける人〓〓連歌し侍けるに法性寺入道かりきぬはいくのかたちし覺束な前關白大政大臣是を人〓〓附かねけるに本ノマヽ頂明ィニ又俊賴〓鹿さそひつといふ人もなし源俊明朝臣おく山に舟こく音も聞ゆ也なれるこの實やうみわたるらん紀貫之夕ドにのほる月の遠山枝は椎木を折猿の一さけひ導譽法師關白報恩寺にて百韵連歌侍りしに弓につくるははしとこそ見れ前後竹ある里に鵙啼て素阿法師家の千句の中に前大納言爲氏關白前左大臣頓阿法師六波羅入道前 政大臣登連法師よみ人しらす實方朝臣讀入しらす良心法師法性寺入道前關白大政大臣頂明ィニ又俊賴〓源俊明朝臣良阿法師救濟法師紀貫之導譽法師上西門院兵衛待賢門院堀川前素阿法師源賴義朝臣に着て酒たうへてたゝんとしけるに橋もとの君には何かわたすへきたゝ柚山のくれてあらはや熊野へ參りけるに孔子の山といふ所にてくしの山たふれしぬへき岩根哉本ノマヽはなつりますなかつらもそある(時膽西上人雲居寺の極樂谷に住ける時坊をふかせけるを見てひしりのやをはめかくしにふけと云けれはあめか下もりて聞ゆる事も有皇后宮のすけあき國のもとにまかりて物申さむとしけるに人も出さりけれは人して言送て侍けるやり水の心もゆかてかへる哉後にガ房のかたりて是を得つけさりしと申けれはかくいへとて申けるたてならへたるいはまほしさに吉水坊の庭に蓼といふ草のもみちしたるを見ていふへかるイニからにしきとや是をいふらん愚云、此附句なし。月をのむかとおもふ遠山くしらとる越の大船心せよ舟をたゝくは沖津白浪夜になれは笘屋の窻を立にけり本ノマ後には左右の袖ありて本ノマヽたてをつきたる舞の袖にはつなひきイニ足はやくゆく駒のいなゝき人每にいそく松木の下かさ本ノマヽいほのゆふへそ只ひとりなる松あれは風ふくろうの聲きゝて又みるも海又見るもうみ賤の女かぬきなしはたを立置てぬるほとや暫し心を休めけむ山からの子の夕か(中下)ほのうちのイニ鳴こそ〓〓とこそ腹はなりけん川舟の淺瀨も近く成けれは家に人〓〓あまた來て酒たうへて各立歸り侍るにさら〓〓やさら〓〓と、そ立にけれ風とあらしは名そ替りける上にたゝ山の見えたるはかりにて石のうへにて休らひにけり双六の手打わつらふ指のさき三一關白前大政大臣前右大將賴朝平景時前大納言尊氏鴨證長心法明師二品法親王導譽法師周阿法師京極前大政大臣膽西上人讀人不知俊賴朝臣後光明照院前關白左臣同家宣旨敬心法師藤原顯國朝臣大僧正慈鎭救濟法師
三二春の田にすき入ぬへき翁かなひかィニかの 水ロに水た入はや山ほとゝきすイニ鶯の子のほとヽきす哉親の名の末一文字や取つらん遠き所へまかりたる道にあにの社と申神の御前にてあにのやしろはこのかみの名かと侍るに十四五はかりなる童〓の立りけるか附侍りけるちゝふ山はゝその森に〓とゝはんけイ川のほとりに牛は見えたり水わたる馬の頭や出ぬらん軒の下にて夜を明す也籠のうちのねくら尋る放ち鳥いかてなをさん心强さをあら牛の岸にむかへるよと車ひたるきにつの引るゝそ心えねやふれ車をかくる やせうし牛狩に出ける道に狐の走り出たるを見てしらけて見ゆる晝狐哉契りあらは夜こそこんといふへきに人〓〓伴ひて鎌倉へ下向し侍るに行つれたるおのこの口すさみにいひ侍けるは足あらひてやくつのやをはくこれをきゝててこしよりわらしな川をわたる人御まへにて人〓酒たうへけるにかよせイニれこれ盃を多くさし出させけれは左京太夫何某とかや申ける淺なへの心地こそすれ千早振ちくまの神のなにあらねとも鷺の尾の花の下よりかへりけるに花を見捨て歸る猿丸と人のいひかけけれは星まもる犬の吼るに驚きてあられ橫きるかしは木の森いねふりの木兎のみや覺ぬらん世の中にふしきの事をみつる哉鷲の尾にこそ花はさきけれ人の國にも二子こそあれ隱岐佐渡は八島のうちに顯れて數七ツある神のみやしろうへに置其名の文字は十なるにくつるゝ土そ流れ行ける軒にもる雨のふる屋の壁ぬれて烟りに成て匂ふたきもの其すかた富士と伏籠と一ツにて系大書俳本日か字治入道前開白大政大臣鴨長明敬心法師藤原〓輔朝臣崇德院御製皇大后宮大夫俊成女讀人しらす前大納言爲家同讀人しらすよみ人しらす救濟法師同前大納言。氏氏平景時素阿法師導譽法師また馴ぬ旅にきそ路を遠く來てつかれの駒のあしひきの山わらひはすれとあなつりはせす鷹 のゐる森の梢のむら烏ちさき馬首からさきそにたりけるま本ノマわイきこりのうしはひく力なしゑとゝいふ所の障子はなれたりけるに書付侍ける本ノマのりからはゑとの障子の花ならん又後に書付侍ける虫のくらふに骨はをれけり靑き鬼とも成にける哉古寺のむねの瓦に苔むしていのり來む世は今も恐ろしうはそくは鬼すむ峯に行ひて·こそ見れイニ水にたまれる花を見るかな山もとの筧の末にさい舟をきてとはのイニ常にきくやまと言の葉かはらぬは久かたの空あしひきの山磯家の庭は暮になりぬる浦にまた干す薪をも取入てしつくより露をもそゝく石の上弟子はかならす師をそいたゝくしらけのよねは只人のため神垣の庭のまさこをうちまきて關白家千句に門ふかき池ある寺の水すみてすかたは白き馬の四ツ足素阿法師おこなひ人や手を却くらん室の戶の花ふみ散す鳥を見て良阿法師うちはなたるゝ鷄頭花哉木ノマヽ5/さかイニせうかうの夕つけ鳥のいかき行大納言爲氏犬蓼といふものゝ中にゑのこ草おひたるを見て犬たての中にはえたるゑのこ草おひイ藤原實〓といふを聞てこゝと見置てのちにひかせん讀人しらすあづまにくだりィニ東國に下向し侍りしに伴ひたる入てにとるはかり手こしをそ見ると申侍けれは峯高き足からこゆるあしもとに頓阿法師手洗にて足をはいかゝ洗ふへき水かめの湯はわかぬものかは俊賴朝臣梨を燒けるにやけさりけれはからくしたれとやけぬなし哉前大納言爲家と有けるにおふの浦あまのもしほ火燒さして安嘉門院四條ひろき空にもすばる星哉のイからにイ深き海にかゝまる海老もあるものを西行法師三藤原家躬す素阿法師よみ人しらす良阿法師俊賴朝臣藤原實〓前中納言爲明讀人しらす敬心法師〓圓法師讀人しらす頓阿法師俊賴朝臣誹根諧源集前大納言爲家前大納言尊氏安嘉門院四條二品法親王救濟法師西行法師
三四あしのやまひにひれふしにけり大鯉のさ本ノマ、いた事なき身を持てさんのまとこそいふへかりけれうふやのまへのイニひきめゐる御所のむふやのふるたゝみそとはみちたる山寺のかき戶をあくるうちに佛を立並へ老たるねすみゐるそらはなし古寺の壁またらなる犬はしりとまるへき里はさすかに知れけり大の聲する道のす原哉前右大將賴朝上洛の時守山を過けるにいちこのさかりなるを見て連哥せよといひけれはもり山のいちこさかしく成にけりかイニむはらはいかにうれしかるらん本ノマヽ堀川院御位の時弓場にてあわせ給しけるに春くれは弓場殿に來て圓居せり愚云、此附句なし。金の色に菊やさくらん山路よりほりもとめたる草なれはと連歌をは立なからこそ初めけれ侍るにこし折歌は居てそよむへき禪林寺仙洞にて爲言朝臣ふたあゐ玉章や同し儘にて通ふらん春の雁かね秋のかりかね夜を通してもいかゝかよはん山里のかけひの竹のふしことに春秋たてる市はこの市花もみちうりかふ人はよもあらし目より薄のおひ出にけり狩人の野邊に射捨るわれかふら犬こそ人の守りなりけれみとり子の額にかける文字を見よたつさはる杖こそ老の力なれおもへはとてや子をはうつらん我こゝろなたねはかりに成にけり人くひいぬをけしといはれて修行し侍けるに奈良路をゆくとて尾もなき山のまろきを見てと世の中はまん丸にこそ見えにけれ待るにあそこもこゝもすみもつかねは鵜とかさゝきの侍けるを見て愚云、此前句なし。木の實かとかきはまくりも聞ゆれははイニ鯉つきたるものゝ馬にのりたるを見て力かはよりのほる鯉かなと云けれは馬のせにいかなろ淵の有やらん春よみ人しらす素阿法師順覺法師素阿法師導譽法師素邏法師救濟法師良阿法師大前大納言尊氏救濟法師西音法師平時政朝臣前右大將賴朝西住法師西行法師中納言國信俊賴朝臣藤原爲守前大納言爲家從二位行家前大納言爲家のかり衣にうらしたるを着たりけれはと後四園寺入道ふたへに見ゆる一重かり衣住るに大政大臣うらもなき夏の直衣もみへたすき藤原爲言朝臣古い上亡車に乘て花を見侍けるに誰ともなくていひける破れては片輪に見ゆる車かななとよこ神のたすけさるらん前大納言爲氏年中行事のさうしのもとにゐませ給ふて人〓に連歌せさせてあそはせ給ひけるに今まいりたる人の殿上にゐてもの申けるをきゝて中納言國信のしりにおはしますにあしうもゐたるものかなと申さるゝを聞しめして御口すさみのやうに仰〓と有ける雲の上に雲の上人のほり居ぬ堀川院御製俊賴つかふまつれと中納言國信申けれはしも侍にさふらへかしな俊賴朝臣夢窓國師西芳精舎にて本尊のへうほういのゆかみたるを見てへうほういるゆかみてしたる阿彌陀哉せられけるにといふ句を是を觀音勢至たまへよ救濟法師兼てより名号をこそ申けれ佛にならん事はちやう〓〓敬心法師法勝寺花のかけに夜に入まてゐたりけるを見て糸櫻よるまてみるは誰ならんよみ人しらすといひ侍りけれは奢の上座覺豪そかし覺豪法師いとおかしかりけむ散花を追かけて行嵐哉中納言定家大長刀ににくるうくひすよみ人しらすけイと夜行屋の下に立たる石佛あるに火あやうしとてみあかしもなしふるかはころもぬきそ捨つる二本の杉の木かけに水浴て素阿法師主も從者もさけをこそもて本ノマ、かめなをと口にくしたる平次との敬心法師伊勢の國を修行し侍けるに林崎といふ所にて林さきまはてはいかゝ歸るへき皷かたけを打鳴しつ〓玄忠法師我手の寳をしきものかなイニ也玉こくは地藏ほさつのえ給ひてえィニ西圓法師本ノマ、疊に舟虫といふ虫の有けるを見てと舟虫は疊のうらをわたりけり侍るに讀人しらす高麗よりやさしてきつら ん三五敬心法師後四園寺入道大政大臣藤原爲言朝臣よみ人しらす奢そかし覺豪法師中納言定家よみ人しらす前大納言爲氏素阿法師敬心法師堀川院御製俊賴朝臣西圓法師是讀人しらす
三六天文博士いかゝ見るらんとそ付ける何とてかたて湯のからくなかるらんといふ句にむめ水とてもすくもあらはや連哥はてゝ人のねたりけるに連歌師は皆賦物に成にけりといひけれは何木をとりて枕にはせむ敵討たる 曾我の殿原十郞かおもひ切しを五郞せよ堀川院御時中宮のうへわらはの連歌といひ侍けるを左中辨惟家忍て物申と聞しか程なくおとせさりけれは誠にや連歌をしては音もせぬしはしもやとにすゑつけよかし說法しける道場に鳥の形なりける聲をうつせみの聽聞の人の中にいひけるうてともたゝぬ鳥のありけりかく申けるを聞て唐人の附侍ける身惜花思身を捨て花ををしとやおもふらん風呂に入たりける人のをはをよひけれは風呂のうちにてをはを呼けり我親のあねか小路の湯に入て十佛法曾阿彌夕くれに來れるをみていひけるあらぬかとよく〓〓見れはそ阿彌陀佛無生法師無生のものゝ老のひかめや曾阿法師人の家の庭に楯のふしたるを見てふしたるを楯といふこそ心得ねと申侍けれはふしたれはこそたてといふらめ念阿法師わらへは齒こそ二ツ白けれ雪のうへに足駄やはきて遊ふらん導譽法師佛たににかき物をや好むらん極樂はよきところなりけり敬心法師後鳥羽院の御時白黑賦物連歌の中に豊のあかりの雪 の曙といふ句にやふれはかまのイニこはいかにやれ袍見くるしき按察使光親綿の黑きて額をそゆふ大ひけの御車そへて北面中納言定家天立博士なりける人の妻を朝日のあざりといふもの盜みける折ふし男に行あひて西の方へ迯けれはあやしくも西より出る旭哉云けれはと讀人しらす系大書俳本日同同從二位家隆十佛法師無生法師曾阿法師敬心法師導譽法師敬心法師俊賴朝臣捨中納言定家菟攻波集誹諧之部終愚云、菟玖波集全部廿卷、文房の本は先年去方の藏書を乞需めて、門人等に寫させ置しなるが、元名家より出し書ながら、烏焉馬の誤少からず。よて其後兩本校合すと讀人しらすいへども、是かれたがひめ有て是非定めがたかりしを、南都中沼家にひめ置給へる傳來正しき本をかり得て、三たび校合し、槩事を極め侍る也。されど四本ともに落字·落行、又誤字のうちに句意衆議の上もわかちがたきは、たび誹諧の部の傍にもしるしぬ。後人糺し補ひ給はゞ、是亦己が幸なるべし。誹諧犬子集寛永十年松江重賴撰後号維母愚云.此集の末に上古誹諧と部を立、うぐひすのあはせの聲はこまかなれといへる句を卷頭として百四十餘首を出す。第二句めは、有とはきけとかへらさりけり鳥の子のひとつ殘るは巢もりにて乘阿上人此句は菟玖波集連歌雜之部一ニ見えたり。誹諧に非ず。其外連誹混雜也秀衡征討の爲に奥州に向ひける時、名取川わたるとてわれひとりけふの軍に名取川前右近大將賴朝君諸ともにかちわたりせん平景時貞任·宗任は、衣河の城を落行を追かけて、かく云侍る。ころものたてはほころひにけり源義家朝臣と侍るに、馬の鼻を返して年をへし糸の亂れのくるしさに安部貞任此連歌も菟玖集中の句なるを、右犬子集ニ出。渡重賴は貞德の高弟也。師傳有て誹諸の部ニ入たる歟。但自見歟。これらは世によく知れる句なれば、初學の人犬子集を見て此集にもれたる事を疑惑せむと爰に著す。誹諧根源集卷之四誹諧之連歌之部新續犬筑波集萬治三年北村受一張わざ〓とは、漢家のまはりかしこき人の〓と草より起りて、御所車の和國にひき傳ふる〓とは、やまとの体にては古今集に始まり、つらね歌の品にては筑波集にぞ見え侍る。夫が後の中むかしに、祇公の百韵·荒木田氏の千句などあれど、なかにつきて山崎の宗鑑法師が犬筑波集なむ、これが逸物なりける。抑正道に非ずして正道をすゝむるわざとかや、先達もいひ傳ふる事なりければ、歌道に積れる刧の石をなで盡さずば、いかでか誹諧に連ぬる〓と葉のいづみも、よくくみしる事侍らん。先師貞德老人は、若かりしより玖山の高く貴き陰にかくれ、細川の〓く淺からぬ流れより出て、和哥のうら波を額にたゝヘ、筑波山の雪を頭につめる老の後の口すさみに此とわざを翫びて、彼山崎の油火を百とせの後に再びさしつぎ、てらしつ、往昔新增犬つくば集といふものをなむ、みづから製し侍りき。下略獨吟百韵之内六集中ニ出宗祇法師堂はあまたの多田の山なとまんちうを佛の前にたむけ置たれみそすくふしやくそんやある三七集源根諧誹宗祇法師
春過てなつめにけさや成ぬらんいつれはあふる八橋の水風呂に人いりてはあかを杜若くり〓とや五條あたりの物ならんゆふかほふくへふくへゆふかほ七日に中はわれ初にけり牛の子のあしやたなはたつめならんうちなかむれはみくさ生けり我宿の桔梗かるかや女郞花うつりかはりて猿とこそなれ花の春もみちの秋の桃のさねおもひきれともきられさりけり泪にはかたなの刄まてこほれきて唇に本より袖は赤くしてあつきかゆをや打こほすらんいくたひか君かかたへは呼るらんたのむのかりをむしるはる秋すゝ木殿とは誰かいはまし名をつかは鯛三郞やます五郞新撰犬筑波集中拾廿句フ碁盤のうへに春はきにけりうくひすのすこもりといふつくりもの春の野にゐんきんかうのはしまりてまつつく〓〓し袴をそきる夢のうちにもいたくこそあれいと細き手にあかゝりやわたるらん日〓にまさりて旅はたえかた關守のこゝろはきひし錢はなし忍ひ路ならは天くらふなれ名やたゝん月のさはりを身につけて百韵の外月に簾のへりやさすらん疊屋のあるしをとへは伊豫の人はう〓〓と鳴川しりのなみ大皷又小つゝみ の瀧落てふすへたるたき木を舟にとりつみてまつやたぬきのあなしふく風獨吟千句之內右ニ同ぬかれやするの野へのかたらひけふにあふ子の日のまつもかすかにて春も卒都婆もたつ森の陰若菜つむ生田の小野の小町にてうそをいふかとおもひこそすれ鶯の赤きかありと告られてけさははや花もきりゝと押開きいつまて握りつむるわらひ手藤の花さけるは定家かつらにて西行さくらうつろへるころうつろふと思ふも花のいろこかた底に蛇のすむ岸の山ふきころもかへして藥煎しよ系大書俳本日荒木田守武山崎宗鑑西底皆人のまいろや蕗の塔供養切たくもあり切たくもなし盜人を捕へて見れは我子也同し前句にてさやかなる月をかくせる花の枝又心よき的矢の少し長き左は尻の穴より烟立なり新增ニハよをこめてさしよする火吹の竹のふしこけて愚云、此前句の如くざれたるを、かく附なしたる作意、此作者ニ數〓有、全集を見るべし。新續犬筑波集中拾廿句一松永貞夢 のやうなり大原の春ちら〓〓と霞みのうちの黑木うり綸旨をは箱にとく〓〓納め置柳か風だあてぬ梅かえわらはへともそおほくあつまる印地又後は喧〓と成ぬへし烏丸亞相公にてちる萩の錦をつゝれいとすゝきといふに寒うならふそやれきり〓〓すやせたる腕をいたす松陰猿猴かほしさうにする峯の月月に煩惱つく る山住百八の鐘の望みはなかき夜に三九花にぬるこてふは雨にたゝかれて五條あたりにたてる尼御前夕かほの花のほうしを打かつきあかつきことにたゝくひやうたん山からの籠にくゐなを入かへて十王堂に秋風そふく淨はりの鏡に似たる月出ておほそれなから入てこそ見れ足洗ふたらひの水に月さして家はつくれと破れやすさよさゝかにのはせをに糸をよりかけて月日の下に我は寐にけり曆にて破れをつゝる古ふすまひたいのしはす寄あふを見よゆく年をうばやおほちの忘るらん人間万事いつはれる中塞翁かむまからせてはとひもこす泪そ川のうへに流る1及ひなき人に心をかけつくり女夫なからや夜を待らん誠にはまた打とけぬ中直りとんほうに似たる虫飛須磨の浦とふ人あらはあぶとこたへよ印をむすへは手こそくさけれにんにくの衣をきたる護摩の壇苦〓〓しくもたうとかりけり松永貞德誹諧
法の場にやこけのはへたる久しくてせめぬる駒はついすへりかうのものこそふとみしかなれ藪よりもをれたる棒をさし出して烏丸殿より鯛を給りてうらゝまておめてたい哉年のくれすゞきあくるは冬川の民獨吟十百韵中拾廿句ノ猫より外の音つれもなき恨む文鰹かくほとかきちらし眼とほつく熊野山伏藤代の谷にころりとこけの行四十にみたせ給ふよろこひうます女とおもひの外の初產に一見は奈良三輪初瀨よし野山寺をももたぬ僧にてい扨もその後みやこ戀しきうき沈む平家は夢にひとしくて山の手にもつかねもいらぬそゆかみなりに建る峠の茶屋大工若後家の殊勝氣もなき寺參り聲をきくよりついほれけきやう待賢門のあけかたの空大內へ名乘てまいるほとゝきすうらゝかな松ふくりをや出しぬらん花の前句に紅葉の陰にうたふ小謠花のころ生れしちやぼを秋に見て東御門主北山へおはしましけるに遲引なから御見廻申ける時遲けれと扨もよふこそきたしくれと仰せられけれは木の葉ふみわけうしにのる人あられの玉を投る雲龍ちよほ〓〓と穴ある淵のうすらひにものをもたねは用心もせす旅ころもきのまゝ出てゆく道に心よりなと發心のなかるらん人かほるれは泪たれ尼てきの藁屋へふかいりやする邊土にはたえこそやらねさいめろんふしたる人のはなをふすふるたはこをやすかきの下て吹ぬらんみたれ心のやみはいとしな髮すちのつるをめいわくからせられさろをまはせるしなの上手さしろうとの能をは所望遊はさす後鳥羽のゐんをしたふ世の中おもしろき歌のおほきは新古今唐ころもにや汗をかきぬる案せすは折句の体はよまろまし紅葉の陰にうたふ小系大書俳本日西山西翁後梅翁寺かすみのころもはかれたる山日まちはとかく小うた三絃傾城に雨にとめられ室とまり長物かたり西の海まて光源氏末や平家に成ぬらんとはゝや嫁御ものや思ふと靑梅の色に出にけり是まいれ寐覺からから〓〓衣しころ打女の聲てわらふ月の夜ならの葉の名にあふさらし耻さらし又鎌倉へわたされにけり三十もしあまりひもしかりけり素盞烏の御代にもありし不便者戀そ積りておく山のいもみなの川流れて落る大うなきたかひに時宜を墨染の袖極樂の花見は先へまつこされ白旗にこかね作りの太刀も有社頭の御藏御らんvrへうかれめなれとつよき心中大磯に殘すかたみのちから石中立に長物かたりくりかへしいつ歟女房にしつのをたまき新續犬筑波集中拾廿句我心おもしろをかしけさの春はいかいていをこのむ書そめたるゝよたれの糸の長き日靑柳のみとり子おもふれろ〓〓に袖ひけは花橘の匂ひしてきいたかそなたあれほとゝきす親のかたきを心よくうつ若竹はほやけて釘に成にくし見あくる森はふくろふの聲なにかしのゐんきな軒端月も哉けんくはなかはにかい逃て行ひとつ猪はいあふ獵師えもとらす夜〓〓ふたん月のともし火螢なき秋も書籍はよむまい歟見えつかくれつ泉水の月かいつふりかいつんふりといる波に節分のよはにすさふ大風たから舟もふすまのうらにかゝるめり香の烟もふすふるは憂きまつ人はきもせぬ〓に蚊はいりてあた波にういたやうなる契りにて君かこゝろは水くさのはなあふ時は口舌に泪たりけらしうすへらるゝそけふりよりうきけさまて部屋の內もひえぬる露とふられ霜とおきゐる口舌して四二女誹諧根北村季吟
四二侍る榎の陰に立休らひをくれし友人を待侍けるに紹四法師まみえてしきたひして通りけるに申かけ侍る涼しさにゑのきもやらぬ木陰哉仝秀吉公唐入の時からたちのそのみは頓てきこく哉仝此御句頓て其儘きこく哉なりしを小金といふ所にて後一直して入集との說有月弓を居なからに見るやくら哉御同作のよし見えすくやかたひら雪の松ふくり玄旨法印作のよし若和布もや汁のつまこめ出雲海苔救濟法師花匂ふ梅は無双の梢かな宗祇法師美濃國關といふ所の山寺に藤の咲たるを見て關こゆる爰も藤しろみさか哉仝八幡の萩の坊にてなけよ鹿啼すは皮をはきの坊仝冬は猶奈良のならひて朝茶哉仝行脚の序に伊勢の國關の地藏といふ所にとまり侍りしに庭の橘の花さかり成けれは橘のかにせゝられて寐ぬ夜哉宗長法師醉はせては笹にみたるゝ螢かな櫻井基佐入道永仙金銀の扇は風のもとてかな仝先ちるや風の中なる虫くひは仝我ともからの人のにくいひ仇心なき身に誰か恪氣せむいかさまに公家そたちなる兒そかしくつかふりよく揃ふ手ならひ立寄やすむ杉は六本辨當の三人前に箸そヘて靑葉の笛の靑きふしきさ皷にはしらへといへと赤うして借錢の淵は瀨田ともなりねかし世をから橋のかけ落やせむまつ黑に降くる空の五月雨からす蛇もや龍となるらん淵へやとんとなくるみしま江つふてもて芦間の鳥を打損し和歌連歌家誹諧之發句從諸集中拾之美濃國の何某御禮申上たる時五月雨にようこそきたれみのゝ者けさむかふ東鑑のもちひ哉門に打玉やころ〓〓いぬのとし著そはしめ老の皺をものしめ哉花遲かりし年田舎わたらひしてよしやふれ麥はあしくも花の雨はむ鳥のはしはみならす茂り哉束山遊興のかへさ祇園の御旅所に仝仝仝仝近衛關白信尋烏丸大納言光廣細川二位法印玄旨仝宗長法師櫻井基佐入道永仙仝仝仝仝老松のはにはさかむやあられ餅薄帋といはむ若葉の檀かな河原には蓼やみたれてからにしきけふこそは神代もおもふ若ゑひす願はくは花のもとてや生とふり朝顔にたか露ひとつ入ほくろ紅葉する蓼やさなからから錦花よりもみこそほしけれ櫻鯛空にしるや雨の望の秋の雲花けしの無常すゝむる夕下かな墨の袖洗ひてほしのあまの川梅の花香なから寫す筆も哉花そ散まいれととめよ茶屋のかゝ誹諧遠祖之發句新撰犬筑波集中拾十五句ン正月六日なへて世にたゝくは明日のくゐな哉春寒きとしにか〓〓しいつまて嵐ふきのたうきえにけりこれそ誠の雪ほとけけふ日よし土の戶開けかきわらひくゝりにていさ見にゆかん犬さくら花よりも團粉とたれかいはつゝしなかはこそたゝをし鳥よほとゝきす口たゝく水鷄にならへ郭公竹の子のふときも親のめくみかな仝仝仝仝櫻井永僊同作のよし仙吟法師兼載法師牡丹花肖栢蜷川親當宗養法師紹巴法師玄的法師澁色に染るは柿のもみち哉田に虫の多くつきけるとし大わうの國も恐れぬ田虫かなかさを着は雨にも出よ夜半の月しら山の神の本地や雪佛風寒し破れ障子のかみな月五葉の松のある所にてつもれはや雪の五葉の庭の松右集之外ニまん丸に出れと永き春日哉天神そ梅に增たる花もなし花をしそおもふほの〓〓と赤つゝし手をついて歌申上る蛙かな獨吟千句之發句飛梅やかろ〓〓しくも神の春靑柳の眉かく岸のひたひ哉花よりも鼻に有ける匂ひかなうくひすの娘歟啼ぬほとゝきす繪合せは十二の骨の扇かなかさゝきやけふ久かたの雨の川錦かとあまめに細き小萩哉名のりてやそも〓〓今宵秋の月氷らねと水引とつる懷帋哉からかさやたゝえかゝみのけさの雪右集之外ニ山崎宗鑑荒木田守武誹根諧源集四三
富士のみ歟一夜に出來る雪の山ほとゝきす聲つかへかし寒のうち新續犬菟玖波集中拾廿句フ日の烏のとけき三ツのあした哉左義長にほこらす藁やひの袴鶯の和歌三神や月日ほし花筒は八千代やこめし玉椿へし折や花にたはれ男おそ櫻うつりやすき花や美人のあた心冠の追かけゆくやまけ競馬碁をや打せん〓〓せんの蟬の聲破るなよ五戒の理をも持扇天の戶や明れは秋のたちから雄荻ふくやそよや土用も秋の風天に在てひよくや契る星の中女郞花たとへはあはの內侍かなたつ田川うくや淺みにこい紅葉玉と見る露の蘇鉄や孔雀の尾さくや此今を春邊と冬至梅ひれふりし雪見事さよ姫小松閑なるよや柊さす門かまへ餅花をしたり柳や糸さくらかへせ〓〓ゐの歲ならはとしの暮從諸集中拾二十句フ新春の御慶はふるき言葉かな元朝や神代の事もおもはるゝ又うへも內宮やたつ神の春列卒の者來へき宵也とまり狩菩提山にてちる花を南無阿彌陀佛と夕ァ哉なてし子や夏野のはらの落したね犬子集中拾二十句ノ鳳凰も出よのとけき酉の歲香は四方に飛梅ならぬ梅もなし鶯のほころはす音や歌ふくろ花よりも團粉やありて歸る鴈しほるゝは何歟あんすの花の色歌よまて見るをや花の笑ひ顔烏には似ぬうの花そ鷺の色樂に世をわたる歟なかぬ子規慈童かや菊水鉾の羯皷打長歌歟吟しもやらぬ蟬の聲七夕の仲人なれ や宵 の月くふよりも氣の藥哉鹿の聲一聲はあまり尾もなき鶉哉皆人の晝寐のたねや秋の月雲霧や芋名月のきぬかつき山や故〓錦着て行入日影紅葉にて又花をやる櫻かな脚はやき雲や時雨の先走り系大書俳本日北村季唫松永貞德西山梅翁宵の年雨降ける元日に浪花津にさく夜の雨や花の春愚云、此句世ニ梅の花と流布す。されど翁の眞蹟又風虎子御集夜の錦ニ前文有て花の春と出たり。江戶に下回せし時鍛治町誹諧談林の連衆より發句を乞れてされは爰に談林の木あり梅花愚云、右談林とあるは、其頃誹連の會する所なり。當流談林風の唱、江戶より起る。とへは匂ふ梅や自身の取合せ江戶を以鏡とすなり花に樽鷄合せ左右へくはつとそ退にける松に藤蛸木に登るけしきありほとゝきすいかに鬼神も慥にきけ鮓桶やなれぬをもつて後の爲五月雨や天下一まいうち曇りあふけ〓〓いつく歟王地なら團扇きのふこそ水にたてしか葛の葉のいもは〓〓先ツ月をうる夕下かなしら露や無分別なるをき所おもひ入奥そ聞ゆるかいろと啼摺子木も紅葉しにけり唐からしやとれとは御身いかなるひと時雨里人のわたりい歟橋の霜鴨の脚は流れもあえぬ紅葉哉雪の松曾根も久しき名所哉愚云、此部新續犬筑波集の序をかり、略し用ゆるものは、其文章根源集自序の趣是に似通ひて、わかちやすき故也。祇公の百韵·守武の千句は、右集の拔粹に任せ、其餘將發句は同集又それ〓〓の集中より、槩二十句を限りに拾ひ載す。これ悉くせむには事の繁ければと察し見るべし。又云、貞德の門人立圃·重賴·西武·貞室·梅盛等數く侍れど、思ふ所有て季吟而已を出す。委しくは末の卷に訳すんてる誹集誹諧之連歌之部終一五
四六奧義抄下卷藤原〓輔朝臣作問云、誹諧歌之委趣如何。荅云、漢書之誹諧者滑稽也。滑、妙義也、稽ハ詞不盡也。史記滑稽傳考物ニ云、愚云、此文右ニ出セバ畧ス。傳云、太史公曰、天道恢〓タリ豈不大哉談言微中亦可以解〓紛ヲ優孟多〓辨常ニ以談笑→諷諫優旃善っ爲咲言フ然"合ニット大道一淳于髡滑稽多〓辨郭舍人發言シテ陳辭雖不合大道然"令人人主ヲ和悅是等滑稽ノ大意也。偏誹諧の字はわざ〓とゝよむ也。これにより皆人編に戯言と思へり。かならずしも不然歟。今案に滑稽の輩は非〓道"してしかも成〓道ヲ者也。又誹諧は非〓三道道しししかも述妙義ヲたる歌也。故にこれを准シ〓稽稽一。其趣辨說利口あるものゝ如シ言語ン。火をも水にいひなす也。或は狂言にして妙義をあらはす。此中又心にこめ、詞に顯はれたるべし。淳于髠愚云、心の歌を出し給へる也。趙へ兵を請にゆきし事、此初卷ニ解す。其事に似かよひたる古今なにはなるなからの橋もつくる也今は我身を何にたとへむ是等のこゝろ辨說也同愚云、齊王より楚に鵠を献ぜらるゝ使せし事石ニ同。仝世の中のうきたひとに身を投は深き谷こそ淺くなりなめ是等の詞辨說なり西門豹愚云、河伯の聚しい婦ヲをとゞめし事右ニ同。日誹諧根源集卷之五誹諧文字之辨〓誹諧之大意俳諧俳正字通ニ鋪埋切音牌雜〓也同書ニ雄來切音骸和也偶也說文ニ語也史記百廿六卷滑稽傳ノ註索隱ニ曰滑ハ謂レ亂ヲ也稽、同也以テ言ヲ辨捷之人言ヲ非ヨシ若說〓是若シス非ノ同書ニ崔浩曰滑稽、流酒ノ器也轉注ノ吐ク「酒ヲ終日不已言ニト出ゴロヨリ成章ヲ詞不一「窮若ジン滑稽之吐クガ酒ヲ同書ニ楊愼曰滑稽者轉注之器也若シテ漏之類ノ以比人之言語捷給應對不ニー窮也同書姚察云滑稽、猶俳諧ノ也ニ·シ正字通ニ甫尾ノ切音斐說文ニ謗也古今和歌集卷第十九諧誹誹諧歌仝もろこしょよし野の山にこもるともおくれむ。息ごなななな是等の心利口なり淳于髠愚云、酒極則亂すの調諫せし事石ニ同。仝むつこともまた盡なくに明ぬめりいつらは秋の長してふ夜は是等の詞利口なり傷旃仝愚云、禽獸の爲に苑囿を大にせんとあるを諷諫せし事右ニ同。世の中はいかにくるしと思ふらんこゝらの人に恨みらるれは是等の心狂なり偏旃愚云、陛楯郎と呼し妄右ニ同。春の野ゝしけきことはの妻乞に飛たつ雉のほろゝとそ啼是等の詞狂なりおほむね此趣に過ず。これらにて心得べし。但辨說利口、くはしくいへば、わかれたるもなきもの也。問云、誹諧の趣如釋ならば、古今他之部にも誹諧の心ある歌まゝ侍る、いかゞ。荅云、各あひまじはれり。そのゆゑは、誹諧の心ある歌を盡していれば、彼部すぐれて多かりぬべければ、よろしきにしたがひてはからひ入たる也。四季雜部にもこの繪釋はある事也。(Qu)八雲御抄一條禪閣兼良公御作誹諧歌これはいかなるをかあらん、まさしきやう知る人なし。公仔卿なども不知之而通俊何と心得たるにか有けむ、入於後拾遺。經信卿が云、入誹諸哥にてこと〓とのわろさも被知云。誠如公任·經信不知〓〓ほどの事なれば、末代人非可定。又千歲集にもあり。大かたはさよめるべきやらんなどは推せらるれども、其さましる事なし。後拾遺·千歳集に入たる歌は物狂の事なれば、さやうの歌をいふにやあらん。但これを知がほに定るには非ず。哥体可見古今也。或說曰、誹諧有樣〓、一俳諧二誹諧三俳読四滑稽五穀米六謎字なそだて七空戯八郎屋九狂言三俳読九狂言四滑稽五穀米六謎字なそだて此等子細末辨之飛鳥井殿古今集の說には、誹諧といふこと世間には、あれたるやうなる詞などをいふと思へり。此集の心は更にしからず。たゞ思ひよらぬ風情をよめるを誹諧といふ也と申されし。されど歌のあらきをもまじへたる也とのたまへり。季吟埋木ニ出誹諧埋木撰者北村季吟式義俳諧は躰も心もともに狂言也。誹諧は、躰狂言にして心直なる也。俳語は詞·字がら〓とばの歌也。誹護は心あらはに聞えず。物外にすがりて狂じたる也。四三誹諧根
四八滑稽はまはりかしこしとよめり。其心如奧義抄。謎字はなぞ〓〓のやうにいへる也。空戯はひたすらにたはれて實すくなき也。鄙諺はいやしき詞を嫌はでいひたてたる也。狂言は偏におかしきやうにいへABB諺歟狂言といへる流によらば、火をも水とまげて言なせる也とぞ。愚云、流布の八雲御抄に俳講·狂言の二ツなし。又埋木に俳読なし。八雲に異本有歟。又云、請の字義未詳祥。又、續連珠誹諧用意問答同作問、八雲御抄に誹諧の名あるが中に、八鄙諺、九俚諺といへり。鄙諺はひなびたる詞を言出たる成べし。俚諺はたゞ世俗のいやしき詞をいふ成べし。下略荅、上略此誹諧九ツの名は、古今の誹諧哥の註の〓輔自筆の本を見しに、まさしく俚言とかけり。狂言は書寫の誤り成べし。愚云、同作の埋木には狂言の註あり。案ずるに此書は明曆二丙申春の述作、用意問荅は延寶元癸丑冬とあれば、十八年後の著述也。程經て〓輔の註に寄、書改められしものと見るべし。いづれの書にもかやうの義はある事也。誹諧厚顏記撰者兒島胤矩愚云、當流季寄通俗志之作者也ある日友來て誹諧といふ事を問。荅.此事昔も俊賴と基俊との料簡わかれて見えたり。俊賴は公任卿の詞にたよりて、古今集にあれどもさだかにしれる人なし。後撰·拾遺にもなし。後拾遺に入しは、もしをしはかりの事にや。基俊は通俊をたすけ、史記の滑稽傳を引て、撰集必しも同じからず。後撰にひが〓とにて入ずとならば古今集なくなり侍りぬ。貫之ひがとすとも、延喜聖の帝にて御覽ぜまじやと云〓。〓輔云、其おもむき、辨舌利口なるものゝ、火をも水にいひなすが如し。或は狂言にして、しかも妙なる義をあらはす事有。此中に又心にこめ詞にあらはしたるもあるべし。云〓扨人〓のいひがちをばのけても、千載集にあり、其後の集にも入たるをみれば、貫之をやうなづきたまひけむ。寒い中から春來り、暑いといへば秋風のふくは、目の前火をも水にいひなす所にうまみ有べし。又問、誹の字はひの音也。俳の字や叶ふらん。荅、誹は微の韵にて芳微反、又敷尾反、斐なり。は·ふ通音なればにや、かな書にするには、はひかいとも書よし也。音の伸縮の心ならんかし。八雲御抄に誹諧哥の事に付て或說を引て云、愚云、右ニ出せば關之。又史記評林に滑稽は猶ヲ諧諧也。これらによりて俳の字をも書と見えたれども、誹の字を用ゆべき事にや。勅定をもてあ(RE)める代〓の撰集に、みな誹諧とあるなり。俳にてもよかるべけれども、是を書時は勅定の集をもどくやうにやあらん。世に名の高かりし俊成卿は、殊勝の歌道者也。撰給ひし千載集にも、古今の通りに書のせ給へばゆゑある事とおもひ、假初にも誹の字を書べし。愚云、はいかいの文字、和歌にては古今集に誹の字を書給ひしより、世くの撰集に其文字を書來たり給へるを、誹諧連歌は和漢混雜のものから、梅翁門人惟中.滑稽傳を本據として俳の字をもちひしを、貞德の弟子隨流、書を著してこれを破す。其後貞德支流桃靑門下支考に到て、同じく滑稽傳を出所として俳の字に改め、今も其徒にては俳諧と書なり。當流は才體語錄に、ひの假名かへしの事をも辨じ置れ、其上胤矩厚顏記にしたがひ、誹諧の文字に定む。纔廿年ほどの間に、誹諧の文字自他斯の如く變化す。されど漢字に拘る時は俳の字をも書べきにや。季吟の書給へるもの、又師說も同樣也。依て此序文にも俳誹の文字を書わくる也。又云、字書に俳諧に類するもの數〓〓見えたり。俳優訴笑俳倡倡俳倡慶優倡訴詣倡狂倡和諧謔諧語此外にも有べし。但何れも雜〓なる歟。又云、左傳註疏、史游ガ急就篇ニ云、倡優俳笑是優俳一一物ニ名也。今之散樂〓ニ爲可笑之語フ而令人ヲシテ之笑是也。宋ノ大尉袁淑取一古之文章令ムル人ヲ笑者ノ次而題之名テ日俳請集。二·七又愚考るに誹諧は言をもつてし、俳優は象をもつてする歟依て今世俳優は放湯不貴の徒にも比すれど、滑稽傳にのせし優孟は、叔敖が談語をうつし、象をなして楚土に諷諫す。其さま、身ぶり·聲色の妓藝をなすものにも等しきといへどその子の第を救ふ。又、神代卷上卷ニ天照大神天入石窟一閉一盤戶一あまてらすおほんがみ。あまのいはやにいり。いはと而幽居焉八十萬神をさして。こもりいましぬ。中略やそよろづのかんだ合於ニ天安河原邊一ち0かんつどひにつどひて。あまのやすかはらにおい計其可禱之方又猿T-そのいのるべきわざをはかりたまふ。中略またさ女君遠祖天佃女命るめのきみの。とをつおや。あまのうすめのみ〓と。則手持茅纏之稍於天石窟前一すなはちてにちまきのほこをもち。あまのいはとのまへにおいて。たくみにわざをぎす。巧作俳俳一下略此わざをぎに( )大神盤戶をひらき玉ひしとぞ。これ神樂のはじめ也。人の代となりていはゞ、いにしへの白拍子·今の舞子にも似四九
五〇かよひてむ。されど其業に尊卑有、又用ゆるに好惡あり。いはずや、詩衛風ニ、善ク戯譫スレ〓分不爲虐ヲ。又奥義抄ニ、タバムレひと道に非ずして道をなし、王道に非ずして妙義を述る。是誹諧の大道也と。又云、今卅誹諧のことくさに遊ふ人、はじめは平句の點取より入て雜〓而已となせど、席をかさね月を經て次第に句作の自在を得れば、和漢の事に疎(通)くしては此道成就しがたきを悟して、おのづから書藉に心をよせ侍る事ともなれり。さりや兒俗のうへには、かにも有がたき道なるべし。上のくだりの條〓、いにしへの高貴又は名匠の著し置玉へる書を擧て、いさゝかも自己をまじえず。初學の人其本を知て誹諧の正道に入むと修すべし。或人間云、誹諧根源集、誠に此道の大綱と申べし。夫が中、菟攻波集誹諧体連歌に、今世よめる所の發句又平句の長句、同く短句にていひかけたるあり。すべていひかけたる句を發句と申べきや。荅、發句にていひかけしは發句とも申べき歟。長短とも平句は發句と申がたかるべる前句又かけ句抔申さむ歟。いひかけて附人なき平句は、筑波集に片句と出し、發句は發句として別に出たり。問連歌にては發句の事を片歌と申す人有。よて尋ね侍れば、附句なきを片歌と云、脇·第三と繼て百韵卷頭と成を發句といふと也。誹諧にても左申べきや。荅其事辨義にも出されたり。併連歌は宗匠家より悉く習ひあれば、傳へを受ざるもの卒爾には申まじき事歟。大正貳と申は、古事記景行之條日波斯祁夜斯和岐弊能迦多由久毛韋多知久母はしきやしわぎへのかたゆくもゐたちくも麗哉我家方雲起來此者片歌也。斯の如く五七七によめる也。我前の師綾太理、誹号は吸露菴涼袋、おもふ所有とて誹諧の發句の名目を私に片歌に替、五七七を旋頭歌の片歌、五七五を短歌の片歌とす。後京師に登りし時、かたじけなくもやどなき御方より、片歌の道の師といへる御書を下し玉はり、其道愈行なはるべかりしを、惜いかな不幸にして沒したえたり。但歌ははじめの五文字を發句と申よし。されど連歌も繼句の有無によらず、いにしへより發句と唱へて、これを輯めしを大發句帳と題せし印本あり。尤發句ばかりにて語をなし、短册にも書、又入集するは中昔より後の事にや。往古は下の句なくては句意立がたかりし故歟。〓輔袋草紙ニ或人ノ云、連歌ハ元ノ意趣を末ニ荅也。ヌ連歌を歌一首ニ取成テ入撰集一常ノ变也。中略但以末句〓爲主〓歟。此趣にては下の句附たる人、一首の主となる也。方形は記に出しは五七七にして語をなし、下の句なく一首と成を片歌といふ歟。されば片歌は繼句のなきもの成べし。はいかいは通俗をもとゝすれば、是迠數百年唱へ來れる通り、發句と申べき事歟。問延寶の頃の誹書な見るに、貞德門よりは當流を難じ、當流よりは貞門を擊て、筆陣止時なし。さるを此書に多く季吟の著述を出し擧らるゝ事如何。荅昔難陳の書ある事は貞門·當流にかぎらず。既貞德沒後は其門互に爭論綱ず、著せる書も數〓也。こはいづれも一派を興立して祖ともなりし人こなれば、各文才に驕りで也。夫より年曆段くをしうつりて貞門の末、其角·嵐雪抔、當流西雀·才麿·來山等を友とし睦びて双方の著述に句も入集す。猶又今世と成ては、諸流隔なく交はる也。殊更北村季吟子は、貞德翁の末弟ながら博識多才にして、歌書·物語の註釋又誹諧の階梯と成べき書數編を著され、普く世寶とする事は衆人の知る所也。かく高名によつて、關東歌學所の台命を蒙り給ひ、今も子孫運綿して相續也。其撰み玉へる書なれば、引用ひて難なかるべし。勿論季吟とても古書·古說に寄給へる事ぞ。問誹諧に遊べる中に、滑稽を嫌ひ、只閑寂なる所をむねとする徒あり。是又據ある事にや。荅誹諧·滑稽別事に非ず、雜〓より和して正道に入るゝとなれば、閑寂なる句作を、ひとむきによしとは申がたし。されど閑を好まば、閑なるうちにも滑稽の意の扱ひかたあらん歟。はじめに出せし諸書の事どもを熟讀して、其深意を自得有べしo此書自序に述が如く、初學の人に誹諧の根源を知しめ、且大意を示さむ而已著せし也。よて誹式は流風の諸書に讓る。志す人、學ばむと思ふ處の師に寄らるべしと筆を閣く。誹諧根源集全部五卷終一陽井のをぢ、この册子をもて來て、すゑにひとひらのこれるに、何にまれ書てよとこふ。いかなるふみにかとひらき見れば、はいかいのみなもとをつばらにせり。まろ、はいかいをしらずしてなにをかいはむ。しかはあれど、此をぢをあひしれることは、かたみにくれ竹のよこもれる時より、かゞなべて五十とせに近づきぬるを、をぢはわれにさかふことなく、われはたをぢにさかふ事なむあらざりければ、とまれかくまれとて、ふみてをとるものから、耳しひの物のねの〓とをいふにひとしくこそ。千蔭諧誹根東叡山南下五條天神前星運堂花屋舊次郞、平、
系大書俳本日ぎよくち玉池雜藻一·二·三素外著
玉池雜藻一陽井素外誌筑波山端山しげ山の事茂き隨筆の書は、むかしよりすそわの田井のそこはかとなく、限りしられまじくや。爰に先師より〓〓かい集めをかれしは、雅となく俗となく誹諧の材となるべきなれば、諺に風に順がつて呼べば聲高からずして聞者多く、岳に登つて招けば臂長からずして看ものおほしと。此道に寄輩に便りよからんにぞ。さりや(一)、今年夏日の永き心ずさみに、このもかのも拔翠して册子にせられむとなるを、星運堂耳とくも聞つけ、己が櫻木にうつさむと予に乞ふ。よて師に其よしを告るに、年月わけて親しく用をなすの書肆なれば頓にゆるし、あるに任せてはじめに其故をしるす而已。葛飾一龍井壺外此書は玉池の珠を拾ひ、石を省くとにも非ず。いにしへ今見聞し事、將己がおもひ寄事をも、筆のまに〓〓藻塩草、書集めし儘文房に置しを、みな月の風入る折から、虫打はらひ開きよめば、さる〓との有しとも覺え、又忘れて珍しと見るもあり。よて爰かしこ寫とらせ、別に册子となせし物ぞ。一明和八辛卯夏、御影參りといふ事はじまり、四月八日より八月九日まで伊勢參宮人、凡貳百七万七千四百人餘なりと。愚云、此事昔寶永二年、又其むかしも有しとぞ。老若男女、街道·步道を撰まず、御影でなぬけたとさ、と口〓に諷ひつれツヽ晝夜となく群參す。これ神慮すゞしく叶はせ給ふ事有て誘ひ玉へるにや。先年晋子は法躰の遠拜を悔て、身の秋や赤子も參る神路山其角內宮法樂之連歌發句いにし筆のまに〓〓年月四月八日あるに一龍井壺外謹述とぞ。文化辛未秋玉先池雜其角藻五五
