岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する155 夏目漱石『明暗』をどう読むか④ 誰もそんなことは教えてくれなかった
見栄っ張りなのか
リカレント教育やリスキングではなく、学校を出た社会人が仕事の役に立たない専門的な勉強をすること、この問題は高等遊民を巡って何度か論じてきたように思う。実際津田にポアンカレの話を吹き込んだ誰かも学校を出た社会人であり、仕事の役に立たない専門的で高尚な知識を得て、津田を脅かしたわけだ。津田はそんな学び直しに困難を感じている。
それにしても動機が不純だ。学びそのものに熱意があるわけではなく、学んだことを飾りにしたいのだからどうも高等遊民、松本恒三の態度とは異なる。どうもせこい。
この後の展開をざっと理解している立場で読み直すと、あれ、漱石は何故こんな男を書こうとしたのだろうと改めて不思議になるところ。
漱石作品が何かよきもの、真・善・美を求めて書かれ、例えば『坊っちゃん』の「おれ」のような無軌道な者を描いても、その「おれ」の中に何かの真実、何か善なるもの、何か美しいものを見て欲しいと考えていたことは確かなのだ。その点は飽くまで一貫している筈だ。谷崎とは違うのだ。
しかし津田は、例えば田川敬太郎から見れば「灰色の化物」であり、一体何のために生きているのか解らない人間なのではなかろうか。松本恒三には「ふん」と無視されるだろう。長井代助には牛の脳味噌で一杯詰っている頭を持つ人の目に着かない服装をして、乞食の如く、何物をか求めつつ、人の市をうろついて歩く者に見えるのではないか。
この間まで何者かになろうとして金より価値のあるものを目指しかけていた健三を見つめていたので、余計津田にはなにかだらしないものを感じてしまう。
しかし何故だらしないのか、それが解らない。
厭味ったらしい男だ
岩波はここで「しばや」という芝居の読みに注をつける。それ、前にも出てきているよね?
ここは、「暗い玄関から急に明るい電灯の点いた室を覗いた彼の眼にそれが常よりも際立って華麗に見えた時」が明暗ですねとやらねばならないところだ。まあ、おそらく漱石は意識してそう書いている。しかしこのこと自体はさして深い意味を持たないように思える。こうした明と暗の対比はこの後も何度か現れ、その度にさして深い意味を持たない。
ただここでは、津田が何も思わずに、つまり読者に断りなしに階段を下りて、妻に問われなければ目的を忘れてしまうところだったというところを見なくてはなるまい。つまり階段を降りる時には「そうだ、手紙がないな、確認してみよう」と思っていた筈。そして明るいところで檜扇模様の丸帯を見て、つい用事を忘れてしまった。まだボケる年でもあるまいに、どうも意識がそれからそれへとふらふら動いている。全く信用できない人間だ。ダチョウは相当の馬鹿で、人間が背中に乗ってもそのことをすぐ忘れてしまい、重いとも何とも思わずにそのまま走っていくそうだが、津田もそんなものかもしれない。
そしてお延の方はお延の方で「それで今度その服装で芝居に出かけようと云うのかね」と言われてみるまでおそらく明確にそんなことを計画していたつもりはないが、そう受け止められても仕方のないこと、「いえ私も止しにするわ。芝居よりもあなたの健康の方が大事ですもの」と口では言いながら、どこかで新しい帯を締めて芝居に行きたい気持ちにふんぎりがついていないことを、後で気づかされたのだろう。
漱石はこうしたやり方で、意識とか意思の多層的な構造を指摘していく。
その手紙は何時着いたのか
昔は夜間郵便というものがあったらしい。らしいというのは公的機関の事業でありながら法律等を辿ってみても配達時間等の詳細が解らないからだ。この手紙が昼間着いていたものか、それとも津田が飯を食べている最中に着いたものか判然としない。
もし昼間に着いていたものなら「来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」と言ったお延がわざわざ津田を迎えに玄関に出ていたにも関わらず、郵便受けの確認を怠っていたということになる。
従ってかりにお延をしっかり者とみるならばこれは津田が飯を食べている最中に着いたものということになるのだろうが、ここがもう一つはっきりしない。
まさか探すまでは「あるともないとも言えない状態だった」とまでは狙ってはいまいが、たかが一通手紙を渡すのに、どうも余計なひと手間がかかっているところだ。
そんなに着物が気になるのか
津田は「そこに燦爛と取り乱された濃い友染模様の色を見守った」「ぼんやり細君のよそ行着の荒い御召の縞柄を眺めながら」と少々くどい。しかしそれも言われてみればの話であり、明確に言語化された津田の感情というものがそこにあったわけではなかろう。
つまり津田はここで「お延の野郎、あんなことを言いながら心の中ではぶつぶつぶつ……」とまで考えていた訳ではなく、それはちょいと帯を出してみたお延の方も同じなのではなかろうか。
つまり明確に言語化されない人間のふるまいが交差する様子が描かれている。あるいは意識の何割かは明確に言語化されるものではないということが書かれている。
親の金をあてにするな
宗助は役所勤めて弟を大学に通わせる甲斐性もなく、雨漏りのする家で、穴の開いた靴を履いて暮らしていた。津田は三十歳のサラリーマンのようだ。それなのに毎月親から仕送りをして貰っている。
ここで「金の要る間際になって」とは痔瘻の手術代のことだと理解はできるものの、そうした非常事態でない場合に、毎月親から仕送りをして貰っているとはいかにも情けない男なのではなかろうか。
これが時代性の反映かと思えば岩波はむしろ「大正五年当時は好景気のため質屋の金利も下がり……」としている。
大正五年と言えば第一次世界大戦の真っ最中である。後に津田が愚痴をこぼす通り、物価は上がっていたのだろう。それにしても三十にもなって親から毎月仕送りしてもらうというのはどうなのだろう。そんな生き物は恐らく人間だけだ。他の生き物は現金書留が使えないからだ。
この親から仕送りをしてもらうサラリーマンというものが極めて珍しいものなのか、当時は当たり前だったのかという辺りは是非とも説明が欲しいところ。少し調べてみたがなかなかこれという資料が見つからない。
……といった例は見つかるが「親のすねかじり」は大抵書生どまりである。
君たちにはある分だけで生活しようという発想はないのか
これで何となく解ってきた。この夫婦が親や親せきに頼って生活していて、自分の稼ぎだけで身の丈に合った生活をしないのは、散々周りからたかられまくった『道草』の裏返しだと。健三がけして言わなかったこと、言えなかったこと「君たちにはある分だけで生活しようという発想はないのか」という言葉を、漱石は『明暗』において読者に言わせようとしている。
そう気が付いてみると、ここ。
これは下女でもいるのかと思わせるところ。いや、実際下女はいるのだが、かなり丁寧に隠されていて、ここまで「させ」の二文字でしか仄めかされていない。当時下女を雇うのは当たり前のことではあったが、それにしてもここまできれいに隠されるとまるで「女中」や「お手伝いさん」がいるのは超お金持ちの家だけで、家電の発達により家事労働が楽になった百年後の読者を騙すために工夫しているかのようだ。
しかし「させ」だけって……。
[付記]
それにしても「させ」は凄いなと思う。ここが読めていないと漱石の凄さは解らない筈。しかし「させ」なんて、翻訳するくらいに読まないと気が付かないんじゃないだろうか。この人の言葉はどれだけ練られていたものかと本当に感心する。イタリア人は本当に理解しているのかな?
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