五六田耕筆と云ものニ、大般若經"貧窮無暇入"有暇一。俗ニ貧乏暇なしといふも是より起ると祖芳老禪の話也。いま有卦·無卦の文字を用るは非也と。愚云、有氣を祝すには、ふの字の物七ッ贈る事世風也。己は是を一句として、富貴七重八重もうけあふ花牡丹素外一哥一首を聞果ざるうち難ずまじき事、和哥又誹諧ニも有。昔上東門院住吉の浦へ御幸有ける御時、うき鳥多くなみにゆられたる躰叡慮に叶ひ、此けしき哥によむべしと、和泉式部へ宣旨有けるを御うけせしうへ、おもふ所有ければ何とぞ娘によませたき趣願はれしを、御ゆるしありて小式部御前へ出しが、しばし案じつゝ扨母のかたにむかひ、千早ふると五文字を出せしに、式部小聲にて、夫は神の御事にこそよめ、いかに心得しやといふを院叡覽ありて、おさなきものゝ事也、いづれにもよませよと仰下されけるに、心ならずも有がたく母もゆるしぬれば、千早ふる神のいがきにあらねども波のうへにも鳥ゐたちけり。君をはじめ御供の山やこれ天照す日のはつもみぢ宗因外宮尊とさに皆押あひぬ御迁宮桃靑西上人かたじけなさに泪こぼるゝの和哥を慕ふ前書ありて、何の木の花とも知らず匂ひ哉仝神路山は内宮の御山を稱すよし。又兩宮を申の說あり。猶可尋。一厄歲之事、源平盛衰記ニ、治承三年二月廿二日宗盛卿大納言井ニ大將を上表あり。今年三十三になり玉ひければ、重厄の愼みとぞ聞えし。愚云、今世にては卅三と十九を女の厄どし、四拾二と廿五を男の厄と云。是三週二十三は散〓、十九は重苦、四十二は死の響きある故とぞ。廿五の事は男の盛年にて、是より段〓に衰ふるとなれば、其盛なる所を愼むにや。されどはじめは女子の詞などより起りて、本據ある事には非るべし。一有氣無氣松岡如菴詹〓言ニ、陰陽家"、人身ノ氣有餘に當る年を有氣とし、虚耗〓すす年年無無とす。又閑宗因人〓大に感じ給ひけり。御感のあまり下されもの有けるうへ、小式部の內侍と召れけり。此時十一歲にて有しとぞ。一花園左大臣、南殿に出て機織のなくを愛おはしましけるに、暮ければ、下格子に人參れと仰られけるに、藏人、五位もいはぬと申て侍參りたるに、汝ならば兼て哥よむと聞しまゝ、あの虫をよめと仰有けるに、御格子おろしさして、靑柳のとはじめの句を出したるを、女房達折にあはずと思ひたりげにて笑ひ出したるを、大臣、物を聞果ずして笑ふやうやあると仰られて、とく仕ふまつれと有ければ、靑柳のみどりの糸をくり置て夏へて秋は機をりぞなく、とよみたりければ大臣感じ給ひて、萩をりたる御直垂を押出して下されけるとぞ。一涼〓南北新話元祿の頃にや加州金澤の會に、月折端と附て裏移り付かね、少し沉みし時北枝といふもの、郭公と句を出しければ執筆、秋いまだつれずといふに、その荅へはせで又、ほとゝぎすと申ゆへ、執筆其詞を請ければ、時鳥啼ころ植し田を刈てかくはじめより案ぜし歟、又頓に一直せし歟、句の扱ひのはえ〓〓しきに連衆大に感ぜしと也。一飮酒ヲ時之頌此酒芳氣遍滿天下祭諸佛等祭諸靈等天福皆來地福圓滿拾芥192ニ一大酒する人は腹中に虫あり。其虫、口又尻より出れば、其人其後酒を飮事なしと、白氏文集を引て出せる醫書あり。愚云、己が社中に大酒の士有て、假初にも二升三升を飮事常也。ある日酩酊して嘔吐せしに、其中に一寸ばかりにて色黑く平めなる石有。夫よりして酒を飮事ひしと止し也。これ酒を吸石にや有けむ。又外の人の草履取に大酒の者有よし、其主人に聞えければ、何程歟のむ、ためしみんと閑日に庭へ廻し、椽さきにて鉢に次て呑せしかば、塩を肴とし六升迄飮たり。其上も强なば飮べき歟なれど、餘りの事故後の煩あらん〓とを思ひてやめしと、其主人の物がたり也。聖語を思くは、量りあれ年わするとも升で酒素外五七玉雜藻素外
五八なるを牡丹花に形容せしなるべし。愚云、當流季寄通俗志ニは十月之部ニ寒菊·冬牡丹と續け出す。勿論今珍花を好む者、これを鉢植等にせり。されど新井氏の火鉢とあるも亦一說也。其意に作せば火鉢にも用ゆべし。又百菴が句ニは、はぎが花黄な粉の方やをみなへし。又愚が句に、窓の斜日を、窻に日の一りん牡丹冬ごもり素外右の如く譬諭して案ぜば、いろ〓〓句作もあるべき也。一同書に、或日客來ての話に、先年舟にて旅せし折から〓蛇と烏賊相爭ふを見しが、いか、波をすいて腹中の墨を吐かけしかば、蛇段〓にきれて海に流れ失たりと。又其後他の客云、小兒蝮にさゝれし時往あひしに、其親烏賊を庖丁せしが、業に疎く兩手を墨にしつれど、小兒泣叫ぶにおどろき、そこ爰と撫さすりて痛む所眞黑に成しが、いつ歟愈て泣をとゞめ、遊ぶ事常の如しと語る。本草ニ烏賊海蝎螫の疼痛を治すとあれども、墨と云の能をのせず。よつてしるし置事を出せりと。一河豚、本草綱目ニ無毒とあれど、時珍食物本草ニは大毒あ一物の味はひを試み、君公に奉るをおにみと云。此事或印木ニ、元日の屠蘇に起る。公事根源集ニ、子子とていまだ嫁せざる少女に屠蘇を飮しめ、扨天子に奉る也。小兒と書てをにとよむ故也と。愚云、此事證としがたき歟小はをの假名、鬼は和名鈔ニおにと有。其上小兒ををにとは湯桶よみ成べし。予先年高貴の方に出て在し時、配膳の近習へ、今日の煮味は誰やいたせしと仰有けるにて、ふと心づき思へば、煮味の事を下より申詞故、敬して御煮味と申なるべきなり。又屠蘇によらモ)ば、天上の鬼の間は御膳の具を置所なれば、藥子鬼の間に在て夫より進むと也。然れば小兒に及ばず、鬼の字を用ひ、鬼味とも書べき歟。又一口食す事故鬼一口より出し歟ともいへり。乍去御煮味の方、安らかにして理に近かるべし。一牛馬門ニ、牡丹餅は盛並べし形也。又萩の花と云は、あづきあるひは黄な粉をかけし色をもて云とぞ。かい餅はもちの中でも和らか故、粥餅の橫訛り也と。又は此丹といふは牛の異名、冬牡丹は火鉢を云。火のさかむりと見えたり。此毒有なしに說區也。ある年此毒にあたりし者、海上にて大家の御舟を見かけ、御藥を願ひしかば砂糖を下され、是を素湯に立て用ひしに、頓に快氣せしとの事、是も右の書ニ載たり。又南嶺子ニは鮭と河豚の文字の事"つきて、旣に命を失なはむとせし復を、靑砥の粉を水にかき立て用ひ本腹せし事を出す。又予が知己の中に右の毒にあたり大發熱せしに、深更成ければ醫藥に及びかねしを、物に心得し男ありて丸裸となし、土間にて腹を冷させければ、次第に熱氣さめて平生躰に成し事を、當人の物語にて聞し也。右時珍が說の如くいづれ大毒魚にて、是が爲になやまされ又忽に死すもの時〓あれば、心あらん人ゆめ食すべ白酒は、あらざるべし。此因みに云、先年外櫻田邊に夫婦とも腹を好み食すものあり。其中に幼年の女子一人あるが、毒也といひて堅くあたえず。或時又これを煮るに女が云、其魚いよ〓〓毒ならば、我もくひたく思ふなり。其ゆえは、毒にあたり父母とも相果給ひなば、己ひとり生殘りていかゞせむ、夫よりは死をもともにせまほし、よてこれを願ふなりと云ければ、夫婦其孝心の詞に顏を見合せ詞も出ず、暫し落淚して大に耻思ひて、今煮し鰒に手も附ず捨たりしとぞ。此事を聞て、其藩中これまで内〓くひし人も、誰とゞめねど一統やめしと也。是亦女が孝の餘慶ならん歟。愚老も若き時は其制友にも交はりしが、今は他をも製しとゞむる也。親は子のためにかくす歟ふぐと汁素外.おや有て早怯におちず河豚嫌ひ危うしとやふぐに見らるゝ人の顏一當流の祖西山宗因、誹号は梅翁、正保の頃浪花天滿宮(一個)の北に偶居し、はじめての會席に、連哥淵とならんよるべの水や菊の露宗因其後明曆二年住べき地をもとめ、向榮菴の成たる時、同神やうけしついによるべのきくの水仝梅翁の誹諧を桃靑·去來·其角等が賞譽せし事は、去來抄·雜談集など蕉門印行の集物に見えたり。其文は前に愚が著す手引種〓載す。又許六が歷代滑稽傳ニ、露の發句は古今なきもの也。梅翁が白露や無分員なる置五九外.雜藻
六〇ひこそやれ。又是も同じ頃、加友といふもの加斧を需む。上を下へえいとう山の花見かな。翁云、面白けれども連哥めきたりと引直して、花見衆やえいとう〓〓東叡山加友扨おのれ脇をつけむとて、かすみひけ〓〓をす車坂梅翁此事えいとう山の句、連歌めきしとは厚き誹諧成べし。米仲出靱隨筆ニ一宗因手紙の切レに、我等隱居所南に四疊敷つけいて廣くなり、壺の內へ草花を植、氣慰みに成申い。五人十人は客も成い間、別而之者近日會催しい。連哥老が來る木陰ならなむ若葉哉宗因連歌おもしろく成申い。誹は當風成まじくおぼえい。秋風が新しき口ぶり、三吟を見て我を折い。愚句古きうへに躰いやしく思ひなされい。一秋風京三井氏、當流の作者成しが段〓長じて異躰と成。右は山左は園餝シ梅シ曙シ秋風一日といく度歟暮るゝ歟と思ふさ月雨所後代にいたるとも、是ほどの事いひ出すべき作者有べきとも覺ず。又、何をいふても六十の秋と云句などは、末代不易にして妙也。愚云、又近年故人の數に入られし歌人千蔭翁は、五十年餘の知己にて、折には物をも聞し人也。先年梅翁哥運誹の自書を見せしに、我諧語の事はしらず、哥連將其書に於ては耻かしめらるゝ事あるまじく、今世の誹人もかく有たきものと申され、汗面せし也。名はいまも千世も春邊歟梅花翁素外一梅翁、江戶に下りし頃、饗けする人ありて葺屋町芝居見物に行しに、あるじ其席案にて、子は增りけり竹之丞とせしが、五文字とかうすれど居りがたしと添削を乞けるに、翁取あへず、おや〓〓〓〓子はまさりけり竹之丞と五文字を添られしかば一座手を打て感吟の聲、暫しは止ざりしとぞ。此おやといふ詞は、關東にて稱嘆の發語也。其詞を親にかけて也。後、拾遺藤原保昌朝臣哥ニ、かた〓〓の親のおやどち祝ふめり子のこの千代をおも加友あたゝか〓眞白なる飯を見も歟の氷室哉此時分は秋風のみならず、皆此やうな体はやりし也。天和の末より貞享にうつり元祿に至つて、當風·貞門其外の風詞槩正風躰と成。雅にせちなる人は、よく古今の書を見て變化をも明らむべし。但今未熟の誹士、適右異体の句を見て古風と心得、斯る句作に傚ひ、又點にするもある歟、笑ひつべき事ぞ。予が門人、ゆめ右の趣によるべからず。一字餘り之事右秋風が時代の句は法外の作也。和田町うへにて作例あるは、近來風躰抄ニ云、卅一字より餘す事、秀逸の事は子細なし。さなくては無用の事なりと云。又八雲口傳にも、文字餘る事させるやうなく、餘さでもやすく有べからん所に、わざとたくみ入たるはわろし。あまらで叶ふまじく、あまり聞にくからぬは、いく字ム苦しからず。忠仁公哥ニ、としふればよはひは老ぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし。又定家卿歌ニ、わすれぬらむ恨めしと思ひおもふとても待べきにあらずとはむともいはじ。此哥は卅六字、はらのの歌は三十四字也。誹諧發句にもよくよみ叶へしは、哥同樣にゆるしきたれる事ぞ。一鬼貫ひとり言ニ、おのれ廿に充ざる頃、先師松江の翁と維舟也梅花翁と列座の會に出て、ちよと見には近きも遠しよしの山といふ句に、腰に瓢をさげてふら〓〓と附侍りければ、吉野山にふくべ、其故ある事やと師の咎めにあひけるに當惑して、美芳野の花のさかりをさねとひてひさごたづさへ道たどり行、といふ古哥にすがりて付侍りきと、當座にこの歌を作意して荅へければ、此哥珍らし、何にあるやと尋られけるほどに、たしか萬葉歟夫木にて見いと言ければ、やがて執筆にかゝせられける。いかなれば師の心をかすめ、かく僞りをもて勿躰なくも懷帋を穢したる科人、かへす〓〓も道に背きし事、今更恐敷ぞ侍る。下略愚云、鬼貫僞りといへ共、壯年にしての才力感ずべし。たとへ此事師に洩て不興有とも、亦免し有べき事敷。一同書に、鎌倉右大臣、西行上人に弓馬の事尋給ひし時、馬は大江千里が月見ればの哥の姿にて乘給へと荅へら六一玉池雜藻
六一一みそとせばかりの昔、献殘の魚とて、高貴の方より己に下されける。其使井能隼太と有ければ、御興によみ奉りし也。猪隼太源三位賴政御こんいのはや給りし献殘味船に美女よりまさる鮭御情素外一賴政立春の歌ニ、珍らしき春にいつしかうちとけてまづものいふは雪の下水。又貞室が句ニ、戀の叶はざる人にかはりて打解ぬ雪や深谷の底ごゝろ。又加賀の希因が句ニ、梅さけばゆきにも聲や谷の水。愚も先年、打とけよ花なる春に去年の雪。此句いづれも同根より出れど、等類は遁れつべし。一延寶の頃、茶亭の女つるといへるが有ける。其名に寄て、れければ、程拍子を心得玉ひて、卽座に馬の乘かたを悟り玉ひけるとぞ。愚云、誹諧にも句の程拍子は上手の上のわざ成べし。先師蒼狐ニ門人文字餘りの事を聞し荅に、和殿馬をよく乘給へば、夫をもて考へらるべし。譬はゞ五十間の馬場をのるに、四十七八間にて乘まはる時も有べく、又八九間の時も有べし。是其氣滿ざれば馬廻りかへるまじき也。句の字數も意みちざれば、風格調ひがたしとしらるべき也と示されし。げにさる事ならんか。一西行、諸國修行の時道に勞れ給ひければ、其所に有合ける牛にのられしを、牛ぬし見咎め、此法師牛盜みしとのゝしりぬるに、われは西行と云修行者にて、中〓左樣の者にあらずと申されければ、さあらば十二のえとを一首ニ讀べし、其事成ずばゆるさじと責けるに、午未さるとりいぬよそちもいねうしとらぬさへうき名たつみにと取あへず物の名によまれければ、るとぞ。此哥夷曲集ニ出其名に寄葛の葉のおつるかうらみ夜の霜梅翁程へて後、はせを其あたりに休らひしを、見知りてや有けむ、內へ招じ入れて、我はもと此家の遊女なりしを、今のあるじ妻とし、名をてうと呼ぶ。此先のあるじの妻をつると申せしが、難波の宗因この所へわたり皆〓感じゆるしけ給ひぬる頃、發句願ひかけたれば、己にもあたえ給はれと、おかしき例を引てあながちに乞ふに、いなむもいなみがたくて、なにはの老人が句を前書にして、蘭の香や蝶のつばさにたきものす桃靑一桃靑、奧の細道に北國の難所をこえて勞れ侍る夜、間隔て若き女と老たる男の物語りするをきけば、越後新浮の遊女參宮するとて此所に泊り、定めなき身の上咄しを聞〓〓寐入て、ひとつ家に遊女も寐たり萩と月桃靑愚老もむかし爰かしこ旅せし頃、或夜のやどりへ、邊りちかき若人にや遊びもの呼て、糸の音かしがましく、だみたる聲して諷ひ、酒くみ興ず。へだての障子とてもなれ破れて物事あらはなるが、其中によそぢばかりとも見ゆる傀儡の、わきて仇〓〓しく寄そひもてなし侍れど、其けはひ何となく寂しく哀れに思はれければ、老にきと汝はしらじな女郞花さがなくて目に露ぞこぼるゝ素外一鸚鵡返し哥の事古今著聞ニ、櫻町中納言成範、國際ドり召かへされて內裡へ參りたりけるに、元在し時とはやうかはりければ、女房のうちよりむかしをおもひて、雲のうへはありしむかしにかはらねど見し玉だれの內やゆかしき、と書て出したりけるを、返事せんとて灯籠の際に立寄けるに、小松内府參り給ひければ急ぎ立退くとて、灯籠の火のかきあげ木のはしにて、や文字をけちて、ぞもじにかきて、翠簾の內へさし入て出られけり。愚云、此哥の事は、あふむ小町と云謠ものに作りしより、世に小町と誤り傳へたる歟。成範の歌なる事は右著聞集を以證とすべし。されど晋子が雜談集ニも出せし如く、謠は誹諧の源氏也とて其頃專ら取用ひて、古人も謠取の發句多し。謠によりてせば小町の事にもすべき歟。いづれ時のよろしきにしたがふべし。又八雲御抄鸚鵡がへしと云は、本哥の心詞をかへずして同事をいへる也。むかし今多けれども皆させる事なければ、集などに入たるはすくなし。後一條院春日行幸に上東門院そひて奉りたりけるを見て、法成寺入道、そのかみや祈り置けむ春日野の同じ道にも尋ねゆくか六三玉雜藻古今著聞ニ、
六一御堂關白、白き犬を愛し飼せ給ひけるが、其頃法成寺へ日〓御參詣有しに、或日その犬御先にふたがり又吼廻りて、御車より下りさせ給へば、御裾をくはえ引留め申さんとす。いかさまやうある事ならんと、晴明を召て占はせ給ひければ、是は君を呪咀し奉るものを道に埋てい也と。その所を占ひ堀せたりければ、土器を二ツ合せ、黄なる帋捻にて十文字にからげたり。開き見れば、中にはものもなくて、朱砂にて一文字を書たるばかり也。是堀川左大臣顯光公の語を得て、道摩法師一道滿がせしと申事あらはれければ、道摩は本國播磨へ追下されけり。犬はいよ〓〓不便がらせ給ひけるとなな一參州碧海郡兩和田村大頭大尾の社は、天正年中領主宇津左衞門五郞忠茂、獵に出て一樹の陰に睡眠せし時、手飼の白犬裾をくはへて引に目を覺せしが、又眠れば犬しきりにほゆる。よて其妨をいかり、腰刀をぬいて犬の首をきれば、飛で樹上の蚶蛇の頭にくひ付。忠茂是を見て大に驚き、蛤蛇を殺し、扨彼犬の忠情を感じ、頭な。上東門院かへし、曇りなき世の光りにやかすが野の同じ道にもたづねゆくらん。か樣にかはらぬをいふ也。一犬に信ある事述異記ニ、陸机が飼し黃耳と云獵犬あ60机、洛に在る時戲れに云、我〓の家に大事出來ぬ、書を持て行むや否や。大、尾をたれ聲をなしてこれに應ず。机書を竹筒にして犬の頭に繫ぐ。大、驛路に出て机が〓の家に至る。人、筒を開きて書を見畢れば、犬聲をなして荅を求る所有が如し。人、荅を筒に入て又犬の頭につなぐ。犬出馳て洛に歸る。後死せし時、机、弃るに忍びず、家に囘つて殯し、呼て黃耳塚とす。一晋の大和中揚生、犬を飼て甚愛す。ある日大澤の邊に行て草中に醉臥す。折ふし野火起て其上風烈し。犬驚きほゆれども生更に起ず。火次第生が方へ近づく。犬これを見て、前に有一坑水へ走つて身をひたし、生が左右の草にそゝぐ。かくせしによつて、草ぬれて火きえたり。生其後目さめ、犬の忠情により火の難にまぬかれし事をしれり。尾を埋て祭之。冷まじな難に一犬虚は吠ず素外一小田原町魚問屋に、誹名東爲とて廣く知れし男ありしが、其家內猫を愛す事他にこえたり。ある夜然賊入て伺ひめぐるを、其猫見つけてしきりに啼さはぎ、後は飛付などせしかば、家內音に驚き追〓〓に起出けるに、賊は早〓逃失たり。夫より已來は又格別に愛せしとぞ。右に出す犬は、性陽物にして飼るゝ人を知り、又因緣有てや伊勢參宮する時抔時〓有。夫とは違ひ猫は陰獸にて、年旧く成ては妖怪をなすもの也。されど東爲が猫の如き、主恩を知り賊を追退けしを見ては、人として報恩の情なきは禽獸にも劣るべし。是予が若かりし時也。一猿丸ねこま宇治拾遺ニ、美作の國に中さんかうやと申神おはします。かうやはくちなは、中さむは猿丸にてぞ有ける。その神年每の祭りに必人の娘を生贄に取けるを、吾妻の方の狩好む武者、はからず爰に來りて猿丸を從へ、生贄を止めし事有。畧文但猿丸とは猿の事也。又猫をねこまといふ事、徂來成べしニも、ねこはねこまの略、こまといふもねこまの略言也と書れたり。因みに云、猿丸太夫は百人一首其外の抄物にも官·姓·時代等知れず。鴨長明方丈記ニ云、近江國出上に猿丸太夫が旧跡有之と云。又、丸は人の名に何丸·角丸と云は、是諸王抔にある事也。大夫は從五位に成給ふ時に付る也。其名を後迄もよべりと云。又平家物語ニ猫間中納言光高卿といふ有。木曾殿出會の時名をおかしがり(二·〓、猫殿〓〓と嘲勞せられし也。この猫間殿と申も所謂有けなる御名也。猶尋ね見るべし。一惠心僧都の妹安養尼のもとへ强盗入て、物どもみな取て出にければ、尼うへは紙ふすまと云ものを引着ておはしけるに、姊なる尼のもとに小尼君ありけるが走り參りて見ければ、かの賊小袖一ツ取落し行けるを、尼前の前へ持て出られければ、尼の給ふやう、是も取て後は盜人我ものとこそ思ひつらめ、いまだ遠くは行まじ、持ておはしましてとらせ給へとあるに、小尼君やゝと呼かへし、これ落されたるまゝ參らせんといひければ、盜人共立留り、暫し案じたるけしきにて、あしく參り六五
六六ぼりしが、明りに驚き、糊入をおとし、逃うせたり。其智の工みなる事は、腰居が釜にも勝りなむと覺えし。又其後或客の語りしは、陶器に入し油を鼠の甞るには、其口より尾の屆くだけさし込、己が口にてしごきのむとぞ。一袋草紙ニ、元慶は大山の別當也。筑紫にて杜鵑を詠ず。我宿の垣根な過そほとゝぎすいづれの里もおなじうの花其後上洛の時、山崎邊にて下女の臼唄に唱之。元慶是を聞て淚を拭ふと云〓。又良暹が歌也とも云。又俊成卿の哥ニ、世の中はうき身にそへる影なれや思ひすつれどはなれざりけり此哥を鏡のくゞつどもの神哥にうたひければ、至りにいたりける哉とていみじう悅び給ふとなむ。其頃永緣僧正此事を聞てうらやみ、我よみたる聞たびに珍らしければほとゝぎすいつも初音のこゝちこそすれ、の哥を、琵琶法師どもに物とらせ、爰かしこにて諷はせにけりとて、取たる物共を返し置て歸りけるとなむ。盜泉もすめば凉しし性は水素外一昔賤しきものゝ釜失たりけるを、隣の腰居が盜みたりといひつぎ有て、雜物を搜し取出したりけるに、其もの申けるは、手を以てこそゐざりあるきいへ、手をはなれてはいかで歟取侍るべき、他人ぞ盜み置て侍らんと陳ず。其義なきにしもあらねば相論はかゆかざりしを、檢非違使謀をめぐらし、腰居が申所不便也、此釜は汝にとらすべしと仰有ければ大に悅び、頭に打かづき居ざり出けるを見て、かたわの身なれど扨は斯して盜てけるよなとさとりて、科に行はれけるとぞ。愚云、是は又よそとせばかり以前なりしが、草庵の几上に竹細工の小さき糊入を置しに、いつの頃より歟見えず。其後掃除せし時額のうしろより出たり。極めて鼠賊の業成べきが、いかゞして鴨居の上へ引たりけむ、ためし見んと思ひて、又のりを入、居間の灯を消をくに、亥過る頃こと〓〓と音す。よて帋燭して是を見るに、己が尾にて彼糊入を卷、しかと腹に押當、柱を摺ての系大書俳本日ければ、時の人有がたきすき人となむいひける。又敦賴入道も是を浦山しくや思ひけむ、物はとらせずして我よみし哥を目くらどもに、うたへ〓〓とせめうたはせて世の人に笑はれけるとぞ。蛙等がうたふはむかし誰が哥素外一播磨の盤珪禪師は元祿の頃の人なり。法德世に聞え高く、よつて信仰の僧俗夥し。遷化後勅して大法正眼國師と謚す。將禪師、佛道善導きの便に、うす挽哥廿一首をよむ。今印行して世に行はる。爰に其一二を載す。生れ來りしいにしへとへば何もおもはぬこのこゝろ希妙不思儀は一ツもないぞしらにや此世が皆ふしぎ惡をきらへば善しやと思ふ嫌ふ心があくじやもの又誹句有、草よ木よ汝にしめすけさのつゆ一丹波栢原の捨、右同じ頃にて哥をよみ、又誹諧に名をしらる。いざ摘む若菜もらすな籠の內花をやるさくらや夢のうき世もの後に右禪師の弟子と成、貞閑禪尼と号す。一伊勢音頭、むかしの作者は大体誹諧師にて、發端は時の名高き發句にて書出せし也。就中梅路が作多き歟。虛つきに煎じて呑せ天の河とうたひしは加賀の珈原が句也。是は千代と同時代の女にてよき句有。いせ古市中の地藏にては、盆中は勿論、常も客あれば傀儡等うたひつれて踊る。今も音頭に名ある作者ありや知ず。一梅路、はじめは伊勢川崎といふ處の魚商人にて、日エ夫を荷ひて市中にひさぐ。或日皮くじらを商ふに、土地の風俗とて秤にかけゝれば、買人何ほどありやと問に、霞の中に二〆五百匁。白きに黑き筋ある其見樣体を以答えすみやか也。次第に人用ひて點者となし、後には古老のもの、守武の蕃号をもゆるせし歟、神風館と成、奇作妙句、其頃南北に普く知らる。ひとゝせ加賀に旅せしころ、金澤にてはじめての會に、前句磯邊の体出たる所、梅路が一順に當りければ、いかなる句をやいひ出すと一座息を呑て待居たるに、案じ入けしきもなくて、うつむけてと五文字を出す。先ヅおかしかりき。大七
六八やつれたるをおかしがりて、三千沙界一圃團、何ぞ旅寐の寒かりしやと問れければ、三千沙界悉破〓團也と荅えしを禪師打笑ひ給ひ、いふ事は禪に似たれど唯菩提心のなからん風人は、深山の猿に似たりとあれば、我もいふ事の侍りしが、實さる事ぞと思ひし。扨夫より加賀の國にうつり、大乘寺の夏に籠りけるに、當寺の和尙師の一棒を受、脫身の工夫に入て長崎の東明寺に安居せられし時、放參の日老たる尼の茶話ニ、籠耳はいつも初音ぞ時鳥と云句を語りけるを和尙餘所ながら聞て、はじめて胸中の疑團氷の消るが如く、おのれ此句をむかし聞かば禪師の欺きにはあはざりしものをと、皆〓に垂示し給ひし也。葛鼠思ふ、我安禪の室に入といへども菩提心はなく、只彼風雅の一場なりしかば法の事は覺えず。こは諧語なれば耳にとまりて、誠に尊き垂示とぞ成ぬ。愚云、右ニ出す初音の僧正の和哥、これも脫心の場やこめられけむ、此籠耳の句と、いはゞ同意同案成べし。ほとゝぎす又なけ耳は無門關素外うつむけて舟の休みかほしてある梅路又後會の時前句、剃氣はあれど咳氣して居とあるに、おかしやな捨たいものを盗まれて句案いづれも屈せず、かろ〓〓としてしかも作意深し。但此五文字、其頃つき放す詞といひしよし。夫よりして金澤の誹諧二ツにわかれ、なかばは梅路を信じていせの風調と成。又是は程經て後涼侍が集ニ、酒のめど十日の菊も淋しうて卷つきさうな文が來てゐる梅路天狗には寺中殘らずおどされて使者一通り〓盛といふ寐ものがたりは灯がきえてから米櫃へあづかる鎧いれて見て此作者右に云如くなれば文字の事に疎かりしかども、自然に得る所の滑稽なるべし。一吸露菴凉〓、其先野坡門にありし時は誹号葛鼠。一たび釋門に入し頃の紀行霜の袂ニ、越の久保田白馬寺にやどる。此禪師、法の中にも文を好み給ひければ、風雅に梅路とあるに、梅路素外葛鼠、誹諧の修行は野坡沒後洛の百川門、漢書人也。後いせ風と成誹謗は支考が進めに隨ひ、發句は加賀に旅して希因に學び、附句は伊勢に行て梅路を師とす。但北國に在し頃は都因と号し、後淺草に吸露庵をむすび、風神を據として凉常と改む。是己が壯年の頃の師也。常子、中頃〓家と成て誹諧を怠り、高貴の命を蒙り崎陽に赴き、山水の法を費漢源に得、花鳥の意を熊斐に取て其道にも熟せり。最初野坡門たりし時師弟の發句、竹に來て猶脚早きしぐれ哉野坡一ニ我や桂男からかさのかつら男やほとゝぎす、晝の蚊の夢や一筋いもの蔓葛鼠むら〓〓は茶色にかすむ小春哉加州金澤にありし頃是亦同じく、春たつやつらゝの鉾のしづくより希因名月や風さへ見えて花すゝき浦の春千鳥も飛ず明にけり都因海を出てぬれぬ月日やさ月雨淺草の庵成たる事を諸〓へ申觸るとて、笠ほどな庵とおもへ初しぐれ凉侍斯てより遠近の門人つどひ寄つゝ、誹と〓をもて世に鳴し也。ひらけてより凉し袋の風の聲素外兎角して其後居を神田に轉じ益行はれしを、知命に及ぶ頃思ふ所有て誹諧の唱えを止め、古事記に寄て片歌の名目を起し、是亦一家をなせし也。又云、凉〓、性旅を好むの僻有。よて其已來も諸〓に曳杖し、將洛に登りし時、やどなき方より片歌ニつきて有がたき御墨附を下され、風流の上の規模とせしが、沒後其妻彼御書を愚に讓らん事を申送る。我傳へをも受ずして、得べきやうなければ固辭せし也。右の御書今何方に傳りし歟。野、葛坡鼠玉藻希因一之卷畢都因六ル
お 系大書俳本日凡人壯年の時は、嚴寒をいとはずして極暑を苦しむもの歟。今おのれ耄近きに及びて苦樂大に反し、冬は寒夜に寐覺して時告る鐘の聲遲に倦、夏は心のびやかに臥て短夜の鷄の音明早きを悅ぶ。よて夙に起出て前栽のみづ〓〓しき木草を愛し、晝は風のたよりよき處に座して炎熱を凌ぐ。扨夕影となれば、或日は田圃の眺めある亭に招かれ、又は河邊に誘はれ出て風景に暮るを知ず。かく有がたくも思ふ儘に老を養ふ物から、みづから三夏の題をまうけて發句す。爰に日〓草菴に訪寄門人、右の題に傚ひて追〓これをよめり。此事貴家にも聞召て、何だけれがしの君よりも同じ題の玉章を贈り給ふ。女素塵、其吟の紛れちらむ事をおもひ、ひとつ稿に書とゞめしを、たれかれ進めて印行すと〓るに、ともかくも衆人に隨ふべしとうち任せやりぬ。誹諧夏三月題第卯月の木卓○卵の花 漢名水晶花又白〓花の說有。猶識者に寄て問べし〓花うつ木〓雪見艸〓卯の花月夜兆の泊きが月る也3に以た〓うの花くたし降四五月の雨を云、とばかりは當流降物に非ず但くたし○牡丹〓廿日草〓深見草〓鎧ぐさ0名取草〓富貴草〓花の王是は今櫻花をいへば、旬作おくし心得し○○若若これかきつばたに非ずといいにしべより通用也。顏吉花漢名燕子花皐月の田畑○早苗0早乙女○田植o田植唄○瓜井ニ花。眞桑瓜林湖甜瓜は昔みのゝ國眞桑村より〓白瓜〓胡瓜〓冬瓜今江백依て今も夫を名によぶと也戶に于色赤くて別種也てかも瓜といふは○ほし瓜此外瓜數種あり、今取扱ふのみを出す。○茄千井ニ花漢名崑崙瓜 鳴燒辛茄あへ等美那津幾川○涼し〓露涼し〓納涼〓同船○川狩〓繩〓四手綱〓持綱月又さみだれをよみ合せし哥有。いにしへは卅○形代〓撫物。川社曰こかきらざる歟。今め賀茂のみたし詣は、十九曰より丗日迄也。と。糺すゞみも其日數の內也これ御秡也〓あらにこ秡〓夕秡〓御秡〓名越の秡るゆへかく申と也邪神をはらひなごむ〓はらひくさ。菅ぬき。茅輪〓麻の葉流し第二第三一陽井老人述文化八辛未林鐘鷄啼や卯の花垣のはやしらみうの花や霜夜を思ふ神樂笛はつきりと卯の花白し雨もよひ卯の花やからたち垣も花さけど卯の花の波に兎や岨のみち蚊くひ鳥卯の花のゆきに烏とも卯の花の露重げ也梅雨近くうの花やまだ綿ぬかぬ老が衣うの花や木の間こぼるゝ月の色卯の花やきのふと同じ時あかりうの花やまだ咲さかぬ宵月夜うの花や朝茶のいろは猶黃ばみ暗き夜の垣のしをりや花うつ木うの花や月なき夜にも垣朧うのはなや山には雪のなき時節卯の花や月なき宵もかつら影卯の花にしらぬ浪よる垣根哉うの華や卯月に寒きはなの色混合卯の花の雪や日なたが積はじめ七一凉山蒼洲素玉素德素隣霞外其葉素翠玉翠仙鳬玉英一秀素蓬靜雨輝月些山女連車春裡誹諧奈都美津起一之卷卯月の木草卯の花卯の花の山路やこれも銀世界さくらから續くや雪の花卯木卯の花はむく起の目に寒さ哉卯の花や淡きは詠め倦ぬものうのはなや雪の垣根と咲かくし卯の花や垣にすゞしく見せる雪卯の花のいよ〓〓白しやつれ垣おぼろ夜のうつりや花のうつ木垣卯の花やあからむ麥の畑境卯の花や徑によりし德もあり卯の花や人なら下戶といはむ色うの花や綿ぬく頃にわたの色卯の花も解る歟と見る夜は朧卯の花や靑葉まじりのはだれ雪卯の花を雪と散すやむら雀錦車錦交女冬央龜幸茶瓜、升來完顏處理素麿時麿如水理外左人龜榮龜龍吳竜玉池雜藻素行
雜うの花卯の花やまだ田植女も色白うの花や驛からわかる道しるべうの花の垣やからすの猶黑みたらしや岸のうの花影うのはなや佛は黑き茶の卯の花の雪や月の夜なく鳥卯の花のちるやひよこのあさる庭うの花を曆や貢ぐ氷のはじ卯の花の雪折ならむ畫靜かにうの花見るや闇の夜や卯の花ひと木卯の花やまだ片言のほとゝぎす衣ほす香具山もかくや花うつぎ卯の花や枝道は温泉の箱根や卯の花やさらし干てふ里の卯の花や雨に書をよむ窻明卯の花や枸杞とうこぎうのはなやしのび車は闇の色凉し卯の花月夜卅小野照崎を月に笛崩間垣を〓產れのの兩日にもききき湯はめ垣宿窻越垣り隣方見に人も來るや十日の廿日牡丹哉香もものゝふの花荷ふたり牡丹は富つゝも奢ら ぬ夕日遲き牡丹や大白の牡丹や目だつ虫ひ白牡丹この庭きりの月夜大粒な音やぼたむの雨障返禮歟牡丹に招く菊つ牡丹今さくや郭ぼたむかな獸の中の獅子も福やかにさくや牡丹のはなの笑み見物も狂ふさまあり花ぼたむ八重牡丹露の白きに又ひと〓きうへにたくましき花や白牡丹牡丹にはむらさき幕や樹屋が庭唐織にさくや能ある庭牡立廿日草添せたしな富貴にも奢らぬさまや牡富花花凞がとやの丹貴白不筆に白のき牡老とかくは緋牡草勇を丹門つな子り爰王ヘ丹袴丹草升連輝素霞春些山女玉素其龜蒼一龜凉吳左素龜裡車月蓬秀翠隣葉外龍榮洲山龍人麿幸仙分意雨龜素素女花花都奴雅素寬奇候得共素沾斗百五言里香外簾流周轉丸外牧峰之外紫溟我蝶外來花色も花形も豊の牡丹富は曇りたりおのれははれし白牡丹卯の花の雪やうぐひす谷ごゝろうの花やゆきの垣穗に虻のうの花や卯の花や誰いはずとも夏のゆき月の兎雪のうさぎやはなうつ木くれ殘る畑の境やはなうつうの花のしまきおろしや箱根山卯のはなや長百姓の外が卯の花や妹が垣根にうのはなや藏も白壁なら卯の花や月にさまよ卯の花や卯のはなや人は淨衣屋牡うの花や水に積れる雪卯の花や卯月の不盡のふもと道うの花を幣の手むけやを潤してさく牡 丹丹其雪の夜を沓手さ らふ城の麓のや田歟の道かな哉聲鳥ぎまヘ白しぬ里道舍もと垣しき瀧詣祖神七二植て見たし金一升の地大兵にさくや牡丹は花のぼたむかな人のさかりも十九廿植し鉢もこれ南京の花の花びらの邯鄲の夢田樂で見る花ならずふうき奇花珍花げにや富貴の名取風いれの頃に又さけよろひぐさ色に香にすがたに愛もふかみ艸照す燈に宵闇はなしはつ廿日ぐさ荅むや握るその日いさましな治世にも武の名とり艸さきにけり花を兜によろひぐさ混花無果實名取艸鎧源氏家合王草耳たぶ厚しをや蝶も富貴に富七三牡丹關王艸貴草ぐさ草草か數王艸草さ草數右素寬素冬錦錦蘭浪花千在調雀岩槻木義社白素壷烏米花素舊理如(遞慶)、外水素時靜玉仙素文賀女外牧之翠德麿雨英鳬玉央女車陂朝泉布郞英粒來英粒外孝粒慶綾香
藻雜玉白かねに黃がねの蝶やふうき中たつぷりと咲たり花の富貴白に紅ににしき重ねつ富其庭も屋はもとより富奥庭の猶うるはしやふうきぐさ目にたのしく耳にも果報富貴草人ならばこや寬活の名取稚子もむさと摑まず名とり草力こぶしつぼみに見せつ名とり草醉臥て見るは似げなし名取ものゝふにまづきて見よ歟鎧ぐさ五日めの風も通さじょろひぐさ和らぎし世や花の名によろひ草緋おどしの武者ぶりゆゝし鎧草さくまでのその丹誠や深見蝶は見えかくれつはなのふかみ艸客繁し後の十日のふかみほの笑むは朔日頃歟はつか俤のかはらで愛つはつかぐ角力なら十日でちるをはつか草貴貴草艸草草草草草草さ公時が笑顔もかくや紅ぼたん牡丹かな寐轉て見る花な往つ來つ牡丹に戯る蝶ふた暮るまで身じろぎもせず花牡丹世わたりに賣歩かぬぞ花牡獅子口にいけても見たき牡丹かな巖石にまけぬ牡丹のさかりありとても上見ぬ花の牡咲けらし大腹中にはな傾城も傾むかせたる牡丹牡丹今ぞ莟むたからの福耳のあれや牡丹のあるじかも花は富めど莖は驕らぬ牡丹ぼたむ哉体ゆたかなる花のさま牡丹なれや花びらにきく雨の音花壇出來し寺も福地の牡丹夏來ても春の衣紋やはな牡さくや牡丹威有ておもき花一輪座敷出來て新分限者も庭牡祈願所は庭もめでたき牡丹ぼ珠のらず丹たかつ丹哉哉むな形哉哉丹丹哉蘭賀女規女曉社時雨素春素沾意信託與素言素斗從有白米遙兒重柳外外溟一市英外外瓜粒外瀨外紫外女爲金逸都奴雅烏百世千素蘭在秋龜五千舊分素素糸外馬孝我有義朝登陂泉策流蝶來香香久綾蘭取筆太ぞよけれ牡丹の銘の夏來ては一睡猫のいよ〓〓くろし白ぼた琴唄や庭も牡丹の富貴自五日の風十日の雨後や廿日繫げ牡丹に猫も花拜見といふべき花や花深う蝶おどろかぬぼ一りんの花はきよせし牡丹かなもらすなよ露もぼたむの活ぬるも廿日はもたむ花ぼたむ富貴地にあり〓〓と咲や花牡丹德ぞ牡丹花に狼籍ものはなし葉がくれにありあけ月や白牡丹釣臺をおも〓〓鉢の牡丹か庭牡丹かの白かねの猫もが牡丹いつかゆるしの色も稀獅子を飼て見たし牡丹の眞さかりあるが中に花の品まで白牡玉ならば夜光歟闇の白牡華當千の牡(附)庭ぼたに丹たむ草札駒哉む在ん哉掌ななに咲丹丹七四萬歲も鍬とるころやかきつばた影を繪とゆく水に數やかきつばた咲ばえや築山裾濃かきつばた濁りなし水はともあれ杜泥中に貴きいろやかきつ飛石の爰に有たしかきつばた貴妃は又君を愛し歟はなの大雨頻りかねて覆ひを花優美なり肖柏が牛も花の形も大黑頭花を見る蛙のつらやかきつばた折事はゆるさぬいろや燕子泥中の玉や根に持かきつばたおのづからむらさきも江戶の杜若絞りより紫白位はあり杜若辨天の手染歟池のかきつばた杜瑠璃燈に夜のにしきや富ふうき草このひとひらは銀盞歟この花に雅俗はあらじふうきぐさ若富巾ふうきばの貴貴七五花若た王王艸草草素錦龜左航次大龜升玄武天如家庭院龜冬龍榮人水麿來幸央車常府中素夷昌素素調五外布柳外周逸舟宜素常存中鎌倉英素五雀素木田義素規壷左廉花花壽曉花秀弟珠外計郞塵英社粒粒外外簾富外慶溟柳丸
雜池獅子鼻の僕やはなさく牡丹鷺下りてけしきを添つ杜手入まで富てとゞきし牡丹かなうのはなや入ても三日の薄月夜宗鑑に似ぬぞや似ぬぞかほよ花外こゝろ守宮やまもるやかほよ花むらさきのはえつ帽子の顔よ花影水にかほよ花ぞやすきかほよ花の鏡や池に月のあ花に葉を松かさねとも顏吉業平のむかしぞおもふ兒よばなむらさきは江戶にのみかはかほよ花江戶自慢色に見えけりかほよ花杜追加かきつばた花も蜘手に咲にけりかきつばた暮ち見よとや花しろし若かきつばた咲せつ庭の池之日はいまだ朝むらさきの燕子花混咲てぞ雜人を誘ふ若額さ花水坊八橋や在五の君もかほよどう見てもおのこにあらず兒よ花水鏡見るほどあるぞ顏よ中に江戶を都の色やかきつばた似たりとはあやめ贔負歟杜若かきつばた〓工みも筆に限りあり春夏を水にへだてつかきつばたゆく水も色は奪はずかきつばた梅は匂ひこの花は色やかきつばたかれいひに水も旬也かきつばた杜若蟬やもぬけのからころも田舟うけて蜘手にこぐや杜若和らかに淀むながれやかきつばたきのふまで馬洗ひしかかきつばたいろ風情をんな形なり顏あふたりな京の水にもかきつばたにくまるゝ色目にすゞし杜若つばくらも白きは稀ぞ燕子花混顏吉花合よば花な花守素琴志女素世從夷素遙春社時雨素昌右左仙素外義一逸塵瀨瓜行舟外簾里登奇素霞素理靜春連輝仙其凉吳些山女素一玉蒼雨裡車月蓬秀英鳬葉洲山龍兆峰翠外玉外見ればこゝろ動く流れや顏よ花其寒さうの花月夜ゆき歟とも紅白金屏の杜若溫泉しきと憎みし歟又同書に、と同書に、深見草はほこりかに美くしうの花や鄙びし垣に愛相も書しが、鬼貫獨言に、の極色も目だつ彩や今年は、杜若を洩せしは仇〓〓色涌山にわかや雪と見て寒からずとさ くや富牡ぬ貴丹沼艸の柵みも土橋もはえつかきつばた色に愛て魚も躍ろ歟杜若さくや世に出しむかし杭折かねつ蛭が游ぐてかきつばた殺生も禁斷の札やかきつゆく水のなりにかたちや燕子花庭にあらば八ッはしかけむ杜若一二りん飛はつばめぞかきつばたぬしありと聞沼ながらかきつばた水くさ生し池に一際かきつばたかきつばたさくや昨夜の雨の池年月の古池〓しかきつさくや濃く江戶の色なる杜すむ水に足の跡ありかきつばた蔓草の花ならねどもかきつばた時なれや夏日は池にかきつばた朝起は氣のまめ男かきつ道で咲そゆるや豆蟹の穴から見るやかきつばた中にしろきや土產の鷺杜杜ば杜ばたばの七六若若た若た若友じら丹沼艸の女壽爲秋簾英五田社素五有素賀金宜素逸千素雨素、藩、外山溟有策富珠計社來弟柳市久重馬秀外外來轉簾
七八家隆卿稚くて、霜月に霜の降こそ道理なれなど十月に十の降ぬぞ、とよみ侍るに、後鳥羽院、重寶に成べき物とて御感有し也と。一吉野拾遺ニ、春來ニ品物都ヲ靑藤親房卿十歲の時の詩ニ、容。木母花開テ香正濃ナリ。今日大平三洞旦。家〓醉賞更ニ飛鍾ヲ。此句を御覽じて、上古の名士にも劣るまじと勅賞、誠に有難う思ひ暮し侍りしか。下略木母に因みて云、湖海新聞ニ梅を木母と名付と有。又角田川梅若の塚ある寺を木母寺と号す。又云、昔は梅と栂連じけるにや、嵯峨集ニ、雪村、諱名は友梅、栂尾ニ至て此山の名は我がいみ名の字也と。又栂の事、關西にてトガ、關東にてツガと云り。一伊勢山田乙由は、歲ゆかざる頃より誹諧を好みしが、桃靑杖を曳し時、席へ出し連衆其よしを申に、翁、發句有やと問へば、臆する体もなくて、結搆な日をなきくらすかはづかな乙由桃靑自然の誹才を感じて、成人せば適の作者成べしと賞せしよし。はたして後麥林の名を諸國へ響かせ、江玉池雜藻ニ一陽井素外誌一供都子ヲ昔天智天皇の御時、近江國高島に三夫婦揃て長壽の民あり。此事叡聞に達しければ、帝行幸ありて常に食するものを尋させ給ふに、此むかふの隱岐の島に指 可以ある所の郁子と申菓を取てくらひしよしを奏す。左あらばこののち年〓夫を取て奉るべき旨勅有けるにより、今に至るといへども絕ず、十一月朔日に献ずるとぞ。愚云、當時は又江戶巢鴨邊の樹肆、爰かしこに有。其枝は常盤蔦の如き蔓物にて小白花を開き、實は烏瓜に似て色紫紅、味ひ酸甘し。又貴家にも有て己にも給はりし也。一菅家幼き時よませ給ふ御歌、梅のはなべにの色にも似たる哉あこが顏にもつくべかりける。一休禪師の書るものに御阿古女郞と有。是は御中居と云に同じと、一時軒が續無名抄ニ出。一〓巖茶話ニ、上手になるものは、はじめから見ゆるなり。戶の柳居·加賀の希因も此門に遊びし也。木は勿論名の草の部も芽出しから素外麥林、ある時古市の芝居へ行しに、隣の棧敷に所の遊女客に添て來たりしを、相しれる女故物いひ、盃など取かはせしが、其翌日も社中に誘はれ、又見物にゆきけるに、きのふの遊女、向ふ棧敷にありて禿に菓子持せ、けふは遠く隔たりぬるよし申おこせしかば、其禿が腰帶を解て、うき艸やけふはあちらの岸にさく麥林と書て遣しける。彼誘ふ水あらばの古哥に寄て、うかれ女へ贈れる詞にはよしあるうへ、時にとりておかしく、兩棧敷の客卽事の活作に感ぜしとぞ。其頃殊に世に聞えし句は、よいものをわらひ出しけり山ざくら麥林かんこ鳥我も寂しい歟飛でゆく鹿の聲こゝろに角はなかりけり祖父祖母の京にも多き十夜かな又、肌寒きはじめや星の別れよりと云句は、歌人眞淵翁も〓との外感心のよし、時〓申出されしと凉〓師の話也。( )一書狀、百文〓規ニ出。一口上、臨齋錄ニ出。一口狀、〓輔袋草紙ニ出。愚云、狀は陳也と有て、のぶるともよむなれば、書狀は事〓を書のべ、口狀は物〓をいひのぶる歟。又口上は下より上へ申をいふにや。通例には口狀よろしかるべし。一嵯峨帝、或時、一ッ伏"三〓仰不來待書暗降雨戀筒寢と書せたまひて、小野篁にこれをよめとのたまひければ、月夜には來ぬ人またるかきくらし雨もふらなむ戀つゝも寐む此歌古今集には、よみ人しらずとして、わびつゝもねんと出たり。一菅神御作の詩ニ、東行西行雲渺〓。二月三月日遲〓。と有を、或者北野の寶殿に詣て詠じける其夜の夢に、やんどなき人仰られけるは、とざまゆきかうざまにゆくくもはる〓〓。きさらぎやよひ日うら〓〓。とよむべしと覺えて夢さめたり。定めて天神にてましませる成べし。此とざまかうざまニ說〓有。夫が中ニ、とゆ七九よみ人しらずとして、わびつゝもね麥林
八〇ひ故爰に双べ出す也。誹諧には其角が發句ニ、乾ャ兌次震離〓良坤巽この脇書ニ、空や秋水ゆりはなす山おろしと御よみ候へ。下の字自然にまいりいこそ彌三五郞にてい。一文學上人、高雄興隆の頃其邊見めぐり給ひしに、〓瀧川の上に猿二三疋在けるが、一ッの猿、岩の上に仰向に臥たり。其處へ烏の飛來りて、其猿死たると思ひ歟あちこちをつゝき、目をくじらんとする時、猿かれが足を取て起上りけり。其時外の猿長き蔓を持來りて烏の足につけ、水に投入、一疋の猿かづらを捕へ居れば、二疋は川上より魚をかけるさま也。是人の鵜つかひけるを見て、魚を取んとてしけるにや。されど其益なく烏終に死ければ、打捨て猿共は山へ入にけり。ふしぎなる事をまのあたり見しとて、上人語り給ひしとぞ。まねぬ事をしらざるや寄て鵜の呵嘖素外一上野國烏川にて、鵜のまねする烏といふ事を宗祇法師歌っ、取も得ぬ魚のこゝろも耻もせでうのまねしたるかきかく行と心得てよき歟。今昔物語師一堀川院の御時五月五日江師、菖蒲を奉りたりける狀ニ、進上水邊菖蒲千年五月五日大江爲武此狀よむ人なかりけるに、師賴卿案じ得てよみ侍りける。乾ャ兌次たてまつり上るかはべのあやめ草千とせのさ月いつかたえせむ一或所に佛事有しを、唐人二人來て聽聞したるが、うちならしに八葉の蓮を中にして孔雀を左右に鑄付たりけるを見て、一人の唐人、捨身惜花思といひけるを、今一人が聞て打うなづきて、打不立有鳥といひけり。聞人其こゝろを知ず。或人のどかに案じつらねければ連歌にて侍りける。身を捨て花ををしとや思ふらんうてどもたゝぬ鳥の有けり此連哥、つくば集〓は附句を前句に付替て出たり。愚思ふ所あれどしるさず、重て述べし。右二ヶ条は古今著聞ニ出、わけて始の哥は諸書ニ載て人口にあれど、同じ類らす川哉又、乙卯春歲旦の發句に、愚はこれを反して、鵜はまねもならじ今朝はつがらす素外一引雀引鴨當流通俗志二月の部ニ出。又花實年浪草"、引崔の聲によろづ代契るらし御代も長尾の浦ののどけき右集ニ、此哥の事椎本派の誹士に問しに、雀の聲を引事に荅しよしを云。愚も同流蒼狐門なるが、師說は左に非ず。歸鴈に續け引雀·引鴨と出すは、歸る鳥の事也。今も北越にて、春になれば引鴨を取んと、未明又黃昏に山或は屋の棟に登り、坂鳥網·起網抔いふか懸て是を獲とぞ。又三月に引殘雀と有は、二月に歸おくれし(前にチ)を云。又古麦紀"控鳥と云事有。是は日子遲神歌ニ、上略寐床屋妹命群吾行控いとこやの。いものみこと。むら鳥の。われいなばひけ鳥吾行不泣とりのわがひけいなば。なかじとは下略ひけ鳥を、むれいなばの枕詞によめる也。一三千風和漢田鳥集、西行法師歌ニ、こゝろなき身にもあはれはしられけり鴫立澤の秋の夕ぐれ。說ニ、此哥鴫に非ず、死木にて卒都婆也と。又四木·四儀、或は神木也といひふらせど、いづれの古書に有ともしらず。大かた歌道の僻案成べし。ゆめ〓〓信用すまじき也。鳥の鴫第一の證據には、和哥所雅章卿、彌生の頃此所へ御立寄にて、哀れさは秋ならねどもしられけり鴫立澤のむかしたづねて此哥、御眞筆の短冊に鴫の字にて、所も此所に定まりし也。又說、此心なしとよまれしは、賤·山がつの心なきにも非ず、卑下の心なきにも非ず、何鳥にてもふと飛立て、無念の念·無心の心を誘し出したる當意卽妙が肝要成べし。愚云、此御歌につき冷泉家にてよみ給ひしとの說もあれど、右田鳥集は印本にて世人も知る所なれば、證なき事はしるしがたき歟。又碑を此澤に建し時よめる哥ニ、哀れしれむかしの秋のそれならで鳴立澤に殘す我名を三千風此外鴫の哥、右集にのすれど、此所にてよみしのみに스又、玉池雜藻右集にのすれど、
八二君哉、とよみて侍りしかば、遊女うち笑ひて、家を出る人とし見ればかりの宿に心とめなと思ふばかりぞ、と返しして、いそぎ內に伴ひ入侍りき。下略是は過し冬岩槻の門人、江戶に出てかへるさ雪にあひしが、草加の驛にてはや暮かゝりければ、旅舍りの女ばら、我がちに競ひとゞむるとて雨衣の袖引裂たり。されどいそぐ道成しかば、からうじて行こせしといひおこしぬるに、桐油の袖いとふまもこそあらざめれ雪のやどりを留女には素外一朔日頃の月源氏藤のうら葉の始めに四月朔日頃と書て、末に至て月はさし出たりと有。或書"是七日迄を朔日といひて宜しきよし故也と。又うき舟の卷にも朔日頃の夕月夜と有。愚云、朔は月立、晦は月隱也。月立頃の頃の字にて思へば、朔一日に限らざる歟。けふも見たり朔日頃の二日月蒼狐又、西行の哥、其きさらぎの望月の頃、とある其忌日を十五日·十六日の說あり。此歌は辭世といふにも非ず。も非る歟、依て略。春の吟鴨立てなきものは何よぶことり又、右同集ニ、古き屏風に有しを感じ覺えてと書て、西行のすがたは秋のゆふべかな梅翁し栗には晋子が實な秋はこの法師すがたのタド哉として、嵐雪·其角とならべて三夕の吟を出す。又此句先年短冊にて予が見しも、秋は此なれば、法師姿の方極めて再案なるべし。連哥これぞそれと鴨たつ澤の夕F哉宗因笈の灯の澤にちら〓〓鴫たちぬ蒼狐鳴もくれからすも暮て鷺つつくり素外眼に秋を湛える澤の夕ドかな夏日此あたりに旅して常にたつ鳥さへ麥にあきのくれ凉帝一西行法師、長月廿日餘り江口の里にて村しぐれのしければ、賤がふせ屋に立寄、晴間まつ雨やどりをかり侍りしに、あるじの遊女ゆるすけしき侍らざりしかば、世の中をいとふ迄こそかたからめ假のやどりををしむ系大書俳本日宗蒼素因狐外只其頃死なむものをとねがひよまれし歟ならんを、今槩十五日とする也。又薩摩曆を見るに、十四五六日の內に望の字をしるす。是大小によりて違へば也。併ながら撰集抄ニ跡を隱せし人を美れし文所〓に見ゆれば、西行も跡を隱されし故、日定まらざる歟ともいへり。一宗祇法師三十歲ばかりの時、猪苗代兼載に寄て連歌のゆ事を問給ひけるに、兼載云、惜い哉歲十ヶ年關たり。連哥は廿ヶ年の功を積ざれば至りがたし、歸られよと云。宗祇又云、然らば十年晝夜つとめなば廿年にあたらむ20兼載大に感じて、至道の器量也、我及ぶ所に非ずとて學びの道を傳へしと也。雜〓拾遺ニ出。又鬼貫獨言ニ、宗祇法師は連哥にて餘に双ぶ人もなしといへど、祇公一人の上には、今五とせ居給はゞ五年の功、十とせながらへたまはゞ十年の功も有つべき事にこそと。愚云、執行は祇公の勤功、又鬼貫が詞の如く成べし。己も年月其事を思へば、勿謂今日不學而有ヲ來日。勿謂今年不學而有リ來年。日月逝キヌ矣。歲不我延。嗚呼老タリアヤマリゾヤ矣。是誰カ之愆ヌ學、者速追テ漸ニノ成ル。一滴不シーズ止滿シ大器一。この語を二枚の聯とし、柱にかけたり。されど志のみにて書に暗く、今はた老にたれば、己があやまりを思ひツゝ日月を過すのみ。一耳底記ニ、物の注は宗祇のせしほどのはなし。短かくて、長く書たるよりはよく聞ゆる也。是ものによくたけたる故ぞ。又物の委しく成たるは宗牧より歟。人によく物ををしえたるものにて有しと也。又、宗長は古今傳授したれども、餘り念をも入なんだと也。我は連哥師にてこそあれ、道を傳へむよりは附味だによくばといひしと也。略文愚云、宗長法師は祇公門人の中にもわけてまめやかに、終焉の際迄も隨身し、駿州桃園に葬して其記を書す。右物に搆はれざりしとあるは、禪ニ不立文字といふが如く、道を相極めて上の一見識成べき歟。此人、元沼津の鍛冶が子なる事をいさゝかも隱さず、自分より物に書載し程の大器の人也と。又、宗養は連哥いかにも細かに有し也。もとめたるやうなる事は一圓なく、只荻の上風など云事也。夫が誠によい物が出たよ、是でなくばといふやうに有し也。愚云、先師、此宗養法八三玉池雜藻
八四一幽齋公へ、いり豆に靑海苔を付たる御菓子の出ける時、君が代は千世に八千代にさゞれ石の巖となりて苔のむす豆此豆と申一字をもて、ざれ哥となし給ひし。其御席別して此哥叶ひ侍る。御場所なれば人〓厚く感じ給ひけるとぞ。又いづれの歲の暮に歟、寄としの目にはさやかに見えねども豆の數にぞ驚かれぬる桃靑右は豆の字に因みて出す。次は寄としの心を双べて、ものゝふのやそぢも祝ふ御代なれやこゞまぬ腰の弓はお袋素外武家の母の年賀なれば、かくよみて贈りし也。夫、母たる人を袋に比らべ侍る事は、胎中に其子こもれる故也と、後宮名目に出侍るよし。又山崎垂加翁云、俗に人の母を袋と稱するは諸胞胎の義を取と。一或日紹巴茶に行しと聞給ひて、幽齋公、花香ある人をば御茶に呼るれどこちや又跡に殘る壺底。紹巴返し:殘るこそ猶も別義にはな香あれうちある人はちや〓〓と呼れず。又肩ぬぎの葉茶壺の銘、はつ音とある師の事を引て時〓示されしは、何にても句は作にある也。夫は古し、これはおかしからずと、其物を嫌ひ除くべからず。作意の自由だになさば、古きものも新らしく、おかしからぬもおもしろき事にいひなすべし。されば其自在を得むには、ひたすら修行するにはしかじと。一顯昭と寂蓮顯昭云、哥はやすき物也。無才の寂蓮すら哥はよくよむといへりければ、寂蓮云、哥は大事のもの也けるよ。あれ程大才なれども、顯昭、哥は下手也といひしとぞ。されば俊成卿、嫡子ニ兵部卿成家と云し人有しかど、寂蓮を哥道の養子にせられし也。其後定家出生のうへ寂蓮斟酌有しと云。又家隆は若かりし時俊成卿に哥の事學れしに、古實はさし置、只哥よむ事ばかり問れしを、俊成ことの外褒給ひしよし。愚云、誹諧にも句者と指合くりの二樣有。此事浪花春耕が糸切齒ニも著す。但昔の句者と唱えしは、万事を心得し上、指合に着せざるを云歟。今世未練の人、只句者と計聞はさみて不法の數句を吐は、愚者の甚しき成べし。に、貞德、弓取のひきてたてむと思すにや葉茶壺迄も肩をぬぐらむ。又一首、葉茶壺を初音といふは松の葉のかはらぬ花をためしにやひく。葉の替らぬ松に因みて云、愚、性齒弱かりしが人の勸めに、松葉塩といふを製し、每朝齒に用ゆべし。其方は、春、松のみどり立しを刻みて、一升ニ塩一升を合せ、霜となして磨けば胃火を消し、齒を固む。みどりなき時には松葉又松脂も宜しきと也。かく〓えのごとくせしに漸〓居り、先ヅはぬけじとおもふものから、其翌年元旦に、齒固やよしゆるぐともかなめ石素外鹿島の神の惠みもや有けむ、いよ〓〓固く成ぬれば、又の歲の朝は、齒がためや巖とむかふかゞみもち今は老て追〓ぬけしには詮すべなし。其後或人より塩の方、問におこせしニ、磐常盤なる松のみどりを齒藥に今一塩を合せてぞ燒素外はじめ爲守と云。承久の亂に〓水寺に在しが、勇士ならねど鳥羽院に御味方申、宇治の手にむかひし所生捕れ、旣に刑に及ばむとする時よめる。勅なれば身をばよせてきものゝふの八十うぢ川の瀨にはたゝねど泰時、此哥に感じ、哀れと思ひてゆるし歸されしとぞ。又、此法師を狂哥ばかりよめると覺えし人有。元來哥よみにて上手也。夫が中ニ、遠く成近くなるみの濱衛なく音に汐の滿干をぞしる此たびは定めて和哥のうら千鳥もるゝ數には入ぞしつらめ或人此法師に向ひて云、和尙はよき哥多くよみ玉ひしが、近ごろは狂哥のみにていかゞと申ければ取あえず、曉月に毛がむく〓〓とはえよかしさる哥よみと人にいはれむ玉池雜藻又、西の宮ひる〓ともなくのむ酒にあしたゝぬ迄醉にける哉一曉月法師は爲家の御子にて阿佛尼の腹也。八五
八六陰陽の所、西を秋のはじめとあるに同じこゝろ成べし。一霧の海是は〓の立かくして見えわかたざる所をよむ歟夫木集人丸哥ニ、秋來ればかふかの山に立霧を海とぞ見つる浪たゝなくに連歌朝ぎりの松やうきしまあきの海宗祇朝霧やなみのうへなる妖の海宗長みなの川の霧やつもりて秋のうみ宗因霧の海これや神代の島もなし梅翁鷄啼て里を〓るやきりの海蒼狐愚云、先年秋上京の頃、愛宕詣せんと〓瀧にやどり、早朝雲霧の中をわけ登り、拜し終て下向の時は山〓〓快く晴渡り、右の霧は谷あひに湛え動きて誠に白浪の打が如く、是なむ霧の海とも云べく思ひしが、其後人の語りしに、みちのくの國の守の御詠とて、谷あひの霧はさながら海に似て浪かときけば松風の音扨は其君も斯るけしき御覽有てよませ給ひぬるやと思ひし。これも和尙の狂哥也と。一後堀川院の御時、人〓集り物語りしける折から、少將、內侍臺盤所の御坪の楓の木を見て、此楓初もみぢのしたりけるが見失ひしといひたりければ、人〓いづれの方に歟と目を付見けるに、藏人永綱とりあえず、西の枝にこそいはめと申たりけるを、右中將實忠朝臣其詞を感じ、近來是ほどの事も心とく打出たる人はなきに、優にゆもの哉迚入興し給へば、滿座感心しけり。此心は古今集ニ、おなじ枝をわきて木の葉の色つくは西こそ秋のはじめ也けれ、と侍るを思ひていへり。誠に取あえずいひ出るも、亦聞咎むるも、いと優に侍り。愚云、先年己も初紅葉の題にて、けさ見そめ晝は靑葉の夕もみぢ素外是は旭にちらりと見そめし紅葉の、午時頃は見うしなひしが、日は西にまはりて再び爰かしこに、あか〓〓と顯はれたる也。併只眼前体のみにて、御哥に類ふべき事にはあらねど、西の字に因みてしるせるなり。又云、櫻は端山より咲そめ、紅葉は奧山よりそむるとあるも、谷の屋根は龍の都歟霧の海素外入一冷ましき月先著齒がためニ連誹とも秋季とする事を述しが、猶亦辨ず。先ヅ冷は玉篇ニ力丁ノ切合ナリ力頂切즈寒ナリと有て、冷し·すさまし·さむしとよみを附たり。されど連誹には季節の定めあれば、右の三ッのよみを夏秋冬とわかつ也。又、增〓ニ〓甚也と有。是はすゞしき事はなはだしとよめり。すゞしさつのりてひやゝかの意成べし。これ又秋とす。又、つめたきとよみては冬也。寒氣强く爪痛きと云和訓のよし。文字は同じくも日本は詞の國なれば、訓を以夫〓をわくる。此類ひ冷の字に限らざる歟。又すさましき月を今誹諧に冬季と心得違ふ徒ある事は、枕草子"、冷ましき物、師走の峯の月と書れしとて也。此義、流布の枕草子になし。但源氏河海抄ニ有といへども、冷ましきは連誹秋也。併師走とせば冬に論なかるべし。又冬の月を賞する事は〓女父元輔の歌ニ、いざかくてをりあかし見む冬の月春の花にもおとらざりけり。其始として冷ましき物にいひなさむ事いかゞ歟と或書ニ見えたり。愚云、冬の月、歌にはひたぶる愛る意にもよみ、又いかにも寒き心にも詠て其体色〓也。連誹又これに同じ。連賞さはりなき月は落葉の木の間かな紹巴月の色になりゆく冬の木末かな宗因寒月さゆる色は音なきあらし哉紹巴冬は月待ぬにむかふ木の間かな昌琢賞一葉ちりいくらもちりてつき夜哉嵐雪寒鈴鴨の聲ふりわたる月さむし霜寒し雲にくひ入るみねの月淡ふ賞一夜づゝ十夜はさゆる月夜哉〓蒼狐鮟鱇の月見やゆきのはれて後素外寒申分なくて愛なし冬の月寒月や我慢高雄の峯にすむ一晝寢圓機活法夏之部ニ出。但其書に載る所の事-實、夏のみにもあらず。されど先年浪華同流故馬城が點には夏に取しを見し也。是活法に寄し歟。此地にては自他とも季節の沙汰なし。又、桃靑句ニ、殘暑の心をと前書して、冷〓〓と壁を踏えて晝寐哉。是冷の字を以秋八七紹宗紹昌嵐巴因巴琢雪寒賞寒淡蒼素ふ狐外賞寒
八八將ニ浦ト。多景朦朧トノ一景モ無シ。語シ雨奇晴好ノ句ノ得テ。暗中ニ摸索ノ識シ西湖フ。誠にこれ叢林の絕唱也と。又兼載作ニ連歌四十四ヶ条の案じ方有。其一ヶ条、夜の柱と云事は、譬はゞ他の家にとまりし夜、ふいと起ては方角わからぬもの也。其時は常に見置て心覺えの柱ある所を探り當、扨柱をとらまへて氣を鎭め考ふれば、外の柱又障子·襖も心に目にうかみて、段〓案內が知れて來るもの也。句案も其如く、題を得ても趣向の柱なくては取付がたし。依て闇がりの柱を探り當、夫に取付て句を考ふべき也。是を夜の柱と云ぞ。一先師蒼狐菴へ時〓門人集り、當座の句して判談を乞ける中に、此句更に見えず、或は聞えずとて評にも及ばれざるあり。此事は禮記曲禮ニ、聲無して聽、形なうして視ると。又、徒然草ニ月花はさのみ目にて見る物かはと有。是等の語に寄れし也。見ゆる雨の日や門提てゆくかきつばた信德如きの葱白く洗ひ上たる寒さかな桃靑句吹さらす旭大きしかれ野原初宗代瑞にせしなれば難なし。されど壁をふまへ、心持よき趣にては冷やかを賞美也。桃靑は眞の隱士にて名聞の意シなく、只思ひ寄所を述たるが、冷物を賞翫するは氷水·冷汁·煮ひやし等六月也。爰を以思へば、右翁が句は夏の方感深かるべしと、先年句鑑附篇を著述の時、夏之部ニ入たり。いにしへより撰集"も此類ひある事也。又拾遺集"、安法、師秋の初めに、夏衣まだ單なるったゝ寐に心してふけ秋の初風。此哥、ひとへ衣の轉寐はいまだ夏の形成べし、よて秋風に心してふけといとひしにや。晝寐·うたゝ寐、打出さねど心には夏をふくめる句有べし。句作により季節の事は衆議判ニ寄歟。一草木子"、形有て聲なきは木石也。聲有て形なきは雷霆也。形有て聲あるは人物也。形なく聲なきもの鬼神也。又、古今の序ニ、やまと歌は力をも入ずして雨つちをも動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、畧文。又、天龍寺策彥、入唐の時西湖を見むと欲す。彼國の人策彥の才を試ん爲、黃昏に及びて相伴ひ、風景を賦さむ事を請ふ。策彥立とゞまつて唱していはく、餘杭門外日信桃初宗代德靑瑞聞えるすゞしさや荷をおろしたる馬の聲千皐如き句瀧は耳の外に落たり鹿のこゑ千代尼右統てかく案ぜよとの〓には非ず。上にいふ所の引句に出す也。愚も、先年仲秋良夜いつよりも隈なく晴たるに、麗日を思ひて、名月や心に見ゆる舞ひばり素外又、名歌とも云傳ふる中に、思ひかね妹がりゆけばの哥をおもへば、暑中にも寒風身を通す心地し、風そよぐ楢の小河の詠を吟ずれば、忽すゞしさを襟袖に覺ふと。こや〓との葉の妙所、鬼神を感ぜしむるとあるも、かく心に通ずるをもつて成べし。一兼載云、作者と非作者は纔に一字·二字のかはり成べし。立よりてすゞしさまさる木陰哉と云は、三部の嬰兒もおもひ寄べきを、立さりて凉しさまさる木蔭哉心敬此さ文字·よ文字の替りにて、樹陰の間はさほど覺えぬ凉しさを、暑き所へ出て知たる所が作意のはたらき也。詩にも、火鼠不知暑。氷蚕不知寒。又兼載句ニ、やすらはですゞむしげきの山路かな。休らひて來ては沙汰の限り成べし。又、はいかいには、奧の細道ニ、田一まい植て立よるやなぎかな桃靑是は西行の、道の邊の〓水流るゝを本哥として、田植人のいこふ体をよめる也。又、植て立さるの說有。夫では田植を見し趣也。是憶說歟。一兼載の家は、代〓宗匠と成て皆古今傳授もせしよし。五代め兼如は元祖にも劣らざる連哥上手成けるが、京師住居の頃、國詞を人〓おかしがりて猪苗代の名字をばいはず、岩城兼如と呼て異名のやうに覺えしと也。ある時誰歟たはむれによめる。奥州の岩城兼如に誘はれて多くの人のまよひこそすれと有ければ、兼如これを見て、て文字に濁りをうち、誘はれで、として返哥としたりしかば皆人大に感じ、右よみたりしものも耻思ひけるとぞ。是亦あふむがへし成べし。一眞壁平四郞と云は、天正の頃常州眞壁の城主右衞門大玉池雜藻天正の頃常州眞壁の城主右衞門大八九
かんにて我を善道に導き給へり。故に如來と心得て拜すべしと語る。道無、一言のいらへもなく、只伏て恥られし(博とぞ。其時和尙解を作す。曾入〓經山一分風月フ。皈來開圓ヲ福道場。發心覺了無一物。本是眞壁平四郞。愚云、和尙爰に於て瓦解氷消歟。高く飛てうらみやはれし沓手鳥素外一元政法師は岩井氏也。廿六歲にて出家し、法華律と成。ツキ子季吟次嶺經ニ云、此法師、深草瑞光寺に住て霞谷山人と号し、貞德和哥の門人也。或年の夏、河五月雨と云兼題にて、五月雨に濁れる浪や龍田川うすき紅葉の色ぞ流るゝ。貞德翁褒美の歌也。其身法中に在ながら孝心厚く、母の好みに隨ひ市に出て魚をもとめ與へ、又母兼て身延詣の志あれば、八十歲の時伴ひ行し紀行有。詩·文章にも達し、草山集·元〓唱和集·本朝逐史等世に行なはる。又草庵の壁書有。手の奴·足の乘物抔世によく知る文なればしるさず。一熊澤良海は備前の人也。王陽明派中江与右衞門に學び、良智良能を說。又淡〓が雜談集ニ云、先生關東に寓夫入道道無の草履取成しが、主人入湯の時木履の直し樣心に合ずと怒て、木履を蹴付ければ額に强く當り、齒欠けて血流れたり。平四郞、口をしき事骨髓に通り、主人なれども夜中忍び入、害し、此憤りを晴さんと思ひしが、夫にても猶飽足らじと工夫し、髻を切て立出、佛道に入て學問しけるに、其一心故段〓見開き、其上入唐して彌怠ざりしかば、終に經山寺の住職と迄成けり。今は我念願も屆くべくと彼寺を隱居し、〓國眞壁( )の傳照寺へ異轉せむ事を謀るに、道無、平四郞なる事を知ず、大に悅び迎えられんとなれば、兎角して歸朝し、眞壁に來たる。道無途中迄出迎え、傳照寺へ入られた埼ら。扨和尙倚子に上れば、道無其前に出て禮拜す。禮終て和尙倚子を下て道無を倚子へ進む。道無敬して辭す。其時和尙、首に懸たる錦の袋より下駄の齒を取出し、これ御覺えい哉、某事は履奴の平四郞にてい也。先年御入湯の時木履にて額を蹴給ひし其疵の寇を報ぜんとの意より、發心の氣に移り、今斯の如くの場に及て懷旧を達す。倩身の上を考れば、君は釋迦の化身居の時人〓善〓を乞に、論語爲政篇ニ北辰其處に居て衆星のこれに向ふといふ所を三席迄讀れけるに、いかなる事と傍人の尋ねければ、聖語は幾たびよみても心替り、聞人も心をつけば盡ずして直かるべしとぞ。有がたく大きなる事也。統て道と呼ぶ時は、道として眞の道なきといふ事なしとぞ。一良海、後ニ卽游と改め、洛に住し、元政と友としよし。但元政は哥學に委しく、卽游は音樂に長じて、相互にこれを傳ふ。其物語の度〓〓、元政は佛道へ導むと思ひ、卽游は儒道に引入んとせしが、互に心の儘に成ざる故自ら疎く成、元政より哥を贈り、其後は會する事なし。朽ねたゞ猶をり〓〓はとふ人のこゝろにかゝる谷のかけはし一家語ニ曰、善人と居ば芝蘭の室に入が如く、マジハレ久しうして其香を聞ず。不善人と居ば鮑魚の肆に入が如し、ひさしうして其臭をきかず。是は我知ず其香のよきに移りて善にそみ、又其くさみがうつりて、いつ歟惡に誘ひ入らるゝを云り。水は方圓の器に隨ひ、人は善惡の友に寄と有も同じこゝろぞ。又史記ニ、蓬麻の中に生ず、扶けざれどおのづから直しと。是を西明寺殿、よき人にむすびてあしき事はなし麻の中なる蓬見るにも此御哥によりて過し年の春、麻につるゝ御慶上下蓬生も素外一昔殿上の人〓、花見むとて東山におはしたりけるに、俄に心なき雨のふりて騒ぎ給へり。中に實方中將、いとさはがずして、櫻がり雨はふりきぬおなじくはぬるとも花の陰にかくれんとよみてかくれ給はざりけるに、花よりもり來る雨にさながらぬれて、裝束絞り兼侍りければ、人〓〓興ある事に思ひけり。然るを藏人頭行成のみ、哥は面白し、實方おこ也との給ひしよし。是を實方もれ聞、深く恨(〓)み玉ふとぞ。こゝに江戶にては延寳より元錄の頃にや、上野の花見の時には小袖を懸並べて幕とし、又着用にも花見小袖とて我劣らじと美を盡し、着飾り出る九雜藻
が、違ひ、一澄憲法印參內して、腰の物を駕に忘れ出たり。れけるに、はれ出しが、時ならぬ大雪にて、歸りは送りの駕を下さ又、みそとせばかりの昔、り月はととはゞいかゞ荅えむ。られけるを持せ遣さるとて、れに譬ふ、と云事を說法申されて、百分44年せし中ニなふ其小袖はこなたのにてい花の幕先年一日花や雲井の月を見て馴し扇も忘れ果けり。のよし。に、めし歟。返す手を忘れて腰にさし扇此不拍子は開き見ぬか其儘持歸りければ、折から雨にあひても其儘ぬれて歸るを曠とせし事ら暑中に親しき方へ參りて、其角門人の句ニ、實方卿の昔をしたひて、昇夫辷り、花のあめ小袖をしうてかへるかやそれといふ內、又取落しなどせし故甚困じて、御庭の花見、ある方へ召まつあけの日戾すとて、止觀の月重山に隱る、御返し、、譬へつる扇は是に忘れたそこに有扇を遣ひし好主のものゝ仕はじ(二)歸るとて扇を忘れ愚云、はや歸りぬ素秋風のたつ扇を擧てこ外是とは素外氷花我影もともに植こむ田うゑ上を見ぬをしえや民の田風ぞ誘ふ植る早苗の手靑む時しるや早苗に富士のうたふ哉早苗とり〓〓老若早乙女の唄や皐月もはれし聲階子田や登りつなりつ植乙女松陰に田うゑ乙女やわすれ笠さおとめや魚鱗備えのあと歩み戀しらぬ身も濡衣や早乙女や笑ひも笠の內端もの早乙女よ汝等が尻も棚津もの早乙女やいつか出て居月も暈早乙女や皐月の田畑田日·五植脛より白き笠の色小田乙女元植か哉笠ら裾き誹諧奈都美津起二之卷哉笠冬錦亦央女春輝靜玉霞素錦吳玉女左素-茶屋武裡月雨秀英外翠人麿車せ玉ひし也。けむ、かく卽案して謝し侍りしを、ればせんすべなし。諸〓御席にて、こは花に忘れたりとよたましひも扨翌朝持せ下されければ、魂いかに〓〓とたはぶれ興じさあるじの君より御咄や有九二素外早乙女の笠や今めかし都近所のたうゑうきゝ事よ庄屋が嫁 の浪花浮短かきあしや深田う山と白鷺苗植混靑龜も這ふ子も這ふ畔子は乳に來たり田植の畫へら鷺の觜や田植の手のくばり雨を乞ふ鳥もものかは田植雁行に揃ふ行義やたうゑけふも〓〓田うゑやみちの奥の旅菅笠の眞向に見ゆる田植か我顏を水にも見せず田うゑ畔ひとつ男女別あり田植腰をのすひとりは黑し田濟だなら唄で踊れよ田實ののて合爰れを淺くも靑し小田但六月靑〓が海田毎の原けのの田うや晝田靑田田植ど月の千町哉田水のた唄点時植時餉笠笠な笠にも笠植も点山と白鷺苗植田毎の晝田靑田九二月の千田の町哉水奇仙其龜連吳龜如龜龜些血圧玉鄭正政素蒼凉龜時車翠玉洲山龍麗榮麿水春幸二之卷畢峰鳬葉龍
系大書俳本藻雜その白さ瓜にくらべん肘まくらしろ瓜や鄙にそだてど生れつき白瓜もまだ初生りや靑うるりしろ瓜や闇に葉をもる星月夜たちわればこや白瓜の種は藤越瓜植てから五日の風や田のそよぎ夕風やけふ植し田を吹て見る英鎌倉千珠朝植てから五日の風や田のそよぎ田植見て歟大門口の立すがた稗まきの鷺とも白し田うゑ少しづゝ降もしほなり田植がさ笠調岩槻素布塵人の手をかりてむすぶや田植笠笠とりの山や田うゑもくれの月ぬぐかぶるてりみ照ずみ田植笠ゐなか女や日〓〓に着る田うゑ笠田うゑ女の笠や橫日に眞帆片帆日のもとぞ身は賤しくも田植うた賑はしや神に貢のたうゑ哥文句皆万葉ぶりやたうゑ哥御製ならば天智天皇田うゑうたよごれてもこゝろは〓し神田植雨性の時こそ得たれ田うゑ女は田植けふぞ三夫婦連を村の曠植し田や席のまふけの座の如し仙人も田植の脛は見たか見ぬ歟植る田や人は天地のみたまもの樋の口で椀も洗ふや田うゑ時嫁ならめ笠紐めだつはつ田うゑ雨も隨時みめぐりの其はつ田植さおとめや濁りにそまで聲の玉早乙女の笠や田每に富士の影農業のうちの見ものよ早苗とり早乙女の聲も晴たり夕づく日早乙女や旭夕日に笠の榮え千町田も今や早苗の一歩より早乙女は嫁歟遠目も笠の顔さおとめのうたや一むれ若い同士早乙女や月に笠ぬぐもどり道水に〓を數かく手業早苗とり早乙女のうたひ足らでや道〓〓も浪花岩槻蘭雀素陂郞外女糸秋蘭策春裡一秀玉英龜榮錦車在泉田社素外花慶烏孝昌舟世義左簾素外逸外言外柳雪素牧從一仙里分香木英龜流義粒社來規外蘭兒吳〓右外有市盛なるや九夏三伏のなすび畑茄子初生りの茄子や老をよろこばせ手にふれて猶も色よしはつ茄子花落の茄子や人の乳房ほどおさなくも艶なるものよ初茄子夢ばかりなる吸ものや初なすび茄子はや餘の初も のゝ靑き中植るはや花を見せたりなすび苗畑にこれをゆるしの色や花茄子憎からじ鉢にうゑても花なすび寺島やむらさき匂ふ花なすびゆかりまたうす紫や花なすび其色は藤に似たるぞ茄子のはなもみ瓜や水は絞れど酢にすゞしきうりもしや海にはえなば生海鼠とも田植時に乳母かも畔に子もり唄田植哥に和らぐや嫁も姑も別業へ賤や召れし田うゑうた唄につれて笠の浪よる田植哉仰向てきくや棚田のたうゑ哥豊年の開口やうたふ田植うた負た子もともにうたふや田植うた聲もよし評判の嫁が田うゑ哥むかし殘る江口あたりや田植唄田植橫に見つゝ行なり黑木賣牛馬は隙に倦なむ田うゑ月雨程よき水穗の國や田うゑ時來た歟はや今朝植し田の水すまし山田うゑ僧都の茶釜傾けぬ衣手もぬらさで長が大田植植のぼる富士や棚田は靑〓〓と田植しもふあとやかはづの頌田植濟で水も皺のす日和かな女とも見えつ田うゑのあら男尊とさよ聲すみよしの御田植和平平茄子花もみ瓜胡瓜九番九五女賀重舊香廉富花丸春瓜千來素行素久素轉素周素外素綾素登壽溟惠風宣秀白英素粒壷外寬之錦交女春裡龜麗龜龍凉山如水龜幸國分公素翠霞外玉翠龜春一秀女巫女冬央
藻雜淺漬の茄子は夏の朝顏やみづ〓〓し生れの色の漬茄子鉄丸を食すとも見ゆ漬茄子初ものを鬼一口やつけなすび漬ても色かへぬ茄子やかうのもの烏羽玉の夜食もの也茄子漬酢の過た寺や茄子のさし身などトならで燒や茄子の龜の甲鳴燒に寂しみはなし夏のくれ煮た歟はや馳走するがの產茄子おのれ蠅追手もあれと新茄和新茄あえむかしはかくもあえざる歟茄子むけば皮や黑雲まひさがりまはしむく茄子の皮や觀世水朝市やまだいろ若き籠茄子をく辷るなすびに朝の露すゞし武藏野や濃むらさきのなすび畑切れと〓〓なすびは畑に日〓〓新沾女宜紫秀朝むらさきなれや茄子に夜〓の雨夢は獏なすびは己が得ものかな麥秋や茄子に鴫のとなへあり茄子鴫と化して燒るゝ夕〓哉襷また嫁がはつもの新茄あえ櫛形は嫁が料理やなすび汁茄子にはゆかりの畑やむらさき野茄子生れどまだ尖もつや富士おろし遊び業に茄子や人目しのぶ摺露黑し茄子ばたけの朝げしき根附にもならめ茄子の形と艷花壇にも隣るや庭のなすび畑この玉は磨かで光りこんろん瓜崑崙瓜鴫やきや犬西行にふるまはむ鴫燒ひとり居の馳走や見てもしんき和先づ凉し團扇なすびに鯨さへくひきるも白齒氣味よし茄子漬なすび今や紫もあり瑠璃紺も江戶在や茄子の出來も濃紫新鮮風糸蘭蘭陂素外逸外夷逸花外廉當素外仙里崔郞素粒素外從一惠風調布素綾金馬世義吳龍輝月仙鳬龜榮素玉錦車靜雨蒼洲左人時麿素麿連車些山女龜春玉翠玉英吳玉女眞桑瓜白きは後に味はふ歟菊ならで匂ふまくらの眞桑かな香に寄れば我も狐ぞ眞桑瓜持前は黃金ならんを銀眞桑網の目にもるや府中の初眞桑眞桑瓜餘所よりもつよき暑さや瓜所瓜のつるに茄子も見えつ畑隣瓜番を寐させぬ役歟瓜の蠅釣臺に風かほりゆくや籠の瓜賣聲に瓜の暑さや眞晝中檜葉敷て其葉がくれや籠の瓜瓜籠に蝶歟とも見め結びのし時の井の水も 甘露や瓜所闇路にも匂ひを栞瓜ばたけ大原や今雜嘆寐せば瓜まくらまかなくにこぼれて二葉瓜の種皮むけば級紗になつめ瓜の形うるにやすき玉や出さかる崑崙瓜黑白の夢もめでたし富士茄子夢ならじ不盡の國から初なすび愛敬はまけぬぞ富士に初茄子初なすび折よく得た歟小時の客はつ茄子いろよしこれも江戶自慢僧正のゆかりの色やはつなすび岩槻五奇計峰拂ふのは駿河の塵歟はつ茄子其價不盡とも高しはつなすび箱根をば駕籠でこえけり初茄子むらさきの初元なりや茄子今朝鰹にも劣らじな岡のはつなすび朱を奪ふ名も憎げなし初茄子ほの黑しなすびの花の底ごゝろむらさきを先づ藤色や花茄子もみ瓜の仕あげや母のちから業淺漬の色や胡瓜の深みどり名を色に後は黃瓜と成にけり葉がくれに露重げ也種茄子瓜但六月混合夏も末のころ九七九九琴志女龜龍如水冬央其葉連車輝月靜雨霞外素外龜麗素玉吳玉女吳龍龜幸女賀素重轉左人素麿玄奘大斗溟春瓜素牧候寬侯得共之花丸素外在泉英珠素行素外曉柳素周其葉
藻雜池玉系大書俳本日目にうつきり朝むらさきや茄子畑抱て寐し子はをみなりも瓜一ツ一村が中よき聲や田うゑうたつや〓〓しこや國ぬりの初茄子蔓引て鼠追へかし鳴子うり榮えたりな晴わたる日の田うゑ笠追加花の色をうつしにけりな眞桑瓜水に香の殘るもすゞし眞桑姫瓜に目はなや兒の筆すさむかしたれ菜瓜を丸でつけそめし鳴騒ぐかみなりぼしやにはか雨むき捨る恩愛厚し瓜のむく瓜をこゝろの筌や立およぎほし瓜や戶板に並ぶにはたづみ日晝もすゞしや錫の鉢に瓜しつかりとすゞしや瓜の六角半をしあふや目白の色の籠の大黑に臺坐そなえむ瓜ふた混雜瓜み皮瓜つ瓜番をしつゝも小屋に沓入る沓を引もどす手や盜む筈よ色は黄鼠通ふ畑からはたや瓜の畑ぬしは引伸すこゝろ瓜のつる獅子の子よ投ればころげかへる瓜もどかしや瓜かい包む小ぶろしき花のうちはもる人もなし瓜ばたけ瓜も匂ひあるからよそのはなに蝶ひやす瓜に曲水せばや瀧ふはり〓〓うき寐鳥とも冷し瓜極熱もしらぬ住居や天暑く井は又底にひ井にうかむ金の枕やつるはふていつ歟〓水に冷し瓜馬幾駄うたひつれけり鳴子混冷し瓜鳴子瓜合ふる〓とをおもひて金のひ瓜瓜冷やや作ののつ野しししり憂蔓る川瓜瓜瓜瓜瓜女素金蘭舊分素壷花烏龜素壽、崔暖女媛升候花秋素昌柳斗有候得共規舟雪溟市外策外外仙素時蒼些〓〓鳬翠麿洲凉錦交女來外馬兒香香塵外慶孝流外溟山ほし瓜や水を掬せし手のかたちしろ瓜に靑つね丸ぞおもはるれにこり〓〓冬瓜の花のうそつきめ朝露やうす刄ではらふなすび畑水に類す瓜や方圓の籠の色見よの雨や紺屋がなす遠くからなく子だますや早苗取び內畑白かねやげにかんたむのまくら瓜これも亦流れに枕ひやし瓜猿の手も屆かぬ井戶やこれはそも黃金水歟冷し瓜山の井や淺くも旅のひやし瓜水瓶にかいつぶりうくや冷し瓜夏痩歟鳥羽繪歟鳥羽の瓜つくり日のもとにはひ隨ふや狛のたはれ聲瓜ぬす人をやるまひぞ降ぬあつさ瓜盜人もとはり瓜畑や熟して暑き風瓜畑や暮ても暑き日の匂一さかり日の匂ひせり瓜ばたけ瓜小屋を狐の覗く月夜交代をひく歟鳴子の瓜折ふしは人も追れつ瓜なる照年は田もよく見えつ瓜の出來裸足でも深入するな瓜ばた瓜つけし馬には沓もゆるしけり瓜畑に沓ふみこむな旅座冷し薰か番れん瓜瓜やるひな屋子け頭九九素女夷素木社吳千素素左素義千曉白五右沾言田素素社時雨外兆逸外英來〓來久外簾外粒朝柳英計外紫外社登
この書元和九年出板とあれば、明應のはじめ歟。今年文化壬(大)申までは凡三百廿年ばかり成べし。大宰府宮前の飛梅、天火の爲に燒損じ、再び花咲ず。人皆恐れ驚き、祈念し又和哥を讀て奉り、取〓〓兎角せし中に、檢校坊とて勇猛精進なる老僧の哥ニ、天をさへかけりし梅の根につかば土よりもなど花の開けぬこれを短冊に書て枝に附しかば、忽みどりの色めきわたり、花さく春にかへりしとぞ。此事遠近の國〓〓にも聞えて、さんけい貴賤群集せしと也。又これはいづれの年に歟、神殿の屋根破損ニ及びしかば、修理有べきとて木工みに命ぜられけるに、梅年〓〓にはびこり、屋根に覆ひかゝりあれば、枝を伐拂はずしては事成がたきよしを申す。されど神木、其上年ふりたる大木なれ(國語)ば、猥りニ手も附がたく、評義に日數立けるうち或夜大風雨あるに、いよ〓〓屋根の損じなむ事を人〓恐れ思ひ、夜のあくるを遲しと待て見れば、かの梅を吹起して其枝屋根を離れけるに、工み等大に悅び、何の煩ひ玉池雜藻三一陽井素外誌一五雜爼ニ、聖廟の檜木、周·秦·漢·音の代を歷て幾千年、晋の懷帝の永嘉三年に枯ぬ。夫より三百九年の間、子孫これを守りて堀移す者なし。隋の恭帝義寧元年、又芽を生じたり。夫より五十一年、唐の高宗乾封二年再び枯ぬ。夫より三百七十四年、宋の仁宗康定元年又榮え。金の宣宗貞祐二年、兵火に摧れて殘りなし。其後八十二年を經て元の世祖卅一年、故根より生じ、日に茂盛し、明の大祖洪武二年に至て、九十六年を歷て高與き事三丈、圍み四尺ばかりと云〓。天命の品物、賦予するの玄妙、尊みかしこむべき事ぞ。一荒人神袖中抄"顯昭云、あらひと神とは、まさしき人の神となれるを申べきにや。八幡大菩薩は應神天皇、北野天神は菅相丞にておはしませば、ともにあらひと神と申べし。(明)一醒眠笑と題せし隨筆の書に、百三十年餘以前、愚云、百三十年餘以前、愚云、なく、やす〓〓と修理出來上り、靈驗の尊き事今にはじめざれど、衆人の信心彌增けるとぞ。扨諸事相調ひぬるうへ、梅又もとの如く屋根に覆ひかゝりしと也。又いふ、菅廟の神德を仰ぐ事は海內もるゝ國なしといくじ、別して五幾內より西の方は、御愛樹とて梅核を嚙破ず。又船中にては梅ぼしのたねをも隨意に捨させずして器に入置、着船のうへ土中に埋む。夫が中には稀〓〓芽を出す事もありとぞ。又太宰府に詣る者は、極めて梅干を食し出るよし。是は身を〓むる意歟。一葛飾龜戶の菅廟は、江戶砂子ニ、寛永の頃大鳥居信祐、宮居其外太宰府の体をうつし造立せしと有。愚云、近年右の正圖を石里洞秀筆にて〓馬とし、筑州藩中より納らる。其圖取彼地に旅して詣る心地す。又鎭座有し歲を當流初祖の發句に、寛永年中東安樂寺の新たに成たる時新地にもかくなるもの歟梅の核梅翁又己が先師、但六世也、寶曆の頃、法樂一日獨吟五千句卷頭、」かしは手や五ッにひらくむめの花蒼狐今稔享和二壬戌春、菅廟九百年の御忌に當り給ひ、本宮造營有しによつて、宮前の紅梅神社を門人等寄附して修理を加え、將右の兩句〓ニ予が吟を碑して建たり。此宮居を勸請せしより凡百七十餘年と聞て神留まります〓〓爰に梅榮ゆ素外右の後又十とせ立て文化八年と成、兼て思ふ紅梅·老松の兩社、數の星霜を經りし故、再び新たになせし上、永代修補せんの志を起し、誰かれをかたらふに、何れも信心を同うして、高貴の方へも申て、今年辛未企し如く成し也。夫が故に神木の松の傍へも、三世才麿と己が松の吟を、是亦社中石文とせし也。空すみわたる神く樂、との謠曲に題して面の眉むすび上るやまつの花才麿菅廟の德風に御愛樹の色をも增て神松や千とせ近くも若みどり素外一一一玉池雜藻才麿素外
らする也。其驗、庭の梅にて知れ申べしと告しが、忽心すゞやかに成て目ざめ、夜もほの〓〓と明たり。不思議の事故看病の者へ咄し有ければ、怪しみながら皆〓庭に出て見めぐる中に、わけで祕藏の梅のいまだ盛りにも成ざるが、花散、荅さへ凋み枯たり。扨は非情ながらも仁愛の恩義を思ひ、其身を枯て命をすくひけるよと、見る人感淚を催せし也。夫よりして日〓快く、遠からず本復有しとぞ。これ近來の事にて人よく知る所也。又梁の何遜、或は隋の趙師雄が故夏をおもへば、此木に於ては和漢とも奇とする說古今多し。風にしるき梅に花あり信あり素外一後柏原院の御宇、江州唐崎の松枯んとす。逍遙院實隆個以下花のさくためしもあるに此松の再び靑きみどりともがな、とよませ給ひければ、其哥の詞を感じてや色を增、再び榮えを見せけるとぞ。然るに又年たゝざる內、大風して松甚いたみしかば、天正九年の秋新庄家より新たにふりよき松を植改められし時、よみ人しらず、おのづから千とせへぬべし唐崎の松にひかるゝみそぎなりせば。其後靑蓮院宮、松の記を書せ給ひ又、二祖西雀、梅の發句、其事成て後これを得たれば此碑に彫添て、香の風やあるじかしこし梅のはな一·五人西在是迄處〓に建し碑の句は、梅祭祀と題す小册あればしるさず。筑紫から爰までとぶや神の梅風虎社頭から只ひと飛や梅屋しき存義この梅の盛りなる頃、ざれ哥よめる大屋裏住に行合て、是は〓〓飛だ所で大屋なるうら住吉の松ならで梅素外一先年駿河臺邊に、他に、こ梅梅愛愛らら方ありけるが、追〓數品を集め、鉢植槩百株に及びしを年〓手入有し故、人よく知て花の頃は乞て見に來る人多しと。然るに其あるじ、はじめは輕き病ひ成しが次第に募りて、醫藥盡せども今は賴みなき容体と見えける。其夜夢現ともなく枕もとに來たるもの有ていふやう、此たび君が病ひは、いかやうに療じ有とも死を遁れ給ふまじきぞ。されど己、是迄厚き惠みの報恩に、御命に替り參梅の發句、其事成て後これを得たればしよし。段〓繁茂し、今猶榮ふ也。一百日紅、誹諧、夏と秋との辨沾德文蓬萊ニ、一名紫〓花、四五月より花ひらきそめて六七月に至ると云り。八月迄も咲也。東坡李義山が詩"秋風秋庭の句有。かく花の久しきを稱して名とせる物なれば、久しきを用ひて秋にとる方がよしと。此說一〓分明也。扨當流通俗志ニは夏六月の季とす。增山の井·をだまき井ニ沾德枝葉集"も同樣也。然るを文蓬萊以來改め、秋にせられしか。傍に七月也とあるは、後に書添しやうに見ゆる也。此花の事、格物論ニ紫薇花、俗ニ怕痒花と名づく。人、手をもて撫ればゆれ動く。但怕痒はかゆきを恐るゝの文字也。樹は光り滑にして丈餘、花さく事は右の如し。圓機活法、紫〓花詩句の中ニ、八月吳天覺早涼フと有。吳は暑の强き國故秋を遲く知る歟。よて殘花も久しきにや。打任せては初夏より初秋迄凡百日紅の花成べし。すゞしい歟安居の目には一夏紅素外百日紅照や其木も赤はだか又、文蓬萊、百日紅の次、崔公の条下ニ沾德云、哥には己がさつきとよみて、五月を專らにとる也。誹には大かた其はじめを稱する故、先ヅは四月にとる也と。此文面にては百日紅も初夏にて宜しかるべきを、盛りの長き所をもて秋季とせられしは、衆に反して一見識といはむ歟。其上詩にも作例あれば右の支流に向ひ、ゆめ爭ふべからず。唯當流にては、夏六月の季と相心得べき也。又夫木集雜之部民部卿爲家哥ニ、足曳の山のかけ路の猿なめりそべらかにして世をわたらばや。又藻塩草には、世をやわたらむ。是は花の哥ならねば雜成べし。又此樹を今世猿辷りと云。よて誹句にもよめり。然るに貞德御傘ニ、木の子の猿すべり、又、猿の腰かけ、出がちに一ッと有。近國には此唱の菌を聞かず。なめ茸·なめすゝき抔いふ類ひのもの歟、尋ね見るべし。一鷓鴣是亦誹諧に春と秋の辨有。桂坊沾山麓の道ニ、我師沾德云、秋也、春と云說用ひがたし。增山の井にも秋小鳥の部に出たり。此鳥、もろ〓〓の誹書ニ、春又秋區〓にして一定仕がたしと書て、扨春秋の詩數〓〓を一〇三雜藻素外
れど、此鳥の背ばかりは纔に殘れると也。此注に寄ても、愚案ずるに連誹の上にては、もみぢ秋、かつちるも秋、散とばかりは冬也。其散し名殘とあり。統て殘るとすれば、雪·寒さなども春の季と成。其意をもつて此哥を見れば、己は春也ともいはむ歟。又紅葉散を秋にとるは、蓮二が古今抄のみ也。是は此外自見をもて季節を色〓〓狂はせたれば、其徒の外にては更に用ひがたき歟。又落葉の題にしやこを結びし句合ニ判者才麿云、しやこは甚寒を恐れて、たま〓〓飛て東南に囘る。風をいとひて高きに望まず。木の葉をかぶりて百花の開くる暖氣を待と。此文も格物論又本草に寄て書れし也。爰にこれをわけていはゞ、鷓鴣わたるとせば桂坊がいへる如く增山の井に傚ひて秋、木の葉を負て寒を凌ぐ意ならば冬、扨暖氣を得て飛めぐり、詠物と成所、是此鳥の稱美成べければ、昌琢定め置れし通、しやこと斗にても春に用ゆべし。何事も通俗志の通り心得取扱ふべき事也鷓鴣さむい歟梅はさけとも出からかひ素外出し、次"藏玉集の歌ニ、しやこといふ鳥の上毛のくれなゐは散し紅葉の名殘也けり此哥の外、しやこの歌いまだ見當らず。統て季立は和をもつて證とす。和になき時は漢を用ゆる此道の法也。重ねて春に讀合せし哥あらば、又委しく論ずべし。先ヅ此哥を以秋に極められ侍ると也。愚云、當流にては宗因の師里村昌琢宗匠の說、春也。依て誹諧季寄通俗志にも員九春に出す。沾德秋にせられしは增山の井に寄られしを、猶右の哥を以彌秋に極め、師をてらひし所弟子の道たるべし。將、沾德派と當流は、先人皆入魂にて有し故今以しかり。よて事を爭論の意はいさゝかもなし。されど百日紅又しやこに於ては、當流と季節違ひある故初學の門人時〓是を問。よつて其荅に有增をしるす也。しやこ、詩の上にては春秋わかちがたき所、桂坊が語の如し。扨藏玉集の哥を祕藏抄の注ニ、しやこと云鳥の、木の葉を背に負たるが、霜置、あらしはげしくなれば世にわぶる也。餘の木の葉は散はてた素外ふいと耳の閑日に聞やしやこの聲又唱への等しきに寄て云、海老の類ひにしやこといふもの有。大和本草"蝦姑と出。文字おかしき敷。一雞の五德韓詩外傳ニ甲饒が曰、頭に冠を戴くは文也。トサカ日に朝す雞の冠毛やあけの春素外足距にてうつは武也。眞釼よ距のさえの諸羽風敵前に在て敢て鬪は勇也。いどみあふ雞は物かは〓〓と食を見て相呼ぶは仁也。觜あてゝ生餌讓るや春の雨後夜を守て時を失なはざるは信也。夏近き夜と衣〓〓や〓え鷄;又、揮塵新譚ニ、萬壽寺の僧彬師の戲言ニ雞に五德と云事有が、我猫にも有。仁此猫鼠を見て捕事なし。義鼠來て其食を奪へば則讓る。禮客人至つて饌を設る時則かけ出る。智食物をよく藏し置といへども、よく盜てこれを食ふ。信冬來れば則竈に入。來客これを聞て絕倒して大に笑へり。又五元集ニ、或お寺にねう比丘とて猫をいふおはしけり。住持の深くいとをしみ申されしに、五ツの德を感ず。能睡あたゝかな所嗅出すねむりかな其角忘おもへ春七年飼た夜のあめ、捕鶉歟と鼠の味をとひてまし狂陽炎としきりに狂ふこゝろかな耽髭のある女夫珍らし花ごゝろ一老の鶯四たび結びたる深川の菴を立出るとて、うぐひすや竹の子藪に老を啼桃靑此句よりして今老の鶯を夏と心得し人あり。是は笋を結びし故夏也。尤うぐひすの音を入るは五月の季なれば、句作にて夏にもなるべき歟。祕藏抄ニ、さゝえ小鳥とは鶯の親にて、老てはかくいふ鳥になる也。赤人哥ニ、うきね傳ふさゝえ小鳥よはや行て鶯さそへ春のまうけに。此哥井ニ鶯に老を讀たるは連誹春也。然るを梅翁發句集を編せし時、校者心得違有て春を夏に入替たり。依て印本を改めさせしが洩たるもあらん數。一〇其角、藻
一〇七餅花冬なれば、是は去來が語の如く除夜歟。其角が句も許六詞添ずば、燈火の趣にも聞ゆる也。同じ薫門ながら兩說齟齬せり。又元祿の頃、順也が五前句と云季寄ニ、嫁が君、三ヶ日の間の鼠也と見えたり。又季吟撰師走の月ニ、ひめ松もはつねのけふや嫁が君季吟又、同撰誹諧合秋之部ニ、左月の鼠よめ入するやむこの山如貞右むこの山鼠だけもやよめがきみ則常姫松の句、春ながら歲旦とも申がたし。誹諸合は秋にて季吟判左右持の句也。此趣にては嫁が君を、歪山は鼠とし雜とせられし歟。桃靑は其門なれば是等の事心得有べし。沒後其徒心〓〓の說を立て、古書をも信用せざるにや。當流は先師の說、季吟同樣也。雛棚のはまぐりふむやよめがきみ蒼狐後京極哥ニ君が爲蛤踏つくへといはむかひなき身とて我をいとふな。又、通俗志、汐干の所に蛤にしるとあるは、踏にじり取事也。一蛙のくひあひ寛喜三年夏の頃、高陽院殿南の大路の連春うぐひすも老をばかくす太谷かな宗因したしむやおいのうぐひす花の兄玄札右に等しき事故いふ。尾花枯るは連誹とも秋なり。さ雪イニるを桃靑、冬の句に、ともかくもならでや霜のかれ尾花とせしより、近來冬と心得て作せし句見ゆる歟。是は霜を結ぶ故冬ぞ。其後蓮二が古今抄ニ自見を以老鶯夏、かれ尾花を冬とす。但薄枯るとしては、連誹一統冬也。又云、かく桃靑句を據として季に取扱かはるゝは、亡跡の面目とも云つべきが、見違へ·心得違へ引句に用ひらるゝは、蕉翁の靈却て迷惑成べし。一嫁が君是亦齒固ニ出せど、異說あれば再び云。去來が湖東問荅ニ、嫁が君といふは、除夜人家の柱ニともし火をかゝげて終夜置也と。又許六が篇突ニ歲旦無季の格として出す二句、明る夜のほのかにうれしよめが君其角君が代にあふや狩野家の福祿壽許六又、先年短冊にて見し句に、もち花やかざしにさせる嫁が君桃靑春季吟其許角六又、桃靑高陽院殿南の大路の堀に蛙數千集まり、方きりてくひあひけり。或もの試みに其中へ蛇ひとつ投入たるに、蛙少しも恐れず、くちなはも亦呑むともせず逃去し也。京中のもの市をなして見物しけるとぞ。愚云、此事今世も折節有。先年下谷邊武家地境、其後麴町原、又去文化八季春、本所或屋しき內菜園にてもくひあひし也。又むそとせ近き昔田舍わたらひせし頃、奇なる事を見しは、百姓の庭の草むらより蛙一ッ飛出しが、凡六寸も有べき小蛇を尾の方よりのみかゝりしに、へびくるしみて振返り、蛙をなめ又くひ付とも見えし。とかくする內もとの草むらに入し也。其後彼家に行し時、あるじの云、蛙又庭に出て、はらばひして死たるが、腹破れ小蛇蟠り出〓、これも死せしとぞ。小也といへども、蛇の毒に蛙あたりしにやあらむ。又右ニ云本所にて蛙くひあひし時、人多く集まり、不法の事抔ありければ、何者歟書たりけむ、蛙合戰御見物の方門內へ御立入無用と。これを見るもの大に笑へり。扨段〓暮に及びぬれば、いつとなく人も散、蛙も引取、はや爰かしこに鳴聲聞ふるニ、よむや蛙軍せし日も行くれて素外〓蠖一名步屈。此虫樹に升降して本末をはなるゝ事を得ず。愚云、己若かりし時客來つて語りしは、先年材木の用につきて處〓山國に旅せしが、ある山にて所の人足、立木の下枝"藥鑊を釣し、柴折くべて湯のわく内、四方山の咄などせしに、其やくはんをいつ歟目の上迄引上たり。人皆驚き騒ぐ中に杣人も在しが、更に動ぜず、是尺取虫の樹也とて、山刀をぬきて根本より伐倒し、扨段〓と切るに大根抔の如し。客其ゆへを問に、是は此木いまだ二葉の頃、尺取虫這來りて止るに、折から雨數日降て他にゆく事あたはず。其木の成長するに隨ひ木とともに育て、いつ歟皮に卷込れて木の心と成たる也。よつて其木非情にあらず、斯の如きの怪しみをなす。老て後伐る時血の出る抔あるは、此大的類ひならん歟といへり。是うたがはしき說ながら、其客の咄す所を記し置侍りし也。ふりゆくや尺取むしの秋の果曲菴一〇一曲菴
性をうけてなす業なれば、あながちに憎しともいひがたからむ。延寶の頃、令巾が句、夏をむねと汝もつくるや蜘の家。又、はへとり蜘を、蠅をむづと組とめし智や五郞丸素外一案山子禪語ニ出。愚若かりし時、此文字を鹿驚に當る事解しがたくて或禪師に問し其荅ニ、案山とは大山に添し小山を云。人ならば前に書案を置形也。陰に有て不用の山故影法師の心にて、用立ぬ人を案山子といふと申されしにて思へば、藁にて作り、人の影ぼうし同前のもの故、右の文字を假用ひしなるべし。又禪語に因みて云。世に虚談多きもの、千に三ツならでは信な俚しとて、千三ツとはむかしより云里諺也。然るに近來右の事を万八と云。但是は千三ツとちがひ、禪の句双ン帋ニ孟八郎といふ事有。其注に、方語ニ云不由道理一作〓s〓と見えたりと。此語より出し敷。又自然にいひ當たる歟。一〓篩乙之符此三字を帋に書て門日に貼は、疫病のまじなひと云。此起りは、もろこし豫章の南西米渡と云一蜘蛛西京雜記ニ此虫集りて百事よしともあれど、又物を害する故憎まるゝ也。又勝非錄"、王守乙は浴陽の市に藥を賣。此人蜘の網を見れば杖をもて必破る。或人其故を問に守乙曰、凡天地の間いきとし生るもの、皆口腹の爲に勞苦して性命を養ふ。夫が中に蜘蛛ひとり工みに網を張、居ながらにしてものゝ命を取れば、吾これを憎む。よつて網を見れば則破ると。夕だちに糸のみだれや智の舘素外ハヘトリグモ又、書言故事ニ、五月五日蠅虎を取てつき碎き、豆にかきまぜれば豆おのづから踊る、もつて蠅をうつべし。愚云、己おさなかりし時、はへとり蜘の術さかしきが面白くて、竹筒にかひ置などしたり。右守乙がいひし所を思へば、網をまうけず、爰かしこをめぐり、蠅にあへば身をこらしてねらひ、飛付て取なり。其名の文字は虎に寄れど、働きは鷹に似たる歟。又釣すとも網せずの意に、當らずといへども近かるべし。將退て云、網張蜘のふるまひをつく〓〓見れば、中〓容易の事に非ず。徒に取はらひ捨むも情なき歟。小虫ながらも天系大書俳本日此三字を帋に書て門日に貼は、疫病のま此起りは、もろこし豫章の南西米渡と云所へ僧一人來たりて、渡し守にいふ、追付此所へ異相の者五人來たるべし、かれらをわたさば災ひあらむ、右の符を見せよとあたえて去りぬ。程なく黃衫を着し笈を負たる者五人來たり、舟にのるを、すはやと思ひ拒みて渡さず。異人等推て渡らむといふに彼符を出し見せしかば、恐れまどひて笈を捨逃去りぬ。扨其笈井ニ內にこめし物ども不殘燒捨、彼符を書て家〓に傳ふ。其後此渡の南の地は疫病はやり、人多く損ぜしが、北の此處は更に病るものなし。夫より此符段〓弘まり、今世日本に迄此札を門戶にはる事と成ぬ。右の文字はこれに出たるのみ。外に訓釋なし。畢竟文字に非ず、符にあらず、如何ともせざる所是則鬼を避る利也と。愚云.先年神田に葛坡山人と云儒者あり。此人俠客の雜話を興じて、閑日には酒食をあたえ、咄させけるに、或日邊りちかき俠者、あはたゞしく來たり、掌を出して、是に師匠樣にもよめぬ文字かきて給はれと乞ふ。先ヅおかしかりしが、需めに應せしかば早〓に歸りぬ。何にかせしと思ひけるに、翌日又來たり、昨日の禮を述て扨いへるは、私相店の者に狐つき有て、いろ〓〓すれど落ず。ふと思ひ付て先生へ願ひ、かの書て下されし文字を狐つきに見せ、汝何にても差つかゆる事なしといへるが、此文字を只今よむべし、讀ざるに於ては一刀の下に命を斷べし、あさましくも此男、獸の爲に正氣を奪はれ、數日家業をなさゞれば、頓て家內餓死に及ばむ。さあれば其方は家內の讐也、速やかに落る歟いかに〓〓と、刄ものを胸に指付ければ、狐付大きに驚き、飛退り、低頭平身して、ゆるし給へ、只今落去いと表の方へかけ出、戶外に倒れふしたり。有あふ者ども取寄、扶け起し、病床に枕させしが甚勞れし樣子にて、前後も知ず寐入い。是全く先生の御影也と( )申す。依者剛顏木訥也といへど、朋友を思ふの信厚し。よつて斯る奇特も有し敷。葛坡書て與えし文字も、是簸〓乙の類ひにやあらん。一嚏時ノ頌休息万命急〓如律令。此支事文類聚·袖中抄·奧義抄·拾芥抄等の書に載す。いにしへは和漢とも嚏はよからぬ事とせし故右の符を唱え、又つゝしみし事一〇九玉池雜藻
しにや。但是は己が憶說也。或年御秡詣して、船でくさめ災ひも更になつはらへ素外二四五淺間富士太鼓の謠物ニ、信濃なる淺間がだけももゆるといへば、富士の烟りのかひやなからん。此詞によりて、名こそ上なき不盡也とも、あつぱれ淺間は增うずるものをとあり。謠の作意は世に普く知る所なれば畧す。扨其意、いかにも富士はあさまに劣りしと聞ゆる也。此哥は後撰離別之部ニ、信濃へゆく人に薰物を遣す詞書して、淺間の山ももゆなれば、と有。これは駿河といふ人のよめれば、我名に富士を寄て、たきものゝ烟りを卑下せし成べし。左なくば淺間よりふじの劣るべき所謂有まじきぞ。其角も、此哥の事よく〓〓了簡せば、富士無念に思ひ、淺間を討べきものをと戯れ書て、謠にてあさまになりぬふじの雪其角此一之卷ニ則、其角が語を以て謠は誹諧の源氏てふ事を書置しが、戲作なる事を辨へずして、猥りに證となす事なかれ。一高島玄札は江戶誹諧點者也。或連衆より百韵の點を賴と見ゆる也。四分律には世尊嚏り給ひし時、諸の比丘尼咒願して長壽と云。又今の俗、正月元日早旦に嚏れば則稱して曰、千秋万歲急〓如律令。この緣也と有。右世尊の事より引て云歟。又今嚏るもの、誰歟己が噂するやと云。是は毛詩ニ、嚏て云、人我をいふならんと。又人の家を出る時はなひる人などあるは、いむ事にて侍るにや。哥ニ、出てゆかむ人をとゞめむよしなきに隣のかたにはなもひぬかな。これは留めむと思ふ人ある時、隣にて成とも嚏る人あれかし、さあらば其人のとゞまるべきをと思ひ讀る也。これらの事いづれも右に出す所の書より採。又つれ〓〓草ニ、ある人〓水へ參りけるに、老たる尼のくさめ〓〓といひもてゆくを、何事をかくの給ふぞととひければ、やゝ、はなひたる時、かくまじなはねば死る也と申せば、養ひ君のひえの山に兒にておはしますが、只今もや嚏ひ給はむと思へばかく申也と。愚云、人はなひる時は休息万命と祝言せしを、後其解語をつめてくつさんめいと唱え、又夫がいつ歟はなひる事と成て、今はくさめが通用の詞に成或連衆より百韵の點を賴みしが、廿日斗過て又同卷を遣し、先日點を申受し卷、取込の事有て開かず、其儘置し所、誰ぞ持行し歟、又鼠にや引れけむ、更に見えず。何卒今一度賴み度段申おこしぬるに、安き事也とて再び點して與えけるに、又十日ほど立て、こたびは兩卷を持參し、其者云やう、日外より兩度同卷の評を乞ゆ所、御承知被下忝旨を申、さてはじめの卷、本箱に紛れ込有しを昨夜見出しい故、兩卷を引合せし所、はじめと後とは點違ひ申い。何れを用ひ宜しかるべく哉、稽古の爲承りたきよし申ければ、玄札兩卷を開き、一〓見合せ、橫手を打、扨〓〓誹諧は日〓上達するものぞ。己が點も纔の日數の間に大きによく成い。後の方を御用ひゆへ。作者方は精猶しも成べく、隨分無油斷出情あれかしと申ければ、其男かへりて連中へ此荅を語るに、流石當時名たゝる點者也と皆〓感心せしとぞ。蠅うちや何れにかゝる點こゝろ其角月花や其あらそひも運は點素外一津田休甫は浪花に住す。ひと日境より百員の點を乞けるに、發句より擧句迄長點はあらざれど、九十三句點を懸ければ、但其須は平點·長點限也會主甚悅び、名產の品を持參し、初心の者共の卷ニ御坐いを、思名にも叶ひしにや點數多く御出し被下、連衆一統大慶いたしゆ故御禮に參い段申ければ、休甫、以の外不興にて、夫は大きなる了簡違ひ也。點せし百員一卷の內、五七句の外は一向用に立ず。よつて片はしからわるい分を消たる也。已來はよく案じ給へかしと、目をいからして呵りけるとぞ。又ある時休甫、寺の杉戶に虎を〓きしが、髭を忘れければ和尙見咎め、筆を添給はれと望むに、髭はかゝずして、傍に圖はづれの鑷を〓きそへしとぞ。是亦滑稽。一支考、伊勢山田に在し頃、日〓引墨賴みの卷來りける。其中に三の裏一面書落し來りしを其儘點懸おこしければ、常〓〓むつかしきおのこ故、連衆大に悅び、此麁相を咎め、誤まらすべしと早〓彼卷を持せ遣し、か樣に一おもてなくても苦しからぬ事にやと尋させければ、其返事に、此方句の點は致せど、書落しの事は其元の無念也。夫共卷中悉く改め賴みとならば、謝義定例の二二藻
南嶺子其外是かれにものす。尤いさゝか違ひ有。狐なはみそ藪に漬たる神の瓜素外愚云、又ある方の藏書ニ、やぶにもかうのものといふ事、世に香の物と思ひ迷へり。是は三國取あひの時司馬仲達が辭ニ、野夫"功の者有といひし事、武備史"見えたり。又、唐の列長卿が詩ニも此語有。藪中の香の物に混じあやまつ〓となかれと。將今治國の御代"は、橫綱の關や野夫から功のもの素外又、庸醫の手柄せしを賞して、しかいふ事もあれば、暑の前は藪醫にもこれ香薷散右唱えは等しくも物〓違ひあれば、誹句は時の宜しきに隨ふべき歟。一松露蓑荷昔凉〓師に隨身して下總わたらひせし時、路傍の酒肆に松露有けるを見て、師も己も好物なれば、其松露殘らず求むべし。煮つ燒つしてあたえよ、酒は飮ざれば晝食の菜にせむと望みしかば、亭主云、夫は御無用"ゆ也。これを多く喰へば馬鹿になるよしを申すと。常師打笑ひて、さる事も有べし、去ながら我一倍たるべしといひしとぞ。是のみならず、万端辨才を以て負る事なし。されど段〓門人多く成て、此所に永くとゞめ置んと思ひ、庵をも新たにしつらひ、絕ず會席有けるに、假初の事より地主と爭論に及び、其地を退くに成し時、芦にこそ濱荻に角はなきものを支考雪間にのこる雀のあし跡乙由夫より美濃にうつりしと也。是等の事、山田御師鈴木氏入楚、己への話也。此人はじめ支考門にて、右の誹号も貰ひしよし。寶曆の頃迄存命にて後神風舘を繼。一藪に香の物尾州阿波手の森の堤のもとに鳥居有。夫より行事半町斗にして諾册の二尊を祭る。其境內大藪の中に、五斗も入べき桶に蓋をして大なる石をのせ、傍に札を立て、香の物頂戴望の人寺へ參るべしと有。但、寺は正法寺といふ曹洞宗也。いにしへは農民耕作の往來に、瓜·大根の類ひをその桶へ投入て通りしが、おのづから香の物と成し也と。今は唯形計歟。一一之に昔熱出の神供は此所より調進せし、其內とも云。此事、又、等は智有過てこまる也、少しも苦しからざる儘早〓望みの通りにすべしといへば、心得ぬ樣子なれど調じて出せし所、取たてなれば風味よく、夥しく食せし也。〓師、當座をと有けるに、音によめば味ひ美也まつの露素外松露の事、香月牛山食鏡"、氣味甘く、松氣有美性、輕くして毒なし。但山に生ずるものは大毒有、食ふべからずと。又云、松露を食し魯鈍と成事は、己いまだ聞ず。世人茗荷をばしか云。この草は佛弟子般特が墓より生ず。此子愚癡にして我名を忘れしかば、書付首にかけける。其墓より生じける故、名を荷ふと書。されば食すれば其氣をうけて記憶宜しからず。夫故異名を鈍根草といへり。此事隆寛祕傳抄ニ有と。併ながら本草異名の中ニ此名なし。不祥の氣を去、虫毒を解し、能多きくさといふ事は見えたり。好む人は食ふべし。たとへ鈍根の名ありとも、大馬鹿にもなるまじき也。天竺と同じ草でも日のもとは富貴自在とて冥加ある名よ素外三之卷畢誹諧奈都美津起三之卷未那菟機川凉帷子も山藍さびや社地すゞしすゞ風や顯はれ出し雨後の月色涼し風なき暮も靑田面不忍もすゞしや月に島の景凉しさの心にうごく柳かな富士はみな疊て涼し雲のみね嘸すゞし繪で見てさへも浮御堂夕がほの宿ほの〓〓と花凉しすゞ風や蚊柱削る月の前納凉兩國の橋に人咲すゞみかな夏や夜を長くも哉の庭納凉松風に琴ひかせつゝ庭すゞみすゞむ夜や燭臺引せ螢籠家挾夜納涼更て咄の聲高し二三素麿時麿吳龍吳玉女其葉輝月些百女連車冬央龜幸文賀女龜春升來
藻雜夜松魚も天のあたえ歟涼み涼む夜や人にかたちの欲氣なしすゞむ夜も蚊を追ふのみ歟澁團扇商人は夜をむねかもすゞみ足る事極樂はこれぞ此世のすゞみだいすゞみ臺この下流れあらば水茶屋もすゞみ支度歟夕化粧めでたけれにいとま申てゆふすゞみ見られ見つ舟と橋との夕すゞみ砂川に足うちひてつ夕すゞ富士はまた不盡と見えたり夕涼み月と風とすゞし三俣川漕出すや人も滿汐すゞみぶね御大家歟行儀に女義のすゞみ舟時や七ツさるまはし舟すゞみ船釣やめてこれから涼み木場の月無禮講のさまや下部が樂すゞみ子を寐せて月入までや緣すゞみ擬寶珠は風みつ玉歟橋すゞみよ只一疊のすゞみ一客時臺猶み丸夏もはや鈴虫すゞし夕藥空すゞし雲脫すてゝ月まど混藝に汗は乾く間もなし納涼舟船頭もすゞみながら歟夕小ぶね啼かば猶けふらほとゝぎすゞみ舟川はこれ別世界なりすゞみ船純淨酒宵に入月こゝろなや門す碁の友を月にまつ也すゞみ臺見てもすゞし納涼浴衣の伊達竸兩國は寐ぬにあけなむすゞみ時親と子歟遠く遊ばで門納門すゞみ友二人ふえ又ひとり物見さきに川ありすゞむ客まふけ納凉過て冷たく成しすゞみ肌入て氣がつきにけり川岸涼み僧徒涼む月下の門や明はな昇る月に誘はれ出つすゞ納涼とる川やあつさの捨所合み師か凉哉し人師か從素素素女家、鐵、言素素昌賀金龜一外牧外外周登舟重馬流調素仙壽千逸雀龜榮錦電子式龍枝車玉素仙霞凉龜龜龜左如一素宜淇布久里溟朝外郞秀園秀翠翠見外山麗榮洞人秧水かはがりや七騎が中に鯉一河がりに脫ですくへよ網じゆばん河狩やとれる側からひさぐ魚かはがりや瀨の鯉見つけ惣がゝり川狩や魚を根こぎの大仕かけ罪むくひ思ひも出さじ河がりはかは狩やかりせぬ身にもよい見もの川がりや辨當所には柳かげかはがりや氣轉きく人利ぬ人川狩やおさまる御代の舟いくさ河狩や浪をはしらば兎でも狩くらす川ややなぎの下休み川がりやねれ顔撫るなつ川狩や魚は獲ずとも時のものかはがりは水馬角力のたはれ哉川がりや獺もしばらく住居かへ鐘つきも納涼がてら歟さよの月風なくば寐なまじものよ挾夜凉み我のみとおもへば人もさよすゞみ川狩狹二五本柳漉水の音や門すゞみ月よくて更ぬ二三童部等もむしろの友や門雪國の咄しも出たり門すゞいつの間に月は入し歟門すゞみ茶を入れて門の涼みや水いらず凉み支度庭樹伐せつ植させ足る事よ舟より己が庭すゞ忍び駒にひくや月夜の庭凉鷺すゞし日は色のみの夕川邊見てもすゞし禪ひとつで帆ごしらへ賀茂涼し四條は人に暑かりき盃を流すもすゞし四月すゞし兎も波をはしりぶねすゞしい歟浴れば鷄の砂水行ぬけて別してすゞし橋の今朝も涼し夜下の打水殘る月涼風や供待人が顔のくみかへて冷水うりも暮すゞしすゞ風や吳猛が孝の蚊晝寐の耳納涼條笑凉を拂一一軒みつみみ川も上みしひ輝一霞玉素凉榮英文文吳如時素升龜冬錦月秀外翠翠山龍枝水麿麿來幸央車壷英素素夷(法)素花春惠義規花曉有世吳千素秋右社時雨気軽減田綾逸來行策外外社慶瓜風粒外外柳市義〓外珠塵
雜名越秡宜禰な烏帽子とられそ風の川社川撫ものに〓し汗さへこゝろさへ撫光陰の早瀨にそだつ鮎や獲ん月にちるや鵜のかゞり火も波の花振袖のすなどりも見ゆ夏川邊手ぬぐひを纒や四條のうかれ人得たらばと瓢たん酒や舟に照網のおぼ子や夕月夜夏のみの網うちも出つ夕川何ならめ魚五ツみつ四手さし汐や月ひき上る四はねる氣も見えず四手の歸る帆歟舟のよつ手歟夕月持綱や舟に酒ありさかなま川がりや月かき濁す丸はだかはがりや柳につなぐ小辨川狩の留守や女護の嶋歟とも社物鯰がり手大邊網網鯰夜たか當河狩や藻ふしつか鮒つかみ取かはがりや簑の下なる小脇ざし河狩や石龜ひとつ川がりの岸や岩間網歟もや歟見えつかくれつ四手引四手網にかゝるや鰡もおぼ子とて引上れば四手のうなぎのゝ字とぞ目に光るよつ手の魚や星月夜きらひでも一ぷくすふや四手あみ集めとるや三俣の瀨に四手あみ四手ひきあみと人との首引歟上げるたび月も雫やよ星影はすくひ殘すや四日ざかりの暑さ知ずやあふぎ網さでもよし岸に寄浪よる魚川がりや殿も笠とる大獲もの川狩にうきぬ沉みぬ大うなぎ繩混四十郞合扇網紛れものを俄曲突つで手網網を一龜素逸世曉崔吳賀女有素五龜蘭千在錦仙龜龜左龜文賀女龜雖然大鳬麗榮洞人春車龜素連醫生大車淇奇候得共金園馬峰秀龍粒外義柳郞〓市外計流重陂朝泉龍秧けふもまた扇や暑氣をはらひ草そよ風は人すゞしめや淨衣より〓しみそぎの染浴御秡けふや目にもろ〓〓の舟遊山雨や催ふ御板の幣に風せはしこゝろから凉しみそぎのかへり道こゝろまで水に洗ふやみそぎ河御秡川邊暮しら鷺や五十串日は西に今ぞみそぎの風すゞし風そよぐみそぎや心さらし惡魔をも千里の外へ御秡かみたらしも〓くすむ世や夏はらひ目に見ゆるもの皆〓し夕秡夏の日もこゝろよい哉夕はらひ蠅は猶烟らせて蚊も夕はらひげに命のぶ心地せり夕はらひなごしけふはらはらひぐさ新加面タ秡ひ御なら おと二一秡川衣抔河な取川狩や川がりや十人寄れば智惠川狩やよし濁すともすみだ河がりの大將軍歟すゞ川がりや魚よりは先ヅ水遊かはがりや混沌未分すめる瀨も川河狩かはがりや禁斷札 の川狩にまじる仲居やをんな武者河がりや暑は忘れても丸はだか河狩の報ひ歟夜の此あ夏川かはがりや僧に見られて耻かしき河狩や淺瀨を養るはだかかはかは狩川がりや鵜でゐる中に烏ありかはがりや踊れば躍る狩の日も甲ちらす狩やに脛のしろさ よはだかに禮も主やじ ゆや其川上田鯉取ばん草干 て序得たる剛のへにや垢帶近魚岸京離を野所つとに女行狩川ま家十みむしさ人龜中者衣狩で來色者河臺びひなら おと仙龜些山女琴志女龜凉如素升文通武冬麗榮山水麿來央其時素龜龜榮素沾女春素我斗廉秋英素素花右寬仙遙言素素社時雨外紫溟富策珠登綾丸外瓜之里瀨外牧轉兆蝶覺葉麿袂春幸枝
藻雜池玉系大書俳本日雅河社すゞしめの風やすゞしとや神も思さむ河やしろ波の鼓うつは神樂歟川やしろ撫ものは神ややどれる天窓から川風は身を撫ものや夕川形しろや流せばよろづ葭川鳥居たつは鷺や鷗や川や混川風にけふや暑さもなつかぐら晝と夜の行あひの間や夏神樂夏神樂茅がやもて輪もゆふ秡夏もはや茅の輪流る今や御秡もすみだ河人に添てくゞるちの輪の風すゞし潛り行歟虹を茅の輪に夕がらすにつこりと茅の輪くゞるも俠者哉雅子よ潜るちのわも智惠の輪ぞ茅の輪菅ぬきやくゝる心もすが〓〓し菅合貫待乳し ろ山邊邊癸酉夏はらへする日と成ぬ恙なつ三月歸さには羽織尋つすゞみ川がりや底にも見ゆる樽の舟影爰に暫しよるべの水や川やしろ影騒ぐ夕川狩やかつら男もすゞし船と舟の咄しのへだつほど追加麻の葉に瀨織津比咩葉も麻を身にふるゝ時や夏はらひ麻の葉に夏も流れつたゞす川ちの輪ぬけて夏もうしろと成にけりをみなぞや潛る茅の輪のおもはゆげ人〓淨今や茅の輪にむかふくゞつたな流す茅の輪をかいつぶり混雜や浪の文顏全部三册了素笠、春、規花千義壷在素素花遙素素斗素輝吳連玉素霞龜左民主正外樵裡外慶來粒外泉外兆外瀨塵粒溟周月龍車翠翠外洞人出むと潜る茅の輪は夏の裏門歟舟も無事名越の秡する人は賀茂河の夏越や翌は蝶戀せじを神もうけじ歟御下向には玉屋が花火みそぎあれもすゞし浴衣に羽織御秡人うかれ女のうさもはらふや御秡河こゝろもて心あらふや御秡暮すゞしく御秡を拜むあらたさよ盃も流せ下向のみそぎぶね幣そよ〓〓科戶の風歟御秡川今や風む風苑にこのはらひ河夕はらひ荒關取もにこ〓〓とすが〓〓し殊に月ある夕はらひ照ながら何所やら暑氣も夏秡ふらんとす八重雲や吹はらへ川着つれたり麻の葉絞り川やしろはらひ濟て後宴の涼みかは社身の罪も蠅も何所へ歟川社神の灯歟星歟みそぎの河社も秡二一秋今川河二九廉晶田夷寬素沾女宜五壽從素惠奇我都奴雅素素花素富舟計社溟逸一行風峰蝶之久轉外丸外紫秀
系大書俳本日枇杷園隨筆びはずゐひ士朗著
枇杷園隨筆目次去來書藤堂家之文綠筠軒蘇東坡幽齋文字讀之事(一)、游女高雄文天下老和上之事楳月之事附句之事蕉翁消息桑名本當寺御會之事俳諧式附懷帋之事落柿舍覺書抄附哉手爾遠波之事芭蕉翁偈花下飮之事蕉翁消息蕉翁龜子良才之事二見形文臺記土芳隨聞抄稻妻之句論附支考夜話嘗ヲ窺ジニ朱樹翁平生隨筆ヲ與ド余遊歷シ四方〓所見聞スル者〓吻合スル者甚多シ其吻合スル者譬レルミ之ヲ如〓劍合延津一珠還中ガガ合浦ヒテ近ヨロ與大蘇五道謀"欲ヲ鏝メテ之ヲ于梓一以テ公キセン〓ヲ于世〓ニ之于翁翁ニ〓點頭ノ曰善哉是〓實可可我徒之大幸一者也曙葊秋擧姑射城の東に一朱樹の翁あり。我ともがら、雛の親鳥をしたふやうに、夜明るきは·日くるゝきはみにも、其木蔭をしたひよらざるはなし。ある夜、翁一卷を出して予にしめし給ふ。ひらき見るに、皆古人の俳諧にあそべるあらましごとなり。我ひとり祕藏せむもほひなくおぼえ枇てかく。大蘇附支考夜話一二三
蕉翁珍夕ヘノ消息丈艸法師截斷指頭之詩伊勢法樂之句三聖之事脇二編井文高野登山端書菊句奈良難波之事萬菊丸鼾之圖伊賀上野ヲ出テ旅行七十里之事丈艸法師潘川ヘノ消息枇杷園隨筆日系大書○去來曰、蕉翁の俳諧を學び給はんとならば、先師在世の集·其高弟達の集をよく見ならひ給ふべし。そのうち或は不審の句も多かるべし。其不審の句をうち捨て、たゞおもしろきとおもひ給ふ句をとりあげて學給ふべし。或は先師眼前の俳諧といへども、その辭あしき句の有まじきものにもあらず。猿簑集にも先師の心にかなはざる所二ツ侍るよし、常にうけ給はり侍る。まして其後の集には、さばかりの句多かるべし。第一は唯今見給ふ人〓の眼に及ざる句もまた多かるべし。しかるを其不審の句になづみて全篇の俳諧を考ざる人あり。さやうの人は先師の直示を受らるゝ人にも、終に上達したるを見ず。まして後人には有まじき事なり。たゞ先師目前の俳諧或は高弟達の俳諧貴しと、一筋にその流にうちこみ學び給はゞ、おのづから上達し、後には不審とおもひ給へる句も、其まどひはるべき也。右は去來正筆にて、先年大津騏道より來る古筆いろ〓〓の先年大津騏道より來る古筆いろ〓〓の中にあり。○芭蕉翁病中の吟、夢は枯野をかけ廻ると書捨けん後誰か追つくべき疾足もなし。剩正風の杖をうしなはんとす。獨行の翁いかに心ほそくや。ある道を人の通らぬ枯野哉雅堂主人右、藤堂家の話とて行脚の桑門のかたりける。○綠筠軒可使食無肉。不可使居無竹。無肉令人瘦。無竹令人俗。人瘦尙可肥。俗士不可醫。傍人笑此言。似高還似癡。欲對此君仍大嚼。世間那有楊州鶴。元祐二年超郡蘇氏十四日書○問曰、そなたの文字、よみばかりきゝことなるはなし。よみやういや。荅、ま〓にに大事のものなり。よみやうは、句の起るべき所又うけてよむ所などの分別也。三光院殿、せつ〓〓しかられしなり。ならぬものなり。三光院殿、今時の校合よみといふもの也と仰られしなり。中にも古今の序、よみにくきものなり。よみならはせ給へ申べしとて、半分ほど、又、はてとをよみて聞かせ給ふ。俳諧の上にもよみ方大事なり。連句などはよみ方にて、よくもあしくも聞ゆるものなりとぞ。許六曰、發句は正風体を宗とするなり。見聞たる所を句に作るなり。幽玄の寂·ほそみみへかけて人の感ずる事をするなり。○わするゝひまもなくいへば、おもひ出しもせずい。かしく。右、游女高尾がふみとぞ。○古語天下老和尙の客僧とや。今宵訪來るものどもは、南池の鯉魚、東野の馬頭、西竹林の一足鷄、椿木お宿にか。春もやゝけしきとゝのふ月と梅かつて芭蕉翁の自〓賛を見る。紅のつけたてにて薄紅梅なり。心得べき事にこそ。○大蓼に殘る螢の覺束な月に狸の民をかけおく句作のあらひ又感心申い。俳諧の上にもよくもあしく雅堂主人おもひ出しもせずい。か枇杷園隨筆二三五
芭芭蕉翁眞蹟、霧くろく包める瀧の落る音守なき堂に紅葉まゐらせかゝるけしき此春多く見申い。あはれ催しい。芭蕉翁の評なり。東海道の一筋をも見ざる人、風雅の道におぼつかなしといへるは、かゝる事に心をつけよとにこそ。○坂本にて一宿、早苗に鹿を追ふ聲、なつかしく覺え申い。坂本の鹿いづれの秋にかと存る斗ニ御坐い。罷歸ゆ得ば、又いつ上り可申樣ニも無御坐、一しほ〓〓御ゆかしさのみニい。下向の頃桑名本當寺御會に芒をきつて笘に茨けり琵琶負て鹿聞にいる篠の隈坂本を心の底に置いか。熱田會にひとり書を見る艸菴の內二町ほど西に砧の聞ゆなり重て委細に書付可進い。七月十八日芭蕉右、千那·尙白·靑鴉におくり給ふ文、芭蕉翁眞蹟、每份好雀にあり。○抑、俳諧に連歌の式をはなれて一卷の式を建る事、よる所なきにあらず。既に荒木田守武、發句一章にして千句の連歌あり。此式をもて我徒の千句とし、哥仙とよびて三十六句をつゞるは、千句の花三十六章なればなり。又、千句の月を計えて七十二候と號す。是は百韻の中を一折ぬきておのづから叶。千句懷帋三十六枚百韵懷帋四枚歌仙懷帋二枚本懷帋三折·小懷帋四折なり。本懷番綴やうは、水引を女結びにして、みつを上へなすべし。七文字にて二つとなる所を二行にかく。發句の事○發句は和歌をちゞめしものから、必切字あるべし。世を旅に代かく小田の行戾り蕉每份好系大書俳本日あか〓〓と日はつれなくも秋の風事ふたつに成て丈あるは發句なり。發句附句案樣之事發句は萬代の寶なり。いかにも執を引て案ずべし。心の顯るゝなれば、はづかしきものなり。風流を忘るべからす。附合は執を引べからず。一卷をさばくべし。己よくても他の附句あしからんは、是連席の耻なり。俗談はよし、片言を吟味すべし。變化を第一と心得べし。○月花の事前句に泥むべからず。風流を盡すべし。前後を見合て、ひとしからぬやうにすべし。右、落柿舍覺書抄○吹ながす哉といふ事あり。櫻さくかなの類なり。是を鳶の尾にたとへて聞せ給へり。鳶の尾はなくてもよからん、ものゝひら〓〓とひらめくにつけて、身の自在は出來るもの也と、よき人は仰られしとなり。俳諧の發句の上には、さることぞたま〓〓多き。○芭蕉翁偈胡蝶窗前午影空蒲團眠覺步溪東花塲艸底總飛盡黃鳥一聲深樹中右.富春山和尙話○辰巳某の家の櫻の本にて、家來彥六といふものを手うちにしたり。其後、年〓〓花下飮に會する人、醉狂喧〓の沙汰に及びければ、白梵庵馬州といへるが是を聞て、彥六よ花となりてもちるものを(中)かくいひて吊ひければ、其後は喧〓のさたもなくなりけりとぞ、ある人はかたられける。○早春佛頂和尙へ御狀被」遣いを則愚庵へ爲持御越、微細熟覽仕い處、木兎の角あるけしき、先感心仕いうへ、病床に病と組て勝負を御あらそひ、終に大眼悟哲の勢ひ、驚入奉存い。和尙の肝膓いまだしかと探られずい間、重而評判可申進い。和尙にも舊臘は寒ぬるくい故御持病もこゝろよく、愚庵まで手をひかれて一夕御入、大道の咄し止て俳諧にて到半夜い。梅櫻みしも悔しや雪の花と御申しい。感心致事ニゆ。且又正秀三ツ物、さて〓〓お蒲團眠覺步溪東黃鳥一聲深樹中前後を見合て、枇杷園
〓以二見浦圖。世云之二見形文臺也。先師晋子其角老人爲蕉門顏関授之。而祕于庫底有年。偶憐予與學業傳之。予亦思往師之恩不敢爲人許也。而揚馬深嗜風雅厚耽我(一)道誠可謂一時之李杜。頃造文臺一固乞記諸予。〓惟古芭蕉詠郭公之一句安其短册於文臺之裡。盖是安短冊於文臺裡之起原也。今用其故事皆揚馬得芭蕉翁杜宇之句之眞蹟。則安其德。嗟呼道之弘宇宙也皆自蕉翁。採例諸芭叟者誰爲不然之乎。聊述其始末以備于後之證云爾。享保十八歲夏五月下浣日半時庵○土芳曰、師の思ふ筋に我心を一ツになさずして、私意に師の道をみて、其門を心得顏にして私の道を行事有。門人よく己を押直すべき所なり。松のことは松にならへ、竹の事は竹にならへと師の辭ありしも、私意をはなれよといふ事なり。此ならへといふ所を、己が儘にとりて終にならはざるなり。ならへといふは、物に入て其微の顯れて情感ずるなり。句となる所也。たとひものあらはに言出ても、其ものより自然に出る情にあらざれば、物とどろき入、定て御ちからかりいものと甘心仕い。褒美之旨正秀へ申遣ゆ間除筆い。右、芭蕉翁眞蹟、松兄にあり。○龜子が良才、是華原神童子か。且予が附句禁止之事、申分尤あさきにあらず。されども生涯五十にちかく、天命私にはかりて今より十年、日數三百日、一日の愁に一日を損し、一夜の樂は一夜のよろこび、身に行ずる〓とはなけれども、六塵おのづからちか付く。さればおのづからけがれすくなし。只三千六百の日數をかぞへつくす。無常迅速の觀中において、何をかさたせん、しらず。只、念動ずる風雅の情のみをしれども、いまだ宗因どきの興作なし。宗因ごときの惡句なし。只善惡の兩意をいはむ。病魔仙狐の障をうかがふて、死するまで止事あらじ。右、芭蕉翁眞跡、徐英にあり。○新模二見形文臺記夫倭歌之文臺之製作者。載明月記勸善記等。而誹諧之製度中絕而世有識者鮮矣。獨松永貞德先生興之而傳諸土佐國燕石子。石子奇芭蕉翁才授之。翁終命一名匠新造之。褒美之系大書俳本日我と二つに成て其情誠にいたらず。私意のなすわざ也。たゞ師の心をわりなく探れば、其色香我心のにほひとなりて移るなり。詮義せざれば探るに又私意あり。詮義穿鑿責るものは、暫も私意に放れて道あり。只怠らず詮義穿鑿すべし。是を專用の事として、名を地拵といふ。風友の中の名目とす。功者に病あり。師の辭にも、俳諧は三尺の童子にさせよ、初心の句こそたのもしけれと度〓いひ出られしも、皆功者の病を示されしなり。又、氣を養ふと、殺すといふ事あり。氣志を殺せば句に入らず。先師も俳諧は氣にのせてすべしとあり。又、我氣をだまして句をしたる、よしともいへり。皆氣をすかし生して養ふの〓なり。門人、功者にはまりて唯よき句せんと私意を立て、分別門に口を閉て案事草臥るなり。心の愚なる所也。多年俳諧好たる人より、外藝に達したる人、はやく俳諧に入るとも師いへるよし、ある俳書にも見えたら。師曰、學事は常にあり。席に臨て文臺と我間に髪を入れず、思ふ事速に言出て、爰にいたつて迷ふ念なし。文臺引おろせば則反古なりと、きびしく示さるゝ辭もあ60右、土芳隨聞抄稻妻や椽まで來ては歸る波いな妻やくだけてもとの入處門人曰、此句古今の名句といへり、いかん。翁荅曰、いかゞあらん。稻妻や闇のかた行五位の聲我風流はかくこそありたけれとのたまひたりとぞ。右、斗入夜話いかさまとすることによき事はなきものなり。いつもの事にて、其うちに何とやらむめづらしき事のあるがよきなり。○支考三年を經てはせを庵に仕候せし時、翁のたまひけるは、久しく句をきかず、定めてあまたあるべしと也。支考、心に思ふ句有て去年の秋、牛呵る聲に鴫たつゆふべかなかゝる句仕いとてうかゞひければ、翁はとかくの返事にいかん。翁
も及び給はず、て、久しうして後、予も此ほど一句したりと○甲子仲秋五烏訛自截斷指頭截斷指頭大阿劍倶低端的勢還瞞血流染出秋林色咲做空擧紅葉看右、丈草眞蹟、犬山岡田氏にあり。○貞享五とせ如月の末伊勢に詣づ。此御前の土を踏事、今度五度におよび侍りぬ。さらに年のひとつも老行まゝに、かしこきおほむひかりも、たふとさも猶思まされる心地して、かの西行のかたじけなさにとよみけん、淚の跡もなつかしければ、扇うちしき、砂にかしらかたぶけながら、何の木の花とはしらず匂ひかな右、鶯亭夜話○夫風流に心をとめて其四季にともなふもの、濱の眞砂の盡せぬ詠ならめ。其情を述て其ものをあはれむ人は、ことの葉の聖なり。されば文明のころ其道さかんなりし聖たちのこと葉、今の掟となりて其實なる事、今の人のすさむ事かたかるべし。されども風雅の流行は天地とともにうつりて、只つきぬをたつとぶべき也。さればかの宗祇·宗鑑·守武の壽像をもとめて、此道の好士許六の筆系大書俳本日よく見れば薺花さく垣根かなその時腋下に汗ながれたりと、或人には語りける支考、その時腋下に汗ながれたりと、とぞ。右、斗入夜話○越人よりも狀こしいよし、へもとゞきい、發句有之い。思ひきる時うらやまし猫の戀と申越し、よろしくい。愚句不性さや抱起さるゝ春の雨こゝもと門人の句に、庭興梅が香や砂利敷流す谷の奧今おもふ所に聊叶いへば書付進い。二月廿二日芭珍夕樣右直蹟、三河都築和樂にあり。一段の御事ニ御坐い。此方又、芭蕉勞をかり、我拙き一句をつゞりて、むならんことをいのるのみ。月花のこれや實のあるじ達右、卓池夜話○折〓〓や雨戶にさはる荻の聲雪芝放つ處に居らぬすゞ虫はせを荒〓〓て末は海行野分かな猿雖鶴のかしらをあげる粟の穗はせをこゝもと折〓〓の會御坐い得ども、いまだかるみに移りかね、しぶ〓〓の俳諧、散〓の句のみ出して迷惑いたしい。此中脇いたしい間御目にかけい。○高野のおくにのほれば、靈場さかんにして法の燈消る時なく、坊舍地をしめて佛閣甍をならべ、一印頓成の春の花は寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の聲·鳥の啼にも膓を破るばかりにて、御席を心しづかにをがみ、骨堂のあたりにイて倩おもふやうあり。此處はおほくの人のかたみの集れる所にして、わが先祖の髪髮をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、此內にこそおもひこめ道のたゞ萬古にさかつれと袂もせきあへず、そゞろにこぼるゝ淚をとゞめて、父母のしきりに戀し雉の聲右.秋擧夜話〇一兩吟感心、拙者逗留の內は此筋見えかね無心元存い處、さて〓〓驚入い。五十三次前句とも秀逸かといづれも感心申い。其外珍重あまた、惣躰かるみあらはれ大悅不少い。委細に御報申度い得ども、いまだ氣分も不勝、何角取紛ゆ間伊勢〓便次第ニ以細翰可申上い。右之氣分故發句もしか〓〓得不仕い。九日南都をたちける心を菊に出て奈良と難波は宵月夜秋夜秋の夜を打崩したる咄かな秋暮この道を行人なしに秋の暮廿三日はせを拜意專樣土芳樣枇杷園隨
〇三月十九日、伊賀上野を出て三十四日、道の程百三十里、此內、船十三里、駕籠四十里、步行路七十七里、雨に逢ふ事十四日。瀧の數七ツ龍門西河蜻蛉蟬布留布引箕面古塚十三兼好塚歌塚乙二級洪書瑱報〓盛石塔敬業興八九級松風村雨塚通盛塚越中前司盛俊塚河原太郞兄弟塚良將楠塚能因法師塚峠六ツ琴引臍峠野路小佛峠經理事クラガリ峠當麻品屋阪七ツ粧坂西河上ちいか坂うはかり坂宇野坂かふり坂不動坂生田小野坂山峯六ツ國見山安禪獄高野山てつかいが峰勝尾寺の山金龍の山此外橋の數·川の數、名もしらぬ山は書付にもらし申량芭蕉翁眞蹟万菊丸鼾之圖系大書俳本日龍門西河蜻蛉蟬布留布引ちゅうそうのの洪書瑱報〓盛石塔越中前司盛俊塚經理事녘四人をうはかり坂てつかいが峰その方をいひきのはいなを靑菊卯月廿五日惣七樣桃万伊賀上野內神屋三四郞所藏右眞跡、伊賀上野猪來にあり。○淋しさにたえたる人のまたもあれな庵ならべん冬の山里。嵐吹く深山のいほの夕ぐれを古さと人は來てもとはなん。と古狸の西行·昔猿の兼好、さかしき筆のすさみながら、さて〓〓草臥たる淋しさもありけるよと思ふ折から、よくこそ〓〓をりかへして御文、はじめにははしり能筆、後にはねばりなき墨おくり給り、誠ものもらふ友といひし古も、今もかはらぬどぶるき事をくり返し、御返事とて申入い事、隙人の所作と御しかりなく、どふらく時特には奇得と御覽可被下い。先〓打つゞき寒へわたり申い空にも御息才に御つとめ、何寄の御事と悅入い。爰許にても御宿所御無事之由は、さだめて折〓〓御聞可被成い。野僧事も疝氣に責付られ、火焼の櫓にのみ風情ながら手療治のはたらきで、けふがけふ迠持こたへ、もはや春を隣の艸の戶さらりと明たらば、ひらに天目の浪〓〓打寄〓〓ものすべきよし、千石·正秀·九郞などひたとすゝめ申い。よの事聞やうにもあらず、何處やら氣むまきやうにて、ともかくもと申折から、其許にも極尤に思召との御事、極の一字過分至極、殊に極月にさへ漕付たら、年波も程はあらじと樂い上、猶更放下僧の御句とて咲ふ〓との端と珍重。此方は歲旦の心當などは、さら〓〓是なくい得ども、いかなれたゞはゐられぬであらうと我身を賴暮い躰、たゞ〓〓不性のみ年〓〓に增行くせに、來年は〓〓とて暮しけりと露川が發句が的中にて、さだめて膳所には、わつさりと三ツ物出可申と存い。其元は勿論すさましき事御たくみ置い半とおそろしくい。御發句、わり玉子のいさぎよき所·すはりたる處、御手際之程感入い。幸頃日去來方にて長崎卯七が集を取立い付、愚句など遣い序に其角の發句·野徑のなど一所に書付、集中加入いやうに申遣い。愚句の御褒美悅入い。されども世上切物の發句を澤山にいたしいとの御事、どこやらそこきびわるく覺えい。是は先日お顏のやうな御心じやと、さるものゝ申たると申入い得者、つめるやうなとの御ひげにて、其かへしにやと存い。さき〓〓も進じい句ども、みなてんこのかは、おほくは千石がくるりけのたぐひにて有之い。されどもみる事聞く事たゞと越さぬとのおほめに枇杷園隨筆
なり畢竟は一ツとやくにたゝぬ〓とと、あくびたまぎりて、腹ばいして筆にまかせ、こよひは六日の夜も亥時過、わけもなく覺もなき事ばかりにこそ。荅騒人起予强催文飮草堂中侵我秋山睡味濃若是有情休再訪枝疎老樹不唫風重而御見舞ないがお情、ものぐさの野僧は、たゞ老木の枝さびしく、風にもひゞかぬやうなりと、我まゝを申たるが一物、あづかり、さのみ腹は立不申い。頃日も西國邊より折前書中さま〓〓の事聞えいうち、肥後熊本使帆と申い僧は、助成寺の住持、今度蕉翁の墓をきづき、月並興行申いとの事、此寺はむかし大磯の虎、西國巡禮の砌助成のためとて此處にて墳をつき、十郞の笛など寄進致したるとの事、由〓のたら〓〓八百八駄程有之い。是は是にして、さても蕉翁の德光、年〓〓に墓の出來も寔に祟く覺えい事"ゆ。彼寺月並の講式を書てと申越いへども、例の不性病ほうけと斷申遣い。發句一ツ石碑の前に手向てと、いかめし兒に申遣い句、在し世の寂よそのまゝ霜の石頃日、又、雪の夜にかさなり行や鴈の聲詩などもいはゞ懸御目可申よし相心得申い。これとても同じどうらく、ふつ〓〓と無之い得共、一ツ二ツ思ひ出すにまかせい。とかくさらりとよめぬ所が一物にて御坐い。雨の夜·雪の日そろ〓〓御覽可被下い。何やらかやら是もいふて、あれも申てと存い內、あとさきへ日閏八月望夜月下書懷桂穀推雲輾嶺頭草廬有約待吟遊山深若是獨看月爭識年光加仲秋喜落柿舍去來風士到山房遠吟落葉到茅衡柴火當燈道話〓一味幽情偕欲賞寒天霹靂震三更閑自慢をする所に、夜中散〓〓雷がいたしい故、とりあへず申い。かね〓〓去來見え來いはゞ御近付になし可申いよし、夜でも夜半でも御しらせ申せとの事、いかにもと相待い事、いつか〓〓と存い處、先月初に晝過より入來、一宿にてさま〓〓の事咄申いにも、貴丈存出いべき、寒き夜やおもひ付れば山の上去來が挨拶。此方は無句にて茶をわかし、長崎の唐人哥所望いたしい。甲頭巾影をかしく壁にうつり、夜着蒲團のないをとり得に火燵にてはなし明し、さきに書付い詩を一ツむりにまげ出しい。隨分かたやも又おかしみの通ずる男にて御坐い。句もまた何やら咄いへしが忘れ申い。にや〓〓風詠たえず、やさしき事とほめ仕舞にいたしい。したが此人も昔は具足を賣て傾城にかゝりいとて、其角なども大ほめのよし、自身にも笑ひ申い。石部金吉と出たるさへ雪に煮湯のとろ〓〓姿、まして〓〓人樣達のわかさでは極〓〓至極なりけらし。扨もはや詩もなくい故幸に御挨拶として一首、謝贈毛穎久無興味動吟情咲對睡猫爐火傍雪鎖松窗氷鎻硯友人贈筆促囘章筆くれて返事させけり雪の庵先日は祈願所法印、はな〓〓しく出立、御旅宿へ見舞いよし。夫行者といつぱ、ゑんの小角のあとをつぎとかまえたる所常にうせず。山伏の見事に出立師走かなとたれ〓〓も見て置た所也。輪袈裟に大小目玉のぐりつきも、さすがに富士見たいきほひにや、貝吹たくせにや、御內衆のきづかひがられしは、ことはりに過たり。されども此方の文御覽の後は、ヱヽそれかと御安堵の体、さて〓〓おかしくい。評日、大燈國師の歌に、あなおかし法報應とばけし身があらはれぬればもとの人道と三身の佛を一呑に聞ゆべしにも似たるかな〓〓。松波集とやらむ、聞は聞ても燈臺もと闇し、つゐに見不申し而悅入い。ちよつ〓〓と異類異形の集出來のよし、みな〓〓申いへ共、よそにのみうち過い。其角方へ内證にて發句見せてくれよと遣い。人の事、いかなる心"や、作者の心、名作の上、愚案に及がたし。されども、評曰、小栗の判官兼氏の草帋を案ずるに、彼照手の一三五枇杷園咲對睡猫爐火傍友人贈筆促囘章
之處、今日足に鍼所望とて參り、古扇をさらりと見せて、此曉まざ〓〓と見たる夢想、そのまゝはね置て書とめたるよし。池水に軒の煙のかげさして夢想と醉とにて埒明い處、さて〓〓おもしろき男、四軒屋の留守はいつも〓〓申出、感入たる御句、今はみそさゞゐ斗あちこち見舞あるき、外はうは張に木の葉籠、女とも見えつ、狸ではないが、山路を行坊主など淋しきものゝ寄合、南隣は後家娘三人、あながちに佗寐の枕引かへて、艸菴は鼠も獨栖、間にはチイ〓〓いはするやうでも、かひいぬるやら食つぶもへらず。頃日は野猫の妻ひとつうかれ來て、雪のねぐら雀をしてやり、狐の手かけじやげなと、子どもおほきおやじあつて、庄右衞門隣に竈をかため、茶のみ所もかさみ、おかしくも軒傳ひに森の日蔭、冬は淋しく夏はあつくるしきは仕合なと立寄、茶のもともはやて、今朝から三くわんす、明てもめいよ人にあかぬ庄右衞門夫婦と、むりにたしなませ申いて、ことに御ことづてくどふもからう申い得ば、咽かはいて例の五く姫のもとへおくりたる文を、つかひのあき人いとかしこく、此文は道にて拾ひいひぬ、よくば手本、あしくば當坐のわらひぐさにもしたまへとて、女房達にまゐらせければ、つゐにてる手の目にかゝりて、おもふ戀路のさら〓〓と叶ひひよし。もしさやうなる事にて侍るべきにやと、在所の物しりどもが語り申い。支考、近頃美濃のお山の夕しぐれにぬれ歸り申い。春は又來てと一筆殘して、麓の里よりすぐに矢橋船、あとに心やひかれけむ、先にもよき事のありけむ。はつしりといへば又そのあとに、三吉·千石·善七·九郞兵衞·志賀の又助など一鍋の趣向、いつでもかくさきわらふ達、ことに頃日養生喰とて皆〓〓赤ひかり申い。御傳言すらりと屆申い。正秀、中〓〓はりよく、勤よく、よく醉てばかり、頃日西は尾花川よりせゞかけて、數十人手に餘りて、足までくじき、にが〓〓しき顏つき、火燵に醉たるやら何に醉たやら、むせうにいきり申い。其元へも狀もいだせしよし申い。埒の明た手紙懸御目い。此手番にも夢想發句有わんすをかたぶけ、かまど將軍皃でさゐはゐを取、鼻に櫓を上ゲ、足打て、雨の日·霞の朝に、四時まで小きげんに小ばなし、頃日も馬の沓かく膝さし出してはたらき風情は、ひたと御噂申出い。もはや來年の七月とてもやがての事、今の事なんと待かけい。隨分夫婦のはたゝき、見事といふもあまり有にや。かゝはそろ〓〓足がへろ〓〓扇の骨も要も、はしりそこなふて、井のもと·畑道にてうちこけいて、ゐにやはせて、とゝはくろがねきかねきつなしに、のつてもそつても、てつてもふつても、さとへ每夜〓〓歸りには謠の圖·經の圖·歸り付ての圖·寐ても圖は、頭のあがらぬと御推量可被成い。其身もよう心得てたのみ申ひ故、かやうに心得て申入いとて、先この元にてよみきかせ進じ申い。いやがるやうでもうれしがり申い。臥高、頃日ちらりともひらりともわせられずい。かはる事はなくこそと存い。しかれどもとつとさき頃、去ル若き人の庵へのぞきて、こゝにてはなきか、それならさきへじやあらうとて、いきすたとかきいそがれい勢ひ、唐へやら天竺へやら、何じややらかじややら、月見の夜の彼瓢のかたき、中〓〓われもかけもせず。思ひなしか次第にしまつて、ちいさうなるやうに見え申い。しかれども風雅の仲間じやと有て、老人のようこそ年〓〓にといへば、かたほうでにつこりは、さこそ戀しくおぼしめし出いやとあきれ果こり果い。惟然、諸國奉加帳の力入渡り、帋衣·襟卷·十德姿、チト鉢たゝきを遁れ出たる躰よと見えしが、又いかなる心やおこりけむ、國鐵路佛といふ事をあみたて、木魚に似たる鳴りものを拵へ、則風羅器と名付て是をたゝき、二一、一古池に〓〓かはづとびこむ水の音ナムアミダブツナムアミダいかめしき音やあられの檜木笠雪の帒やなげ頭巾なんど、か樣唱歌九ツ有て、九品蓮臺にかたどりぬ。此夏西國かた〓〓にて是を唱しかば、米五升·六升づゝ志たとの廣言、古翁墓の下にても、いかゞ見られけんと、もはや一言を出しがたし。十月十二日、草菴ヘ膳所衆、例の一列集い節、かの念佛を手向とて皆〓〓所望、殘多い枇杷園隨
がくせにや。かゝるよしなし事、人の見給はゞ、ひまさにたはことゝ罪を得べきわざながら、其元御兩人別而御心易、せめて草菴一時の咲ひも、あたれかしとおもひ出るにまかせい。必〓〓御他見あらで、ひそかに御わらひ可被下い。きん上さいはい〓〓過し秋の事にや、さる若き人の草庵へおはせしと聞召、是はてきとたゞではあらじなど、御心をつけられい段、さて〓〓御尤至極、さすがに軍記發明の上からと、甲の代に頭巾·ゑり卷造ぬぎ捨申い。然ども今世のわかき衆は、寸斗智惠ふかく用心きびしくて、兄分ばかりでゞも心もとなくてや、外にも又連有て、以上三人にておはしましいへば、そのあたりへ行ことでもなく、稗の穗に馬とりはなつ心にて、何ともかとも、ひよんな事斗咄ちらして仕舞申い條、御不審をなさせ給ふまじくい。述懷曰、義鑑坊が新田義治にめでまよひ、均首座が鍋屋藤四郎に戀渡りけんは、にくからぬむかし語、今とてもさる人さへあらば、さる人もあるべきものにや。草の扉に露ふかく、苔の袂のちりはらひ行峰の嵐に年をかさね事は風羅器がないとの樣躰、是斗はいかなる笙の岩屋のあごは合申まじきと、あきれたもあきれぬ無言上人も、も御坐い。たまられぬ仕合、チョツト聞てモライ可申いと書付い。日頃茶箋めがナニヲト御申被成い。ちやせんゆへ折ふし御噂申出い。いつの事にや有けん、庄右衞門畑にて的あそばしい時、つく〓〓と見とれいを似合ぬ見物、男のやうとて人のしかりたる折ふしも有けりトナン。是等はよしなき事ながら、思ひ出すにまかせ御噂いふ內なれば、御寐覺の節御ゑかうのはしにもと書付い。的もようあたるが、きつう白いこと、むつちりと肥て御坐るとやらいふたとやら。判日、コノ茶箋ハ鉢タヽキヨリヲコリタル文勢ナリ。扨是は六游丈へちよつと一筆さゝげ奉る。つき湯のかくじやと御なふじゆあらせ給へ。去し頃よりは能こそ〓〓兩度まで御文、殊に筆ほしき段御きゝ被下、おくり給り忝存斗御坐い。何書事もいらぬ身の上、かゆき所ばかりかいてゐるが能筈と存い得ども、さびしきに筆とるは老書系大しも、あらぬ方にながめとられたる花の、色すぐるゝといふが因果、名にしおふつるぎしら山の衆徒等が、織部の大夫のもとより賴むと有し文も、いたゞく事のあまりて、字づゝ切て旗の紋におしつけたりけむも、さのみもてはなれたるにもあらじかしなんど、物がたりする人の有けるかたはらより、又ある人の、いやとよ、それはもつけな分別、何ぞのしたじで有う、心をしづめて諦聽せよ〓〓。判斷曰、凡花にめで月にまよひてうかれ寄る色事に、三ツの品有とみえたり。一ツには、其生れつきたぐひなくつやゝかなる兒、情こめたる目もと、聲も笑も佛も、諺にものする、立ば芍藥とゝすりや牡丹なんど、つを引手を引たぐひは、望次第に一言で、さら〓〓さつと竹のあられの、てまひまいらずに埒明ぬ。二ッには、おもざし·形もさのみよからねど、ものどになれ〓〓て、心からわけよく.ものやはらかにて、わたのよりそひ糸のさばき、きり〓〓〓〓と心地よければ、かへらぬかたのうら浪もなし。三ツには、みめも心も松木、ふちこぶがゝつた所はなひと見えても、はつとちらせし山吹色.かねての中もよそにして、はね付とび付、いけすの鯉の手につく自由、千萬無量たとへもなし。此三ツをもたざる人は、さらりとやめてゐよかし。ましていはんや、茶壺はどの眼玉·鬼芒の髮髭、うき世のさがのわれ竹聲、紙のたもとのあらし山、あられもないこと多く、意もいかなこと、八百里すまた〓〓わらひける。實尤〓〓と感じて、いよ〓〓ひとり坊主の板かへし、やう〓〓ねむた油一皿·帋五枚、たはけの有がせうと筆にいとまやりぬ。十二月六日夜半丈草潘川樣丈草跋知を養はんはかりごとは、乞食〓のやうにせよと、かしこき人はのたまひしとぞ。誠にかたじけなくもうれしくもはべるかな。すべて目にふれ耳にとゞまるほどのこと、ひとつとしてのこすべきかは。さればさゝの落葉も木のきれも、常の口のあはぬばかりひろひ入て、たくはへもつべきことにこそ。枇杷園隨筆五二九九道
系大書俳本日芭蕉葉ぶねはせをは一錢重賞米〓
能く徹するをもて要とす。もとより書ざまのつたなきは、敏のいたすところ、いかにせむ、そしりを耻ること深し。一二別·三變などゝ名目を製作し出す、わたくしあるに似て恐なきにしもあらねど、こは永世に垂れ及ぼさんとにあらず、時の見樣をもて、たゞしばらく此書におけるの假初なるかし。一かつしか五色墨の稱を頻〓唱るものは、雜俳と差別あらしめんがためなり。又其風味の違へりとするものは、かならずしもわが管見をもて論るのみにあらず、十指のさすところと、わが見る所と、古とを照し合ての論なり。一當時の句を出し古の句をならべて、其違るをてらし論ずべく草稿しはべれど、そは作者を顯し、またく人をうつの意に相當るをもてはぶきつ。よつて文中句論のあらまほしきいきほひの所もあるべし。一附言をなすものは、この序を得て傳記のかくれたるをあらはし、或は今世のうへにて初輩の惑ふべき事の可否を告しらしめ、道の正しきに寄らしめんとのこゝろざしなり。一卷末に句を載す。古人の句を用ひずしていまをあらはすものは、句格の論にあらずして、今尙古人の糟粕をなめず、日〓に新に流行し、しばらくもとゞまらざるの活道、しかも正風の外に迷ひ出ざるの證をしらしめんがためにして、その次手を鶯笠居士述一茶坊校合低記者 芭蕉葉布禰正風北總芙蓉廣陵著凡例一此書を芭蕉葉船と題するものは、はせを葉の船のかたちに似かよひたるに思ひ寄せ、ひとつには朱拙が芭蕉盥に傚ひ、下ごゝろには、蕉〓たすけぶねを出して救ひ給に、われ敢てその吏として諫を傳るのこゝろをこめたり。一名利をむさぼり、おのれをたてんとはかる輩のつたなきこゝろばへにならはず、信を述て諫をすゝめ、友をしてかゞやかしめ、ともに風流のうちにたゝむ〓とをねぎ思ふのこゝろざしよりおこりぬれば、素撲にしてまさに謗言をはなつに似たりといへども、志のおこるところ左にあらねば、熟覽する人自然に其味を〓覺る〓とあらん。さるによりて文章をかざらず、葉め、一三三
もて死活·新古·上手·下手の作の差別、手爾が葉のつかひざま等をわかち出す。勿論名句をゑらぶといふにはあらず、菴中日記に集れる中にて、さとしやすからんを旨として撰載す。一此書、句編といふにあらざれば.句別其法にあづからず、列こほしひまゝなり。又、諸名家のもれたるもすくなからず、罪する〓となかれ。巳上はせを葉船東都信陽北總系大書俳本日蕉風林鶯笠居士述俳諧寺一茶坊校合芙蓉樓廣陵著泉の湧て地にある、きはめて流れざる〓とあたはず。流れの卑きに付てやまざる、かならず源なきことなし。いづみの性すぐれて〓潔なり。しかれども泥土是をつゝみ玉砂これをかゝげて、そのすゑ或はにごり、あるひは澄む。是泉のあづかるところにあらずして、ながれのゆきはじむるかたの土石の〓汚によるの美惡なり。又高きをつくすものは卑きに歸り、ひきゝにせまるものは、たかきにおもむく。なべて物、その一囘するときは、すなはちはじめに復す。是ゆきてかへらざる事なき自然のことはりなるをや。人間のうへに、ものゝみちのおこなはるゝも、またく其ことはりにしたがひ、一道はじまりてすゑ千すじ·もゝすじにわかれ、日〓にうつり月〓に換るとも、まさに其實をうしなはざるものは、ふたゝびみなもとに歸り、かへりては又ゆく。そも〓〓しきしまのみち、よろづ代の下にながれ、それより連歌のひとすじをわかち、俳諧したがつておこり、長頭丸に至りてはじめて其一源の湖水をたゝひしより分流して、四方その水下の薀藻にからまれ、屈伸にくるしむとやゝひさしかりけるを、宗因なる一傑騒〓としておこり、たゞちに變風してもつれたるをほつり、ねばりたるをそゝぎて活水をひくといへども、いまだ狂言戯語に過ずして、たとへば婦女の談笑するがどく、たゞ觴政の興をたすくるのみなりしが、貞享のはじめにあたりて蕉翁の德大に高く、始て虚中に實を備る正風の活道を見ひらき、猿に小簑の幻術にたましひを招き、斷膓の一聲に其實をあらはし、こゝに又一家の別源湧出し、其流蕩〓として海內に布き行はるゝ〓と、草に風を加るがどし。其委しきに至りては世の普くしれるところ、今なんぞあらためいふに及ばん。しかるに蕉翁寂して其門生すゝきのどくわかれ、蚊のどくみだれて、あるひは亡師の的旨をうしなふに至る。こゝに於て蕉門に又獅子虫のやまひを生じ、異論雲を起し僻說月を覆て、左は右のために惑はされ、右は左のためにくらまされて、終に的僻混雜、近く明和·安永の比に下りては正き道をしれる人、わづかに指頭をかゞむるに足らず。正風旣に絕なんとせしを、たちまち英傑四方に起り、其落〓たるを平撫して、央いにしえにかへすといへども、いまだ練磨の世に當らず。夫より連綿として行はれ、やうやく都鄙巷街にみつるに及て今や其盛る事古に十倍し、諸大家したがつて頭をならべ、牽〓切磋のいさほし海岳に布き、かづきの海士もしをかきの一ふしをうたひ、木賊刈る翁も(一)木の間の片月に吟ず。こゝに至りて元錄の膽をさぐり膓を古にそゝぎて、みづから邪僻のやまひをたちさり、正風泉の金玉をみがくの時來り、不易流行車輪に傚はずして並び備り、曲節死活おのづから明らかに、舊きを尋て日ふに新しく、初輩といふとも安永の初輩にあらず。實に正風花をなせるの春にあへりといふべし。おのれ對竹、雪閉す山·霞こめるうみ、いづこの空かもしらぬ火のつくしの邊境に生れて、蕉翁の杖の跡たに見もしらず、よしあ芭蕉葉ぶね
おほよそにこれをかたりなば、阿房ともうつけとも誹りにあづかるべかめれど、われ生得實地にこりやすき僻ありて、その凝るときは、羽黑の山を脊負出て海を見せたく思ひ、佐渡が島を提入て谷に休せたく願ふ。其格もて人に當らんは、からさけに羽をうへて、行鴈の供せよといふにひとしからむ歟。しかれども人と人との間は、信なくしていかで交の厚き事を得ん。四海兄弟とも聞くときは、更に廣く信を用ゆべし。中にも風客は、しるもしらぬも朋友なり。しからばいよ〓〓信をもちひずんばあるべからず。信を用るときは、あしきはかならず諫むべし。いさめて容られずともわが罪にあらず。おのれにあばずとして人を捨んは、丈夫のわざにあらじ。しばらく口ににがくとも堪しのびて深く味ひ給はゞ、朋友の信の醍醐味舌頭にあらはるべし。ゆめ〓〓人をうがち、おのれをたつるの意にあらず、今いふひたすらに信を用るの見より出る所也。たまにも是を容用ひて春宵の睡をさまし、一四川あたひ千金なる〓とをさとり給はん英子あらば、諫る叟が幸甚限なからんもの歟。この誠實を汲て今下にあらはすしのすがるべきひとふしのたよりさへなく、たま〓〓越人なるもの同〓に產して、其余風はつかに殘れるに似たりといへども、阿蘇野のすゝきみだれがちに、おぼつかなくもやみ路をたどる思ひして、十ヲあまり三ッふたつと指折る齡より深く此みちにこゝろざし、ひとゝなるにしたがひ、かれにうつりこれにわたりて諸流をこゝろみ、諸家の文庫を抑て眞僞の是非を正し、こゝろを天に練りまなこを地にさらし、是がために粉骨細身して寢食をわ(20,するゝ事どもに三十有余年、執念巖を通すの諺むなしからず、終に正風滿月の大道にわけ出、あしたに僻雲をはらひ、夕に邪霧をかきのけて、千練萬調怠らざれども、いまだ眞如の月の〓光を膓にするに至らざるは、かぎりなき活道にあらずや。しかはあれど海內に頭を見しられ名家に膝をならぶる事を得て、遊歷又こゝに十有余年、三都にまたがり四隅にそばだち、數千の客に對すといへども正風の奇妙、貝燒く浦のはてまでも符節に毫髮をいるゝの違目なし。こゝをもて正風の正風たる事感ずべし、歎ずべし。しかるにわれこゝに此期に於て歎息する事のはべる。系大書俳本ところを熟覽し、工夫の糸口をひらき給へかしとねぎ申にぞ。○今こゝに名目をまうけて事をわかつの假そめ二別曰く、あしの丸家と稱る、こは貞德の流也。素より蕉翁已前の俳諧にして、俳諧の字義を用る狂俳なり。又いはく、談林風宗因の流、是も貞德流に同じ。三變一に曰、此都にて今世向坐又江戶坐とも一二經世坐又其角坐と唱るものは、根元蕉門の高弟晋子に出る所なりといへども、晋子、師翁の滅後變風して、みづから一派の新義を起せり。初は翁の意味を用ゆといへども、終に破てその別意をなす。しかれば其角を祖として今は他流なるものをや。此變風、旣翁在世に萠ありて是をうかゞふ、ゆるし給はず。其趣意爰に用なければ略。二にいはく、美濃派支考が變風、是も其角坐に同じ。此變風、翁いませるうちにいさゝか形をあらはす。源氏に至りて自己の風を立て、意味異れば正に他流となれり。工夫の糸口をひらき給へかしとねぎ申三にいはく、伊勢風麥林が變風也。いさゝか當流に似かよひたりといへども、さりながら違ふ所ありてわが正風にあらず。右五ッのものは、わが輩と道を異にすれば、あづかるべきにあらず。されば其徒に對して蕉門の正風を議するはひがごとなり。其祖とする人に舊門の人あるに呟暉て、かならず混ずべからず。其角·支考が句等時代をもて取捨すべき物なるかし。雪門嵐雪が徒いふに及ばず。嵐雪はものがたき人にて、蕉門の歷〓或は變風の企ありといへども敢て取合ず、ひとり亡師の遺風を守りてたのしみはてしとぞ。此都に於て五色墨と号るものゝうち、葛飾社中と稱るものは素堂の門裔なりと歟。素子は翁に左右する友人にして名達なりき。變風の沙汰いまだきかず。此外宗瑞·桃隣等の流れもありと歟。其外にも翁の支流を汲て正風と唱る家くも多からむ。繁くなれば其委きに及ばず。他は是に傚てさとりしるべし。淡門等の類は變風より出たる支流なれば更にあづからじ。点取の社中のどきは雜芭蕉葉ぶ
鄙俗語は用ひがたし。鳶をとんび、雪燈をせんち、牛房をごんぼいはんやこうの類なりかゝるたぐひは都にて言ふりたりとも用べからずゝろの雅俗をや。扨又連句はとりわきかたしと見ゆるは、發句は門人達のうちにもさるべき上手も出來たれど、附句は二十年老吟骨を得たりなど申されつる。中ふたはやすく遂べき道にあらざるを、俳諧は修行なくも出來る事のやうに江戶の俗衆はおもへり。いかんとなれば傍に点取といふものが行はるゝ故なり。こは學ぶにも及ばずしていひ習ふ安き事なり。つのもじのひとふしをだにひく〓とかなはぬ輩が、判者などにもなるあさましき拙きものなり。正風といふは翁の道と異りとは、世俗はしらず、俳諧といふ惣別の稱に混じて、かの点取と同じものにこゝろへる故なり。上方には点取といふもの別にはなく、やはり正風の句をもて点もとる也。故にはいかいをいやしむものなく、儒者も詩人も書家も哥人も文家たる人ふ、兼學びて風交する人少からず。さるによりて誰〓も蕉門の俳諧の高風にして得やすからぬ事をしり、賞歎する人多し。されば雲上貴族も是を用ひて、かつていやしとし給はず。江戶にてはいやしむる人多し。尤至極也。点取の俳にして論の外なり。右嵐雪已下のながれを汲給ふ人〓は、わが輩と同根同胞にして、今更膝をまじへて遊ぶべき友なるを、しかれども風交のうときはなんぞや。俳風の合がたく調味のともに異るところあればなり。師祖とする人〓變風なくして翁の〓のまゝを請傳へたらんには、異るところ毛頭なき譯なり。それが相和せぬといふところが、歎然として今諫を發るの要所なり。先雪門の事は跡へ〓すべし。かの葛飾已下の人〓とたまさか風交して其違目を試るに、傳道の衰よりおこりて活所をうしなひ給ひしなり。我はだって死物となりて悉古みに落、心足居付て一步もはこぶととたはず。たとへば有情を細工にうつして、又それがかげぼうを見するがどし。かたち、氣あるに似て魂魄なく、其上いやしき点取に混じ給ひ、雅俗の穿鑿斷絕したる歟、俗中の俗に落いるもの多くして正調も備らず。いはゆる俗談平話を用ゆとは、俗中の俗語までひらおしに用よとにはあらず。雅俗をゑらぶ也。扨こそ翁も俗談平話をたゞ此俗談平話をたゞさんがためといへさんがためなりとは申されき。る條下にいはく、俗中の雅言は用ゆ、(株)つたなきものが混じて正風を汚すゆゑなり。元錄のむかし當風一統の比、去來·其角が輩議して名目をあらためんと請ふ。翁の曰、名は所詮かりもの也、何にてもくる俳の字葛の松しからず。正風と歟何と歟いはむもしかるべかめれ黃豆飲期限定あれどど、改てわづらはしからんよりは、あり來りのはいも今こ越人がかい、書なれたる名を用るがよし。尤俳の字、にん熊にち說を用べんの方然るべしとて止にき。此時變名し給はゞ江戶風の点取などに混ぜずして、今はよろしからむに翁の(30)気員、瑣細の事にかゝづらはざる、又高しといふべし。それはさて置、かの道の衰たるはかくのどく、点取に混じ思ふゆゐに丹誠する人なし。つまらぬ唯事或は俗中の戯言などをいひ、一廉出來る氣取にて大に高ぶり、正風の味には近所までも喰付かずに仕舞ふ也。しかのみならず江戶に生給ふ人〓は、大かた江戶を廣しとして、天下の廣きをしり給はず、其家〓の〓の可否もたゞさず、丸呑に請繼て同門の外風交なく、諺に井の中の蛙といふに近く、甚狭きにあらずや。江戶を廣しと賴みて道のちゞけ垢を生る〓とをわきまへ給はず、其師〓〓のすゝびたる入子鉢をさづかり、代〓の癖のみに落人、〓の意味も次第〓〓にうとくなりて、終にいつとなく道のおとろへとなる。それさへおのれに悟り得ず。天がした廣き正風にあふ歟合ぬか、當世正風行はるゝやいなや、さていづかたへ何といふ上(一)戶がある、將かゝる句がいづかたより聞へて、今世感激する事なりなども、一向ぬり壁世界也。たゞ一社中の初心の輩ばかりを相手に鼻を高めて居るときは、おのれが慢に覆はれ、前後左右眞暗になるが凡情の常也。そこを蹴やぶり我を捨て、世に聞る人あらばたよりて聞もし見もし、ひろく今にわたり高くいにしえをさぐりて、夙夕に工夫をこらし、晝夜に術を練り、江戶のうちはわづかに庭前同然前、師門の外たりとも東西南北に駈て練磨し給ふときは、たちまち正風の正眼あきらかになりて、檜舞臺の蕉門正風の列につらなり、廣く天下に名をあらはし、諸邦の風調一目に見わたし給へども、唯〓今いふ井の中を廣しとして、かたかげにおはすゆゑに、終に天下融通の俳諧とは別ものになりて、生涯を一社中の汚泥にかゞまり給ふなり。あさましきにあらずや。われこれを歎くは、ひとつには道芭蕉葉ぶね
下などより行脚しはべるに、俳諧は一向不通用にして、唯高慢兒に正風連に聞もなれぬ口を利、見もなれぬふるまひなどして、いと異やうなる、是を世間にてあぜもの行脚とていやしめ用ひず。一所兩夕の杖を休る〓とあたはず。さうじて何某が門下正風呼り、誠に氣毒千萬也。是によりて小さかしき輩は忽師の風を捨、天下普通の俳諧にうつす事を旨とし、普通の名家の名をかり、何某が門人なりと師の名を僞り通る類すくなからず。實に耻がはしき事にあらずや。われさへつめたき汗をほし兼るをや。又汗の次手の汗物語、此ころの事也、或人來りて笑止がりけるあり。誰かはしらず、五色墨の連衆とかのよし、誰やらへ對して物語あるうちに、かならず道彥が邪風になど引込れ給ふなと諫めし人ありとや。われ是を聞て惡寒發熱して、氣毒に存ぜしなり。尤一僻ありとはいへども邪風にあらず。抑廣きむさし野の正風に、天下に普く二十年來指折らるゝものは誰ぞ。成美·みち彥、此ふたりのみ也。夫を邪風と思ひ違て人をしもさとし給ふ人のこゝろの暗きこそ、いたましきの限りなりけれ。素よりわれ、みち彥を念者にしたを重ンじ、ふたつには人をおしむ故なり。翁の〓の儘と思ひて持傳へたる道が、あめが下の正風に調和せず、翁の意味にも違へるをば蕉門の正風也といはんは、道をもて道を傷ふにあらずや。又其社中には荅の花の英才俊傑もおはすべし。左もあらん人〓、みがかば連城ともなりぬべきを、嶮峻の間に捨て生涯を瓦礫たらしめんは、おしむべきのはなはだしきにあらずや。ひとりも天下の龜鑑に英名をとゞめ給ふ人になし給へかしと、いのるこゝろゆきぞかし。いかに聰明なればとて、正道の砥にかけてみがゝざれば、光は出ぬなり。殊に此正風は一朝一夕のものにあらず、生涯のほだしならずんば、なんぞ後世の鑑に光を殘す事を得ん。翁もみづから至極せりと思はれしぞならば、いまごろは下手の汚名を唱るならむに、死期に至るまで切磋と思ひ、慢るこゝろは素よりなく、さてこそ名人の名も殘りつれ。われこそはと羽たゝきし、こゝまでこそと極るときは忽下手になる〓と、)の正風ほど顯然たるはなし。扨慢ずるより思ひ出せり。これらは人をいやしむに似たれど、諫のたよりにもなりはべらん歟。たま〓〓五色墨の門るにあらず。成美、われを義弟と愛するにあらざれば、いづれへもわりなき助太刀の肩持すべきいはれもなけれど、われ筑紫のはてに生れ、越人が傳統を請繼、道彥·成美遠くあづまの中央にありて名をきゝしれるのみ。日ごろものひとつしめしかはせし事なく、立かゝりに風交するに、番匠が曲尺をからずして柱は橫へまがらず、うつばりは竪にそむかず、大槌にも小槌にも及ばずして、響·匂の間取より竹の細戶の寂しをりまで、とはずこたへず備りつる。是にて邪風にあらざる〓とさとりしり給ふべし。けだし成美は成美、道彥はみちひこ、かくいふ對竹は對竹が天然備たる風姿あるは、人面こと〓〓く同からざれども、しかれども畢竟同じ人なるがどく、膽的の同ずる所百人一調也。さればこそ翁の〓を見給へ、一事をしめし給ふに其受用する人の生質によりて一人〓〓に異れり。今五色墨等の天下の正風に普通せざるたぐひとは、別段の所なるをや。扨雪門の事、近く蓼太に至りて初て一風發りしと見へたり。形は翁の風に似て、こゝろ翁の筋にあらず、たやすく見へがたかるべき場所なり。さりながら近世關東の正風再發せしは蓼太糸口をひらけるより、のちには白雄などいへる哲人もおこり、いまこゝに成美·道彥が類も出來て、いよ〓〓正しきに至りぬれば、いさゝか違目ありとも此男は關東の一物ともいふに足りぬべし。しかるに今雪門といふ俳諧は、又是とも雲泥の違にて、翁の道は退轉したるに似たり。是何人の誤よりおこれるわづらひぞや。なげかはしき事也。惣じて句に漢語をたち入、よめぬ文字をゑらびなどする事の骨折、翁の〓はいかなる事ありや。俳諧といふものは点取のみのものと思ひ、付句などいふものゝありとは一向夢中にて居る輩もありと見ゆ。漢語入らずの句は、ぼや〓〓とぼかし、よぢらかし、あしきやら、よきやら、いづれに句眼ありや、いづくに感ありや、一向につまらぬ一作なるを、流行とか何と歟申とかや。翁曰、俳諧いまだ俵口をとかずと。こは流行をさぐらしめて、後世まで活道をうしなはしめまじとの金言なるべし。されどもたましひもなきかげほうしに流行しなせとはおしへ給はじ。扨又つたなきかぎりの道をはづかしむる事あり。いつの比にか予行脚の折芭蕉葉ぶね
ゝきせぬばかりの自慢に見へたり。嗚呼かなしひかな。翁の道かくも拙き事になりくだりたるや。いつの世より何人のなせる罪ぞや。完來叟もし耳にふれなば定めて〓示あるべからんに、かゝりとは〓しらす人もなしと見へたり。こはわけて道の耻辱なれば、誹謗に似たれども諫の一助としてこゝにしるす。さりながら雪門にも蓼松と聞ゆるつはもの出來たれば、かゝるおろかなる〓ともやがてなくなりなんと、いともたのもしくよろこばしくぞはんって。0.將又願はしきは、東都も諸國に傚ふて、蕉門葉の正風同士は四海一つ友として互にゆき通ひ、翁在世の格にあらまほしきもの歟。さて段〓述るところ、過言の罪まさに死にあたるべし。しかはあれどはじめより申どく、かへす〓〓もみだりに謗言を放ち人をうがつのこゝろばへならねば、あさきを捨て深きを汲、正風千里一躰ならんいきどほりをおこし給ひて淵源の〓潔にかへし、蕩〓乎として松濤をしらべ、風流のむしろを武都の四境にしきあまして互に月花の膝をまじへ、雲雀のこゑのくれ遲き夕ドの空をおしまんは、又大なるたのしみならずや。から雪門の徒に一宿しけるに、連衆五三輩面會せしに、皆〓一言の風話もなく、唯眼と眼を合せて默爾たる外なし予氣毒に思ひ、皆に對し近比の御佳作承たしと挨拶しければ、やがてあるじ一間へ立、ものかげよりさしまねきて連衆を呼込たり。しばらく有て各短冊二枚づゝ句を書、わが前にさし出せしを見るに、漢語まじりもあり、よめぬ字二三字、句主に問てよみたるに、誠に無理なる當字也。沉吟再三すれども何の譯やらよしあしわからず、挨拶に當惑せり。かくておの〓〓句の肩に朱をもて輪をかけたり。是は何ぞと間。あるじいふ、こは先生の輪五点なりと。まことに聞くわれさへはづかしき思ひせり。次に予又折〓御連句などもありやと問ふに、いづれも唯ク、トロごもり、嚙呑をして返荅なし。付句といふもの有る事しらざる躰なりし。あまりきのどくゆゑ、此方よりさま〓〓俳話をさそひければ、その荅はなくして、其うちの一人いはく何某は今年にて十年ほどの弟子にいへども、やうやく師の名の下の一字をゆるし給ひ、それがしはわづかの年數なれど上の一字をゆるされいと語て、羽た日書系大附言芭蕉翁を世の人俳諧師とのみ思へるは大なる誤なり。此翁の膽をさぐり得し人〓は門人達のうちにも多くはなかりしとしらるれば、まして今の世の人をや。此翁の新風よつておこるところをしらずんば、何ぞ翁の膓に入る事を得ん。そも〓〓蕉翁は一家の道人にして傍に俳諧を好まれしなり。しかるに此僻終に捨がたく、幸に其道をもて一筋の新風を發し、生涯のはかり事となして是に道志を述られしなり。老子五千言を吐、孔子春秋を書給ひしも、事こそ異れ志に於ては同意なり。翁は素より隱者なれば世の中にかゝづらふ〓とをうとみ、西行·宗祇の跡をしたひながら、亦その糟糠をむさぼらん事のくちおしさに、俳諧の名をかり、こゝろを大道にもとづき、一家の新躰を發明して一期の道德を是にかくされたるなり。其證は翁みづからそれとなく、ホ句にも文にもみち含みて、わが道はかくぞといはぬばかりにあきらかなれども、それさへわきまへしる人なく、唯景曲詠物にのみ興ずるものと思ひとりて芭蕉流と名乘んは、まことに詮なかるべし。さればこそ近世翁の句を明らかに解したる人まれなり。大道の腹がなくては、翁の膓にわけ入る事かたければなり。今の人やゝもすれば、氣員の、腹のと口功者をいふ。いこれの氣員か、いづれの腹か、いと覺束なし。翁の門に遊びたりし人〓を見よ。去來·丈草·許六·越人·其角·嵐雪、其外嵐蘭·凡兆·支考等の輩、皆一家の大儒道德、英才の歷〓なり。それを嬰兒のどく愛し扱ひ、慈母のどくしたひつかへしならずや。たゞもとづくところもなく正風といふものいかに發明ありしとて、夫のみにてなんぞかゝる人〓、親のどく尊みしたがひはべらんや。これをもて翁の高德を考しるべし。或人、蕉翁は道をうらざりしゆゑよく賣れたりといふ。誠に拙き蒙說なり。それは今時の点者などいふものゝ俗腹にくらべたる謂也。此翁もし俳諧をこのみ給はずんば大道一家の賢名をとゞめらるべきを、いはゞ惜むべき事なり。書に名高かりし雪山は、予が所緣のものなり。書道に達し過て學德の名かくれ、唯書家とのみ思くん。此類なり。かゝる高德あればこそ、身陪藩ニ出て道は天下に布き、德は雲閣もかろしめ給はず。剩かたじけな芭蕉葉ぶね
諧の名はかりものぞ。それを漢文にてしるすにより、又字義にかゝはらず俳諧の字のかりものに傚ふて、滑稽の字をかりたる也。さるが故に翁の字を用ひて、かれとこれとを差別し、いにしえの滑稽と等きものにあらず、翁一家の滑稽ぞといふこゝろを含めしなり。許六が滑稽傳は翁已前よりの傳統をしるせばなり。○翁は佛頂和尙に付て禪學をし給ひし悟道の人なりと。是又何もわきまへぬ輩のいふ事なり。大道と禪家の道と相同じ。翁は素より道人也。ひろく學を試んがため禪家に入て聞かれし也。同じ道ゆゑ禪門は捨られしなり。但、大道と禪家の道と同事といふには子細あり。大道がもとにして禪は末也。此論明らかなる證あれども、憚る所ありてしばらく口を閉。又こゝに用なきをや。○調子の事、當時の人、句を仕立るに上品のこゝろ言葉を用れば調の高く、鄙意鄙言を用れば調ひくしと思へる(遞も少からず。誤也。調子といふは管弦糸竹の調子に異らず、呂律の應ずる所なり。俳諧のみにかぎらず千萬の諸道是をはなるゝ時は其位とゝなはず。日用の談話のうへにもある事也。いかに言葉をたけ高く、いかにいやしくも神号までさづけさせ給ふ。是自然隱德の顯はるゝ所なり。扨又隱者に神号など給ると、翁の靈意に叶ふまじなどいふ輩あり。笑ふべし。隱者は生て居るうちの事也。是又俳諧師の先祖とのみ思ふ蒙昧の了簡なり。よく考て心伏すべし。○今の世の形をもていはゞ、しきしまの道は此御國の學びの花、詩はもろこしの學問の花といふべくなれり。こゝをもて類する時は、翁の俳諧は大道の花といふべし。佛道は此三ツのものゝ材につかふものとなれり。かゝる事もわきまへなく儒僻の口質などに、雜俳に混じて翁の道をむざと小事などゝいふは、かたはらいたき〓となり。大道、小事にあらんや。其花ともいふべき道なれば、いはずかたらず此道より大道に入らるゝものなり。是をなんぞ小事とせんや。○翁の流れを汲む輩、滑稽と書はこゝろへ違なり。翁の捨給ひし所也。旣にみづから申されし〓となど考合すべし。猿簑集の後に、翁の滑稽なりと丈草が書るは、翁といふ字を入たるこゝろゆき深く味ひしるべし。翁のみち、俳くいひたればとて、そこにはかゝはらず、高きは高く卑(マゝ)きはひくき也。語路の轉勤、手爾葉のあつかひにて自然と高下を備るもの也。冬の日は極て高調なれども鄙語をも用ひ、猿簑は中調なれども上品の言葉つかひ、炭俵已下下調なれども鄙言ばかりが用ひたるにてはなし。是にて味ひしるべきなり。將、卷面の形を見て、おもしろき調なりなどいふ人有り。これも心得違也。調に面白きの、おもしろからぬのといふはなし。調はきはまりたるものなり。かくのどきは、おもしろき風姿なりといふべきものなり。○句の光りあるとはな〓〓しきとあり、是を高調と思ひ、句のにぶきとぬるきとあり、これを下調とおもへるもありと見ゆ。是も相違せり。似たる場にてたがひやすかるべき所なり。腹中に呑たる人は取違へまじき事なるを、やゝもすれば此こゝろへしたる人歷〓にもあるぞ。にぶく·ぬるき·光り·はな〓〓しき、此四ツのものはともに句のやまひにて、當流にはわけて嫌ふ事なり。先光をぬく事、中段已上の人は第一の修行ぞかし。上手の句に光りはなきもの也。にぶき·ぬるき·はな〓〓しきも相同じ。句の〓水のどきは妻く風味なし。垢あるはきたなくつたなし。おぼろにうち匂ひたるこそ、ゆかしくもなつかしくもはべる。よく〓〓翁其外門人達の句までも沉吟して味ひしるべし。たゞし高調は得安く下調は得がたし。眞草行の躰も自然とあり。草の躰は極て下調たるべし。俳諧の修行は第一草躰にあるなり。翁もわが俳諧は草にありとこそ申されつれ。是に自在ならずんば俳諧を得たりとはいひがたかるべし。けだし初輩の修行は先、冬の日·猿簑を目當にして高調より入べし。是に熟して後自から下調の得がたきをしらむ。○翁の道は淡薄を尊ぶ。是こゝろ空無に處すればなり。甘きをさりて辛きを川ゆ。其からきにさま〓〓あり。胡椒は妻く、山葵は寒く、生姜はしたゝるく、番椒はいやしく、山椒はねばく、辛子は鼻にたちてくるしく、塩は咽にしみてせつなし。たゞ靑蓼の淡く跡なきにしかず。鬼貫などが風味、塩に胡枡の配劑にしてゆ諸白を加ェたるなり。翁の口に甘味し給はぬ所なり。初心はこゝにお二五郞芭
云に及ばず。實に是不思義の活法なり。其說は旣に先哲の沙汰して明らか也。然るに當世心得違たる人又少からず。流行〓〓とのゝしる口つきを聞くに、たとへば婦女の髮の結ぶり樣や笄などのはやりゆくと同義のやうに思へるさうなり。さにあらず。不易流行と一時流行との二ツあり。不易に組合かたは、万代にうつりて捨らぬ流行なり。四時のうつりゆくに隨ふ自然のことはりなり。されば不易中に流行あり、流行中に不易あり。互に組て千萬年の末にも新しく見ゆる活法なり。一時流行は卽坐の句にて當意卽妙を述、一座限の捨句なり。翁の景〓の句のどき是なり。見よ〓〓、翁の句ながらも百年の今手本に取れず、其時限の座興なり。翁の心月をさぐり得て日(二)ごろこゝろに治め置、日〓夜〓に先吐の句に倦、新みをさぐり、糟粕をなまじと工夫を凝すときは、今夜はあすと明て新しく、今月は來月とうつりて古からず。人一步よりおこりて千里に駈るが如く、居らずとゞまらず。是みなわれとこしらふる事にあらず、天然にしたがふ所の活法なり。これを名づけて流行といふ。是翁の高才大道どろくなり。高腹にはうるさく飽やすく、氣員高きに似て却てひくし。しかしからくせんとてにがみに落べからず。あぶなきところ也。味つゝしむべし。○句はさびたるをよしとす。さび過たるは骸骨を見るがどし。皮肉をうしなふべからず。○俳諧に賦·比·興の論をいふ。古今に始て六義を載たり。翁はこれを取給はず。いはく、六義は詩のうへの事な(り。わが道に是を用ひず。强ていはんとならば、磐·匂·寂·栞、此四ツをもて四義ともいはん歟。それも入らぬ事なるべしと也。はじめにいふどく翁の道は正しく大道の花なれば天地とおほきく、六義などのちひさき論にかゝはらず、寓言をもて萬物一呑にいひこなすなり。人界を花鳥に寓し、花鳥を人界に寓し、有情非情互に寓し合てこゝろをば大無に所し、理を去り玄をもとめ、人の〓戒にもかゝはらざるにあらず。さればこそ微妙にして舌頭に說が(マゝ)たき深長に至るの道なり。既に翁曰、無念藏の中に一物發る、是をなづけて發句といふ。○不易流行の說、いにしえになくして翁の發明なる事は日大書系にもとづく發明、感歎するにあまれり。ものゝ筋、人のあらはしたるうへは誰も思ひつくべく見ゆれど、中〓是等の事凡愚の發見に及ぶ所にあらず。かゝる事さへわきいくまへしらず翁の道が覗得もせぬ愚眼にて、翁を文蒙なりなどいふ暗雲ものも今の世にはありとかや。其ぼんのくぼの見へすけて笑止千萬なり。しかしかゝる輩は愚人なれば取に足らず、捨置べき事になんある。○輕み重みといふ〓と、是をも當世心得違ひ、ものまね·おとしばなしのかる口などいふと同じ事に思へる人多きかな。その違へる品さま〓〓ありと見ゆるぞ。一に曰、沉案もせずして卽坐に、目に遮るまゝをさつといひ出すを輕みとおもへるもあるが、是は輕みにあじうき、安みなり。二にいはく、いやしき言葉を用ひ俗中に引落し、うつかりと言を輕みとおもへるもあるが、是はかるみにあらずして、うき拍子なり。三にいはく、意幽玄にして急に聞取がたき句。四に曰、深く案じて工みにいひのべたる句。是を重みとこゝろへたがへるもあるかな。右のどく思ひ違る輩亦少からず聞ゆ。それ重み輕みとは根元口中の事にあらず、心のうち也。犬、作の輕重·手爾葉の輕重もあれど、畢竟は是もこゝろより出る枝葉なら第一は趣向にある也。たとへば野中に月が捨てあると見出して句に作る、是趣向の輕み也。女郞花の文字になづみて草枕に一夜契たしといふ、是重みの趣向なり。更にいやみ也。猶、越人が萠黄の〓の句、翁の論のどし。きられたる夢は誠か蚤の跡其角是作の重み也。趣向は誠に輕し。誠かとかゝへて、跡と坐語を押付たるにて重み出來たり。長松が親の名で來る御慶哉野坡是古人、輕みの格に引たり。是は作の輕み也。こゝろは左のみ輕からず。水引のとけぬ寒さを箔のちる對竹これ手爾葉の重みなり。再案して、水引やとけぬさぶさにはくの散る右にかぎるべからず、千躰萬變なり。一やうにいひがた一五七芭蕉葉ぶ對竹
し。しかれどもこゝろ·かたちは翁一家の躰なきにしもあらず。是をうしなふ時は翁家の俳諧にあはず。他流はしらず翁の家におゐては俳諧中皆文章也。書〓一筆などいふがどく俳諧同一躰に書べきわけ也。しかるを俳諧は當家の流行にして、序·跋及び言葉書等は、今國學者流に古學家といへるものゝ用る万葉風などいふべき躰を取合せ書る。誠に後家ものにしてわけて見ぐるほし。さらば俳諧も萬葉躰ならでは取合ぬなり。翁の曰、俳諧の集は俳諧のうちにてすべしと。是一集中皆文も句も俳諧なればなり。曠野集の道具立にさま〓〓の事持込過たるさへ心にかなはざりしとなん。惣じて文章も句もつれ立ちて、俳諧中にて流行すべき事なり。扨又俳諧中に和哥の枕言葉又地の詞、其外物語の言葉或は古言等用る要、當門に於ては其つかふべきしをりなくてはつかはず。何のわけもなき所へつかふときは、平地に浪をおこし、物しり皃にそれがいひたくて遣ふたりと見へて、畢竟は出ものとなり、其詮なきのみかは翁の意味に叶はずして、當流の俳諧の仕ざまといふべからず。かゝる事も今はやみくもし。くだ〓〓しければ畧。一をもて萬をしるべし。惣躰翁〓撰の集には、重き句とてはひとつもなしとしるべし。かるみとてちよつと口先にもの言事にはあらず。一段深く案じてかろ〓〓と句作る事なり。趣向の重きはいかに句作をかろくすとも、勿論輕くなるべきやうなし。此重みといふは全躰病にて、翁の道にては尤嫌ふ事なり。はやく捨べきものぞ。輕きはいかほどもかろくすべし。害なし。しかれどもかの安みに落べからず。又俗中に引落(昭和して言を輕みと覺違へるは、炭俵·俗猿簑をかるみの俳諧とするよりの取違なるべし。此二集の輕みそこにてはなし。世話に落したるは其時の流行也。此二集より深川集迄の俳諧の仕ざま、甚翁のこゝろを用られたる傳あり。今しばらく口傳とす。○文章の事、當時文章と俳諧とは別義と思へるにや。俳諧につり合ぬのめりたる躰を用ひ、或は漢文を假名書に直したるばかりの躰も有り。又、翁已前の狂俳滑稽も見え。或は戯作·草双帋に落る俗にチヤリといふ躰もありてまち〓〓なり。翁の言のどく、いにしえ何の文章も取べの世の中なり。よく〓〓つゝしみ味しるべき事ぞかし。將、猿簑集の序、晋子が名をかりて實は翁の稿なり。此文の書ざま、今の人〓何と見給ふやいかに。○當門に遊學する輩、たゞ議論穿鑿のみに走り、口授口決ばかりを聞たがりて術を練るにうとく、たゞ上ハ走りて天狗づらをする輩、當世のはやりもの也。かゝる人は決て誠の上手にはならぬもの也。是を名づけて前用俳諧とい術より入て然して后の傳なり。術にうとくしては口授口決を聞ても胃中に入らずして、發明する事あたはず。たゞ口うつしを辨のうへに走りて心は暗やみ也。辨と術と相對し明らかならずんば何の益かあらん。口授も口決も術に達る時は聞ずして至り、さづからずして得るをや。○此道に於ては、いかなる學才ありとも先夫を用ひず、愚を守りて心を蒙昧にかへし、小兒のいろはより習ふがどく師に付て堅ク謹み學び、さま〓〓の私意をまじへず、、 粉正直に師の〓を受用し分骨して學ぶべき也。才にほこり上手めかしたる事をしたがり、或は点取などいふものに雜交り種〓混種するときは、少〓術に叶ても當流の規則備らず、終に雜俳となりて本場の哲には入がたきもの也。よく師の〓を守り切磋琢磨の功をつみ、其〓腹中にうつりて千變自在の手裏に至りては、口にいかなる惡風を吐ともこゝろの明鏡是をうけざれば、いさゝか害になる事なく、則をやぶりても則に叶ふ。是翁のいふ格に入て格(一貫)外に遊ぶの時節也。正道を遂んとならば此禁戒黑正直に守るべし。もし才に慢じて此戒をあなどり思ふ輩は、愚夫にして用ゆべき人才にあらず。但、初より正道の師をえらぶ事肝要なり。もし永泥にはまりては、うかぶ世さらにあるべからず。且こゝろ高ぶりたがる、凡情の常也。是を克己していつも人よりおとりたると耻る所に目をつけしめたらば、是上達するのきざしなるんじつ尤生涯にかけて修行すべきなり。○蕉風中に俳諧をチヤリとこゝろへたるも近ごろおこれりと見ゆ。あやまれり。それは翁已前の事也。翁變風の俳諧ならばかつて狂戯にあらず。今おかしみといふは可笑のをかしみにあらず、おもしろしと感美する意也。ちかくいはゞ雅俗の差別ありて、〓場を見ておもしろしとい芭蕉葉ぶね
いづれの魔國にて行はるゝや、わが翁の正風にては先文臺に近くる事を憚るべし。惡風といふにも程もあるべき。第一は世の風俗をも害すべき魔道なり。是を正風と思ひて感ずるこゝろいかにぞや。門人には親の寵愛玉にもかへぬ人の子も多かるべし。夫ものゝ師となりて牽〓する人物にかゝる事をよしとして、大切の人の子を魔界に引込む惡行のおそろしきかな。師たる兒付して吟聲もしらるゝ口つきかや、かなしむべし歎ずべし。其宗匠の名をわすれしが、其問たる人も不幸にして泉下の客とはなれり。(i)尋問ふべき便をうひなひつ。もし其名を耳底にとゞめたらんには、天下のためにもこの宗匠の膝もとをせめ扣て、(マゝ)直言の而諫をつくすべきを今更殘多くもせんかたなし。( )○このごろ諸國風士の名をあつめ、すまいの番付に比諭し、梓にかけて此都のちまたに出し賣る也。愚人凡俗のなせるわざなれば取にたらずとはいへど、風說には其こしらへたる輩が師たるものも、おのれ〓〓が名をうらるゝがうれしさに、みそかに聞てゆるし置ならんとぞ。しかれば風流門の中にかゝるいたづらものありや、耻べしはんと、花をながめておもしろしといはんとのかはりめかならずしも戯語狂言の繪双帋ぶりにおちいる〓となり。なかれ。虛を述て實に叶ふ、此間に正風の微妙ありて、こゝにおかしみはあるなり。將、對竹按るに、唐詩に白髮三千丈と前置に虛を述、依憂如個長しと下にてうけたるにて、よ〇〇千丈のうそが忽實となりて、憂るこゝろの甚しき姿があらはれ、こゝに句の神シとゞまり、是よく正風の虛をつかふに似かよひたるもの歟。○此都會にて芭蕉の正風隨一とおもひ、おもはるゝ宗家の會席に行あひ、傍より其付合をうかゞひ聞留たる句とて三句のわたりをしるし來り、善惡を問ふ人あり。その付句、書系大かつたりかたりぬり下駄をはくとつさりと脊中うたれて死ぬばかりいつ來なんすといふが御仕着せ是坐中殊に感じ合たる付なり、よろしきやいかにとなり。予唯脇下より冷汗を流して返荅に當惑せり。かゝる正風一、一、一、一、〓〓。剩元錄の祖師笑はゞわらひ給へなど書たる、實に風流門中の重罪人かな。大德の翁をおのれが拙き腐膓に引當、大穢をつけまゐらす也。哥舞妓評判〓作草帋の中に噂ばかりも混じけがされ、何シぞよろこばしく一笑し給はんや。わがみちのかくもおとろへたるかなと、黄泉に足ずりして千嗟萬歎し給ふらんと、おそろし勿躰なし。○葛飾の素丸、冬の日解ならびに說叢大全とてあり。かゝる類の書、世に林をなすといへども、おの〓〓僻說繁〓として却て人を惑はす類少からず。此素子が述は夫にことなり、述るところ實に明らかにして說本の冠たるもの歟。初心のたより大方ならず、好て見るべし。說叢の方わけてよし。よきは斷りかな。去來が言葉を丸にて我力のどく引直し書たるものなればなり。中にいさゝかづゝ誤れる条あるは、夫來がもらしたる所を素子が了簡にて補へる所と見ゆ。さりながら和漢の書·上古以降註解傳說悉く誤なき事あたはず。あながちに責べきにもあらじ。素子が功つとめたりといふべし。しかし去來抄など見たらん人には、此書無益の書なるべし。おしひかな。○或人問ふ、梅が香にのつと日の出るやま路かな此句神祇なり。のつとの言葉、下心に祝詞をふくめりと或ろ宗匠の著述に載せて、やがて梓にもかゝるべきよしなり。實にさる事にはべるやとなり。荅ていはく、以の外なり、句情も姿もわきまへぬ蒙說也、論ずるに足らず。かならずかゝる邪論に惑はさるゝ事なかれと。此人も左こそと伏して去りぬ。嗚呼笑止。假初に宗家の稱をぬすめる輩にもせよ、知たふりをするにも程もあるべきに、これらはあまりなるめつた的なれば、今時の世界誰かま〓とゝするものあらん。初輩といふとも一笑して止べきにぞ。扨註解の次手に、梅が香ヒちやうりやうふりやう黑木賣是嵐雪が〓に翁の讃なり。ある家に祕藏せり。〓は柴垣のどくなるものゝうへに梅の畧〓なり。翁の句悉解せずんばあるべからず。諸大家の說を聞ん。予は唯翁の博識を感ず。梅さくやしらゝ落くほ京太郞此句物語より作し給ふといふ說、ま〓とに蒙說也。左には芭蕉葉ぶね左には
句春の央其地の景姿に望み、梅の盛白妙なるに感じて先、扨梅花のしろきよりしをり出し、幸梅咲やといひ出し、にしらゝ落くぼとつゞけ、5%ゝの250 元起くほより遙に山上上五文字よを望めば、眞白なる京太郞雲が見ゆると也。り下までしろきをしをりつゞけたる句也。一天暖和にして長閑なる春色言外に見へて誠に名達の作也。物語をかする所は、はじめにいふどく、物語にも此名をかりたるかとおかしく思ひ寄せられたるのみなるべし。さま〓〓の僻說迷ふべからず。古池や蛙飛込む水のおと私曰、杉風が子。此家代〓藤右衞門をも深川六間堀鯉屋藤右衞門て名此時はもはや杉風は隱居なる(1個)びの野屋敷あれはてゝ藻屑にうづみたる寓感、放魚池濶蛙聚の律の句思ひ寄せい。こは翁文音の留書なり。此句ことふりにたれば、今更句意を論ずるにあらず。しかれども當時猶僻說にくるしみ、まどひ疑ひて決せざる輩甚多し。かくては翁の腹に入る事かたかるべし。によりて此證據を顯して人の惑を解しむ。他よりはいかあらず。しらゝも落くぼも所名、梅の多き所也。京太郞は京より西の近國にていふ雲の名、是を物語の名に借たる也。その所に行あたりて物がたりの名にかりたるを思ひ出し、おかしく思ひて作ありしとは、下の京太郞にてしらるゝ也。疑ふ所なし。しかれば物語のうへにて作し給ふにあらず。物語も此地名に寄り、此句も此地名により、双方別〓なり。たゞものがたりの名にかりたるを、おかしなつかしと下心に思ひ寄せられしとは見るべし。右の句、物語より出たりとて、むつかしき僻說をこじつけ言人多し。何も六ツかしき事なし。世に人〓のいひふるゝ解、こじ付の解ゆへ、此句の神シは留守になりて居るぞ。物語にかゝはるによりて解兼る也。解するに何も物語にかゝはる事なし。しらゝ·落くぼはともに所名、京の方にむかひ登り勝手の所、しらゝ·落くぼと地つゞけり。京太郞は京のかたより出て西の方へ行向ふ白雲の大なるもの、雲の峯の類なり。是を京より西の隣國にて京太郞といふ。丹波山を見こしに見ゆる雲を京にて丹波太郞と云に同じ。太郎といふは第一に大なるものをいふ本邦の通語シ。郞といひ、關東第一の大河利根をさして坂東太郎といふがどし。滴子を大此日書やう共見次第也。當一派の人〓に於てはかならず惑ふ事なかれ。此證據を的にして落付くべし。素より翁の句、心月あるは此句にかぎるべからず。初にいふ大道の高腹より出ればなり。今世我黨に至りても其心月を詠ずんば、何ンぞ芭蕉の家流といふに足らん。句の次手あれば今こゝに當時の句を揚て、しり安からしむるの意也。句の活所なく居付て死物と成り、しかも古みに落る躰道ばたの晝兒さくや雲の峯へみちばたのひるがほ咲きぬ雲の峯一字にて死物となると活ると荒るゝより折るゝにはやし女郞花へあるゝより折るゝに安しおみなへし一句の主になるとならぬと花あらばしのばしからじしのぶぐさへ花もたばしのばしからじしのぶ草朝ゆふの寒さつれなくなくうづらへあさゆふのさぶさかはゆく鳴うづら三日月もゆらるゝ葛の山邊哉へ三日月もぐらつく葛のやまべかな熊勇的言葉に俳諧なく、心にはいかいあるおやかしの、ははつてふやさらでもいそぐ草まくら(やめあり意とい一起來人きさらぎは扇をひらくはじめ哉右之大下手鶯の小皃半分あさ日かな鐘のなるさかりを花の散にけり一二五士朗しり安から護物しかも古みに落る素檗花芥子のちらずに鐘の鳴る日哉土手下り篠笹つゞくほたるかな右の句をもて活所を得せしめ、居付を除きて新みに出すへ花芥子のこらゆる〓とよゃまの鐘宇橋へ土手くだり篠をこぼるゝ螢哉北尼一句の作にて死活ある長袴聟の着て出る茅輪かなへ誰が聟ぞ茅輪に餘る長ばかま石海一字にて只事となり發句と成る篤老心非宇北橋尼芭對道竹彥石海對竹作者しらず
系大書俳本日ねぶ葉蕉芭り出變躰よ風をや其角正正風にあらざる趣向正風になる仕立正風に似て正風にあらざる仕立1下手と上手の取まはし晝兒のいのちや草に馬の息晝皃の命のへ宗鑑は下戶でありけめ蕗の臺宗鑑は酒きらひし歟ふきの臺へはなに倦ば蝶にもなけといひたいぞ花に倦て蝶にこゝろのうつりけりへいかめしく風折したるしをにかなをれやうのいかめしげなる紫苑かなへ湯あみせぬ身のはづかしやうめの露湯あみせぬ身にこぼれけり梅の露簑虫も聞人のうち歟ほとゝぎすみのむしも出て聞たいかほとゝぎす百姓の目にもの見せん蔦もみぢ賴朝のかうべに似たる牡丹かな親歟馬の息はつはなと息才な兒あはせけり灯ともせば遠し入江のかいつばたけふも出て雨に追はるゝすゝき哉其こゑが夜のほこりぞきり〓〓す拾ふては榾火呼つぐ木葉哉もる雨もかはゆき宿ぞ花まつ夜はつてふやかれ萩からで置しかばうきときは見ぬ事にせし櫻かな蕣やとかく隣は神た花のおもてこちら向けり松の間しら露の丸く見へてもいそがしやものに倦て夜寒を覗く眼鑑かなうき巢にも朔日いふ歟船世拍子なやきぬたに寒き母の年かゝろ日は鳥も糞する紅葉哉分別の日歟鶯の目のうるみ浦波の音引更る火桶鶴見せに子も負ゆく歟浦の春紅梅に思はぬさまや飼葉海老の手も泥かくまでに水涸しゝきか帶な切の息蓼杜梅三津人百木まさ岐鹿星太諫壽竹夫南可一松守竹松蓼價貢老太譜第茶圃翁魯州竟雄靜馬麿春古人作者しらず來得道有雪年茅布彥美雄彥丸道具立の作、作のあたらしみ、生れよりの新しみ流行してむかしと今の風姿のかはりめおなじく利口なる躰朝露になれと投けり火取むし薺ほるこゝろ不斷のものになれしら露にあそび過せば萩のちる死たいといふ鼻先や室のふえるほど耳にさはらぬ蛙哉待つおしむあなさはがしの花ごゝろ生類小男鹿の生田を越てはるの月寐よとてのまうけ歟蝶にふとん干す此ごろは疊ざはりも落葉哉河千鳥なくや博奕にゆくなとてこと〓〓となるやしぐれの馬の腹是切繼の細工物也、△△名所春△精神なき句たけ高き躰△月句にあらず。梅△名月やすげなく通る荻のこゑ千鳥なくや產家の伽の入かはろ凩に喰うものくらし艸のぬか味噌に冬といふ夜がたまりけり藁一把ありとて我にとしのくれわがおもふ〓とや空ふくはなすゝき釋迦の身に枯つめて來る嵯峨野哉しら魚は水の中なる水ならめ草がみななくやうすなり舞雲雀吹あれしのちや雉子なく天の川卯のはなはどれ歟近江の何祭誰も來ぬ鞍馬のさくら雨越る鰒の骨きのふの骨もかさねけり秋の夜や風よりはやき松のこゑ水際の暮兼て居る田にしかなたび人に啼よる雪の千あさがほにこりて植ねばなつかしきさびしみの足らでやどつと小鳥たつひとつづゝ日の落かゝるつばきかなあかつきの花はおぼろ歟風寒し一六五菴鳥哉一八酒素確草大東椿春梅薰雨袁廣嵐梅菊久丘夯幸曉芝岸茶一玉孤芦成調竹ある人樸令丸年野堂翠我岱籟丁陵外間塢藏高貨雄河山居靜瓢光山圓美有
葉蕉思ひ切て坂東太郞しぐれきや蚊のこゑや蕗のうら葉は日もさゝず四五輪の梅が香人歟鉢たゝき三ヶ月をくゝりつけゝり鹿の角しら魚にひかれて番も曉にあふそれと見て見へずなりゆく鵜舟かなかし捨の笠かへせと歟蓮匂ふさくら木が連理になれば閑古鳥何をしに來るぞあやめに夜の雲うぐひすよ聲をこぼさば余吾のうみ篠の葉にゆくや名越の跡の風瓜むくや蠅なき宿を取當り大根のからみにそむや秋のくれのらの跡奇麗に暮て鴈わたる眞ごゝろの月見て歟戶をはやくさす水の香にこゝろとゞけば鮓を呼ぶ川島や尻目にかける夏の等閑に見るを桃にも月のさす日を別にくらしもしたり小春やま着て出れば人の袷のまさりけり月松風を肩にかけてやなく蛙影までは見足らぬ雁や二三日はるの雪帋燭かくせば見ゆるなり燈籠の邪魔になるまでふけにけり啼空にすがるこゝろよほとゝぎす門松に今年の雪のふりにけりものかけば墨薄うなる若葉哉蕎麥喰のしなのゝ客もうめのはな朝がほのけふは雨をとたのみけり七夕も過けり門のあすならふ飯の泡ひくころ菴はしぐれけりふぐと汁くらべあふたるかいなかなどの家もけぶらぬはなしかたつぶりおく底もかくさぬ芥子のひと重哉寒しとは世にある人の言葉かな門あれば垣根もありつけさの雪こゝろゆくや木の葉しく夜のうつしものはつ月やとかくさばけぬ宿ゑらみ鯛の目のすゞしかりけり冬の月橋錢のしぐるゝばかり人も居ず馬一澧南光葛素風杉一瑚柹里武完弉都物五篤オ二簾雨奇鬼金芦旬史蒼し亮衣幽重杜至了浦六甘水爪躬三其至長峨璉麿丸日來彥英二國老馬蝶左塘淵洞堤菴光千虬う几重嘯行年長國人こもらばや四方は花の壁にして春の夜や檜の香にも人の寄る雉子啼や身に山彥のあるやうに雀子やうられゆく子の袂より小ともしをさし出す空や歸〓山水に蛤活るさくらか鉢たゝき月は下地の待かゝりかほばせに秋たつ人よ戀もせめ乳くさく成たる晝の火燵哉寢るてふをつまみそこねて興に入あかつきはわれが蛙でないのみぞさかやきの跡からすべる落葉哉かゞしまで起してまつや初しぐれ枯芦のかれ殘しけり小田の雀ほとゝぎすなくやもかりの淺黃幕落し水どこまで行て酒になる仲のよい道の柳もかれにけり須磨明石見に來た春を月の出る雛達もこゝろがゝり歟峯の雲鎌とぎに出る口はあり雪の家二十七なかゝる日をそしるに近しへちま沙汰瀧の上ミ赤松ばかりのどかなり魂棚の灯は白露のたぐひかなあさがほの蔓となりけり草の蔓水鳥のほりしと思ふ入江哉遠ばれのするや芒の八九月夕ぐれや掃殘されしみそさゞゐやい梅の四五間中でなくすゞめ若菜からわか菜の年を見る日哉春の月あそび過してやみにけりはつ雪を直にして買ふぞ柴一把いざよいといふひまもなき月夜かな冬思ふほどはあそべずはるの月中〓〓に身は捨られぬ紅葉嚴重にかれ野を月の守りけり水雞きくはし居や紫蘇のうかし汁飯蛸は光源氏のなんぞかないせの春先宮川の無錢より庭草に螢ありとはしらざりし出るものに見るものにして秋の月哉竹本米路与千東二万秋可逸普菅大夫百米呂也至國むら宙月彥鶴丈人崖和來砂律好德太蝶慶賢人一蒼秋玉其寶烏釆宜桐松百百百潭たり彥雲梧漫一卓雨珂文水頭彩彥栖保慈二非月舍井擧こ蕙池考
ねぶ葉蕉芭系大書俳本日し、ども初輩のまどひを起す事にて、こはけしからぬ事なり。などわきまふべくもあらぬ輩、○近ごろ俳門の徒にもあらず、翁曰、かしからず。ば其さまいやし。わづらはしきのはじめ俗書なればいふに足らずといへいかめしく梓にものし、名利をむさぼるありと見ゆ。みだりに俳論をかきちらもとより蕉門正風の妙所艶なきはたはれやすく、品高からんとすれば言葉足らず、麥國の二ケ國ならぶ雲雀かな見すごして月のいるさを恨まじはせありく人には鳴かね小田の鴨よしきりの口もほどけん花の空夕兒の一むら見へて船の牡丹切てやるおもひなり年のくれきのふ見しまゝにもあらず枯尾花おし鳥のものいはぬこそ奇麗なれ古〓のはや手にとゞく〓水哉窓の竹さはつても夏の夜は明る浦山も捨ずよ月の有あける飯强きはなつこまやかなれ對蘿湖車岱月木葵千慮岳竹月中兩雲底輅甫亭影一鳥の巢や嵐の跡もつくろはず花になく鳥に又あり朝雲雀出た所はなくて出てあり雪の月夕げしき鵜の足水にはじまりぬ乙鳥の來るや朝〓〓茶釜拭くかれ尾花枯けり月にけぶるほどひとたびは分別もなし雪の鰒いなづまやあとかたなきが秋のものものわすれしてやすゞしき家の口網の目にひたふる雨や榾明りむら千鳥落れば數もなかりけりたゞ居てもおもしろき日や蝶の飛寒き日や浪より白き筑波いで花のかたらば聞かんちりごゝろ夜やおかし花の小桶に手のさはるこがらしやにくまれものゝ高足駄蹈脫で寢た夜明れば木芽見らるゝや松露かく子のぼんのくぼうぐひすは居ぬよ目白を置ざりに閑古鳥さびしき聲もなかりけり山哉玉扇方楊似李月壷東羅一乙井蕉五每日圓蟹布白鞍巢匣暑二呂州藻眉雨渡長鴻半陽守風席慶風存せり。60ず、斧正ありて、は續猿簑の集名に於る發句故、ば良夜にも居合たるやうにして、述とあらば、に操下ゲなどしたる故、さればこそ猿簑にもれたる、にありて、びに今宵の賦などこしらへ入たり。他の名をおのれが名にもりかへ、首尾をも遂給はず。○續猿簑集を贋作といふ事、也。換て編續たり。はあらず。なり。付肌もかれが筋ならず。さりながら俳諧は翁の俳諧に相違なく、俳諧をも味ひ見よ。翁、初學の輩其心を得て、自筆の中〓書ならびに斧正の草稿ともに祕廿日の日伊賀へは來れり。尤己れが名のもれたるを悔て、編央にして難波へ下り、まづ師に監定をうけてのち信用し給ひて可草稿伊賀の無名菴にありしを支考行(〓)將此句何の譯やらしれぬ句と成た霜の松露哉蕉門中に聞もなれぬ輩の著一八九門人達の句は翁死後の支考が手に及ぶ力にあら第一番に編置給ひしを猥己が勝手にしたる也。良夜には支考は伊勢或は名月二句の評なら是あながちに贋書といふに翁死後の編繼なれ寂し給ふゆゑにこと〓〓くといふ句の卷哥仙のうち秋の風あさは千鳥もふきこず歟遠里のあるふりでとぶつばめかななでしこやけさはわするゝ蚤の跡夕兒や箒にか蚤に寢ぬ朝の趣向は靑すだれうぐひすの糞にも殘るあつさかなほろにがき匂ひもすなり春の野ら姥捨は苗代見てもたゞならず猫の手も一癖あるに蕗の臺人の事いはぬよ脊戶の花すゝき六日にはどこへ出るやら天の川しらぎくにさへゆくさまの在所哉しら露の夜に入門や馬ひとつせきぞろの來るや疊のやきこがしなけ水鷄月のある夜は多事ないぞ水もある水田の中の小草かな棹にあたる螢大きうおもひけりゆく水の先からくらき鳴子哉あさがほや蚊の一群にわれひとり菜のはなや夜の思ひのうすしとみゝる湖の水草若長斑可南玄風素眞自武燕竹樗雀松六木その女史人齊轡車盈海井蛙篁迪彥由陵市里雲老隣
加ェて小册とし、翁の奥書を贋して正風裁錦と名題し、うり步行たるもの也。後に己が一派を立るに至て名題も替たりとぞ。又別に翁の旨とおのれが了簡と混じてこしらへたる新式あり。板にはせず、翁の遺書とて寫させて金銀をむさぼりし也。定て今も彼一派には持傳るならん是を名付て貞享式とは申なり。○奥書を加ェてはせを在判と有ものは、悉支考等が贋作也。其中に翁の旨もあれど多くは捨給ひし翁已前の事をも取用ひ、それに己が了簡を加て惣別翁の謂と僞り作り立たるもの也。心得なくては見分にくかるべし。たゞ翁の筆を取給ひしものは、露沾公ェ傳へられし手爾葉の書ならびに其角へ帋一枚ばかりに書てあたへられしもの有。是に奥書らしき事をいさゝか添て、はせをとしるし朱印也。是いづ方へぞ傳りてあるべし。支考大方此奧書のさまをぬすみ、少〓づゝ文を增して諸書に贋附せしもの歟。手爾葉の書は露沾公の家に祕し給ふらんと思はる。翁はかゝる俗がましき事にかゝはり給ふ膓なしとしるべし。○當時の俳則、悉支考が涎をなめながら翁の則と思ひ、支編繼なれば、滅後の句も何ごゝろなく入足したりと見ゆ。こゝに支考ひとつ不屆のはかりど有り。此集おのれが名を顯し、翁のこゝろざしを追なしたりとせば論なかるべきを、翁の手にてさせねばおのれが威光なきにより、唯翁の草稿の儘をうつしたる躰にて本書は己もらひとり、うつしを翁の姉聟山岸半殘にあたへ置、時を經て井筒屋庄兵衞へ含めて、何ぞ翁の遺書はなきやと伊賀を搜させ、くだんの草稿にさがし當らせ、庄兵衞が奧書を加ェさせて梓にのぼさせ、おのれは飛退てしらぬ皃にて居たりとぞ。しかれども其事誰かれしりたる人も在ながら、去來などは篤實にて口を閉、其外の輩もひそ〓〓言のみなりしが、越人ひとり大にからかふたりと聞ゆ。是越人·支考(不猫地)不和の一ツなり。不名者にもいさゝか其はしを述たり。但、越人·支考不和の起りは奥にしるす。〇二十五ヶ條を貞享式といふ〓と、いつの世よりの誤にや。是は翁、去來が所望によりて長崎印七へしるしあたへ給ひしものを本トとして、或は已翁に聞、或は同門に語給ひし事をも見聞して書あつめ、それにおのれが了簡をも日書系大考を誹るともがら正に多し。考るに翁滅後は諸國一統支考が勢ひにしかれ、一旦皆夫にうつりたると見ゆ。翁の〓は大半かくれて行れず。近ごろになり俳諧はいにしえにかへりながら、流布したる支考則の洗濯人がなしと見ゆ。古集を目當にいさゝかしんしやくして用るのみ。故に中には、やゝちすれば他門さばきがある也。あやうしや。尾張の士朗はさすがによく洗ひて、獨すめして居たり。翁曰、式は古式に傚へど、こは高腹ゆえ强て式などにかゝ(無料)づらはざる謂なるべし。されど則は然ト一家の則備てある也。o志ふかき門人ならではかたり給はざりしとぞ。然して式も古式は大かた捨用ひ給はず。されば翁家の別則式とやいはん。文臺かゝり執筆および一坐の式などは、翁の定に(4)近ごろ二條家の御手入ありて、尙閑易を旨としいさゝか改給ふ式あり。是を本とすべきもの也。將、七部集俳諧のうちに古法を破り翁一家の法を立る口決ある卷一二あり。廣くしる人ありやいかに。○支考、翁よりはいかいの血脉をさづかりたりとみづか(R)らいひふらしたる。素より血脉とは傳統の景圖の事にこそ。勿論おのれがこしらへものながら種なき事にもあらず。其根元は越人に翁の語り給ひしケ條のうち、各別なる事をわかちて書留置たるもの有り。夫を支考ぬすみ取たるが越人と不和の初なり。是を種としてかの血脉をもこしらへしとぞ。翁滅後續猿簑の爭論より意恨に意恨をかさねしが、支考とかくに越人を邪魔に思ひ、越人こそ翁の勘氣を請たるなどふれ廻り、同門の中を隔させたり。その事もいさゝか不名者に匂ひを出せりと覺ゆ。野水·荷兮も勘氣を請たりと言なしたる。これは越人が連衆なればなり。越人は肥熊の藩士、中比いさゝか变ありて-浪人せし時名古屋にあり。後に歸參して舊餘につく。熊本にて終れり。佐分利氏にして其家錄〓に存す。墳墓は能府流長院といふ禪林にあり。是歷代の檀寺なれば也。〇門生問、或人のいはく、今四方垣のあるじの俳諧哥と号るもの、貴丈の學ぶ所の俳諧を三十一文字に延作るのみにて全く同じ道なりと。某左もありぬべく存い、いかに。と也。荅ふ、違へり。蕉翁已前俳諧と稱るものは、古の俳諧哥にもとづき、おどけたるやうに言ふとなり。俳一一一芭蕉葉ぶね
諧哥の事は、古今集につらゆきの書る通りなるべし。今眞顏のとれる所則其古ぶりならん。わが翁の道は左にあらず。初て虛中に實あるの正風を發明して不易流行の活法をたて、其意は高く大道より來りて、別に一家の新風をおこされたる也。此故に俳諧に古人なしとも、又、名は古のはいかいにして、こゝろはいにしえの俳諧にあらずなどの謂あり。所詮名は借ものにして何にてもよしと也。さるによりて蕉門の道に於ては、實は俳諧といふものにあらず、一家新風の短哥也。强て名を改なば鄙短哥ともいはんかと翁も申されき。俳諧と稱しながら其字義にかゝはらざるいはれ、かくのどし。今は大道の花ともいふべきもの也。四方垣のとれる所と混ずべからず。系大或人、鶯笠菴に遊ぶ日、此書を反古溜の中よりぬすみ來れりとて袂より出しつ。ひそかにうかゞふに實に雨後の月夜に逢たるが如く、心快然として讀て眠らず。忽そこばくの益を得のみかは、未聞の珍說もまた少からず。よつて予あながちに乞得て深く匱中に納ながら、つら〓〓思ふに、かくまでいさほしなりて反古になし申されし〓と、いかさまにもこゝろありげには覺はべれど、かばかりの物一己の料に祕め果さんは空おそろしき業なれば、しのびやかにはかりて櫻木にものし、あまねくおし廣めんとするを書肆何がしいそぎ奪て、ふところにしかへるも亦おかしくや。もし居士の見そなはしていきどほりあらんには、予あやまり謝して地に伏すべからんのみ。北總芙蓉樓廣陵識おもふ〓といはざるははらふくるゝわざなりと、さる法師のいひけむをむべもとこゝろにとゞむれば、又くちびるに秋風のさぶくて、さうもゑはたさずぞなりける。さはあれ凡シなるはらのへちにをさむべきりやうなければ、いかにもこゝろうきまゝに、いとまあるあさなゆふなふでにまかせしよしなしどの、ひとゝぢばかりもありけるを、やがてかいやり置ける。こはたかき世のかしこきひじりのしわざに似つかむとにはあらで、ひきく徂來のものよみがとしつきのたのしびに、屋づくりの圖繪しくらしたるたぐひにして、あさましく人に見すべきにもあらざりしを、いつの間にかは花のしらなみひきながして、しもつふさのなにがしが手にとゞまりつとはほのきこえながら、それさへうちすて置けるが、おもはざりき、櫻木に匂ひて世ひろうふきしきはべらなむとは。じちに見きくにつけて、むねにこゝろにおどろ〓〓しかりつれど、いまはいかにすともせむかたなくぞなりにたりける。日過てつら〓〓おもひめぐらすに、かくありてのゝちの思ひには、成美うせてこれによしなく、完來さりてかれにとゞかぬいとのこりおほしなどいふに、うつりすましてはじめのせちなる眞ごゝろには、いつはとなくうとくなりにたるは、かの三百扁と歟いふめるなかに、のちの婚いろこくなりて、はじめの寵さめはべるを諷したりしおもかげにかよひて、たれをかわれを諷すらむなどおもひあはするにつけても、ほいなくもそらさぶうのみおぼへはべれば、おのれにおのれをいましめつゝ、やとちからいれてめんもくをひしかめ、まろまどのほのくらきに、おぼつかなきこゝろの月をすましかへさんきはのさんげものがたりを、ふみはしのしろきところにあはてゝかきそふるなめり。文化の丁うしにやどるとしのなつのなかころする日、老うぐひすのかさのかげに居士みづからす芭蕉葉ぶね一
系大書俳本日隨齋諧話ずゐさいかい乾·坤成美著
たづねて、我見るところよし有とおもふものは得てをしまず、人にもうつししらせんとのこゝろばせ、世に信を(錢)篤うするのわざといはざらめや。その書あつめおけるくまづすこしをぬきいだして一帖となしさ〓〓の中より、ぬるは、叟がつれ〓〓をまぎる〓の手すさびとなむ。をとつ日のゆふがたなりし、諫圃ぬしふといり來て、此帖の首に題せむとをまうさる。叟が言もそへばすみやかにとおもひしが、きのふはをかし、一〓の餅おくる鄰のためて、ひねもすいとまをつひやせり。老のこゝろはれいのものいそぎにて、まつことのさぞもどかしからむと、今朝はよこ雲にさす日のにほひさらぬうちに、とく硯によりつ。あら〓〓しくも辭つくりて、すぐさまもたせおくる。墨もまだしめりふくめるまゝなるべし。政文二成刻秋仲卯己米諫圃豐久藏成美先生著校さ〓〓の中より、隨齋諧話ぬるは、を東都慶元堂梓めて、とにかくにおほく年つみぬれば、なみ〓〓のものとはひとしからぬ氣はひ見ゆめり。かつら苔などのおひまつはれるいは木のたぐひさへだにしかなるに、人のうへにおいては、なか〓〓かくすにあらはるゝ德もおこなひもなくてやは。かゝる諧話のゆゑ〓しきをみるにても、さはおもひしらる也。まして隨齋のおきな、いにしへをこのみてつねにふみよむに、くらきをかうがへ、まどへるをなみ〓〓のものとはひくる。隨人のうへにおひのえねのあき寥松齋諧くらきをかうがへ、まどへるを一七七
弟子の、狂句の二字をとり捨て、集などに出せしは面白き事なりといへり。案るに此說しかりとしがたし。まづケンゾン句を作るに、人に對するにもあらで謙遜の詞をおくべき謂なし。是はその比の格調にして、此外にもへ御廟年を經て、牡丹藥ふかく、芭蕉野分してへ芋あらふ女 あら何ともな、猿をきく人へ晦日月なしへ風髭を吹て、のたぐひあまたあり。此句も狂句の二字ありて尤風味あり。門人などの、師の句を沒後みだりにあらため削らん事、甚いはれなし。文字あまりたりとて、たま〓〓此句のみに付て臆說をなすは心得がたし。外にも是等の体裁あるをしらぬ故にや。但シ竹齋は尾張の名護屋にありて、後に江戶神田に住す。醫を業とし狂歌をよくす。世に誰人の作にや、竹齋ものがたりといふ草紙あり。隨齋諧話乾夏成美輯錄紅梅やかの銀公がからころも貞德是千句卷頭の句にて、世に紅梅千句と唱ふ。かの銀公といへれば、衆人みな知りたる故事のやうにきこゆれども、銀公誰人なるやしる人なし。今按るに、古今榮雅抄に、色よりも香こそあはれとおもほゆれたが袖ふれし宿の梅ぞ(五)カンセンキ歩かクも、といふ歌の注に、漢仙記に云ク、銀-袖匂ヒ移リ木 花古赤井牛情留マルと云、漢ノ武帝の后銀公の袖の香、梅のはなにうつりて匂ひをとゞめたりといへり。おもほゆれの詞、今エㄹウタガヒは詠ずべからずとなりとあり。銀公は此をいへる事疑(一字闕)なし。但シ漢仙記といふ書いまだ見ず。全文を見ねば(二)牛くばしくは知りがたけれど、飛鳥井殿のかくしるしおか七ツれし事なれば、浮たる說にはあるべからず。冬之日狂句木がらしの身は竹齋ヒ似たるかな芭蕉ある人の說に、狂句とおかれしは翁の謙辭なり。後に門俳諧の句に点あはする事、むかしは百韵の中二三十句にイツキヤウ過ず。中にも逸興ある句には長点をかくるもの二三句なら。貞德·季吟·芭蕉のころ迄大やう如是なりし。浪花の宗因·西雀の門派より次第に点の句も多くなりしない。京の高政、俳諧惣本寺と名のりて世に行なはれし頃、京の隨流が破邪顯正といふ書を板行して宗因·高政等を批むれ牛評し、貞德の流派の一變したるを歎たり。その書の中にいへるは、諸國へ廻文をまはし同類をすゝめ、わけもなき俳諧に百句の中七八十点、長二三十もかけて初心を譽小子そやし、鳴わたれりと語る。この咄をきくに、けうとく胸おどろき空おそろしく、口を閉て聞居たりと書り。此書延寶七年の刊行也。百句の中長二三十句におよぶを、氣うとく胸おどろきしとは古風に殊勝なるとならずや。か(一字闕)く点の句多くなりしかども、今の世のどく点に數をさだめてあらそひしにはあらず。其後其角が世上に点のおほくなりしを憤り、世俗を撓おどろかさんと半面美人等の印を刻み、是を句の傍に施して、かれは幾点これは何点モテアソビと点數をかぞへしも、すべて世を玩てなしはじめし事なるに、その頃の俳土其角が顰にならひておの〓〓点印をつくり、卷每におしける也。今世上の俳士、是を俳諧第一の事のやうにおほえ、都鄙にわたりて勝負をのみあヨらそふ事になりしは、其角が俑をつくりし也。近來風体抄に曰、点に長点とて二ツ引事いかなる事ぞと試しに、まづ基俊の悅目鈔に、点の長サあまりおびたゞしく長く引事、口傳なきがいたす處也。長点一寸二三(一字闕)すき)分に過べかず。平点は七八分乃至一寸なるべしと書たり。また備州に宗祇の点の卷あり。点の長短ばかりあり、二ツ引し点はなかりしなり。またいつのころか烏丸資慶〓〓へある人歌の点を乞しに、点の長短のみ有て奧書に、歌の勝劣は点の長短を以て定むべしとあそばしたるなシヤウレツり。かれ是おもふに、長とはながき也、一分二分のあらそひもたび〓〓定めがたき事なれば、ニツ引て長のしるしとするなるべし。されば点、むさと長く引ちらし、色(一字關)ツツ〓形をしてひく〓と、かゝる故實をわきまへぬなり。点者のしるべき理にこそ云。隨齋諧話(一空闕)寶曆ころ黑露といひし老俳士あり。ある時甲斐山中を行とありしに、二月なかば草麥の靑み立たる山畑に、獸の皮を燒て四五寸づゝに切て串につらぬき、畦ごとにいくつも立たり。畑うつ男に此ものゝ名をとふに、是はやい
多くの山の中に、北にあたりて一番に高く見事なる山あるを主山と定めて、主山の南にあたりてはなれ山ありて、上手につくえの形のどくなるを案山とし、左右につゞきて主山をたすけたる形あるやまを輔山といふとあり。かゞしと申て、猪の皮を燒て、麥あらす猪にその匂ひを嗅せ追おどろかすものなりと荅し。さればかゞしといふ語は、もと臭き香を獸の類にかゞしむるよりいふと見えたり。御傘にかゞしと濁点を加へあれば、〓てはよむまじき事なりといひし。案るに、續犬筑波集に可政が句、國の名のかゞしを立む梅田哉といふ句も加賀のくにゝいひよせたれば、古くは濁音にいひし事疑なし。古昔にいふ香シムルカゞ火屋もその趣にて匂ひを獸に令」嗅なり。鳥驚の人形をかゞしといひ、また案山子の字を用ひし事は、友人芝山曰、案山子の文字は傳灯錄·普灯錄·歷代高僧錄等〓。面前案山子の語あり。注"曰、民俗刈草作人形令置山田之上防〓獸、名曰案山子。又會元五祖師戒禪師章"、主山高、案山低。又、主山高嶮〓。案山翠靑〓。などあり。按るに、主山は高く山の主たる心、案山は低く上平かに机のどき意ならん。低き山の間には必田畑をひらきて耕作す。鳥オドシも案山のほとりに立おく人形故、山僧など戯に案山子と名づけしを通稱するものならんといへり。さもあるべき事なり。徂徠鈴錄に、主山·案山·輔山と云〓とあり。民山路梅漬はうぐひす飮のさかり哉貞德此うぐひす飮といふ事、酒宴の席にある事なり。その比の俗にて、いまの世はしる者なし。酒ののみやうにさま〓〓の名目ありしとなり。宗伍記に云、十度飮とは、たとへば十人まどゐして盃を十ヲ中に置て、まづ一人盃と銚子を取て始めさせ申シ、さて次の人にさして其人に銚子を可に渡ス。さて又次の人飮て前のどくすべし。まはり酌なり。鶯飮とは、兩人出て十盃とく飮いを勝と申い。盃は定り不申いとあり。その外も名目いろ〓〓見えた60是を鶯飮と名づけし意は、古今集物の名の歌に、心(マゝ)がら花の雫にそぼちつゝうくひずとのみ鳥のなくらん、といふ心をひきあはせて、酒を十盃ひきつゞけて飮ムはうき事にて盃のひるまもなき故に、かく名づけしものならんと、伊勢氏の考なり。解、謂フ、亦廣-瀨竜-田ノ二祭也とありて、佐保姫·たつたひめの春·秋にやまの名をよせしとは別事なり。近江路のうらの詞をきゝそめて此句はあふみの浦人の〓と葉をきくと云事におぼえて過しに、此ごろ李由が湖水の賦を見て、ふと心づきし事あり。其文に、國中土に灰汁なく水に泥なし。音聲に〓濁をわかちてうらのことばをつかふ云〓かかああばうらの〓とばは一種のつかひやうあるをほめたる趣にきこゆ。たとへば入間言葉などやうの事にやと、近江の人にかれこれ問しに明らかならず。後の人なほ考べし。おはらさしは五月廿八日なり。丹波國桑田郡大原の社へ諸人參詣するをおはらさしといふ。さすとはその處を心ざしてゆく義なり。壒囊抄"云、さすとは早く步む義、指ヒキ牛の字を書なり。上林賦ニ、率呼直指と云。これははやく行心なり。呂尙注ニ、指は行也と釋せり。道をさすと金は此心なるべしとあり。言塵集に舜蓮、鶉はふ門は木の葉にうづもれて人もさしこぬ大原の里。又三月廿三日を春さし、九月廿三日を秋さしとて一年に三度詣る由をいへい。蚕する人の殊に信ずる社にて、社地の小石を猫とタヅサヘ名づけて携歸るとぞ。是は蚕に鼠のつかぬまじなひ也といへり。佐保姫·龍田姬は、春·秋の色を染出す造化の神の名なりニウテイといへり。おもふにこれは奈良の朝庭のころの諺なるべLoその故は佐保山は帝都より東にあたり、龍田やまは西にあたれる故、春·秋の方位を取てしかいふと見ゆ。さかわまた萬葉集第九に、吾去者七日不過龍田彥勤此花乎風爾ヒラスナ莫落。此歌春に龍田彥をよめりといふ先達の違論あり。されど萬葉の歌は風の事を専によみたる故、龍田彥とは云る也。龍田は風神なればなり。神祇令ニ曰、風神祭義隨齋諧芭蕉菴六物といふは、文臺号ニ見·大瓢四山米大子·小瓢博士はま!!檜ガサ笠·菊ノ繪·茶ノ羽折なり。おの〓〓素堂老人の銘ありて家の集に見ゆ。その中小瓢と大瓢の文章とは故ありて予家·おつに藏す。小瓢は芭蕉沒後松木紋水といふものにつたへ、一八、
それより段〓傳へたる趣、傳來書にくはしく有。小瓢圖明和年間に黑露といふ俳士の系大書俳本日あくみつつく〓も入るくにつに女むゆかれた大天のわよあまりすさやばもらむらすとてかららみらわれあをといちくの居くの居くの汗しを糧八へまこのお案やをよろとによちことのろあるつお詫やつくもとちょうふふやくこむろゆきるしむうのとしてみてえっよそうらす其ろみれやらに成もくなうツーノー四しゅうようなくなり顆心ハきらおのすめるまのうあわりふふる我負つさきらくさむゆうすうつむれお~ とつちわのやろ~はなは一壺もはせをの三字は眞蹟にて、たはぶれにしるし置れした、后に消うしたはん事をおそれて金漆にてとめたるよし、傳書にあり。大瓢の文章は文集等に出ざれば、按に、大瓢は〓之鉛堆酒郞が家いに在とふ一眞蹟のまゝに寫し出す。〓之鉛山素堂一〓重黛山莫慣首陽餓自笑移箕山這中飯顆山教云の頂く種まれつうゝみまもめま惠子ってふね我うむ~つのむさありそをゝみまも芭蕉、ある時許六を尋ねし折、彥根ちかくの野中にて賊とおほしき大男、あとにしたがひ來る。芭蕉自若として過ゆくに、賊せまりて衣を乞ふ。はせをやがて布子ひとつをあたへ、とかくして許六亭に至る。そののちかの賊、彥根の少年に云よせて、彼布子をかへし贈れり。はせを微笑してその事を衆にかたる。かの少年いはく、賊は犬神ヤ五郞といふ惡徒なり。先に芭蕉の跡に付て野徑にて只一討にせむとおもふに、いかにをくれけるにかうち得ず。いま許六亭にある芭蕉翁なる事をきく。あしう仕りてい巴ひけるかな、よく〓〓佗給れとて返し贈れりといふ。按るに、昔門覺上人は西行を憎みて、あはゞかならずしや首(父)打はらんなど常に云り。ある時四行高雄にのぼり、文覺が室をたづねしに文覺よろこび、さま〓〓いたはりて一宿せしむ。そののち弟子ども、平生のとばにたがひて西行を奔走せし事いかにと問ふ。文覺いはく、我西行を打得ん事かたし、西行こそわれを打むずるものなれとまうチンユウされけるとかや。はせをもまた西行の沈勇ありけるならんと、そのころの人評せしとぞ。千金をいきましくものふくつ點ハらろこ我ような芭蕾施さら德元が俳諧初學抄ニ云、俳諧には連歌の外に五ツまさりたるたのしび侍るとかや。第一に俗語を用る事、第二自讃し侍りてもをかしき事、第三とりあへず興を催す事、第四初心の輩まなび安くして和歌の浦波にこゝろをよせ侍る事、第五には集歌古事來歷分明ならずとも、一句にさへ興をなし侍らば、なにどをも廣く引よせて付侍る事、是五ツの德なりと云り。其角が猿簑集の序に、五德はいふに及ばずと書しは此事也。德元は齋藤齋宮といひて、岐阜中納言の家人、二千石を領す。後に江戶に出て法服を着し、德元とよびし事、滑稽太平記に見ゆ。隨齋諧話一八三
跡なしどなれば、必それらにすかされ給ふなといふに、イ士人閉口して戾りしとぞ。是を思ふに、許六はよく俳諧に遊戯せる人といふべし。いまの世の俳士の人をそしハ り、をのれを高ぶりて、やゝもすれば名を賣、利に走らんとする輩とは霄壤のたがひにして、その心の高き事をおもふべし。彥根の許六は世に自負放言の人とおもへるに、常に溫厚謙遜の人にてありしとぞ。ある時一士人來りて俳諧の指子ンゴロ南を乞ふ。許六辭してうけがはず。士人懇にいひてやまず。許六のいふやう、われ人におしゆべきほどの事しらず、ゆるし給れといふに、かの士すこし不興し、某シ此道執心なればこそかくまでには申せ、御〓示を得ても、ものゝやくにたつまじきものなりと御見かぎりありて、さはの玉ふなるべしと、すこしあらゝかにいふ時、許六大に迷惑せる体にて、さらにさやうの事ならず、われ俳諧に何の心得たる事なければいなみ申なり。足下はまた何によりてかくは仰らるゝぞといふに、かの士いよ〓〓憤りて、それは某をあざむき給ふなり。旣に御著作のものあまた熟覽するに、芭蕉門において血脉相承せる人世更になし。君ひとり實に傳灯の俳諧なりといふ事をあらはし給ふ。さる故にかくは望み申すなりといふに.許六打わらひて、まことにさにて侍るや、あの著述のものはみな〓〓一時のたはぶれどにていぞや。あのたぐひの書るものをもて實とし給ふは痛入たる事なり。もとより日右二條は古雪中蓼太の話なり。予若輩のころなれば、唯おほよそに聞て、何に出たる事なるや、また何人の傳へ置る話なりやといふ〓とをも聞ざりしを今後悔す。古池や蛙とびこむ水のおと芭蕉ある人の說に、池のふりたる形容はさもあるべし。されど古き池をおしつけて古池といはん事いかゞと。按るに筑波間荅の序に、過にし春のころかとよ、ふる池の亂草をはらひて蛙樂を愛する事ありきと、良基公あそばされしうへは難なかるべし。信夫摺芒あからむ六條が髮はせを髮はせをナリツ子ある本に髭とあるは誤なり。六條は少將成經の乳母なり。平家もの語少將都還の條に云、少將の母上靈山におはしけるが、きのふより宰相の宿所におはして侍れけり。少將のたち入給ふ姿をたゞひと目み給ひて、命あればとばかりにて引かづきてぞふし給ふ。北のかたはさしもうつくしうはなやかにおはせしかども、つきせぬものおもひにやせくろみて、その人とも見え玉はず。六條が黑かりし髪も白くなりたり云〓。また是より若葉一見となりけり素堂此句、とく〓〓の句合に、一見となりにけりといだせり。かの句合は、沒後年を經て宗瑞といふ人淨書して印刻す。その時草稿に文字脫たりとおもひて、みだりに、なりにけりと書りと見ゆ。誤なり。其角が句兄弟にも、へとなりけりとありてその評の〓と葉に、となりけりとは素堂が平生の口ぐせなれば、これを證には取がたしと書り。扨と文字は大やう下につけてよむ句法なり。その證ひとつふたつをいはゞ、古今集日ぐらしの鳴つるなべに日はくれぬとおもふは山のかげにぞ有ける(顯註)この歌賢住密勘に、とみしはやまのとあり。曾丹集夜をかけて春くれ夏は來にけらしとおもふまもなくかはる衣手慈鎭和尙の長歌にかくてや今はあとたえむとおもふからにくれは鳥芭蕉、深川の菴池魚の災にかゝりし後、しばらく甲斐の國に掛錫して、六祖五平といふものをあるじとす。六祖は彼ものゝあだ名なり。五平かつて禪法をふかく信じて、佛頂和尙に參學す。彼もの一文字だにしらず、故に人呼て六祖と名づけたり。はせをも又かの禪師の居士なれば、そのちなみによりて宿られしと見えたり。その後其角が招きによりて、ふたゝび江戶へ立かへりて、ともかくもならでや雪のかれ尾花はせをときこえしはこの時の事なり。とみしはやまのとあり。隨齋諧話はせをとおもふからにくれは鳥
事を得ざる〓となれども、わづらはしく見ぐるしき也。人シのくににも古人を慕ひて我名に用ひし例もあれど、それは世をも隔、〓とにまぎるまじき故ありて尤まれ〓〓の事なり。いまのどく人每のやうにせしにはあらず。是らは百年以來の事にて、かの立圃などやはじめなるべきとおほゆ。但、菴号などは、その庵をつたへたる人の次〓に書る事は、かの例にはあらぬにや、それさへ古人さやうに書るを見ず。又按るに、後の立圃は雛屋が孫なり。たばね菅といふ集の中に云、祖父雛屋立圃、第三の句を存じ出て、この花のすがた發句にむすび侍りて、手向草にもとつく。鷺草や御簾のあちよりこちらむく立圃とあり。此書、正德二年四月刊行。その外にもあまたあり。されば西行上人のいづくにかとへとおもふかなしきと、へと文字下句についへる歌も、けよてむべきなり。ある人のつたへし芭蕉·立圃兩吟の附句あり。立圃は万治十二年に卒せし人にて、はせをの仕を辭して伊賀を出し年なり。此附句の風調を考るに、いかにもそのころのものならず。ひとへに信ぜられぬものなれば、我家藏の俳諧錄に是を載せず。其後享保八年に琴風が著したるおアノ、く記行といふ集を見しに、立圃といふ名多くあり。彼の雛屋立圃が後に又立圃と名のれるものありとおぼえて、尤まぎらはし。近世は父の名·師の名を襲ひて名のるもの呂世上往〓あり。昔はかつてなき事なり。すべて物に名のあるは、その物を辨別する所以なれば、かくはあるまじき事なり。たとへば硯をスヾリと名づけ、筆をもおなじくスヾリとよび、墨をもまたスヾリといはゞ、何を以てわかたんや。されば人の名を次〓に名のれる輩も、みづから是をわかつ事なければ、或は二世某·三世某と書る事止たばね菅とい立圃夜寒·肌寒は秋の〓と葉なり。て、漢字の將ノ字にあてゝ、はだ寒はいさゝか寒き義にはたと〓ミて唱ふべしといふ人あり。溫故日錄にも將寒と文字にて書り。連歌には將寒の義なるべし。按るに、萬葉集第二十、防人歌に、佐〃〓賀渡力佐也久志毛用爾奈〓辨加流去呂毛爾麻世流古侶賀波太波毛。また古今六帖、むかしある人といふ部に、へひとり寐の夜はだの寒さしりそめてむかしの人ぞいまもこひしき。是ら肌寒とはつゞかざれども、俳諧にては此歌どもを引あはせて、肌寒とせんも障あるべからず。吸もの無代行方冷飯とりさかな一芋煮入さけ宗長記の中の附句人のなさけやあなにあるらん女ぶみかしこ〓〓とかき捨てこれはあなかしこといふつゞきにて附合せたり。宗長は大永頃の人なれば、そのころまでは女文にかしこと書る事疑なし。かしこは甚ふるき詞にて、はたらかしては、かしこみ、また、かしこまるなどいへり。上古の神の御名のかしこねの命と申奉るにも惶の字をあてたり。男の文の終に恐惶と書るおなじこゝろなり。蓮如の文の終にもあなかしことあり。今の女文にかしくと書はこのかしこの轉ぜるなり。いつのころよりかあやまり來たりつらん。ほつれたる去年の寐蓙のしたゝるく:力關西にて汚れ垢つきたるを、したゝるし、或はしたるしと今もいふなり。此詞古き事にや、扶木鈔に、加茂社百首慈鎭元祿七年のころ、芭蕉の家兄松尾氏の後園に無名菴をいとなみ建し。八月十五夜入菴の時の献立とて、尾張國より寫しこせり。八月十五夜ふこんにやく木くらげ里いも中猪口のつぺい一個、明、つかみ豆腐あつか吸物隨齋諧話くるみしぼり汁すしやうゆすり山のいも肴にんじんやき松茸くはし柿
ひん許子之貧を授す~一〓一斬おやとめ有雨をける(風を曰く借るくそ、あめことなる誰も志のひある八くること草堂建立法式留酒天和三年秋九月寐汲願主之音滋策於敗荷示山堂堂一五〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓次一拾〓〓〓〓人じ一やりく長吋一四匁勝延四匁茂をつ〓一三包倍四一四反次貞一そこは小そはお蛋一五分七〓助一郎ぬ愚心一五分你三島一五匁ゆき一五み五ろ房一三匁九之傷一四つと六を第一三るから第一五分体を信一部分不〓一きを樹サーバタ不外一を気泉左一郎〓不ト一そ〓舛〓一〓〓〓に二五十中楽一北条枳风"期右シークー祝一あ多一そば雰拓一五反又福福一五匁〓白一五分ミラゆちば一を、五五分別回ら〓川村田翌里一五から市と云は一三匁〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓暮角次叙不留一郎朱岚雪一限一五嵐〓一一點め雪〓日賤の女もおほぢ井づゝにゆふすゞみしたるき麻の衣すゝぎて源平盛衰記に、重衡捕はれて後北のかたに逢給ふ條に、したるげにみえ給へばこれを着かへ給へ北の方の詞に、子ーヌキとて、袷の小袖に白惟具して奉れば、練貫の小袖の垢づきたるにぬぎかへ給ふと云、したるきは垢づきたるをいふ事證すべし。上野舘林松倉九皐が家に、芭蕉菴再建勸化簿の序、素堂老人の眞蹟を藏す。所〓虫ばめるまゝをこゝにうつす。九皐は松倉嵐蘭が姪孫なりとぞ。し庵裂て芭蕉庵を求らせな二三生羽あみすんやめくこを軽すまあ行んや廣くも子を押しぶやときうしや甲をこのますしを配してしなる渋谷志乃有にみほとといないよこれを情貧とせんやそし犯貪くせんやつぬこはろふふて也と負乃する嵐〓一一點め雪〓卷を並べ書たるもの有。その第二卷目に、今の世はせを松島獨吟と稱する松の花の發句の卷あり。芭蕉の獨吟といひ傳へし〓と日比疑ありしが、是にて躬が獨唫なる事しられたり。尙按るに、此句の詞書に、我ガ松嶋の松といふめるに云ヽとあり。躬もまたみちのくの人なれば、我松島とはいへるならん。はせをにおいては我の字穩ならず。ふ〓一三反、側進二秘め重延一本美元。尚虎一粉め正安一〓ふら燒門二かめ迷彩一五分一小気岚柯一そ匁新信嵐一五反一破府病院蒙天弧一臺北〓之一作二尺四廿山店之はせを、昔常陸國本間氏に寄宿して醫を學ぶ。其時の自筆の誓紙、いまつたへて本間松江が家にあり。其文、相傳醫術啓迪院一流ノ祕書祕語、那〓豈ニ漏レンシ他ニャ乎。若ッ於違背一〓ニ者、大小ノ神祇別而生緣ノ氏神可蒙御罰ヲ者也。仍而起請文如件。一三反、一粉め一五分+七嚏草の奥書にいふ、地藏のかしらに蓼すりこ木、面を嫌ふ古來の法なりと云云。板本の末に、此奧書は烏丸大納言樣被遊いと也、と記せり。光廣卿の戯れに筆を添給ふものなるべし。さて是はとりもつかぬ事をたはぶれにの給ひしと覺めろに、此ころの談にかくいふ事のありしにや。ッッ砂石集に云、中頃念佛の弘通さかりなりける時は、餘佛·餘〓みないたづらものなりとて、或は法華經夕川に流し、或は地藏の頭にて蓼すりなどしけり。ある里には隣家の事を下女の中にかたりて、となりの家の地藏は既に目の즈もとまで摺つぶれたるぞやといひけり。あさましかりけ一八八物部道意、之貞享三年丙寅四月十二日松尾桃靑隨齋諧話本間道悅樣友人幽嘯曰、陸奥須加川相樂順藏といへるは等躬が末なり。いまも躬が筆のもの多くあり。その中に獨吟の歌仙五
のあり。或は、たそやとト句を切て、走る笠のとよむべしといひ、または、たそやとバ知るなりなどいふ說あれども、みな非なり。八雲御抄にたばしるは、とばしると云り。古人の說なりと書せ給へり。たばしる·とばしる、同語にて、たトいひとトいひ共に發語ながら、唯はしるといふより語勢つよし。萬葉集に、霜の上にあられたばしり、また實朝卿の、あられたばしるなすの篠原、など形容おもふべし。るしわざにこそ、とあり。おもふに是らや諺の事のもとなるべき。又案るに、鷺水が俳林良材にいふ、此翁丹州保津の產にして野〓口氏宗左衞門親重といひける武士にルT、累代弓馬に星霜を經て云〓。上は後水尾帝の御前句をかたじけなうして、骨肉の句意をはいかいにうたひ、或は烏丸亞相の賢筆を申くだして、はなひ草の卷の末に芳〓を得給へり。又曰、ある日跡をくらまし名をかくして九重のかくれ家をもとめ、雛といふものに生涯をたすけ、子陵がこゝろざしをしたひ云。是を合せ考るに、此ころより雛をつくりて雛屋とはいひけるなり。とあり。おもふに是らや諺の事のもと元日や土つかうだる顏もせず去來此句、遣土ひたるとおもふ人多し。土をつかふとはいはず。是は土抓みたるなり。み文字をのばして、つかうだると云り。文字濁りてよむべし、音便なり。平家物語忠度最期の條に、薩摩守はきこゆる熊野そだちの大力、くつきやうの早わざにておはしければ、六彌太をつかうで、につくいやつが、味方ぞといはゞいはせよかしとて云。また曰、しばしのけ、さいごの十念となへんとて、六彌太をつかうで、弓だけばかりぞなげのけらる。又狂言の字關)〓とばに、たのみたる人といふべきを、たのうだ人とい句は万はじめをよくおもふべきなり。古人の句きこえがたきやうなるも、廻しめにて聞ゆる也。たとへば冬の日の脇にへたそやとばしる笠のさゞん花是は發句の竹齋に似たるといふに對して、笠に山茶花のとばしりかゝるは誰そやと問たる心にて、何の事もなくよく心得らるゝ也。此まはしめを見ざるゆへに、さま〓〓の說をなすもへら。此類なり。と脇してたはぶれあひし事、七車にのせたり。鬼貫が名をいひ出でたはぶれしを、脇もまた其人の名にて附たれば、ヰゼムと唱し事しるべし。立志はいかにもちひさき男なりと見えて、京にあそびし時團水が戯の句井"小序あり。古ニ曰ク、設ル「名ヲ本ト名ジク其體一。無"体何ヲ以當〓其名一。言い体ヲ本"以テ當ジ其ノ名ニ。〓」(名何ヲ以テ當〓其ノ体一。是則所以名實之顯→也。其ノ名大ニ而其體小者、、和諧堂立志法師。中〓〓にちいさかりけり蟬の口團水なにゆへに名をよぶこゝろふと立志これにて心圭と三吟の歌仙あり。立志が撰の都のしをりに見えたり。京にあそびし其角が雜談に、支那彌三郞入道宗鑑は、生涯をかろんじて隱德たかく、山崎の桑の門しかも車馬の喧なし。ひと日近衞殿宇治へ道遙の頃、さる法師しれるものなりと尋ね入らせ給ひけるに、瘦つかれたる老法師ひとり、庭草とりなどして、その邊の池のたゝへに水かゞみ見けるさまを、宗鑑が姿を見よやがきつばたと仰下されければ則、のまんとすれば夏の澤水とつかうまつりける。當意興ありけるにやとあり。此御脇、鑑が申上たる事誰もおぼえて異論なし。然るに滑稽太平記に、或時逍遙院殿へ宗長誘引して參向す。宗鑑は杜若をめで、庭の池に植て愛しけるに、折ふし咲亂れたれば一本持參し献じければ、御挨拶として、一八一惟然は法師なれば、ヰ子ムと吳音にとなへたる事とおぼえしに、漢音にてヰゼムとよびしと見へたり。伊丹の鬼貫が家をたづねし時、秋はれたあら鬼つらの夕やな惟然と卽事にたはぶれしに、鬼つら、とりあへず、いぜんおじやつた時はまだ夏隨齋諧話惟然
は雜談集より五十余年以前の撰なれば、右二說を正シとすべし。按るに、宗鑑は讃岐國にしばしすみて、そこにて終りぬと見ゆ。一時軒惟中が記行に、八月六日讃州一夜庵に至る云。宗鑑法師、心を茅擔にとゞめ眼を煙檣霞にあかしめ給ふ。げに〓とはりなり、天下の多景こゝにあつまれり。更にいふべき〓とのはもなし。月白し此一夜庵をいかむせむ後の山路を四五反ばかりわたりて宗鑑の石塔あり。草茫〓と生しげり、徒に土中になかばしづめり。タ陽の僧、折〓〓落葉を拂ふ。われも此ところに來りて終り、此塚のもとにふせらん事をおもひ、一九七香をひねりて感慨やまず云ゝ。かくあれば此ところに終りし事明らかなれば、雜談集に、天狗になりて月のあかき夜さまよひ歩行しなどいへるは、一四、〇文花に書るにて信ずべからず。又案、近來風体抄ニ云、讃州興昌寺といへる禪院は、一夜庵宗鑑法師の開かれし地にて、終にその處にて手にもてる姿を見ればがきつばたのまんとすれば夏の澤水宗長蛇に追はれていづちかへるらむ宗鑑宗鑑參向のよし申上ければ、發句すべし、汝脇はやくして宗鑑をせかすべしと仰ければ、脇を御發句出ると附たり。宗鑑も名人にて、宗長いひもきらざるに附たりとなら。宗鑑はやせ形なりければ、餓鬼つばたと仰られき。また犬子集に載たるは、逍遙院殿へ宗鑑法師始て伺候の時、宗長法師伴ひて罷出けるに、逍遙院殿御當座、宗鑑がすがたを見ればがきつばたのまんとすればなつの澤水蛇に追れていづちかいるらん右、脇宗長、第三は宗鑑ムと見ゆ。此二說によれば、宗鑑が室へ立入らせ給ふにはあらず、御脇も宗長作なり。雜談集にのし給ひしや健二つ痩法師の池水に水かゞみ見たるなど、御發句のさまにはよく取あひたるやうなれども、二說と書るものある家は火災もに宗鑑か近衞殿へ參殿したる趣なり。犬子集をまぬかるゝといへり右二說系大書俳本日鹽尻卷七、山崎宗鑑はもと實德院らうたくもの將軍義尙のし給ひし童也しとかや健二つほまれ有て今世におほ俗に宗鑑が書るものある家は火災終られたるとなむ。かれ是緣起にくはし。下の客とよしいへ月の一夜菴又、對月庵ともいへれば、月に對すあんの外なりあか名人いづれやくにはたちつてと哉十歲入學大圓寺十四歲於堀江町本草綱目寫修治主治發明十五歲內經素本易經素本寫蒲生五郎兵衞需にて伊勢物語書之右表紙出來本多下野守殿へ献之右之御褒美として刀申請い十六歲草刈三越講筵服部平助講述十七桃靑廿歌仙延寶午發句合杉風五十句合作秋洪水延寶申次韵一三一時軒其角十七年忌に大坂淡〓が編集四卷、その標題、七囘の三字を題せり。集中に其角年立を記す。寛文丑うまならばいかほどはねんうしの年さてもはねたり寛文元ねん七月十七日、母の靈夢人目には過ると見えてうろくずのかずしらなみの寶まうくる七夜曉すみよしの松の秋かぜふくからにこゑうちそふる沖つしら浪寛文九酉九月廿二日曉東順靈夢ことの葉をせどにも門にも植置てたゞ十十七十八杉風五十句合作隨齋話二十辛酉壬戌冬天和亥貞享甲子信德七百五十句ニ對朝鮮來聘みなし栗於芝金地院前シ於京盡集
丙寅新山家木賀の記丁卯續みなし栗撰之四月八日妙務尼卒五十七才元祿元上京季吟亭講歌書十一月廿二日宗隆尼卒〓於堅田葬八十四「イト元祿三庚子花つみニ卷夏百日撰之辛雜談集ニ卷撰之四未五申壬行年七十二歲六癸酉八月廿九日東順、卒萩の露撰之七甲戌句兄弟三卷撰之上京十月十二日芭蕉卒五十ニ枯尾花撰之粟津義中寺葬之(1)九丙子庭竈牛も雜煮をすわりけり十丁丑うら若葉ニ卷撰之十一戊寅十二月寛文延寳九天和四貞享五虚栗〓集續みなしぐり新山家花摘上下非人句雜談集句兄弟上中下枯尾花わか葉合末若葉上下元祿十三三上吟跋之夏元祿十四焦尾琴六月右、其角翁書捨置レシヲ摹シテ爰ニ出ス。此外、類椎子一集上中下アリ、年記ニモレタルヲ以テ記之。淡〓撰系大書俳本日雜談集旅ごろも早苗につゝむ食乞んいたかの皷あやめ折すな職人盡歌合に、いたか文字はよし見えもみえずもよくめくるいたかの經の月のそらよみ曾良はせを貞享五いかにせん五條の橋のしたむせびはてはなみだのながれかんじやうとありて、その〓は僧のすがたにて笠を着、ちひさき卒塔婆を持る体をかけり。いまの世にもある流勸頂などす雜ゝむる、いやしき僧形の者に似たり。此事をいへるにや。(一字闕)されど皷など持べき風情にはあらず。或人の云、奧南部の邊、今の世にいたこと唱ふるものあり。それは盲女に按此中襟にかて修驗などやうの事をするものなり。ずゝだま·野けたるものはシ、蝦夷の猪の牙などを糸につらぬきて襟にかけたり。脊に俗のシトキといますおんだいじといふものを負ふ。それは竹の筒にてのに似たちどする祈禱な固く封ぜり。何物たる事をしるものなしとぞ。ま事などた三春の俳士の語りけるは、我里にいたかと唱ふ蝦夷ののこり古俗のるものあり。それは攝津西宮の社人の配下にて、いちにんとも惠比須の社の札を配る者也。何故なるや、西丸山は嫁〓などもせず。〓とにいやしまるゝ者にて、祇園の犬神人などの類なりといへりし。此二說の中の者の、元祿比には皷など打ならして步行けるにや。なほそのくにの人にたづぬべし。といふ事を書り。その文、一時ノ之所是トスル未ジ必シモ是ナラ。蓋シ一時之所是トスル者ハ是ハノ其ノ所フレ是而非〓我輩ノ之所謂是一ハ也。一時之所非未ジ必シモ非ナラ。蓋一時ノ之所非者、非ニノ其所シ非トスル而非〓我輩之所謂非一ハ也。燕石在一當時一則得ニ十襲之尊重〓、和璧在一當時一則逢ニ再用之毀辱一。豈燕石可寶トス和璧可ルン罪ス乎。不知者ノ〓倒錯亂チャ而已自警七是ン句をかざらむとすれば、必粉をほどこして腮にたらケンシウユアミざる類、たゞ娟醜浴のまゝならんを是トス。句にちからあらんとすれば、必牛馬の騰驤罵駑にひとし。唯穩にして勇悍ならんを是トス。句をたはぶれんとすれば、必臀をたゝきて笑ひをもはなやか唯箕居祖楊ならずして、とむるにちかし。なるを是トス。前句にすがりてあながちならんとすれば、或は衣を縫に膠漆をもて補ふがどし。たとへば襟裾は別にして縷のはなれざるを是トス。齋話一晶が獨吟千句をうつしもたる人あり。その自序に七是
五兩出して買得て後翁直傳と僞り、其目六十條を作五十余りかへて己が門人を誑し、多くの金錢を貪れり。十論〓ニ古今抄といふ書を撰て、祖翁の流義なりと稱して自作の妄談を出す事數百ケ條あり。嗚呼一人其虛を傳へて萬人實を稱す。死して何の面目ありて師に黃泉に見えんや。無間の罪おそるべし〓〓。去來妾、在命尼となりて、今下長者町油ノ小路西へ入町に住す。去來は向井元丹弟、今の向井元桂伯父なり。是故に去來妾今元桂孝養す。按、原松、号猩〓菴、加藤氏、江戶人、狂名烏鵠坊、また虎翼居士といふ。其角が高弟なり。後京師に住す。都不覺は比叡山大善院に住す、佛行坊といふ。シタグツズ务きとん前句にはなれんとすれば、或は德を不」脫して踵をさぐるに似たり。たとへば五指ひとしからずして、しかもあひしたしみたらんを是トス。リ破れば矩をうしなひ、泥めば變化をしらず。やすらかなるをこのめば淡し。あたらしきを求れば〓と樣なラり。すゝむものは麁く、屈するものは鈍し。その是ならんを是トス。いま一是は虫ばみて見えず、可ル惜。可ル惜。原松が古き手帋をあまた持るものあり。その中に晋子雨乞の句、穿、其(電車)夕立や田も見めぐりの神ならばの麺をのに、ゆる立立今今三圍稻荷の神主方、晋子直筆奉納のたんざく、包囲トアリ寳物にて御座い。以上。九月二日猩〓庵都不覺樣とありて、其末に俳諧の論を書るものあり。その中ニ云、去來死後の傳書、去來妾是を祕藏す。支考、乾字金十その中に晋子雨風俗文選に載たる松島の賦、こゝろみにおくのほそみちサクソウの文章と參考するに、はせをの書る處を前後に錯綜して、しひて賦の体につゞりあらためたりと見ゆ。許六さしもの英才にて、しかもはせをの書るまゝながら、前後に引たがへてつゞりぬる故、語脉のつゞかざる所あり。學者猩〓庵よくこゝろを付て考ふべし。今按るに、文鑑·文操、石臼の頌をのせず。これは史邦が小文庫にあり。越人みづからかくいへれば、此文章、はせ草をの造意にはあらざるべし。文中筆力似たる所は、加筆の處と見ゆ。されど、はせをに似ざる所多くあれば、越人が作として可なり。次でおもふに、小文庫に載し煤掃の說といふものも、ひそかにおもふに、はせをの筆力ならぬやう也。これらも支考が手に出たるを、史邦漫に書加へたるもしるべからず。文中つたなき語どもゝ交れり。殊に結句に、ほどなく暮て高鼾とはなりぬ、と書て、その發旬、暮ゆく宿の高鼾とあり。これら決てはせをの造意にはあらぬ也。先達の此文章の事なにとも違論なきを、かくまで臆說をなす事はゞかりあるに似たれど、しばらく思ふ所をしるして識者の評をまつ。玉かづらなまりもゆかしつまね花史邦後猿簑に上五字、佐用姬のとあり。つまね花は鳳仙花をいふ九州の方言なり。源氏物語玉葛の君は、豐後にてひとゝなれゝば、その方言の訛もゆかしとはいへり。松浦佐用姬になしても西方の國にて、寄せなきにはあらざれども、其事古きに過てをかしからず。史邦が自撰の小文庫に玉かづらとあれば、是を用ふべし。不猫蛇に云、予、石臼の銘といふ〓の文かきて翁の許へ、あしかるべきは勿論、殊に聞にくき所は加筆給るべしと、京に居られし時遣はせし。翁の定めて書直し置れし處もあるべし。予も草案のまゝ名もかゝずつかはしたるに、翁滅後に左樣の反古など渠が取しと見えて、文選とやらん文をあつめたる物の中へ、石臼の銘を翁と名書入たり。予むかし若き時書たる文にて、格別さわがしき文なるに、はせを翁と名づけし不調法さ、言語同斷なり。と書り。不猫蛇は越人作にて、支考が十論を破したる書也。隨齋諧話霜の後なでしこ咲る火桶かなはせを此句大かた聞へがたし。按るに、火桶に撫子〓く事故實也と許六云り。またつれ〓〓草諸抄大成といふものにも此事を書りとおぼゆ。今忘却ス。されば火桶の〓をさして、二九七
後の人思ひ定むべし。たゞちに咲るといふとおぼゆ。拾遺愚草に、霜さゆるあしたの原の冬がれにひと花咲る大和なでしこ定家卿の此詠をおもひ寄て、その霜の後も又火桶になでしこありといふ意なるべしとおもひて、人にもかたり物にも書付しに、ある人の說に、是はたゞちに火桶に撫子植たる句なるべし。著聞集第二十九、草木ノ部ニ云、延喜十三年十月卄三日御記ニ云、仰ニ侍臣令〓菊花各十本。分三番一相爭フ勝劣フ。賭ル"以申時〓各方領ノ花參入ス。仙花一二番一番入自ニ入レニニ細口次第ニ進け花ヲ立庭中一。桶一番種一花花石洲形ノ二番栽火各藏人所二人取テ立御前火桶にもの栽る事、是を證とすべしといへり。此句の〓と葉書に、古き世をしのびて、とあれば、延喜の菊あはせをおもひよせて作れるにもあるべし。又火桶には、時にあたりて何にても入べき物なるにや。順家集ニ、天元元年十月はじめの亥の日、右大臣の女御の火桶にもちひ·くだものもりて、內裏の女房につかはす。大臣此火桶ひとつ奉らせ給ふ。しろかねして亥の子瓶の形をつくりてすゑさせ給へる云。これらを見れば、火桶にたゞちになでしこを植たるにもあるべきにや。日ちる花になむあみだ佛とゆふべ哉あら野集に、守武が辭世とて載たり。其角が雜談集に此句を論じて、神職の辭世として何ぞ此境をにらむべきや。たゞアヽと歎美して打おどろきたる落花なるべしといへり。此ころ荒木田家の說を聞しに、彼家記ニ云、守武は文明六年九月廿日敍爵。同十九年二月廿日任禰宜一。天文十年四月廿三日轉スー坐。號〓〓田長官〓。同八月八日卒。辭世あさがほにけふは見ゆらむ我世かなまた神路山わがこしかたもゆくすゑもみねの松かぜ峰のまつ風其角門人才木といふ人は、東叡山內〓水觀音の別當の御坊なり。其角沒後所持の印一顆を傳ふ。故ありて是を袁丁子におくる。丁子また嵯峨の重厚にあたふ。厚、東奧遊歷の頃旅嚢にたくはへしが、南部の平角が數奇の志にめでゝ是をゆづれり。す。その印、今平角が文庫に藏して、十襲愛翫ん。後世七名八体、あるひは二十四体などいへる案ッ方ギの疑網を、たゞちに割斷すべき大光明の利釼なるべし。秋のくれ客か亭主か中柱芭蕉(やく)伊井家の邸に許六をたづねし時、許六たま〓〓家にあらず。依て彼が歸るを待うちの作なりとぞ。その中柱といふものは、今も猶伊井家にありといふ。下の印文何とも讀がたく、久しく人にも見せ問ぬれどもつひに解せず。此ごろある人の話に、是は其角が附句の意味を人にをしへるとて、常に八十人入といふ事を口すさびけるといひつたふ。たしかにその文字なるべしといひし。いかさまにもさ見えたり。さて此文字を附句のをしへとするはいかにといふに、すべて附句は理にわたらず、たゞ前句よりの拍子をはづさず、心頭いさゝかの分別をもちひずして、たとへばノといへばへと附、一とあらば-とうけ、へといはむにはノといふやうに、前句の調子をぬかず、いかやうにも附べしといへりとぞ。是其角が活達の氣象、さもあるべくおぼゆ。普化禪師の頌、テツ四方八面來旋風打などいへるものと、同一轍の活法なら山田淺右衞門、俳号寛州が持る其角が眞蹟に、景〓が世帶みせぬやふた薺其角このくせもの、宵は大宮司が娘にかよひ、曉は五條坂のあこやにしのぶ。君につかへ(ぎて寐〓をわすれし兵なりけり。此自註にて、句意よくきこえたり。五元集にはこのこと葉書なし。角隨齋諸話一六九
わけゆく末の一助もやと、寒爐のもとにれいのつたなきを忘れて申にい。また曰、松と梅とはかの御自愛の木蔭なるをと、なぞらへて爰に冠きせ侍るならし。山口信章來雪みづから序元祿三年午十二月廿日また酒折の宮奉納和漢篇あり。さきの年甲斐住原田氏吟夕子、予が閑庭に入て折ふ(原社)しの興を詠じけるに、その冠の句、暗に菅家の中損( 同)送る詞にありければ、漢の虫損けらし。それより漢和相まじへて面八句となし、かのくにの境にいつきまつる酒折の宮へをさむべきよし、なほ〓葉とそへてしがなとすゝめけれど、我何をかいはん。抑此神所は新墾つくばねのうつりにて、日本武尊つらね歌の〓とはじめにてありしより、むかしの人は連歌の席には、尊のかげをかけまくもかしこくあがめ奉りていまの天滿神のごとし。しかれば願主の思ひよられし所、ま〓とに故あるかな。山口素堂原田氏詩の家〓あらん花遲き庭のけさの雪吟タ隨齋諧話坤夏成美輯錄卯辰記行に、たれも〓〓いふべくおぼえ侍れども、黃哥蘇新のたぐひにあらずば、口をひらく事なかれ云ヽ。流布の板本井芭蕉文集などにもみなかくのどく書り。案るに、哥は書寫の誤にて、奇の字よろし。漁隱叢話に云、王〓公以テ巧ニ、子膽以テ新ク、魯直以テ奇。とあり。魯直は黃山谷、子膽は蘇東坡なり。是をつらねて、黃奇蘇新とはいふなり。素堂は甲斐國の產なり。酒折の宮の神人、眞蹟を多く傳へ持り。その中に、松の奥と梅の奥と号たる二册の草紙は、俳諧の〓を書るもの也。その序、長袖よく舞、多錢よく商ふ。ぜになしの市立とや笑はれん。それも絲瓜の皮財布と、かたげて出たつ市も、わがまだしらぬ大和〓とのはながら、俳諧の道芝鶯寒シテ似惜ニ聲ラ素堂旧川氏大氣なる春はいたらぬかたもなし元長肉豆花下戶も流れにあらふさかづき吉賢驚波石,間蟹森氏(税河村氏飛違野等、蜻吉重野田氏ゆふ日かけ殘りし月の枝ながき長成小野氏粧葉露無情助元元祿三年庚午秋日(+)눈ト貞德居子、老の後みづから標号を長頭丸と書れし。かたへの人そのこゝろを問しに、老ゆくほど目のみ高くなりて口は年〓にさがりぬれば、さて頭の長くなり侍ると狂言申されしとぞ。素旧川氏元肉豆花吉森河村氏吉野田氏長小野氏助堂長賢氏重成元るさうしはどれ〓〓ぞ。源氏·さごろも·古今·万葉·いせもの語·しらゝ·おちくぼ·京太郞、百余帖のむしづくし、八十余帖の草づくし、扇流しに硯わり云。この物語の眞僞はしばらく論ぜず、いかにしても今やうの文章ならず。はせをのころにもてはやせしものとおぼゆ。此句たゞちにその文句をとれるなるべし。案るに、おちくぼ物語はいまにつたへてあり。しらゝ·京太郞はつたはらず。中にもしらゞは古き物にや。さらしな日記に云、源氏の五十余卷、ひつに入ながら、在中將·とほきみ·せりかは·しらゝ·あさうづなどいふ物語ども、ひとふくろとり入れてえて、かへる心地のうれしさぞいみじきや。又、古今著聞集卷五に、しらゝといふ物語に、しらゝの姫君、男の少將のむかへにこむとちぎりて遲かりしを待とてよめる。たのめつゝ來がたき人をまつほどに石にわが身はなりはてぬべきかく見えたれば、しらゝも建長頃までは有しなるべし驚梅さくやしらゝおちくぼ京太郞はせをしらゝ以下はみな古物語の標題なりとばかりおぼえて、たしかなる說なし。曾頃小野のお通がつくれる淨瑠璃ものがたりといふものをつたへたる人ありて一見せしに、姿見の段といへるに云、まなの上手にかなの一、よみけ隨齋諧話
不申い。類火のがれいを當日の樂しみと存いて、一句心を和らげい。此雨に花見ぬ人や家の豆王維が山水の〓譜に、丈山尺樹寸馬豆人と遠山を詠じ、目のなき人形の勢を申い。自作は家の中に居たる人めありながらの豆人と存い。花は例の冠里公より拜賞仕い。正月晦日の吟山吹も柳の糸のはらみかな二月晦日の吟春雨のひしきものには枯つゝじ三月の山吹·つゝじは古歌、詩人の物、連歌の手玉。此二句、俳諧の的星と自讚いたしい。花好の御眼中ひしきを能〓御心付られ可被下い。尤其雫樣へ被ニ仰達可被下い。一めうが屋太夫大内藏、聖堂の大儒三七と申浪人ニ、桔桿屋久兵衞奥にてさしころされ申い。儒者は牢にて死(一字闕)罪.o太夫心中の事、世始りこれがはじめての事"て秋田の家士何某、其角が書狀を祕藏し持る人あり。例のなる文体、〓とにおもしろくおぼえて左に擧〃。快濶(原註)不明書1相認ゆ處預御返章、、不淺拜見仕い。其雫樣案去冬震中と倍御堅勝被遊御巡政之旨、珍重目出度奉存い。は元をの十い地六シ、年年の地貴樣御近膝不相更御勤之御事、重疊令存い。下おちら志をさん拙戶內無事相揃い。去冬震中空地板を敷寐い。霜表孔は此書通シは國家雪、火事〓〓の迯筋とも氷風になやまされ、故疾と可能大まんじもかひ餅·淺漬の風味かはりにつれて酒疝わづらはしく、諸事不性"相成い。松山のせがみ、遠近の連사라도衆交延かさなりゆ而、一日狹の宿醉御察可被下い。挾酒饌の招たゞもかへさずい故、折〓發句仕い。檀泉も一向俳源に染いて參會申い。御屋敷御用之閑ニ對交御噂申出い。例之桔槹屋幸八が簾を下させい而樂しみ合い。秋航楓子のそゝりもをかしく、士農工商此春斗とぞよめきい。七太夫は品川仕舞と傳へ承い。式〓太夫又三月二日の夜やけ申い。大門通彌兵衞町は今度とも三度にてい。先以雪の中ながらも御安慰に翫醉、山〓御美敷御噂申出い。破屋いまだ手も附例の日※案去冬震中とは元をの十い地六、年年の地おちら志をさん表孔は此書通は國家可能大まんじい三月卄四日の夜六時、四十余の女房を犬八疋にて喰殺し申い。〓六など立合、傘にてふせぎい得ども、傘をくゞつてしてやりい。四月十日、あげ屋町より江戶町へ曲りい川岸にて、三春と申らしやう門宿なし男に心中半ごろしにて、是も成敗にてい。其字胸外心に米は百俵にて六十兩。七三郎·勘三良·霜月·竹坐·團十·勘三七三·傳九·平九、山村へ幸左衞門·傳吉と入組申い。一搖泉院どの淺野內匠頭殿後室御哥之事、〓しし月月四日、長短三年忌の御法事、芝泉岳寺へ御參詣あり。內藏助はじめ四十六人の新墓所へ、手づから花水をくみかはし給ひて、おくれじとおもふ浮世にながらへてなき數〓〓に〓とのはもなし或人の申されしは、一句になき·なしと二字、病歌と沙汰仕ゆ得ども、哥にくらきものゝ批判なり。亡キ數〓〓に言の葉も無シと感淚にて、榮啓期が男に生れたる事を、樂しみといへるを、男ならぬ身とかや。是沙汰〓〓。一糀町長門馬場のかど、堀小四郞殿御寄合なり。此屋敷化物出てゝ隣へも折〓參りい。大坊主目一ツ右、客にても有之、賑やかなればなほ出いよし。天德寺門前日雇収吉兵衞妻、廿七にて三月十四日ニ一腹三男子を產申い。名を三番叟と付申い。公儀より御扶持被下い御書、寺社方へ出申い。此きさらぎ團十郞刄傷にうせぬ。一子九藏、俳諧のまね〓と予にちなめり。かれをいたみて、塗顏の父はなからや雉子の聲親子の赤づら此ものにてゆ。年頃の句集ゆ。滿帋遂精工プい得ども、聊力足り不申い。つくば山のぼりかねたる有增分シ入り御心ノ奧一い而其元御補を相待냥猶もやう次第珍敷重便可申述い。恐惶〓〓。三月十日又左衛門殿御一通之趣、被入御念忝存い、可節御心得、委儀は合信賴入存い。紫孔樣此屋俳諧の隨齋諧話可節樂しみと
幸入(一字關)虎吟御と傳申い。其元の雪如何、死ヲずに御暮被(原註)本ノマヽ成い哉。去年の刈田其外御作承度事"ゆシヤツキふし·下谷風、さぞ古くなりい半と御噂申い。秋色も古着棚仕舞、そば切屋いたされい。さめぎはのけんどんは一盃進じ度い。半右衛門樣も御傳手次第ニ宜敷〓〓(原註)本ノマ奉賴い。堤亭、尤此間もきくれ迄參り而、折ふし御事申出い。必〓江戶をなつかしいとおぼしめすな。芝調中橋林中子西丸調和林中子幸入幽山露言とあり。按るに、龜雀は其角、西丸は才丸の誤字なるべし。此板本闕本を見し故、著作の年月詳ならず、大やう延寶頃の作と見えたり。其後惣鹿子と題せるものあり。是は元祿二年の撰にて、鹿子の誤をたゞすよしの序あり。序者は松月堂不角なり。惣鹿子にのせしは、庄三十問掘本町一丁目川岸石町四丁目四十南小田原丁芭蕉幽山才丸工呷蝶〓子日本橋一丁目調和極前可不ト伊勢町キ角五郞兵衞丁山タ石町一丁目嵐雪南傳馬町露言伊勢町晶本町三丁目立志五郞兵衞町沾德和幽山南小田原丁蝶〓子石町一丁目嵐雪或人いふ、俳諧袖といふ製は、伊賀上野の梢風尼といふ人の芭蕉におくりたる衣にて、物かくに便よきやうにとて、右の袖を左より一寸みじかくしたる服なり。彼尼の姪たる未塵老人のもの語なりとぞ。名月や持れてまはる椽柱といふ句は梢風の作なり。生涯の句集、木の葉と号す。世に流布せず。未塵老人は俗稱堀伊織、伊賀の家チッ士にて秩祿六百石。江戶鹿子といふ双帋に、江戶の諸藝者を載る中、俳諧師の部に見えしは、せと物町舟丁ほりえ町雪柴桃靑一晶不ト龜雀苗蕉行脚の掟といふもの、世に寫し傳るあり。半信半疑のものながら、ある人の、奥州高久角左衞門がもとにて、はせをの眞蹟を珍藏したるを、したしく見たりといひしその寫のまゝを左にのす。後人なほ正すべし。一ひとつ宿に再宿すべからず。暖なるむしろをおもふべし。一腰に寸鉄たりとも帶すべからず。惣てものゝ命とる江戶の諸藝者を載る中、俳諧師せと物町一舟丁不ほりえ町龜靑晶ト雀惣てものゝ命とる事なかれ。君父の讐あるものは門前にあそぶべし。いたゞきふまざるの道にしのびざる情あればなり。一衣類器財相應にすべし。過たるはよからず、たらざるは惡し。案、汪信民曰、一魚鳥獸の肉好みて喰ふべからず。美食·珍味にふ人常ニ咳、得テ菜ける人は他事にふれやすきものなり。菜根を咬根町百事可T、百事なすべき語をおもふべし。斷飯、一人の求めなきに己が句を出すべからず。望をそむくもしからず。一たとへ嶮岨の境たりとも、所勞の念を起すべからず。おこらば中途より歸るべし。一馬·駕にのる事なかれ。一枝の枯杖ををのれが瘦臑とおもふべし。一好て酒を飮べからず。饗應により固辭しがたくとも(原註)本ノマヽ微醺にして止べし。亂に及ずのそん幽亂、起歲の戒祭にもろみを用るも醉るを憎みてなり。酒に遠ざかるの訓あり。愼めや。一舟錢·茶代忘るべからず。一他の短を擧て己が長をあらはす事なかれ。人を謗て己にほこるは甚いやしき事なり。一俳談の外雜話すべからず。雜話出なば居眠して勞をやしなふべし。進一女姓を俳友にしたしむべからず。師にも弟子にもいらぬ事なり。此道にしたしまば、人を以て傳ふべし。惣て男女の道は嗣を立るのみなり。流蕩すれば心、テ十敦一ならず。此道は主一無適にしてなす。よく己を省べし。一主あるものは一枝·一草たりとも取べからず。山川·江澤にも主あり。つとめよや。一山川·旧跡、したしくたづね入るべし。あらたに私の名を付る事なかれ。一一字の師恩たりともわするゝ事なかれ。一句の理をだに解せず、人の師となる事なかれ。人に〓るは、をのれをなして後の事なり。一一宿·一飯の主もおろそかにおもふべからず。さりやとて媚詔らふ事なかれ。如是の人は世の奴也。此道に入るものは此道に交るべし。〓ノ〓一夕をおもひ旦を思ふべし。旦暮の行脚といふ事は好望をそむく山川·あらたに私の人を謗て
とふ人もいまは夏野の草のはら露ばかりこそ友とおくらめ見ればかつむかしの夢の〓とくさをおもひしられて袖ぞつゆけき人の身のいまのなく日をありし世にしらで過にしひとぞはかなきのり姫の君みまかりし後、ほどなく鈴木主水身まかりければ見し夢にゆめをかさねてかた糸のこゝろほそくもおもほゆるかなみるまゝにあなうつゝなゃあだしののつゆと消ゆく夢の世のなか五月十八日は、れいの講習にて、かのところへまかり、なき人をおもひ出てかよひにし人は夏野のくさのつゆその名ばかりはきえのこりぬるいつしかにむかしの人としのばれて〓とのはぐさに露かゝる覽また會良が筆にてはいかい歌一首あり。としの夜の更ゆくまゝに〓としげきみやこの市の音しづかなりまざる事なり。人に勞をかくる事なかれ。しば〓〓すれば疎ぜらるゝ〓とをおもふべし。以上尙按るに、亡友五範かつて申せしは、芭蕉に俳かい傳書といふもの更になし。世に十七條·二十五條などいふもの印行にあれども、皆支考が門派より出たるものにて、尤うけがたし。梧の一葉といふ書は祇空が僞作なる事顯然なり。すべて生涯〓へめきたる事をいさゝかも書ざる人なりといへり。是らをあはせ考るに、右の掟書も芭蕉の筆力に似ず。されば後人の僞作とおもはるれど、しばらくしるして明眼の人の批評をまつものなり。しば〓〓系大書俳本日信濃上諏訪李郭俗稱和泉屋五左衞門が許に、藏せり。みな哀傷の作なり。田中一閑身まかりし後、妻の加賀國に引こし侍りて、いまはとふ人もなければ、かの墓所谷中の新堀へはじめてまかり侍りて芭蕉自染の和歌七首を常陸國小川の里松江が家に、芭蕉留錫のころ常に食をすゝめたる古五器二具あり。文化壬申の年、日向國眞彥といふ神職の人、その住る所の翁が岡といふに、文明中に勸請せし翁大明神といふ有。斷笑不同樣田彥神その社に芭蕉翁を合せ祭ると云事にて、諸國の句を勸進せし頃、松江が家に宿して此あらましを語り出るに、主、この人の志の深きにロめでゝ、右の五器の中汁〓ひとつをおくれりとて、來り示してこれをよろこぶ。はなはだ古雅なる器なれば、左に圖す。鹿抹ナル挈子地講話を接ナリ側髙サ一寸九分隨齋諧話サシ渡シ四す五ら条底一寸七分
貞德こゝにおいて和漢連歌の式にならひ、七句のもの五句、五句の物三句にゆるして、百韵連句をつらぬべしと玄旨法印へ事をうかゞひ、やう〓〓世上に俳諧式目をふれおこなふと云。又按るに、武德編年集成卷十六、天正五年九月の條ニ云、一日神君·信長對顏の時一老人豫參す。信長神君に云て曰、是松永彈正なり。公方を殺し、其主三好に仇をなし、以前南都大佛殿を燒。此三大事は古來人のなしがたき所なりとの給ふ。久秀、平伏して耻憤りて赤面し、汗流れて頭上煙ののぼるどくなりしが、此度ふたゝび信長を背き、今爰に亡ぶ。誠に大佛殿燒却の月日にあたる處なり。その長子右衞門佐久道、城を出て一旦死をのがれけるが、搦捕られて誅に伏す。末子一人漸活のこりて永種と号し、洛の市中に寓居す。その子は俳諧師貞德なり。團水が團〓といふ集に、俳諧一言芳談といふを載て曰、紫、西芦月庵云、はいかいはやさしき道なり。壓美術(税抜)の名な西鵬云、寓言とうそとは異なるぞ。うそなたくみ貞德は細川玄旨法印の門弟にて、詩歌連歌にあそび、狂句殊にすぐれければ、法印のゆるしに依て俳道を興立す。時に寛永二年十一月五日、山本主として洛陽妙滿寺本文坊において、はじめて俳諧の文臺を立、百韵滿座し畢ぬ。連衆十人、須賀庄治郞執筆といへり。つみわたかぬり桶なりの庭の雪貞德火ばちめされよ雲のころもで西武天人や寒さをこらへかねぬらむ親重下略按るに、或說に、玄旨法印紹巴を請じ運歌興行ありて退散の折から、紹巴たはふれに永種が袖をひかへて、酒にゑひしゆのかへるさの袖と、はい諧して是に句を繼べしといふ。永種遲くして句をなさず。貞德父にかはりて、ぬぎ捨し衣の棚をまくらにて永種は貞德が父、そのころ衣の棚に住す。日糸大書貞西親德武重かく付しに滿坐大に興に入、玄旨法印その才氣の神速なるを感じて、俳諧の道をあらたに興すべしと、そのつくり事な申そ。如泉云、附句はつけてつけよ。誰やら云、附句はつかぬやうに付よ。我黑云、つくとうつるとをあぢはへ。信德云、おもしろきがおもしろし。言水云、木綿布子に冠きたるやうの作なこのみそ。誰やら云、はいかいは連歌にてもなく、また童戯方にてもなし。又云、鵜の眞似して水のみ給ふな。芝蘭云、はいかいは俳諧らしきもので。淵瀨云、連歌は連哥らしきものなり。鬼貫云、口ひらけばみな句なり。誰やら云、とかくおのれが風がおもしろし。又云、あたらしきはめづらし、珍らしきはあたらし。團水云、いづれもの申さるゝ段みな尤。誰やら云、みづからを下手とおもふ者、聖武皇帝の御時高野山に一人あり。さらに米のたぐひを喰ず、常に石臼をのみかぶりける。右の數語、一時のたはぶれに出たりとおもへど、味ある事も見ゆれば寫し出す。また意猿簑集、餞乙州東武行の卷半より末、俳諧あり、路通が勸進帳に載たり。名春の日に仕まふて歸る經づくゑ店屋ものくふ供の手がはり眉おもきさがり衣のうそよごれ戀のつくり繪つかうまつらせしづかなる杉を拜めば三輪の神出し入やすきはやみちの錢まぎれずに返す芝居のたばこ盆蟹の面ンつる家がさびしき樂〓とやはらをしへて五人口よめかぬれども日蓮の御書行月の牛に附たる塩だはら松にすゝきを二方荒神畑〓のひと口茄子もぎとりて二·八江戶にて次たる正去探其路曲其乙曲路里芹其秀來志角通水角州水通東花角
附点取脾の臟を捫体こい。此脾の臟もみ破りたらんのち、始てはいかい流行可」申い云。又猪兵衞といふものへ文音の中に、桃隣いかゞ相勤い哉。暑氣の節、短夜といひ、會も心のまゝには成申まじくい。杉風·子珊心にたがはざるやうに實を御勤可被成いへと、御申可被成い。京都俳諧師五句附の事に付閉門、俳諧ざたひつしりと、蛭に塩かけたるやうにい樣子、段〓拙者口から申上せいも氣のどく故不具량ケ樣の所唯實を不動勤故と合点をいたし、むさとしたる出合會等心得あるべき旨、桃隣へ御物語可被成い云。此五句附といふ物、その頃都鄙にはやりたる事にて、いまの世にいふ前句附なり。大和國葛城山下良弘といふものゝ記したる事あり。曰、去ル万治年中に泉州堺に、池島氏成之といふ好士ありし。そのころ河州小山村に日暮氏とやらん、重興と名乘たる能書有し。此人成之の前句を取、初て六句附といふ事を始られたり。四季の句に、戀にても名所の句にても加へて、六句に十銅宛集め、褒美といふ事もなく卷勝にして、河州の俳友これをたのしめり。是ぞ此道の最初なる。予是を興ある事にかりなるものは嶋原の坪素葉あそここゝぬひなほしたる戀ごろも寒水二番煎じは茶の花香なき莎荷ちる花にさそふて見れど誰も來ず路通しきりに雉子のほろゝうつ朝飛陰案るに、猿簑も勸進帳も、ともに元祿四年の撰なり。店屋物云の去來が附句まで京にて出來て、そのはしたものを乙州持下りて、江戶の作者を催して一卷となせりと見ゆ。はせをもまたそののこりを、伊賀の連衆に繼しめしものとおぼゆ。諸國噺といふ書に云、初春の歲旦といふ事、慶安二年に長頭丸はじめて出さる。王城の地に在てその冥加を仰ぎ、都をとぶくとの事なり。はじめは都の中までの事なりしが、いまは俳諧も國〓にわたりて、年〓に三ツ物〓〓と出るは、めでたき御代の色なりとあり。此書寶永三年上木、撰者兩楓子と跋に見えたり。はせを江戶より許六が方へ文通の中に、當方無恙、五句おもひて、同成之の前句を取て和州の〓書をはじめけり。次に和州下田村に葦葉といふ法師、此道に妙なるありしなり。京都二條の住高瀨氏梅盛の前句をはじめて取下し、六句附をし次れたり。そのころいまだ京都にさたも無之時節なれば、点のいたされやう·脇書等までしどろもどろにて、初心なりし也。それよりして京も大坂も江戶も、諸國ともに此道さかんになりぬと書り。これらはさせる事なき〓とながら、そのはじめをば聞置べき事なり。〓と葉發句などまでつりあふやうに、おぼゆ。心してかくべき事と勸進帳鮓をこのわか旦那是橘が剃髮して醫門に入るを賀すと詞書ありて、みてくははつ午に狐のそりしあたま哉芭蕉しらせばや蓼の味くん出にすしこの是吉といふは其角が僕なり。是吉年〓〓置かふる僕を、いつも名づけてこれ吉とよぶ。さるはさま〓〓に名を付かへんもわづらはしとて、新古にかゝはらず、つねにたゞこれ〓〓と呼て埒せしといへり。キ角が滑稽おもふべし。てふといふ詞は万葉集に、ちふともとふともありて、古今集よりこのかたは、てふと詠り。されど〓と葉書にはかより。源氏ものがたりは大部のものなれども、一部にわたりて辭にてふと書る事なし。歌は文字數定まりてしらべあるものゆゑ、すべての詞をつゞめても、のばしてもよむなれども、詞書はまたその例ならず。近世俳諧の詞書に、てふといふ事を書る人多し。これらはよくおもふべき事にや。しひて雅言を求めて此度を、こたびと書、十余日を、とをまりいく日などいへるたぐひは、前後の二十五條に曰、花は櫻にあらず、さくらにあらざるにもあらずといふ事、我家の傳受としるし云〓。許六云、唐朝の花は牡丹なり。我朝詩歌の花は櫻なり。連歌の花は櫻にもあらず、牡丹にてもなし。篇突にいふ、花は賞翫の惣名と註す。花に櫻付る事習あり。なんぞ花の句櫻ならば花に櫻付る事あらんや。茶の出ばな·藍の出ばな、正花たるべしと先師申されき。猿簑のはいかい、名殘の花に櫻あり。是を見あやまりて、正花に櫻をする人も有け二二
冬之日八十歲を三ツ見る童母もちて東國の語に、七十三になれば八十年を三ツ見るとはいふ也。さてその老人にいまだ母あれば、わらはとはいふならん。たとへば五十二になれる者の、六十をふたつ見たり。六十五になれるものの、七十を五ツ見たりなどいふ。甲斐國などにて常にいふ事なりと、かの國人のものがたりなり。見るとは、他のうへをいふならず、みづからかくばかりの老の世を見るといふ心也。さる簑集に、魚のほねしはぶるまでの老を見てといへるも、みづからの衰老を觀じたる意なり。三ツ見ると互に照らしあはせておもふべし。り。櫻、正花にあらず、初心の人する事なかれ。口傳ありと云.。今案るに、花とよめるは百花の事にて、櫻をたゞ花ともよめり。但、櫻をさして花とよむ時は、必詞書に櫻と書り。古今集などみな此例にして疑なし。されば花とばかりいふは百花の事なれば、櫻も又その中にこもれるなり。故に櫻にあらざるにもあらずといふは、この意なるべし。さくらとのみよめるは百花の心なし。されば花は櫻にあらずと云り。されど此詞むつかしくいひまぎらはしたるやうなれば、後學のまどひともなりぬべし。許(數字闕)子が說のどき、はなは賞翫の惣名と註せるは、今の世茶の出ばな·花よめ·花聟などのたぐひまで、正花に用ふる事になり來りぬる。その據をしらずといへども、流俗これにしたがひ來れり。但二十五條の奥書に、芭蕉庵桃靑とあれども全く僞書にして、支考が手より出たるものとおぼゆれども、いまの世に廣くちちひて、花の論などはみな人の口實にせる事なれば、いさゝかしるしおくなり。花は百花をもよみ、櫻をも又花とよむ事、古今集の例格なれば論なかるべし。老談一言記に云、宗因はもと連歌師なり。よしみのありて加賀へ下りし。四月のころさくら咲てありしを見て、さればこそおもひこし路のおそ櫻また明年の九月加賀へ下り、十三夜に群會して、去年のおそ櫻の發句の事いひ出しければ、花ならば今宵の月やおそざくら去年の明年五月集會の時、內曇の紙を出して、是に一句とありければ、五月雨や天下一まいうちくもりといふ句をまうけて、俳諧師になりしとかや。案るに、宗因句集むかし口の跋に梅翁傳あり。撰者たれともしれず。近世のものながら、よく宗因をつくし。またはいかいの風体をも論じて、おもしろくおぼえしまゝ、あらましをこゝに寫し出す。梅翁傳ッ宗因は肥後國の人、姓は西山、諱、豐一、俗名次郎作といふ。前の松代矦加藤風虎君の家士なり。寛永九年不慮なるかしこまりに、矦は奧の岩城にさすらへ給ひて(食)後御暇を給はり、始山城の伏水に隱る。往年風虎君とともに釋將寺の豪信法印といふに和歌·連哥の道をまなびしが、今はた世に立交るべうもあらねば、ひたすらナ十年月花の嗟歎を事として、形をかへ名をあらためて宗因また號を一幽子·西翁·梅翁·野梅子ともいふ。といふ。その居を名づけて忘吾齋と云、また向榮庵とよべり。內曇の紙を出して、是に一句とありわきて連歌に志ふかく、かさねて里村昌琢の門に入て道の奥をも問きはめけるが、彼門には殊にぬき出たる作者なりき。さればこそ正保の頃西の國處〓の連歌の便宜に、浪花の天滿に居をうつせしとなり。連歌一代の發句は、西山三籟集といふ書に擧つくせり。翁連歌のいとまに松江重賴を友として、はいかいに遊ばれしが、作意その頃の人にまさりしとて、都鄙一ゆかめ檀林とたひこの格調にうつしなす。その門につどへる人末に出目の事〓とはかりて、俳諧檀林の一体をおこし出ぬる。重賴も老ては西山のいま風をうつしなして、古風をやゝ忘れにたり。今の世になべて俳かいする人の評せるをきけば、西山の檀林風はあだ〓なり、はせをこそ心實やかに、調はいと高しや。又云、檀林の邪路、正風七十に破斥せらるゝなど、語をきはめて褒貶するはいかにぞや。俳かいのみかは詩歌の体の代〓にうつりゆくめるは、ことたてゝ論ぜんも今更めきたり。いにしへ風は、たゞ連歌のなげきくしたる、興識にそこはかとなくいひもてたはぶれしは、犬筑波などをもむかへてし隨齋諧話
(一字關)れ荒木田守武ぞ、この式目のはしはおこせしなり。其後松永貞德、高き御あたりの命をかしこみて、此あそびをみち〓〓しくなしませり。されど發句のたゝめるやうも、附なしたる心ばへも、大かた連歌のをしへにたがはざりし。西山の檀林ぶりも、姿はなやぎ詞うちくつろぎたるのみにて、その旨とせるは柿園のいにしへ風に〓とさらなる〓へはなかりき。いでその頃までのはいかいすける人は、歌·連歌の席にもをさ〓〓たちまじはりて、その事かの事おろ〓〓心得られしも多かり。くだりての世に、そも我家のはいかいはといふ人出て、達磨ぼとけの〓化、曼倩らが滑稽の〓とはりに說まじへて、いにしへの俳かいとは百步のたがひある〓をなせしかば、朝ゐる雲·ゆふべの票やゝ隔りて、末はた千里の外なる遊びわざとなりにき。それが詞に、はいかいだによくせば人間朝夕の働をもさとり、天下一分政〓の道をさへあきらむべしとは、いかに狂れる〓ぞ(一)や。さる賢き道は、さる書をよみてこそ學ぶべけれ。聖の〓をさとらんとて俳かいを學ぶは、なには人の都まうでせんに、雲ゐなるいこま山の岩根かきよぢて、奈良の都をねり過つゝ井手の玉水に息つぎて、八十字治川の板橋ふみとゞろかすに似たりかし。翁がはいかいは只連歌のいとまなるたはぶれなりしかば、後の俳かいのみ學ぶ人の見給ひては、あだ〓〓しき方にいひそし給はん。かづらきや高間の山に春たつ霞をあはれむより、よしのゝおくの櫻花、こせ山のよぶこ鳥、たち花のはなちる宿に時鳥の聲をとぼしみ、須磨の筈屋のたびねにあかしの浦の月を見さけ、雪やしぐれや埋火のもとに年のくるゝををしみ、或はあづまたは西の國まの方にたのみし蔭のむかしをしたひ、の親·はらから·友がきを戀る心つくしの優なるあはれなるかぎりは、かの三籟集にかぞへつくせる千〓の句をみてこそ、翁が風雅の誠はしるべけれ。それがあまりのはいかいは折〓〓のたはけごとゝ見て、さてなんほめもおとしもせむ人はともにかたらまく、俳諧のうへのみにて評する輩は、かくたけたる人のうへはかけてもさたすまじきぞかしこけれ。しかすがによき人のたはれどは、今の人のひたすら實やうにあはれならんとたくめるよりも、かへつて世の〓なるすさびも多かるべけれ。そは〓とばこそうちくつろぎたれ、心は歌·連哥のま〓ににもをさ〓〓劣らふべきものか。(六)翁、齡七十八にて、天和二年壬戊三月廿八日に逝去せらる。法名を實省院圓齋宗因居士と申す云。いつぞやある方にて、丈草法師が眞蹟を見し事あり。詩二首、(〓)新凉竟句風光ノ前院落〓蔭竹樹班ナリ笑ヲ指眼華酣醉裡漫"求ム腹稿懶眠ノ間檜滿擔ノ山色連ヲ長等一一竇ノ泉聲超〓小小フフ蓮漏何如蓮沼ノ潔ニ主賓對坐不離閑ヲ竹窗夜靜ニノ鎻春霖{微醉幽吟屈〓〓襟〓フ灯盡キ香消ヲ高ル枕ヲ臥却テ知"詩酒兩魔ニ侵ムヽヲ伊丹の鬼貫は肝のふとき者なりしとぞ。通稱三郎兵衞といひて、近衞殿の御領の造酒家なりし。かねて近衞殿へも御立入申せしに、或時御殿に御會ありて、何の宮·くれの殿上人などあまたつどひ給ふ。折ふし御勝手に三郞兵衞參れるよしを申に、それは鬼貫といひて、はいかい体の(一字闕)句つくれるものぞ。めし出て句申させよなど、まろうどたち申給ふに、やがて御席に參りて平伏す。何にてもはいかいの句申せ、題など得させんかと殿の申給ふ。時に鬼つら頭をあげて御座敷をきと見めぐらすに、御床に土佐の何某が〓る小町の掛繪あり。あはれあの御掛もの給はゞ賛して奉りたしと申に、みな笑ひ給ひて、やがてさし出させ給ふに、御硯こひて、すこしもためらはず筆たぶ〓〓と染て、小町のかしらのほどに先、あちらむけと五文字書て、さてしばしあるに、みなさしのぞき給ふ。其後よく案じて、しづかに筆をとりて、うしろもゆかし花の色と書付て、おそれ入風情してしさりぬるに、みな〓〓めで興じ給ふて、けふの會は此三郞兵衞男にいひかたれぬればいと興なしとて、御會もそれまでにて止けるとぞ。是は浪花の大江丸がものがたりなり。詩隨齋話談林十百韵の序
つかはす。凡市中に多年よしとおもへるふるくさきも今またあたらし過て一句のたゝざる二ツの惡をのと、見れば、水火の二河たり。中に四寸の白道あり。此白道のあかりをはしらむとのみ立る處、談林の法也。見る人こゝを專シに眼を付らるべし。案るに、談林風といふ名は、宗因に權輿するとおもへる人多し。此序にて見れば、雪柴等以下八九人の者の集會せる江戶神田鍛治屋町に在し俳室に名づけそめしと見ゆ。年歷など追て考ふべし。御代ゆたけき餘慶に、此道甚さかんにおよび、その風俗まち〓〓たり。あすか川のきのふの淵にふかくのぞきて、けふの瀨をしらず。今日の瀨をあさくふみて浮(原註)本のまゝ洲に首だけはまるも多し。こゝに八九人の佗の非や( 白)み、久かたの天の御下あらかねの槌音たえぬ鍛治町といふところへ時〓會合して、向後の初心、惡にそまらハ)ん事をかなしみ、端〓此事をのべて多くまよへるをたすくる其中に、この席をば我等どきの俳諧談林とこそ申べけれなどたはぶるゝよりおこりて、みな人談林といひならはす。この折節、難波江より道の名僧梅翁不斗下向し給ふ。是ぞ幸ひ渡りに船と、江戶の海の廣きおもひをなし、談林にこもるやつがれ、したしみする發句をこひ得て、すでに百韵を興行す。次而おもしろきに、人〓〓發句せよ、十百韵などうなづきあひて、六七座にして終にみたし畢ぬ。談林へつとむる疎學の曰、此十百韻の事、ねがはくはそれがし体の新發意濟度のために板行して見せしめたやと乞。もとより談林のことくさ、辭すべきにあらず。ともかくもとゆるし越後國高田今町聽信寺一向宗に、芭蕉行脚の頃の道服を藏す。地は紬のやうにて鼠色、同く帶一筋·筆一本·墨·硯丸形等あり。白染のものはたんざく二葉、へ文月や·あら海や、又自〓の像上に、へ分別に花の鏡もくもりけりの句あり。その後支考、行脚の頃此寺に至りて、こと〓〓く審定の書付をそへたり。彼像自〓のよしなれども、或人のいひしは、〓は外人の筆なりとぞ。素秋といふ事、連歌の家には習ひある事なるよし、俳かこのあしらひの句なりがたき故に、素秋は聯るなり。その余にて素秋あるべきとも覺えず。雪丸文月や六日もつねの夜には似ず芭蕉つゆをのせたる桐の一葉左栗朝霧に飯たくけぶり立わけて曾良案るに、此表月なし。文月と月の字あれども、月並の事にて月の心なし。されば素秋と云べし。韵塞けふばかり人もとしよれ初しぐれ芭蕉此卷異七句め宵闇はあらぶる神の宮うつしはせを北より萩のかぜそよぎたつ許六フ八月は旅おもしろき小服綿酒堂案るに、これまた素秋ともいふべきか。されど宵やみといふ詞に月の意あれば、八月といひて月の字をあらはして月になしたるよし、古人の說あり。鄙懷帋いには野坡·杉風などが傳書とてつたへたる中に、發句か脇歟の中に他の季の月ありて、四五句めに至り芙蓉などの秋の句出されたる時は、冬にこさぬ秋季を考てたしかにする事なりとあり。さもあるべき事にや。月は折どにあれば、素秋といふはおほかたあるまじき事也。はせを一世の附合におほやう見えず。左に其證を擧。雪の薄集陽炎のわが肩にたつ紙子かな芭蕉此卷の二ノ折表行かへりまよひごよばる星月夜嵐蘭くんでこかせば案山子なりけり嗒山山風にきびしくおつる栗の毬曾良十一句め狼の番して明る夏の月嵐竹案るに、杉風傳書に云、素秋は星月夜にかぎるべし。夫、秋は金神、節を按じ、天高く暑退き、衆星の光彩〓明にして銀河きらめき、月なき宵も星の光、月二十七夜のごとしといへる事なれば、月の字も天象も影輝蕉栗良月並芭蕉嵐嗒曾蘭山良芭蕉隨齋諧話二·
の篇を除きて上木す。故に流布の本には故實の篇なし。されば此篇を書加へて全備せしむべき事なり。野は雪に河豚の非をしる若菜哉凉葉まだ鶯のなききらぬこゑ千川春の月門番の寐顏にかすむ月を見て芭蕉けさむきそむる前栽の柿宗波秋かぜにむしろをたるゝ裏座敷此筋虫も雨夜はねざめがちなる濁子肌寒く痞のかたを下になし千川案るに、是は素秋のやうなれども、月の句よりすぐに秋を附出したれば、素秋とはいふべからず。右の外に所見なし。此中、星月夜·文月やの二ツ、全く素秋といふべし。後人是らによりてよく考ふべし。系大書俳本日浪花の大江丸が俳懺悔に書しは、牡丹餅や赤小角豆のかたに秋の風是野作なれば殊によしとにはあらねど、此句においては等類はなかるべし。いさゝか新らしみをば得たるなりと自負して過せしが、ある日江戶の春來が東風流といふ集中の附句に、ぼたもちのとして、その外一字をたがへずあり。されば後の人句を作るどに、等類の難なきやうに思惟すべしとあり。されば昔より幾億万の句あらんに、僅に十七文字の中なれば、おのづから等類もあるべき道理なり。忠知が、白炭や燒ぬ昔の雪の枝といひて擧世賞譽し、白炭の忠知とよびしよしいへり。是らは一人一句の作ならんとおもふに、良保が彼枕集に、白炭はやかぬ昔か雪の枝種友とあり。此集は寛文癸卯夏刊行なり。忠知同時代とおもはる。是はいづれが先なるにや。殊に名高き句に等類はあるまじきに、いかにも不審の事去來抄三卷は疑もなき去來が筆記にて、後世に益ある好書なり。往年嵯峨の重厚、遊囊の中に祕藏せしを借受て全部寫し取て、予が文庫にあり。世上に刊行せしは、安永年中一音といふものに〓書させて、尾張の曉臺が板に刻みしなり。それより世にひろまりて、その賜をうくるもの多し。彼の板行のをり、いかなる子細ありてや、古實なり。たり。うかゞひ見る也。それを高き處にのほれば、岡にて見る心ぞと心得て、人は皆をか見といふは誤也。侯の字全く岡の心なしとあり。日本記にも間諜また侯ノ字と紀もにウカミと訓ず。さればうかみといふが本說なるべし。シマノヤマトノクニハコトタマノタスクルニゾマチこと玉は萬葉集第十三、志貴嶋倭國者事靈之所佐國數眞敏福在與其。契沖師の說に、事靈とは書たれども言靈の義なり。第五に言靈と書るが正字なり。吾國は言に靈ありT、いはへばいはふしるしある國ぞとなり。まさきくあれは字のどし云。加茂保憲女集序に、万代てらす日の-本の國、〓とたまたもつにことかなへり云。大鑑に、村上帝生れさせ給へる五十日に、ひとゝせにこよひかぞふる今よりは百とせ迄の月影をみん御史上御製いはひつることたまならば百とせの後もつきせぬ月をこそみめ是らを引あはせて言靈の義を心得べし。但俊賴朝臣の歌はいかなる意によめりけん、いさゝか解しがたし。後ニ一九案、愛む此江州水口小坂町たばこ屋久右衞門、表号李風といかないふ人の許に、季吟の眞蹟を藏せり。卽.季吟門人芥船といふ人より讓り得るものなりといふ。その文、きのふ松尾氏桃靑來りて、平·板名をこふにいなみがたく、八雲鈔のはいかい歌にならふて、は、比化と呼侍る事しかり。月はなのむかしをしのぶ芭蕉かなとありと、殊に親しき人の語れり。眞僞いかなるにや、暫しるして後の評をまつ。增山井四季の詞十二月の條に、岡見すると有て、註に堀川百首に、〓とたまのおぼつかなさにをかみすと梢ながらに年をこす哉俊賴朝臣。師走の晦日の夜高き岡にのぼりT、簑をさかさまに着てはるかに我宿をみれば、あくる年有べき吉凶の事見ゆるとなり。〓と玉とは明年の吉相をいふ也云。此說いかゞ有べき。塩嚢鈔に、高き處に人族をのぼせて遠き所を見するを、うかみといふ、侯見と書隨齋諧話
えらむにありて、おなじ心ながらつゞけがらにて、よしあしは分れぬべし。大かた理をおして求るものは其意を得ず。句〓に心情をあらはし、また物〓の形容を見るが如くにいひなし、山川のけしきはたゞに打むかふが如き作あるもの、皆辭のつゞけがらにて何となくよき句にはなりぬべし。俊成卿の詞に、歌はたゞよみあげもし詠じもしたるに、何となくえんにもあはれにもきこゆる事のあるなるべしと。又曰、うたはかならずしもをかしき前をむ、事の〓とわりをいひきらんとせざれども、元來詠哥といひて、たゞよみあげたる、うちながめたるにも、何となく艶にも幽玄にもきこゆる事のあるなるべしなど、かへす〓〓の給ひしは、その理を捨よとのをしへとおもはる。されば句意をとかんとすれば、必其理をいふの外なければ、たゞ吟じあげたらんより一等も二等も下りてきこゆべし。後學のよく工夫すべき處なり。の人なほ考べし。又曰、浪花の昌喜が說に、菓木の來年よく熟せんやうにと、いはひてする事ならんと云り。此朝臣、さやうの事をとり出て、上手の口にまかせて詠れたる事少からずといへり。系大書俳本日予わかき時、句讀をならひし師は西野老人也。そのころ古人の詩の解しがたき多くあれば、講說を承らまほしと申せしに、師の曰、詩は必講談をなすべからず。口に出して其意を講ずれば、詩は一等わろくなる也。只よく熟讀して、みづから其意のある所を見るべしと也。此論ふかく感ずる所ありて、今にその詞をわすれず。俳諧の句もまたしかり。芭蕉の句の中、初心には聞得ざるもの少からず。是にさま〓〓の論辨をまうけて解なす者あれども、多くその意に的當せず。只みづからつとめて深くあぢはひぬれば、多年の後自然に豁然として眼のひらくる時あり。たとへば禪家にいふ大悟徹底に似て、門より入ものは家珍にあらずといふが如し。さて一句の上はたゞ詞を其角が艶詞鉢たゝき唱哥うめの兒髷そのまゝに、むすぶちかひはさくらさく、花の菩薩の數〓〓を、ねがふ此身は雲水の、世を墨染の色かへぬ。ナムアミダ〓〓池の蓮の世を簑笠に、きつゝ三河の吉田の君が、とめたらまゝよひと夜さは、かりのなさけに衣〓くれん。ナムアミダ〓〓身にしむつゆや朝がほの、松にかはらぬよはひをば、たれにまたれてついしぼむ、月のみひとりむかしがほ、人のなみだのたねふくべ。ナムアミダ〓〓霜のゆふべにねをそへて、うかれ友鳥行さきは、たのしき國のつれ〓〓に、かをる茶の花目ざまし草に、ひとつまゐれよいざひとつ。ナムアミダ〓〓この曉の一聲に、冬の夜さへもなくほとゝぎす、なくほとゝぎすいざきかむ。聞人ぞ子規なりはちたゝき壬子冬夜晋子手澤無疑云。名号不審、されどもかゝる戯書なれば、時にのぞみて狂名を書るなるべし。喜齋又曰、此文章を察するに、哥舞妓子供などの追善の作なるべきにやといへり。さもあるべき歟。ひさご雜龜の甲煮らるゝ時は鳴もせず乙州たゞ牛糞に風のふく音珍碩ある人云、史記の龜策傳を引べしと。また一說に、すべて龜を煮る事なし。されば冬の藥喰を作して冬季なるべし。脇句も枯盡したるけしきを思ひよせて、牛糞に風のふくとはいへり。第三に至り、はじめて季の詞をあらはして、冬は來てとは云る也と。今按るに、龜策傳の心ともきこえず、また冬の季をかくせるならば、雜といふ字を題すべきやうなし。古人、冬の句なるを、〓とさらに〓とばをまげて雜と書べきや。只雜の句なる事は疑なし。はいかいとて雜の句あるも、なんぞあやしむべき。さて此かめといふは、今の俗にすつぽんととなふるものとおぼゆ。二二、な隨齋諧話ゝき晋如菊直賢華晋菊如右其角眞蹟、大坂梶木町森三節所持、境の喜齋一覽の處、
有シ〓補于詞海ノ漁人一云と止たり。これ猿みのといふ事を前後にわけて文章をなせりと見えたり。此猿の故事の出處、識者に彼是問試しに審ならず。しひて按るに、古今著聞集卷二十、魚虫禽ノ部に、近頃常陸國たかの郡に一人の上人ありけり。大なる猿をかひけり。中略はやく此猿他の郡へ行てけり。或人の許に白栗毛なる馬をかひける馬屋に至りて、件の馬をぬすみてけり。いづくにてか取たりけむ、下薦の着るてなしといふ布着物を着て、鎌を腰にさして、あみ笠をなん着たりける云〓。又、史記項羽本紀ニ、人或ハ說〓項王曰云。富貴ニ不〓故〓〓如衣げ繡ヲ夜行ブ。誰カ知之者。說者曰、人言楚人"沐猴ニノ而冠リスル土煑其で耳ト。果テ然リ。項王聞之之〓說者一。酸辣椒油,此ふたつの事をとり合せてかく書るにてはなきや。僻說ながらしばらく記して後人の批評をまつ。落柿先生行狀佐〓木尙義先生、氏は向井、實名、兼時、姓、藤原、河邊ノ左大臣魚名ネ公の裔、その先肥州の人、其考より帝都にうつる。世〓儒家にして賢德を以て稱す。かつてまた醫術に達す。天新北路川越のをちの田中の夕ぐれになにぞときけばかめのなくなり何を音にすぽんなく覽五月やみ其角これらを引合すれば鼈ならんとおもはる。和名鈔ニ、鼈、唐音に井列反、魚鼈字、或作〓〓起司名米粉とあり。其外、電轟於保加米攝亀米粘加·秦龜カート等ありて、龜の類みな通じて加米といふべし。田舍にてはいまもすほんの事をかめとのみもいへら。句意は只打聞へたる通りなるべし。ひそかにおもふに、乙州一時憤滿の事ありて作れるかも知るべからず。但これらも臆度の事なれば、たしかにはいひがたし。すべて意のある處はその作者の心中、後人のおしはかりとはたがふ事あるべきにや。此句にかぎらず、人〓の論說ある句ども、大かたは附會の說なれば、うけがたき事おほし。猿簑集、丈草が跋に、猿簑者芭蕉翁滑稽之首韻也。朝市ニ頂冠笑ニ云~。是は猿の故事ならんとおぼゆ。非比スルニ彼山寺偷〓衣後に、庶幾ニ一簑高ク張テ下の良醫なり。いまの益壽院法印は先生の兄也。落柿舍獨下、豬肉片は嵯峨に在、先生寓居の處なり。往歲、芭蕉翁桃靑白の三十作者去此處に來て此舍の記を述しよりこのかた、此舍を來也。其後芭蕉此家に假居さして落柿舍と号く。此故に諸友よんで落柿先生せる鐵口と稱す。去來は俳集に載る所の名也。後、洛東聖護配信者院にうつり、幽窗のうちにかげをひそむといへども、春のけはひは東山の風景にあらはれ、月は加茂川の〓きながれにうつり、時鳥の折にふれ五月雨の窓をうつ音、夕の嵐·あしたの雪、自然に先生幽居の意にかなひ、山水のたのしびを枕として終焉の地とはなりぬ。コクヨウジユンコ先生もとより天資孝弟克養純固にして、平居恂〓たる儒也。著述の詩賦も多からずとせず。和粹貞諒にして、Tチナツマビラカ智もつて偏く察するにたり、小なるものを詳にして壅蔽のきざしをとゞむ。はじめ紫陽に在てひとへに武事を講習し、弓馬の故實をきはめ、御術は大坪式部大輔ヤハラ(一字闕)廣秀が嫡流福山某にきゝ、和は笠原氏の門にならひ、釼術は安部の何某に學び、共に其大意をさとす。軍は甲州一流の奥をきはむ。其後洛に歸て又薄田某の門にあそぶ事年あり。八重垣の神法および玉法陣の圖を傳受す。かつ橘家傳來神道の祕奧、三種ノ神器五科十種神口籬神垣風水盤坂干滿土金等の諸傳を相承す。かねて餘力あれば古今の人物を論じ、忠義純確なるものはみづから撰て監とせり。もとより風雅の道に心をよせ、よ(特)みおける和歌もすくなからず。そのかみ芭蕉翁によつてその道をきゝ、かりそめのすさび·起居の笑話も、自然に風雅一体の實に出ざるものなし。これによつて貴七十价·公子もそのこと葉を味ひ其績をよみす。四方の俳師違き近き當世の墨客者流、才を挟、簡做非笑するものといへどもその風采を感じ、惇睦。間言ある事なく心服謁拜して席下にわしり、此道の先達とす。凡かくのごとく得る事の多く守る事の篤き、文武の才をいだき、貞諒人を感ずるに至れども知るもの稀に、あげて薦むる人なし。先生もとより官仕の途をたち、退てもつぱら兄に仕るきはめて恭愛、其家事を治め、內外のかぎりわかち、財用の節を制し、使令を給する、おの〓〓その役にたへざるものなし。誠意懇切其勞をゆるべず、二二五隨齋諧話
考·惟然介抱。次郞兵衞とても手屆かね、之道とりはからひとて舍羅·呑舟といふもの來る。按摩などうけ給はる。今日三十度余に及ぶ。度どに裏急後重あり。右二條は、此抄淨書の折にあひて、堺の喜齋より寫しこせしによりて、幸にこゝに書くはへて筆をとゞむ。シ人のかたしとする處、みづから處する裕如なり。いはんや、その子弟·宗族·朋友の間にあるをや。たま〓〓家にかへるの道、農夫野に耕し耘あれば、必その勞をとぶらはざれば過ず。隣家比屋の艱苦をとひ、病をたづね、すくふて後やむ。その惻怛慈愛の心しのびざるにあり。命なるかな、秋葉零落し、曉の風をまたず山丘に去がごとく、病あらたにして寳永改元甲申秋九月十日、聖護院の寓舍に沒焉。享年五十四。宗族·子弟聲をのみ、寢門慟哭す。遂に葬事を營み、東山神樂岡ノ北鈴聲山に葬り、先考の兆にしだがふ。賛日先生爲リ人ト孝-弟貞誠事テ兄弟レカ處げ事必ス正ス有文有武風雅華英存テハ思ニ人人人亡ァハ慕ヲ其名ヲ系大書俳本跋先君以靈慧之資援天地之慘舒、推遷人世之悲歡離合而收逃諸徘諧。意匠開於無數幻緣筆下洩於無盡化境。盖其性情之眞與時相感與事相觸、自然雄渾豐潤、使人恍然心醉焉。是以四海騷人郵寄唱和而乞正者、推以爲一代宗盟。又遇先輩一時觸事感意發之於言、有不可知其旨意之所在者、則必徵之史册以迎作者之意、咀其華含其英究其枝葉根柢而後止。其餘先輩軼事及簡册私牒、有足以傳世者、皆衷收而不遺。久之爲編凡二卷、名曰隨齋諧話。謹與家弟包昌包德等、比對校讐鏤版而貽同志。雖未足盡先子學之底蘊亦已以觀其浩博矣。文政己卯仲秋先生爲リ人ト孝-弟貞誠事テ兄弟レカ處げ事必ス正ス有文有武風雅華英存テハ思ニ人人人亡ァハ慕ヲ其名ヲ芭蕉終焉の時、次郞兵衞が記せし病中日記の切。四日朝、木節申さるゝにより、朝鮮人參半兩、道修町伏見屋より取。同く包香十五袋取。天氣よし。之道方より世話にて洗濯老女をやとひ、師の御衣裝その外連衆の衣裝をすゝぐ。園女より御菓子〓ニ水仙を送る。支事テ兄弟レカ存テハ思ニ人人人男夏目包壽謹書包壽夏印ては嵐亭誹話富屋著
枯尾華集に其角曰、天和三年の冬、深川の草菴急火にかこまれ。又曰、其次のとし夏の半に、甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなければと、それより三更月下入無我と書けん、むかしの跡に立歸りておはしければ、人〓嬉しくて燒原の舊草に菴をむすび、しばしも心とゞまるながめにもとて、一株の芭蕉を植たり。と書て、おのづからはせを翁とよぶ事になんぬ。又日、貞享初のとしの秋、知利を伴ひ、大和路やよし野ヽ奧も心殘さず。と書たり。(嵐亭誹話)たのまれぬ哉あすは又、たのまれぬ哉あすは又、けふをきのふといはるべけれ。そもこのごろと覺えしも、ひとゝせさき文化九申九月廿五日、秋草をりふせて、いほりのちり立まふべきかげさへみえざるぞうたてき。さるは見し〓聞聞事事ももとも(2017)しびの花きりつゝ、ながき夜すが書集おかれしを、勁齊主人は兼てのちぎりすてがたく、共筆のまゝ、それのたくみにまかせてつゞりつけらるゝを、おのれも因あればとそゝのかされて、いさゝかこのはしにかきつくるも、なか〓〓のものけがしになん。ければ、案に、此文の年月よりこと〓〓く相違したる歟。其次のとしにては天和四年の夏にて、則貞享元年也。甲子紀行は實に貞享元年なれば、甲斐に遊ぶとしては合ず。おもふに池魚災は天和元年にてもありしか。虚栗集の跋にも、天和三年仲夏日芭蕉洞桃靑皷舞書と書給ひ、又集中の句〓もはせをとしるして、其角みづからも芭蕉〓の夜と題せし句、芭蕉あるじの蝶丁く見よなどの風流もあれば、元來災ひありて二年甲斐に遊び、其としふたゝび歸り住給ひしならん。芭蕉の号は天和二心菴
也。扨このひめのめし、今のタキホシ飯なり。今川大草帋、三本立式の御飯の条に、三本立は姫の飯にばかり御手をかくる也。こは御物くろ御物と云ふは、はうをば只まいらせ置までの事也。今時分はかやうの御物をきこしめすやうしりたる人すくなきゆへか。ひめの御物といふは常の飯の事也。下略ひめのめし如此。按に今の世俗のならはしに、元日あるひは三ヶ日、朝かしぎをせず。前の記によれば、さらに忌ましき事なり。又、男女交會の事をひめはじめと心得たるもあり。尤笑ふべき說ながら、是も久しき戯言としられて、寛永の誹諧犬子集に、境年おとこするはさほ姫はじめ哉慶友其後も糸切齒に、作者高安の戀かしもじやひめはじめしょうなども見へたり。虚栗集の飽やことしの一卷五十四句あり。もと源氏行にてもありしか、六句脫せしと見ゆ。嘲ぞ黄金は鑄ル紫ヲとい年の末なるべし。賑給シンカウとよむ。明經道の故實なりと、篠崎維章が東海談にあり。膏藥唐の音にして、唐藥とよむ事勿論也。中原家實錄には、陽の音にして陽藥とよむべしと、榊原篁洲が榊巷談苑に見ゆ。ひめはじめ文來菴が風月帖に、寥松が記臆せし年山紀聞を引て出(博)せり。なを愚考ヒメノメシとあはせてふたゝびしるす。年山紀聞に日、資兼王日記明應十年正月一日ニ云、強姦之遙拜之後三獻有之、次看經、次ニ御コワ、次ニ比目始。海人藻芥曰、公家御膳、飯者强飯也。執柄家等如此。姫飯全分略儀也。但人〓依好惡用之。强飯時飯湯也。而ルニ近代姬ノ飯ノ時、ヲモユマイラセヨト召ス。不叶理理也。按ニ和名集ニ編樣非米非强之義也和名比女。或說日、とありて、其次ニ別に粥を出して、和名之留加由、薄糜也とあれば、編樣はひたすらの粥にあらず。曆にひめはじめとあるは、年始に編樣を喰はじむる事なるべし。以上、年山紀聞の說なり。姫はじめ、是にて明らか明經道の故實なりと、篠崎維境慶友作者しょう姫はじめ、是にて明らかふ一句をはさみて、前後九句秌なり。こゝにて脫句せしとおもはる。花摘集追善附合の後に、四十こゝのかにあたりぬる日、五十句にみちたれば、とありて四十八句也。是も又二句脫したる歟。芭蕉翁門人六感の語といふあり。そのうちに、實なる事去來に及ばず、と書て、應〓〓といへど敲くや雪の門此句を出せり。是は翁近化のとしの句にて、先師の聞給はざるを恨むと、正秀が歎し事まで去來も書置たり。又支考が、そこもとは凉しさう也峯の松此句も元祿十四年加州にての吟なり。翁。何とて去來をば感ぜられけん、一笑にたへたる語也。またこの句を、其許と字にて書て、ほとけたる事とあるより、そこもとを貴樣·御手前なんどの詞に了簡をつけて解したる書も見へたり。非也。こゝもとに對したるそこもと也。句意は、老杜が苦熱の詩に、南カ望玉靑松ノ架スシシ前後九句秌なり。こゝにて脫句せ短壑一。何ソ得シ赤脚ニノ踏シート氷水ヲ。といへるにおなじ。幻住菴の記に、かの海棠に巢をいとなび、主簿峯に菴をむすべる王翁徐佳が徒にはあらず。山谷、題滿〓閣詩に、径老ガ海棠巢ノ上。王翁ガ主簿峯ノ菴。と作れり。徐佺、道を樂しみて藥肆の中に隱る。家に海棠數株あり。巢をその上に結びて、時に客とその間に飮す。王道人は四方に參禪し、歸て屋を主簿峯の上に結ぶ。甞て毛人ありて、その間に至つて道を問ふとあり。墓春也、又雜。這出よ蚕家が下のひきの聲翁此句、おくのほそ道五月の条に出たれば、夏季也といふ說あれど非也。蚕飼、この頃專らなるもの也。只見る所を先にして當季の論にはかゝはらず。されば會良も、蚕飼する人は古代のすがた哉と吟たり。又初懷帋に、友呼ぶ蟾のものうきの聲仙化かく作りて雜に用ひたり。四十こゝのかにあたりぬる日、とありて四十八句也。是も又二そのうちに、實なる事嵐亭誹話糸櫻腹一ぱいに咲にけり二三、去來
あんどんとれば雨しきる空發句にも油月はあんどんげなる光かなあんどんの陰にみだるゝ柳かな夕月夜あんどんけしてしばしみんあんどんを消して引こむ夜寒かな三字韻字留は、天和に始りて蕉門の新格也。刈しほを告るや早稻のほとゝぎす土用に入ては音をとゞむるなどもいふを、にもかゝはらず、古人の雅致おもふべし。頃まのあたり啼事也。翡翠支考が徒に夏は定たれど、也。蕉門、花に櫻をかゆるは、此句を始のやうにいへども非也。去來が詞もいぶかし。是も初懷番に、三たびふむよし野ヽ櫻よしの山仙化此句を權輿とす。ヒユルとさへ言へば冷の字と合点して、〓に片づくるやからあり。寒の字の心ならば冬也。百韻裏ウツリより神釋を出さずと。非也。他門は左も有んてる蕉門此說にかゝはらず。朝まだき三嶋を拜む道なれば擧白念佛に狂ふ僧いづくより朱弦玉敷の御堂は瓦下地なり普船烏に出家三條の音仙化榛名なる大夫の御師に一夜寐て擧白筩焚く牛の御前の森の中嵐雪行燈書にもよむにもあんどんなるべし。是とても國音連のたぐひならん。あんどうと書たる、一二見へたれど、板本なれば違へたる事もあるべし。濱名の橋にあんどんを出す常之才丸仙化春松才正可星丸秀〓に片づくるや他門は左も有擧白朱弦普船仙化擧白嵐雪是とても國一二見へたさせる理屈げにもこの蕉門もそれまでは秌銅蓮の水に翡翠の影下りて其角かくも見へたれど、此鳥はいかにも夏季しかるべし。盛夏ざかりにあるもの也。蜩いにしえば夏なりしとおもはれて、筑波集夏の部に、平等院の僧正行乘、語國修行し侍りけるに、つか常之れておほへければ、麻つくりたるほとりによりふして休ける所を馬に乘て過るとて、誰とはなくて言かけける。ざる事ぞ。又傳受と言て可ならん歟。すべて古格によりて新格を立たる也。さるをおの〓〓一門戶を張り、相傳の祕說とて衆を愚にす。あるは又唐崎の吟のどき、其角·去來さへ惑說を申て翁の案に違ひたる事、二子も書あらはしたり。其唐崎も今頃は傳受の沙汰せらるゝハイやう也。口傳がましきは、支考が徒、あるひは乙洲·木節·露川等數人より毒のながれて虚妄の弘りたる也。桐の一葉と題せる板本あり。祖翁の述作也とあり。〓とに僞書也。句作の法則·てには皆蕉門古集に叶わず。兩舌の論と謂べし。他門の古き法則の書に出たる事を、爰をとりかしこを用ひたるなれば、却て見劣せられたり。さるを此書に欺れて、こと〓〓しくてにはの〓に引用ひたる俳書出たるもまゝあり。かなしむべし。津守國津守あさがけにする夕すゞみかな國重是を聞てとりあへず、日ぐらしのけさなく聲にばかされて蜩も-もこれの國にていふひぐらし、蟬より殊にはやく出るもの也。詩に、五月鳴蜩アリ。此字を訓じてひぐらしの名あれば、夏ならんもことはりあり。重雪村が柳見に行棹さして此第三をさしあたり珍らしとおもふより、傳受口決のやうに言ふものあり。何事もなき事ニて、他門に違ひて表に朱引の句作あるは、祖翁の延寶·天和の格也。へ子路が廟夕べや秌とかすむらんへ傾婦を蘭の肆にうる 、魔神を使とす荒海の崎などもいへるがどし。中の句にも、今や角天地を樽と飮破るへ蕉蕉あるじの蝶丁く見よなどもあり。是とても他門の誹諧に聞嵐亭誹話夕顏や〓はいろ〓〓のふくべかな支考が僞作二十五ヶ條に、はと抱へたれば切字にならず、哉難なしと也。抱へ字ありて哉とまりは說までもなし、定りたる法也。さにはあらず。初秌中一、此所に遊びて、と端書あるを見るべし。へ蕣や扇の骨を垣根
哉と吟じて其角みづからの解にも、現在過去たしか也と書たると句法同じ。靑葉夏也二十五ヶ條に、靑葉、夏季にあらず、若葉とすべしとあらはしながら、自集の笈日記に、へ靑葉して御目の雫拭はばやと出たるは何ぞや。おもふに翁も靑葉とありしを、そのまゝかの集へ寫せしならん。へあら尊靑葉若葉の日の光へ目には靑葉山ほとゝぎす初鰹へ夕立に靑葉がうへの若葉かないづれも夏景をのべんとての靑葉也。蕉門は夏なるべし。黑雲の折〓〓かゝる靑葉かな嵐竹なすびカシの轉語ナス、難し。簾中舊記、女房詞にも、なすびなすとあり。(金)初茹子や腮の汐のいそがしく松荀萱が軒萱葺〓季勿論ながら蕉門は妖又雜也。めづら見る揚屋〓〓の萱庇嵐雪四方椽なる萱の辻堂浪花冷麥其角が酒の瀧冷麥の九天より落るならん現在過去たしか此句に隨ふて夏季も可なるべし。菜飯二義あり。菁を炊き交へたるは雜也。小大豆·角豆葉よりしてなべての畠もの、あるひは藜藿·山草·野草、何にても刻入たるも、邊境にて菜飯といふ。是は見也。早乙女に替てとりたる菜飯哉嵐雪夕〓の月に菜飯嚊出す恕誰蟬のから空蟬蕉門は夏也。蟬のからははたらくやうで哀也句空あの蟬やもぬけと成て落所沾荷しがみつく力や殘すせみのから此筋陰になけ小野ヽ小町も蟬のから千春折を得て古着ぬぐらん蟬のから巴山空蟬や石の鳥居を鳴捨し一井初懷紙のへ心なからん世は蟬のからといへるは、〓はなれの附句なれば論なし。すべての蟄虫地より出れば、そのまゝに衣をぬぐもの也。死たるからとならば秋勿論也。嵐恕雪誰荀雪花冷麥繪馬をエマといふも子細なけれど、古人おほくは繪うまと句作せり。檜原の奧の繪馬たづぬる仙菴繪馬をかくるとし越の宮魯下冶郞の繪馬その紋にしる其角牧の繪うまの時の間も見ん仙菴北野の繪馬花見がてらに其角荒神に繪馬かけたるとしの棚嵐雪發句にも初午や一町として大繪馬專吟繪馬見る人のうしろのさくらかな玄寮增山の井にも、齋宮の繪馬にヱウマの假名あり。さらば砥〓山集の其角が文も、時うつるまで繪馬をながめて、とあるも、エウマとよみたるがゆるやかなるやうにおもはる。梅白しきのふや鶴をぬすまれし翁此句に、林和靖が賛、と題せし板本あり。是は三井秌風にての句なるを、その頃他流の俳士が翁に瑾を付ん古人おほくは繪うまとて、詔へりと議しより、吾が佛尊ぶやから、その言わけせんとて後に苦〓〓しき賛の字は題せしとおもはる。梅に鶴の注文さへあひたらば、貶るも褒るも相互ひに林和靖との勘定せられしとおぼゆ。さうではなし白樂天が花樓に雪を望む詩に、偷〓將"〓白堂前ノ鶴失却ス樟亭驛後ノ梅樂天は雪のけしきにけおされて、鶴ち梅もどうやらしれぬと也。此詩をすぐに爰へ用ひて、梅の一めんしろければ、居るべき鶴の影もかたち無ひは、盜まれたかと也。本詩をもとかず、直にそれにて、しかも一作つけにてかの山莊の卽景也。林和靖に鶴を盜とは、さりとては浮たる雅客たちぞ。翁は詩にはくわしかりし也。其一代の句法、憾〓悲傷にあらざれば、寂莫無爲の外を出ず。是ぞ生涯杜詩を枕にし山家集を懷にし給ひしゆへん也。さるを大〓·佛頂の兩師に參じて悟道深微の句也など、さらに妄也。古池·唐崎、子細なし。道ばた·稻妻、何事かある。高木は風に僵れて、出る杭はうたる。木槿は馬にはまるべし。なま禪學は迷ひのた二三、仙魯其仙其嵐菴下角菴角雪嵐亭誹話
ね、なま兵法は大疵のもとひ、悟らぬ人がましなるにや。老佛の常談にありふれたる是らの數句、何の翁が巧ならん。やまと哥·からうたの正しく雅なるにめで給はん人の心からは、誹諧何と歟おとしめられんに、それさへ翁の句〓どもは稱せらるゝ事、志情の正しきに至つては、なを貫之をもひそかに高しとはし給ざりけん越人が譏はあり。しからばつとめても學ぶべくぞ。秋十とせ·夜着はおもし·殘夢月遠しなんどは、打出て本詩あらはれたり。舟に棹さして戴安道をおもひ、柳を掃て郭林宗を學ぶやうなるも又明らか也。是らの句法すべて翁也。俊成·定家の卿にならひ、西行·慈鎭にもとづくは、同じきながら知りやすからんも、またかたき所あらんなれば、深く心に搜るべくぞ。月花もなくて酒のむひとりかな翁先頃ある人、雜の句格はとて、やがて此句の話になりて、扨こゝろを問れたり。もつけの幸ひにおぼへて居たれば書てあたへぬるを、つひでにあはせてこゝへのす。李白月下獨的詩花下一壺酒獨酌無相親擧盃邀明月對影成三人月旣不解飮影徒隨我身暫伴月與影行樂須及春我歌月俳個我舞影凌亂醒時同交懽醉後各分散永結無情遊相期邈雲漢この酒のみ居たる圖〓賛、はやくもおもひより給ひし雜腹のうちおもふべし。漫遊稚記といふあり。醫人永富鳳輔にかはりて山縣孝臑先生かの書れし也。其文のうちにも、南郭服子の詩における、雪山道人の書における、芭蕉の誹歌における、我常に坐右に置てこれを見るとあり。あの人たちの見て高しと定めらるゝ事、祕說の分際にあるべくや。おほく諸子百家により、まゝ(a)一己の案をまじへて、くはだて及ぶべらぬ所あれば也0翁〓〓ととなへて虚妄の傳にたらされんより、西行·子美はせめても知れ。冬の日集に野水が、雉追に烏帽子の女五三十といへるに杜國が、我月出よ身は朧なると、四句去に春擧盃邀明月影徒隨我身我歌月俳個醉後各分散を出したり。常式にはあらざれども、古式より出たる新式也。三句去たらば難あるまじ。況四句去勿論也。ひさご集·深川集なんどに、夏冬二句去にしたる新格、尤味ひあり。されど他門に對して論ずべきにはあらず。鍾の道もしどろに春の來て〓金篇につくりたるは、雪國の山民は、かなかんじきとて、鉄に鍜へて爪ある具を草鞋の下へかけて履て、引廻して結ぶ也。谷をわたり峯をにゆるに踏辷るまじき爲也。これをいはんとて金篇には換たる也。常の橇の句作にはあらず。(マメ)雪踏とはいつの頃より書にや。とつと久しき誹諧ににはや見ゆるに、蕉門には節たとも雪踏とも書たり。まそつと前にも季吟翁のへせちたにやいとすべし盧地口安靜のへせちた草履のおほき濱ばた等の句あり。古池の吟、臆見を加ふるに、吳融が廢宅の詩に、放魚池涸テ蛙爭と聚リ。といふより、案をもとめ給也しもしられず。此落句に、不獨リ妻凉タル眼前ノ事ノミニ。咸陽モ一火ニ便ヲ成〓原ト。と作れり。燒あとの深川にふたゝび住給ひし頃の吟なれば、此感ありしかともおもはるゝやう也。鳶の羽も刷ひぬはつしぐれ去來刷の字、物めかしくて元祿ならず。假名にてなりと書(か)てあれしとおもへど、樂天が喃々トシテ〓ニ言語〓。一人刷毛衣マ。とあるより、斯もつくり斯も書たりと見ゆ。されどあまりこのもしからず。唯牛糞に風の吹く音と珍碩が雜の脇句は、ト尺が、冬枯の道のしるべや牛の糞と吟ぜしを學びし也。何某の家藏、はせを翁眞蹟詠草二卷獨歩此土手の筋や柳の片折戶くゞまりゐるは田にしとる賤遲き日の赤きに鶴の足のべて氣まゝにやれば旅もなぐさみ商の有國〓〓はすなを也皷の師さへもと は侍十六夜の月迄酒の坐をかへず早稻米のけて置も孝行三三五岩泉岩乎路橫沾遠尺翁竿通几德水中嵐亭誹話
誹亭髮結ぬ女は無下に見下され碇しづかに舟ゆする灘看經に申かゝれる夜の雨あら湯には先他をいらする手の窪はいやしく喰をうらやみてさからぬうちと〓つけこむ牛町の車休むるあきの風油桶には荷ふ以合鋪親の帷子身にかけて句の上おもへはる〓〓の旅いでや空うの花ほどはくもるともタ月いくとせつよき垣にそふ松花紅葉小荷駄にさせる下屋敷燕かへれと巢をば崩さじ東堂と成ては秋もゆたかなる月見と親も酒すゝむ慈悲いたづらに寐てはくらさず觀世捻寺領のうちに鳥の運上半分は作りをしても暮す醫師社わびぬる國替のあと春風にまとひ寄たる橋のごみ若鮎迄は札たてぬ川花あれば參りも多し寺の庭つれをもとめぬ山科の堝新米をかす〓下女の手はあれし生身魂までむすぶかけ帶夕月に見れば敷寐の翠簾かけて人の心をうかすいとたけ末の子にありし家督を讓りけり魚類もたちてためす夏の中燭とりて又一しきり牡丹見む妹が碁石の袖につめたきうか〓〓と後の朝に打ふして掃し疊に猫の足あと秋雨に居風呂立て僧を待溪仙普其路通石化船角通石化船角通筆水几中德通竿翁中水德几通竿翁泉水中几德竿通泉翁夕月に戶渡りて行押送り禁中の御能をみるは夜をこめて湖は不斷たしなむ鮒の鮮飛石も【原註)本ノマうつり香も黑き衣裝はめにたゝぬ年頭にさゝれて下る知行寺花盛猫は身持に成にけり朝時にははづるゝとても場を踏扇折り月にせわしき槌の音藥施す雀亂の母にはうとき三井の小法師借藏たつる老のたのしみ樹繩手をかへる遊人の數刀をくれておとす前髪春はいつもの借坐敷する老ても針の目斗はたのまず小鮎に水をかゆる堀井戶御旅の店を前わたりするたも庵に預ケ置三十七め世を遁て煤掃日も忘れけり武藏には聞つたへたる六阿みだ笘敷て臥に寐にくき舟の底射落せる鴈に夷と身を恥て急雨の月に晴たる砂の跡名木の根は鋤殘す畠牢人はよめぬ書物をもたせらる生延て年〓〓問る 雪片言もつたへにのこす三の戶片器にやかゝん大小の額地金まづしき鎌倉の鍜冶愛の有ても子はつれぬ旅御所つゝくらん大工なき浦柴胡の花を子どもばひあふふへたる鮒に水の益池村の庄屋としるひらき門穢れなきとて用ゆ羚羊岩手の山を橫に見る海の 上中化船角通石化船角通石化船角通石化船角泉翁竿水中几通德竿泉翁竿水中几德泉通
淡路見かけて須磨およぐ鹿雪降は塩屋に運ぶ稗のから敷ものとりにかへるかごかき抱きついつ袖をひかれつ市の中湯帽子かぶる顏の黑さよ花に醉て餅も喰さず朽木盆十日過ても笑ふ山科石通角船化石船ものになるやう也。橘やいつの野中のほとゝぎす翁句撰などいへるいつもの板本にも見へず。卯辰集に出.花ちる里をたづねてぞなくとおもひたるに、いつつ野中、あはれ深し。橘加州の地名にあり。水取や氷の僧の沓の音翁是を、水鳥や氷と書、又、水取や籠りと書たるあり。共に非也。山谷が淨因壁に顯する詩に、履聲、如度薄氷→過レンガ。催〓粥〓華鯨吼一夜闌。當季の詞たしかならずとも、決着の案ならば當季勿論也。柴の戶や蕎麥盜まれて哥をよむ史邦□春日の影黃精ある峽の其角稗と塩との片荷つる籠孤屋夏ちり〓〓に居同て遠く灯を置蓼も愁も露深소發句にもき庭子堂妖金堂むかしの大口にまいるなむせる粟の飯作者夕べさやかにもしょうキ九おの〓〓味ひあり、今時の冬の日流の龜ゐるか鱸のさぶらふ衣川慶友及ぶべき手段ならする□そば切や打て腹だに入ならば宗因鶴とばかりも秌に用ゆべし。聖護院道興准后の廻國雜記に、かつみ〓〓と尋てその日もくれぬ、と書れたるもの是也とて、田字草とかやいふ四ひらの水艸を、近頃かの國の人の持來るをこひ得て、もてあそぶものあり。これもかつみいへるにや、いにしへの甲冑·太刀·薙刀の類ひに此模樣ありと、ある識者の語られき。されどあまりに事を好み過て、似もつかぬ說に成行たり。たゞどこ迄も菰にて濟たる事也。又、かつみておしき妖の色かなといへるに風にちる野邊のちぐさの花かつみ後鳥羽院御製これらはいかゞあるべき。とかく淺香のふる事のいな霧ふかし鎌倉山のほし月夜あさなく鶴が岡のまつかぜ葛の葉の色づく野澤水かれてのんどり春也。のどむるも、あるひは春に用ゆべし。

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